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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ダウンロードされているのか背がかゆい  吉岡とみえ



   犬伏の薬師堂

「家康と三成の抗争が関が原に」

石田三成が失脚した後、家康はさまざまな工作を実行。

暗殺計画があるというのを理由に大阪城に乗り込み、

さらには謀反の疑いで前田家征伐を準備した。

これは前田利長と母の芳春院の機転でことなきを得たが、

つづいて上杉景勝に謀反の疑いをかける。

こちらは言いがかりに憤慨した上杉家の家老・直江兼続

家康を愚弄する
内容の書簡を送りつけた。

これに怒った家康が、上杉の謀反は疑いないと決めつけ、

諸大名に会津征伐の陣触れを発したのである。

ニンゲンの貌か毎朝確かめる  森吉留里恵

慶長5年(1600)6月16日、会津征伐を率いた家康は大坂を出立。

その日は、鳥居元忠が守る伏見城に一泊する。

その後、家康は時間をかけて進軍した。

これは三成が上方で挙兵するのを待っていたのだ。

家康は7月2日に江戸へ到着する。

その思惑通り、7月になると三成が大坂で挙兵する。

大坂城西の丸を奪取すると、毛利輝元を家康討伐軍の総大将に据えた。

そして7月18日には、4万の大軍で伏見城への攻撃を開始する。

元忠らは勇猛果敢に戦い、10日以上も抵抗。

しかし1800ほどの城兵ではいかんともし難い。

8月1日、元忠の討死で伏見城は落城する。

真剣な目で死んでゆくエキストラ  桑原すず代

下野小山に着陣した7月24日、三成挙兵の知らせが家康の元に届いた。

翌25日、家康は会津征伐に参加していた諸大名を招集し、

以後の方針を協議。ことに家康が気にかけたのは、

東海道筋に領地を持つ豊臣恩顧の大名たちの去就であった。

だが家康は福島正則に対して、あらかじめ手回しをしていた。

評定の席上、正則が家康へ味方することを宣言すると、

諸大名もみなこれに従った。

だが真田昌幸と美濃岩村城主の田丸直昌だけは違った。

雨季のくる前に昨日を折り畳む  桑原伸吉

真田家は昌幸だけでなく、信之・信繁の兄弟も従軍していた。

3人は下野犬伏の陣で語り合い、

昌幸と信繁は西軍、
信之は東軍に味方することを決めた。

信之の妻は家康の重臣・本多忠勝の娘であり、

信繁の妻は西軍に与した大谷吉継であることも理由だった。

それ以上に昌幸は家康の下風に立ちたくなかったのであろう。

昌幸と信繁は陣払いをし、居城のある上田を目指した。

家康は評定の席上で約束した通り昌幸、信繁に追撃をかけなかった。

好き嫌い激しい耳を持て余す  新家完司


    小松姫
犬伏の別れ後、沼田城に立ち寄った昌幸らを甲冑姿の小松姫が、
門前払いした逸話を元に描かれた肖像画。(大英寺所蔵)



そして昌幸は上田に帰る前、

少数の兵とともに信之の居城である沼田城に立ち寄る。

理由は「今生の別れに孫の顔を見たい」というのだ。

だが城を預かっていた信之の妻・小松殿は、

「例え義父様でも敵味方、
主人の留守中にそのような方を

   城内に入れることはできませぬ」


と拒絶したのだ。

それを聞いた昌幸は、

「さすがは徳川家中にその人ありと謳われた本多忠勝殿の娘。


   武士の鑑である」と賞賛。

近くの正覚寺で一夜を過ごした。

翌朝、子どもを連れた小松殿が正覚寺を訪れた。

祖父と孫の対面は無事に行なわれたのである。

言い訳はよそう余白はあと少し  上田 仁

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