忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[722] [721] [720] [719] [718] [717] [716] [715] [714] [713] [712]
足裏は今日の復習しています  合田瑠美子

(各画像は拡大してご覧下さい)
   真田丸奮戦

大坂の陣直前に幸村が築いた真田丸、その存在は以前から知られていたが、

近年、そのその構造や役割について見直しが進んでいる。

従来、真田丸は大阪城の弱点である南東平野口の防御を固めるべく、

あくまで惣構えの補強として設けられた「曲輪」だとされてきた。

しかし実は、およそ南北220m、東西140mにも威容を誇る、

惣構えの外に築かれた「独立した城」であった。

最新の研究によれば、真田丸の周囲には水堀ではなく空堀が巡っていた

ことが明らかになっている。

また南東口は地形的にも弱点というより、むしろ、

天然の要害であったという。


悲しみを瞳の底に書き留める  小池正博


松江歴史館で見つかった真田丸絵図(上が南)

「真田丸最古の絵図見つかる」

今回見つかった真田丸の絵図は、元禄年間(1688〜1704)頃のもので、

真田丸を詳細に描いたこれまで最も古い絵図は、


広島中央図書館所蔵の「摂津・真田丸」宝暦3年(1753)とされてきた。

大坂冬の陣(1614)で豊臣方の武将・真田幸村が大坂城南側に

築いた出城「真田丸」の江戸時代の絵図(縦28センチ、横41センチ)が、

2016/10月12日、松江市の松江歴史館で見つかった。

真田丸の絵図は、戦時の布陣を示す略図が多いが、

今回のものは跡地で写実的に描かれたとみられ、専門家は、

「謎が多い真田丸の姿に迫ることができる重要な発見」としている。
                       (各紙掲載文参照)
三日月の欠けた部分がわたしです  岩田多佳子

今回の絵図は、江戸時代の武士が研究に用いた城の絵図集で、

松江市の男性が市に寄贈した「極秘諸国城図」(74枚)の1枚。

絵画集の包み紙には作製時期を示すとみられる

「元禄」(1688〜1704)
文字が書かれていた。

絵図の北側には「出丸 廿五(二十五)間程」と記載があり、

真田丸に「本丸」「出丸」があったと解釈できる。

絵図の調査を担当した奈良大の千田嘉博学長(城郭考古学)は、

「真田丸自体に出丸と本丸があったとすれば、

 大坂城から独立した軍事拠点といえる」 と話している。

屋台にはガラスの騎士の席がある  ふじのひろし


 大坂冬陣備立図 (大阪城と真田丸の位置関係)

真田丸の北側には大坂城があり、当時は防御の必要性が低かったと
                              こしぐるわ
みられるが、出丸の東側には側面を防御する「腰曲輪」も描かれている。

また真田丸の南側に一番外側の堀を意味する「惣構堀」と記れた堀があり、

堀の底に下りるようなスロープが描かれている。

こうしたことから、「真田丸の独立性がうかがえる」というのだ。

真田丸は、幸村が1614年の「大坂・冬の陣」で築いた砦で、

戦いのあとすぐに取り壊されたため、大坂城の中にあったのか、

独立した出城として建てられたのか解明されていなかった。

サランラップで包む私の急所  雨森茂樹

拍手[3回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開