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川柳的逍遥 人の世の一家言
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真実を前に節穴が並ぶ  居谷真理子


 秀忠の凛とした勇姿  (この時、父・家康に認められたい一心があった)

「それぞれの関が原・徳川秀忠」

秀忠徳川家康の三男として誕生。

家康の嫡男であった信康は、秀忠が生まれた年に織田信長から

謀反の疑いを
かけられ切腹させられた。

次兄の秀康は実父の家康から疎まれ、豊臣秀吉の元に養子としてだされた。

秀吉には、かわいがられ羽柴秀康と名乗ることを許される。

しかし、秀吉に実子の鶴松が誕生すると、結城家に養子に出されてしまう。

こうして三男ながら秀忠が徳川家の後継者となったのである。

天正18年(1590)の小田原征伐の際、秀吉の元へ送られた。
              へんき
そして元服し秀吉から偏諱を受けて以後は「秀忠」と名乗る。

秀吉が家康の後継者を重く見ているようにも取れるが、

実質的には人質であった。

バランスをとるためだけの頭だよ  吉岡とみえ

秀忠にとっての初陣は「関が原の合戦」であった。

この戦いで秀忠は3万8千という大軍の指揮を任される。

西上する先にある障害は、わずか2千ばかりの将兵が立て籠もる

真田昌幸の上田城だけだ。

もともと信州平定を命じられていたこともあり、上田城へ攻撃を仕掛けた。

ところが巧妙な戦いぶりを見せる真田勢に大敗を喫してしまう。

上田城で手こずった結果、秀忠の軍は関が原本戦に間に合わなかった。

直線で攻めると腰を引く天狗  上田 仁

このため兄の信康や秀康、弟のただ忠吉は武勇や智略に恵まれた名将と

評価されているが、秀忠はこの一件で武将としての評価を下げてしまう。

それもあって、慶長19年(1614)の大坂冬の陣に際しては、

大軍を率いて急ぎに急いだ。

江戸から大坂までをわずか17日で踏破する。

一方、為政者としての手腕は高く評価されている。

それは武家諸法度や公家諸法度などの法を定め、

江戸幕府安泰のための基礎を築いたからである。

そうした手腕を認めていたので、家康も後継者としたのである。

一波乱あったか首が濡れている  青木公輔

「榊原康政」


小牧・長久手で活躍する康政
この戦いで秀次軍を壊滅に追い込み、森長可池田恒興を討死させた。

永禄9年(1566)、同年齢の本多忠勝とともに元服すると、

揃って旗本先手衆に抜擢された。

以後、家康の側近くにいて多くの戦功を挙げている。

「本能寺の変」が発生した後の伊賀越えにも同行している。

「小牧・長久手の戦い」では、秀吉の甥・羽柴秀次の軍勢を壊滅させた。

それだけでなく徳川家が関係した主な合戦で多くの戦功を挙げている。

ただ「関が原の合戦」では、上田城での戦いに手間取り本戦に遅参。

この戦いの前、康政は秀忠に上田城攻撃を止めるように、

進言したとも言われている。

一日の残り時間は爪を噛む  中林典子

秀忠の失態に激怒した家康は、しばらくは対面すら許さなかったが、

康政の執り成しにより許しを貰うことができた。

秀忠はずっとこの恩義を忘れずにいたという。

康政は忠勝と並び称される武勇の持ち主で、

部隊の指揮に関しては康政の方が上という評判で、

行政能力も高く、
関が原後は幕府の老中として政務に当たっている。

頭から齧るメザシも忠告も  新家完司



「土井利勝」

利勝には、家康の母方の従兄弟という説や、家康自身の落胤という説など、

出生に関してはさまざまな説がある。

いずれにしても三代将軍・家光の時代になると、利勝は、

「名実ともに幕府の最高権力者」と言われた。

そんな利勝は、「関が原の戦い」の折、秀忠に従って中山道を進軍。

途中の上田城では真田攻めを主張したひとり、

結果は散々煮え湯を呑まされるが、戦後は500石の加増を受けた。

「大坂の陣」の際も秀忠に従っている。

公正さを特に重んじた政治姿勢は、多くの大名たちから信頼された。

向日葵にマリコと名付け花鋏  斉藤和子

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