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川柳的逍遥 人の世の一家言
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山河あり静かに足を浸けるべし  富山やよい

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   秀忠誕生の浜松城

「徳川秀忠」

お江が三度目に嫁ぐ相手・徳川秀忠は、浜松の城で生まれた。

天正7年(1579)4月7日、

幼名は、長丸、竹千代

徳川家康の三男である。

さわやかな香りを放つ若いって  森下よりこ

家康の長男・信康は、

17歳で、”長篠・設楽ヶ原の戦い”に初陣を果たしており、

家康の後継者として期待を集めていた。

しかし、妻・徳姫との不和が原因で、切腹を命ぜられる。

徳姫は信長の娘だった。

家康といえども、信長に逆らうことはできない。

秀忠が生まれて間もなく、信康は自ら命を落とした。

カサブランカの切り口上に逆らえず  美馬りゅうこ

次男・秀康、「どうも自分に似ていない」という、

家康の思い込みから遠ざけられ、

豊臣秀吉・結城晴朝の養子となった。

そして、三男の秀忠が、

徳川家の世子(あとつぎ)に定められたのである

点線をつたい滴り落ちる湖  岩田多佳子

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   秀忠

「竹千代」

秀忠の”幼名・竹千代”という名には、

家康にとって、特別の意味があった。

いわゆる、秀忠は、「竹千代」という名を冠してから、

すでに、
家康の後継に決まっていたことになる。

そして、天正18年(1590)上洛。

秀吉に謁見して元服し、

偏諱(へんき)により、

秀吉の「秀」の字を受けて「秀忠」と名乗り、

まもなく秀忠の名をもって、北条攻めで初陣を飾る。

≪偏諱ー上位者が下位者に諱(俗名)を、一字与える事≫

最終の器へ確と釘を打つ  吉道航太郎

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家康の家は、三河国(愛知県)の山間部、松平郷出身の松平氏。

代々平野や海を求めて、南下政策をとっていた。

しかし、東(駿河・静岡県)の今川氏と、

西(尾張・愛知県)の織田氏との間に挟まれて、

思うようにいかない。

今川・織田とも、周辺の弱小豪族を、吸収しようと虎視眈々。

松平氏も、この両サイドから狙われていたのだ。

真っ暗闇ひとり一個のカギの穴  前中知栄

そんな状況の中、敢然と勇気をふるい、

大手の圧力にも屈せず、

地域豪族の主体性と自由を実行したのが、

家康の祖父・清康であった。

清康は多くの抵抗をしりぞけ、

松平家の悲願である”南下”を実現して、

三河安城城や岡崎城を確保したのである。

のちにその勇猛さを警戒した家臣に、暗殺されてしまうが、

幼少期から家康にとっては、 

”あこがれの祖父”であった。

外圧に決して負けぬ意志を持つ  足立淑子

尊敬する祖父・清康の幼名が、「竹千代」だった。

そして、家康の幼名も、「竹千代」なのだ。

家康も幼少時代に、今川・織田の人質になって苦しんでいる。

しかし、どんなにつらいときでも、

家康は、竹千代という名にちなんで、

祖父の勇猛心を思い出した。

家康が、息子・秀忠の幼少時、長丸から竹千代と名を改めたとき、

”徳川家のスピリット”を、継げという意思だったのである。

ひょっとしてガラスの靴を試してる  三村一子

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「秀忠とは・・・?」

秀忠の血液型は、”実直”、”うっかり”、”一本気”のO型で、

性格は、地味で温厚で、

父に忠実な律儀な人であったと伝わる。

身長は当時としては、大柄な159cmほどで、

筋肉質であった、と遺骨から推定されている。

また銃創の痕跡が複数見つかっている点から、

敵の攻撃に、直接曝されるような場所で、

指揮を取る戦法を多用していたこと、

骨にまでダメージが及ぶ負傷にも耐え切るだけの体力、

生命力を有していたことが、推定されている

骨密度電圧計で測られる  井上一筒

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秀忠が書き写した壬生忠岑(みぶただたね)の和歌(古今和歌集)

”有明のつれなくみえし別れより あかつきばかりうきものはなし”

「律儀で温厚な秀忠の人柄を示す逸話」
 
-秀忠は律儀でありすぎて、嘘をつけない人柄だった。

少々の嘘は政治には必要なこと。

ある日、家康は本多正信に、

「秀忠は律儀一辺倒だが、それでは、世を治めることはできない」

と漏らした。
 

それを受けた正信は、秀忠に

「秀忠様も、たまには嘘をつかれてはどうですか?」

と言った。
 
すると秀忠は、

「いや、自分は嘘をつけない。たとえついたとしても、

 父上の嘘なら買う者もあろうが、自分の嘘を買う者はいないだろう」

と答えたという。

ひなげしの花の訛りが直らない  十織一返
 
-鷹狩りの好きだった家康のDNAで、秀忠も鷹狩が大好き。
 
鷹狩の出発は、近習の者が太鼓を鳴らして知らせるのだが、

ある日、予定の時間で近習の者が、太鼓を鳴らした。

その時、、秀忠は食事の真っ最中だった。
 
すると秀忠は、「出発の時であるか」と、

食事の途中であるにもかかわらず、

箸を置き、さっさと出発の支度を整え始めた。

人を待たせまいとする秀忠の、律儀を語る一面だ。

ほがらかと言われKYとも言われ  石堂潤子

-秀忠が死の床についた時、家光を枕もとに呼び、

次のように言った。
 
「徳川家が天下を取って、まだ日も浅い。

  今まで制定した法令も完全なものとはいえない。

  近いうちに、これを改正しようと思っていたが、

  不幸にしてその志を果たすことができない。

   私が死んだあとは、少しもはばかることなく、これを改正せよ。

   これこそが、我が志を継いだことになるのだ」

輪郭をほどよくぼかす和ローソク  山本昌乃

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『大河ドラマ・「お江」-第23回ー「人質秀忠」 あらすじ』

天正18年(1590)正月14日、秀吉の北条討伐が迫る中、

家康は三男・竹千代(向井理)を人質として、大坂城に送った。

そこで竹千代は、江とはじめて出会った。

竹千代12歳、お江18歳だった。

二人は、運命の糸で結ばれているとは、思いもしなかった。

二人の出会いはお互いに、

あまり良い印象でなかったからだ。

電光ニュースチカチカ車停滞す  森中惠美子

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結局、秀吉(岸谷吾朗)は、

竹千代を人質にとらず駿府に送り返した。

更に、秀吉自ら竹千代を元服させ、

「秀忠」という名前まで付けてくれた。

やがて春頃から豊臣勢の北条攻めが始った。

豊臣勢に三か月にわたって、陸と海から完全に包囲されては、

難攻不落といわれた小田原城の北条方も、

降参するほかに道はなかった。

さぬきうどんの軽さで男呑みこまれ  笠嶋恵美子

そして、7月5日、北条家当主・氏直(岩瀬亮)は投降し、

前当主・氏政(清水綋治)と弟・氏照らは切腹、

家康と昵懇だった氏直は、家康の取り成しで、

高野山に送られ、
北条氏は滅亡した。

有様もあらざるモノも現世  山口ろっぱ

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お江(上野樹里)は、

家康の後妻となった秀吉の妹・旭(広岡由里子)の病状が、

よくないと聞き、京・聚楽第に駆けつける。

しかし周囲の励ましもむなしく、ほどなく旭は亡くなってしまう。

兄・秀吉の政略で、

半ば強引に家康(北大路欣也)に嫁がされるなど、

波乱の人生を送った人だった。

さらさらと流れる川に逢いに行く  西藤 舞

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そこではじめて、江は、見舞いに来ていた竹千代と出会う。

そして、旭の最期の枕元で、優しい言葉をかける竹千代に、

江は好感を持った。

それゆえ、少し後に再び顔を合わせた際には、

彼の「見舞いをうれしく思った」と伝える。

しかし、竹千代の反応は、

「人質として連れてこられただけで、

  見舞いに来たくて、来たのではない」

という、あまりにそっけないものだった。

初めての印象とは正反対の、竹千代の冷たい態度に、

江はただあぜんとするばかり・・・・。

山で恋に町でこんな人やったん  梅谷邦子

秀吉は、旭が亡くなったあくる日、

竹千代元服の儀が執り行われる。

竹千代は秀吉から一字を授かり「秀忠」と改名。

その後、再び江と顔を合わせた秀忠は、

秀吉や家康への不満をあらわに。

家康らをかばう江と言い争い、二人は決裂する。

目が合って毛穴がひとつ増えました  酒井かがり

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竹千代を秀忠に改名させて、家康との関係を固めた秀吉は、

いよいよ小田原への出陣を決める。

そして、「そちも同行せよ」と、

利休(石坂浩二)
に命ずる。

しかし利休は、「もう長旅はつらい」と従わない。

結局、彼は同行することになるのだが、

このとき2人の間には、かつてない緊張が生じていた。

草庵で浮世の外に転んでる  早泉早人

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