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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ジェラシーの方程式の謎に落ち  前中知栄

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7歳の頃に夭逝夭折した初代・秀勝。

≪菩提寺・妙法寺には、端正な顔立ちの「秀勝絵像」が伝わっていたが、

S27年の火災で、焼失しその写真のみが残る≫

「三人の秀勝」

小西秀勝は、秀吉の姉・とも息子で、兄は関白となった秀次だった。

お江より4つ年上で、

器量はいまひとつだったが、

彼はすでに丹波亀山城17万5千石を領していた。

お江が嫁ぐ以前のこと、

秀勝は秀吉の九州討伐に従軍し、

秋月氏の岩石(がんじゃく)城を攻めて、総大将をまかされた。

生きるとはこのようなこと木の芽吹く  八尾和可子

戦いに勝利すると秀吉は、秀勝を褒めたが、

実際はお飾りに過ぎず、

秀勝に属した蒲生氏郷と、前田利長の見事な采配で勝てたのだ。

ところが、秀吉に褒められて、秀勝は天狗になり、

丹波亀山城主では「知行不足」だと言い出した。

省かれたようだ切り取り線 笑う  谷垣郁郎

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     丹波亀山城

これには秀吉も、「身の程をわきまえよ」と怒った。

亀山城を弟・秀長に預け、秀勝を勘当しようとした。

だが、秀吉は身内には甘かった。

思い直して、逆に越前の所領5万石を加増し、

そのまま亀山城主に留めた。

お江は、そんな小西秀勝の妻に納まることになる。

折れ釘でハートを描いてくれないか  くんじろう

ところで秀吉の子には、「3人の羽柴秀勝」がいた。

「秀勝という名」に、秀吉は特別な想いを抱いていたのだ。

実は淀殿が最初に産んだ鶴松は、

「秀吉の最初の息子ではない」
 といわれる。

秀吉が信長から長岡城をもらい、

初めて一国一城の大名になった時に、

手を出した女・(南殿)が、秀吉最初の息子を産んだ。

幼名を石松丸といい、やがて、秀勝を名乗ったが、

天正4年(1576)10月に、7歳ほどで他界した。

鉛筆と消しゴム距離が近すぎる  板野美子

秀吉は非常に悲しみ、”秀勝”が忘れられなかった。

しかも正室・おねに子供が生まれる気配はなかった。

そこで信長から於次丸を養子にもらい、後継者にしようと決めた。

その於次丸に、秀吉は秀勝の名を与え、

丹波勝山城主として可愛がった。

二代目・秀勝である。

残り香をまだ抱いてます待ってます  高橋謡子

於次丸秀勝は、秀吉の備中高松城攻めにも同行、

秀吉が取り仕切った信長の葬式では喪主をつとめた。

権中納言に補され、その”唐名”をもって、

”丹波黄門”の名で親しまれたが、二代目秀勝もまた、

天正13年(1585)に、18歳の若さで病没したのだ。

* (唐名(とうみょう)-中国風の名称。→大和名)

自分への弔辞自分で書いている  井上一筒

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秀吉は、わが子秀勝も、二人目の秀勝も忘れられず、

ほぼ2人と同じ年齢の小吉を、姉からもらって養子とし、

まるで、2人の秀勝が生きているかのように、

同じ亀山城主にし、同じ官位を授けて、名も秀勝とした。

お江はそんな秀吉の思い入れが強い、

「3人目の秀勝」の妻となり、
亀山城主夫人となったのだ。

残り火がゆらめく胸の底の底  加納美津子

秀吉は小田原の北条氏を攻め、

新婚間もない秀勝も従軍した。

彼はこれといった手柄を、立てたわけではないが、

鶴松の後ろ盾として、箔をつけねばならなかった。

そこで秀吉は、秀勝に甲斐、信濃二カ国を与え甲府城主とした。

噺家に化けて久しい縁の下  筒井祥文

すると秀勝の母・ともが

「そんな遠くでは可愛い息子に会えなくなる」 と嘆いた。

なにしろ秀吉は身内に甘い。

「淀殿もお江がいなければ寂しかろう」 と思い直し、

4ヶ月後、領地替えして美濃に国替えし、岐阜城主とした。

文禄元年(1592)、従四位下参議に任じられ

”岐阜宰相”と呼ばれるようになる。

しかし、同年、出兵先の朝鮮で病死する。

石段に鬼の休んだ跡がある  森中惠美子

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