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川柳的逍遥 人の世の一家言
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板ガラスの中の気泡が見た歴史  竹内いそこ


大阪城の塀の際まで大砲を運び、砲撃を加える徳川軍

家康は当時の最新兵器である大砲約300門を用意。
当時の大砲の弾丸は、炸裂弾ではなく、鉄球を飛ばすだけであったが、
壁に命中して響き渡る轟音は城に籠る豊臣方を精神的に揺さぶる
威嚇効果を十分に発揮した。

「オランダ人が見た大阪の陣」

徳川方が豊臣家を滅ぼし、日本史の転換点となった大阪の陣前後の様子を

オランダ人が書き残した文書がオランダ(ハーグ国立文書館)で確認された。

書き残したのはオランダ商務員・ワウテレスで大坂城落城直後、大坂など

で大名の家臣や商人などから聞き取った情報を基にまとめたとみられる。

大阪夏の陣後の9月24日付けでワウテレスが記した会議録では、

オランダ東インド会社の総督が決戦前、家康に武器を贈呈したことを記述。

<現インドネシアで自分の船から二台の大砲を降ろし、日本に送るように

命じて<陛下(家康)が喜んでくれることを望んでいた>という。

戦争のあと味がするとろろ飯  真鍋心平太


 ファルコネット砲

15年10月28日付けの平戸商館の会議録でも家康や側近との関係を

話題にし、<良好な状況をより改善し、維持するために…中略…

贈り物の献上を次の通りに行なうことが決定され、承認された>と書く。

家康に大砲や火薬、散弾、側近の本多正純「金属製ファルコネット砲」

を贈るとしている。

豊臣方は家康軍以外に、オランダをも敵にまわしてしていたことになる。

リスクとは弾にあたって死ぬことだ  千葉昌秋

冬の陣後の15年1月29日付けの書簡で、ワウテレスは、

<豊臣秀頼の命の下に1万5千軒の家(東横堀川の西側)が全焼させられ、

 四方に大砲の射程よりも広い空き地ができた>

と豊臣方が敵の侵攻を防ぐために焦土作戦を展開した経緯を記している。

さらに秀頼が堺を焼き打ちするとの根強い噂があり、…中略…

堺の人々がそれをとても恐れていた>と堺の民衆に広がる不安を報告。 

実際に4ヶ月後、堺の町は焼けている。

あっぱれな負けとみっともない勝ちと  丸山芳夫


   ワウテレスの書簡

夏の陣が近づくとワウテレスは、平戸の商館長宛ての書簡(15年5月1日)

間もなく戦争が起きることを報告。

<真田左衛門(幸村)殿」「後藤又兵衛殿」「長宗我部クニエノスケ殿(盛親)

など
豊臣方の勇将の名を挙げ、<彼らを大阪城から退去させるよう求める>

家康と秀頼の対立を伝え、<火事や損害の心配>があるため、

京へ自らも早目に避難すると記している。

生き抜く温度 死なない温度大切に  墨作二郎

大阪の陣終結後の15年6月11日付け書簡では、

<皇帝(家康)、その息子および全軍は秀頼の城を攻囲するために

6月2日に大阪へ出発し、同月3日に到着した。

秀頼の数人の大名が赦免を得られると考え、皇帝に寝返るために城に火を

つけたが、逃げる前に秀頼によってその場で(石垣から)落とされて死んだ>

と書き、

<秀頼と他の大名たちは切腹し…兵士やその他の者約1万人が死んだ>

とも綴っている。


当時、城内で裏切り者が出たことは徳川家の正史「徳川実紀」にも

記されて
いるが、制裁で石垣から突き落とされた経緯を示す文献はない。

ゆっくりと記憶の錆をかき落とす  嶋沢喜八郎

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