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川柳的逍遥 人の世の一家言
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あしたという字は暗い日と書くのね  喜多川やとみ


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    利休庵の茶釜

「年表・秀吉ー呪われた3年」

「天正18年(1590)」

家康夫人・旭姫死去(一月)。
小田原城に北条攻め。北条氏滅亡。
家康関東へ移封。信雄改易。
 
「天正19年(1591)」

羽柴秀長死去(一月)。
千利休切腹(二月)。
信雄長女・小姫死去(七月)。
鶴松病死(八月)。

甥の秀次に関白職を譲る(十二月)。

「文禄元年(1592)」

お江、羽柴秀勝に嫁ぐ(二月)。
文禄の役ー秀吉茶々を伴って出陣。秀勝も出陣(三月)。
秀吉の母・大政所没(七月)。
秀勝朝鮮の巨済島で病死(九月)。

文禄の役の敗色。 このころ、お江完子出産。

有り様もあらざるモノも現世  山口ろっぱ

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    羽柴秀長

「秀長・利休・鶴松、それぞれの死」

天正19年(1591年)、この年は三姉妹の周辺に、

いくつもの不幸が続いた。

1月に、秀吉の弟で右腕と頼んでいた大和大納言・秀長が、

この世を去った。

前年の初めに、徳川家康に嫁いだ妹・「旭姫」が、

聚楽第で亡くなっているから、

秀吉は、妹と弟を相次いで失ったことになる。

〇書いてチョンなら墓石に刻れますか  田中博造

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     千利休

2月には、秀長の協力者でもあった千利休が、

切腹している。

また、小田原の陣で、

北条家に仕えていた利休の高弟・山上宗二が、

利休の仲介で秀吉に面会を許された折、

無礼を働いたとして、打ち首になった。

カンナ屑私は何を削りとる  森田律子

小田原では、石田三成の舅の兄・尾藤知宣が、

島津攻め「根白坂の戦い」の失敗の、反省もなく、

秀吉の作戦を酷評、

「自分にまかせるべきだ」

などと、大風呂敷を広げ、打ち首になった。

うかつにも直し忘れた未来地図  新川弘子

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                   旭 姫

7月、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫が亡くなっている。

わずか7歳であった。

小姫は、徳川秀忠と結婚することになっていた。

北の果て余白の多い時刻表  ふじのひろし

そして8月、もともと身体が弱かった「鶴松」が、

わずか、3歳で亡くなった。

秀吉の嘆きはあまりに深く、東福寺に入って髷を切った。

主な大名たちも、それにならったという。

幾層の闇 剥がしても剥がしても  赤松ますみ

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  南宗寺内・利休茶室

「茶人・千利休」

千利休は、堺で納屋衆(倉庫業)を営む商家に生まれる。

商家の屋号は、なぜかユニークに魚屋(ととや)という。

父は、田中与兵衛、母の法名は、月岑(げっしん)妙珎、

妹は、、茶道・久田流へと続く宗円

若いころから、茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳(きたむきどうちん)

ついで、武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事し、

師とともに、茶の湯の改革に取り組んだ。

するめいか焙るとスルメ起き上がる  泉水冴子

その流れから、織田信長が堺を直轄地としたときに、

茶頭として雇われ、

のち豊臣秀吉に仕えた。

利休という名は晩年、天正13年(1585年)10月の、

秀吉の禁中茶会で、正親町天皇から賜った居士号であり、

それまでは「千宗易」という法名を名乗った。

山の端の雲が大人になった雲  井上一筒

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   南宗寺・茶室

利休は、わび茶の完成者で、「茶聖」と称される。

わび茶は、無駄ともいえる装飾性を省き、

”禁欲的で緊張感”のある茶である。

その世界を追求するため、

利休は、草案と呼ばれる二畳や三畳の「茶室」を創出。

また楽茶碗、万代屋釜、竹の花入れ、などの「利休道具」を考案し、

露地の造営にもこだわり、

茶の湯を、「一期一会の芸術」にまで高めたのである。

≪楽茶碗の銘ー(黒の方は「大黒」、赤の方は「道成寺」)

展開は真みどり三重奏の靴  富山やよい

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一時期、利休は、秀吉の聚楽城内に屋敷を構え、

聚楽第の築庭にも関わり、

禄も三千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。

天正15年(1587)の「北野大茶会」を主管し、

一時は、秀吉の重い信任を受けたが、

その4年後の天正19年1月、

利休は、突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられた。

澄んでしまえば生きにくい白である  前中知栄

蟄居の7ヶ月後、利休は切腹をする。

今もって、謎とされている千利休の死。

秀吉に切腹を命じられたことによるが、

死罪の理由は、定かではない。

しかし、天下人の気紛れにも似た、理不尽な命を、

粛々と受け入れることで、

利休は、世俗の王・信長や秀吉の上に立ったともいえる。

理想論でうごくこの世であるならば  たむらあきこ

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『大河ドラマ・第24回・「お江」―「利休切腹」  あらすじ』

天正19年(1591)正月22日、

戦場を駆けた若き日から、

秀吉(岸谷吾郎)を支えてきた弟・秀長(袴田吉彦)が、

かねてよりの病を悪化させ、明日をもしれぬ状態だった。

秀吉は、すぐに病床に駆けつけるが、

秀長は、もはや虫の息。

秀長は、

「江や利休など耳に痛いことを言う者を信じるべき」

と、最後の力をふりしぼって、兄に言い残し、力尽きる。

虚しさの残る言葉に蓋をする  小川一子

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秀吉と大名たちの、つなぎ役でもあった秀長が、

いなくなったことは、

豊臣政権にとっては大打撃だった。

仲介役の秀長が亡くなったことで、秀吉と利休の関係も、

ますます悪化していく。

秀吉があまりにも、利休を重用することで、

誰もが利休を頼るようになっており、

また利休もそれを利用して、

出世していくことに、懸念を示していたのだった。

添うた背いた花筏の蛇行  岩根彰子

北条攻めに勝利した秀吉は、東国の諸大名を屈服させ、

ついに天下統一を成し遂げて、ほどなく、

京・聚楽第に、いとしい鶴松(大滝莉央)のもとへと急ぐ。

彼は、やっと授かった跡取りが、可愛くてしかたがないのだ。

そんな中で騒動は起きた。

シグナルは点滅行き場に揺れている  山本昌乃

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秀吉が朝鮮の使節と会見する際、

こともあろうに、鶴松を連れて現れたのだ。

朝鮮は礼を重んじる国。

公の場に幼児を同席させるのは、礼を失した行為となる。

しかし秀吉は、

鶴松を見て困惑する使節たちの様子を気にもせず、

「わしは日輪の子である」

と宣言し、さらに、明国を平らげるつもりだから、

「朝鮮は戦に協力しろ」

と言い放つ。

使節たちは、彼の傲慢な態度に怒って席を立ち、

会見は台なしになってしまった。

螺旋の底で水の澄むのを待っている  森 廣子

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このような秀吉の言動に対し、利休(石坂浩二)は、

2人の関係悪化に気をもむ江(上野樹里)が、

冷や冷やするような、遠慮のない言葉を投げかける。

それを聞き、秀吉は、すぐさま機嫌が悪くなる。

だが実は、利休の従順ならざる態度を、

最も苦々しく思っていたのは、

秀吉の忠実な側近・三成(萩原聖人)だった。

石よりも硬い頭が邪魔になり  橋本 康

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そんなことから、同年・2月13日、

石田三成の讒言により、

利休は、大坂城から堺へと追放が決まった。

利休は頑なに謝罪を拒否し、

秀吉も引くに引けなくなり、

2月28日、利休は、聚楽第で秀吉より切腹を命ぜられた。

ゾロゾロと喪服二幕目へと続く  谷垣郁郎

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