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川柳的逍遥 人の世の一家言
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女とはかなしい腹を持っている  森中惠美子

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     醍醐の花見

秀吉(右手)を追うように、先頭に北の政所、その後からつづく

左手前に赤と茶の幟を持つ「淀と竜子」が秀吉に迫っている。

「秀吉の側室」

秀吉は、関白になったころから、

沢山の名門出身の女性を「側室」として置いた。

その第一号は、三姉妹の従姉妹になる京極竜子である。

もっとも正室と側室との間に

「継室」
といった存在も認められており、

≪継室とは、本来、正室が亡くなったあとや、

  離縁したあとに後添えになることで、

普通の側室より格の高い女性のことを言う≫

「第二夫人」と呼ばれる。

あの人の何に惹かれている動悸  たむらあきこ

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遠く平安の昔から、桜の名所として親しまれる醍醐寺の桜

醍醐寺の桜は、秀吉が、死の晩年、

絢爛豪華な「醍醐の花見」を催したことでも知られている。

この第二夫人の地位をめざし、

家系存続のための後継者を産むことで、

側室となった女性たちの間で、

熾烈な争いがあったといわれる。

渓谷も胸の谷間も気いつけや  中野六助

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「醍醐の花見」

慶長3年(1598)3月15日、”京都醍醐寺”において、

秀吉は、豊臣秀頼、北政所、淀殿ら近親の者を初め、

諸大名から、その配下の者など、約1300名を集め、

花見の会を催した。

その日の輿入りの順は、次の通り、記録に残されている。

1番・北政所、2番・淀殿、3番・松の丸殿

4番・三の丸殿、5番・加賀殿、そのあとに、

北の政所(ねね)が若いころからの親友、

(まつとねねは若い頃、隣同士の付き合いだった)

前田利家正室・まつが続いた。

偶然を積み重ねつつ現在地  平尾正人

この花見の会の日の出来事として、

宴会の席で正室である北政所の次に、

秀吉から、杯を受ける順を、淀殿と松の丸殿が争った。

≪足利の時代、京極氏は北近江の守護であり、

 浅井氏の主人筋にあったが、臣下である浅井氏の下克上にあい、

 地位の位置づけが、換わってしまったという、経緯がある≫

淀殿が秀吉の子の懐妊を得て、

側室の2位という自負があったものの、

階級的には、もともとは、竜子のほうが上位。

だから竜子もここでは、負けていられなかったのだ。

嫉妬するガラスの欠片踏むように  杉野恭子

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そこへ割って入ったのが、まつ(芳春院)、

「私は客人だから私が二番目に戴きます」

と言って杯をとった。

このまつの機転によって、

和やかな場が、戻ったという話が伝わっている。

(芳春院が、いかに腹の据わった人であったかは、数々のエピソードが語る)

シュレッダーに任せるややこしい話  合田瑠美子

確かな秀吉の側室をあげれば、下記の通り・・・となる。

「淀殿(茶々)」

天正17年(1589)5月、茶々は淀城で男児を出産した。

秀吉は、大喜びで、捨て子はよく育つとの俗信から、

「棄」(すて)(のち鶴松)と名付け、まもなく大坂城に入る。

側室としての順位としては下位だったが、

これにより、側室トップの地位を得る。

含み笑いに耐えきれなくなったアケビ  赤松ますみ

「松の丸殿(京極竜子)」

初の夫となる京極高次の姉弟。

本能寺の変で、竜子の夫・元明は秀吉軍に討たれ、

高次は追われ、

彼女自身は捕らえられる。

この後、秀吉の側室となり、寵愛を受けた。

秀吉の妻妾の中で、一番の美人だったことから、

淀殿が子供を生む以前は、北政所の次に重んじられていた。

伏見城・松の丸に住んだことから、「松の丸殿」と称され。

”醍醐の花見”では、淀殿の次・三番目の輿に乗る。

のみ込んだ言葉燃やしている暖炉  岡谷 樹

「三の丸殿」

織田信長の四女。

信長没後に姉の夫・蒲生氏郷の養女となり、

のち秀吉の側室となる。

伏見城三の丸に住んだので、「三の丸殿」と称され、

”醍醐の花見”には四番目の輿に乗る。

何はともあれあなたの横にいようかな  山本明美

「加賀殿」

前田利家の三女。

柴田勝家の家臣・佐久間十蔵と婚約、

人質として北ノ庄城に入る。

落城に際し、秀吉と両親の計らいで城外に逃れ、

のち秀吉の側室となる。

”醍醐の花見”では、五番目の輿に乗る。

さまざまな坂乗り越えてきた笑顔  石見敏江

「三条局」

蒲生氏郷の妹。

柴田勝家を滅ぼした凱旋途中に、近江国日野城を訪ね、

氏郷より、妹のを側室として貰いうけた。

京都屋敷に住み、「三条局」と呼ばれた。

振り向いて欲しくてそっと泣いてみる  馬杉とし子

「姫路殿」

織田信包の娘。

信長の姪で、ここでも、

信長の血筋を重視していたことがうかがえる。

姫路城に住んでいたため、「姫路殿」と呼ばれた。

秀吉は、行くところ行くところに側室をおいていたようだ。

毒入りと書いてあるので手が伸びる  井丸昌紀

「南殿」

秀吉が長浜時代の側室。

初代、秀勝(石松丸)の母親。

琵琶湖上の竹生島にある宝厳寺に、

古書・「竹生島奉加帳」という文書があり、

その中に、秀吉が「弁財天に金品を納めた」ことが記されている。
 
同時にそこに「南殿」「石松丸」という名が、

見られると伝わる。

網棚の上の忍者と目が合った  井上一筒

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     醍醐の桜

”ともなひて眺めにあかし深雪山
           かへるさ惜しき花の面影”  ねね

”花もまた君のためにと咲き出でて
          世にならびなき春にあふらし”  茶々

”打群れてみる人からの山櫻
         よろづ代までと色にみえつつ”  松の丸

”山櫻袖に匂ひをうつしつつ
           かへるさ惜しきけふの暮かな” 三の丸


”あかず見む幾春ごとに咲きそふる
            深雪の山の花のさかりを”  加賀

 
女というこの偶然が心地よい  三村一子

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