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川柳的逍遥 人の世の一家言
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私には空き缶だけが残される  前中知栄


  お 田

お田(でん「なお」とも)は町人に扮して大阪城を脱出、流浪の末、
出羽国亀田藩主の岩城家に嫁いだ。(妙慶寺蔵)

「隆清院とお田」

文禄4年(1595)8月、秀吉は甥の秀次を謀反人に仕立て切腹を命じた。

なおも豊臣内部での家督争いを防ぐために、秀吉は係累の根絶をはかり

秀次の側室侍女34人と子供4男1女を京都三条河原で斬首した。

この処刑から逃れることができたのは、

秀次と正室・一ノ台の間に生まれた
幼いお菊(ドラマでは、たか)

その姉の2人だけだったと言われている。


このお菊が後の「隆清院」で、信繁の3番目の側室となる女性である。

このお菊と姉が秀吉の追っ手からどのように生き延びることが出来たのか、

確かな史料はないので詳細は不明だが、この時、10歳くらいか、

ドラマでは、
信繁が秀吉の手からお菊を助け、

堺の伝説的貿易商人・呂宋助左衛門が預かる筋になっている。


それからお菊が信繁の側室になるまでの空白の部分を、

ドラマで三谷幸喜氏は、どう描いてくるのか、

彼の創作力・脚色力を楽しみにするばかりである。

一の矢を外して敵を裏返す  上田 仁

それから9年後、信繁が高野山に幽閉されてから5年目の慶長9年(1604)

隆清院は、信繁との間に5女・「お田」を産んでいる。

慶長19年10月13日に、信繁は長男・大助らを引き連れ大坂城に入城、

その折、隆清院は娘のお田と共に信繁に随行し大坂城に入っている。

11月に大阪冬の陣が起こり、家康淀殿による和睦が成立し、

戦が収束した後も、しばらくの間は大坂城で過ごした。

翌年の3月に大坂城を出て京都嵯峨野にある瑞龍院(秀吉の実姉)を訪ね、

出家して日秀と言う名になっていた秀次の母親・ともに会いに行っている。

この時、隆清院は、信繁との間に2人目の子供を身籠もっていた。

わたくしの影はただいま修理中  中野六助

慶長20年4月下旬、大坂夏の陣が起こり、5月7日に信繁が討ち死し、

5月8日には、淀君と秀頼が大坂城で自刃する。

豊臣家が滅びると、徳川方によって豊臣残党の捜索が行われ、

京都の瑞龍寺に居た2人は身の危険を感じ、

隆清院は梅小路氏に嫁いでいた姉を頼って身を隠し、

お田は町人の格好をして居場所を転々としたという。

その間の7月、隆清院は信繁にとって三男となる幸信を産んでいる。

一方、お田は捕らえられて、身柄を江戸へ送られることとなる。

だが、その処分は意外にも、人質として大奥勤めをするというもので、

比較的軽いものであった。


これは伯父である真田信之が幕府に掛け合ったためである。

飛び石が昔のように渡れない  山本昌乃

隆清院は、幸信を産んだ後も梅小路氏に潜んでいたが、

追跡の手が厳しくなったため、新たに米屋次郎兵衛という町屋に隠れた。

一方、お田は大奥に入ってから3年が過ぎ、大奥を出ることを許される。

そして大奥勤めの経験を買われて、四条のある屋敷に給仕として、

入ることになり
江戸から京へ行った時、母の隆清院と再会をしている。

ガラガラポン長い試練も終わりそう  桑原すず代

「お田のその後」

佐竹義宣は寛永3年(1626)6月、大御所・徳川秀忠、

また同年8月には、将軍徳川家光の上洛に随行し、

弟・宣家と共に、
3ヵ月近く京都に在留した。

ある朝、佐竹兄弟が滞在していた屋敷で、義宣が目を覚ますと、

勇ましい掛け声が聞こえくる。

義宣が掛け声がしている方に行ってみると、

屋敷の裏庭で大勢の下女達が長刀の稽古をしていたではないか。

そこでは、鎧兜に身を固めた一人の女性が、指南をしていた。

その女性は毎日義宣たちの身の回りの世話をしている給仕人だが、

その凛々しい姿に義宣は、由緒ある家の出身ではないかと思い、

素性を尋ねると、名はお田と言い、信繁の忘れ形見であることが分かる。

引き出しの中からそっと波の音  高橋謡子

義宣は共に将軍家に随行していた弟・宣家が妻と不仲であることを、

日頃から
心配していたこともあり、宣家を元気づけるために

お田を宣家に紹介した。


その縁からお田は宣家の側室として、桧山の多賀谷氏に嫁ぐことになる。

寛永4年、晴れて24歳でお田の方となる。(因みに宣家は46歳)

姉が岩城氏と結婚したことで、幸信は祖父・秀次の旧姓である三好を

名乗り、
三好左馬之助幸信として亀田藩士として360石を与えられた。

そして翌寛永5年にお田の方は、宣隆との間に長男・庄次郎(重隆)を生む。

お田の方は、宣隆を支える良き妻であり、教育熱心な母親であったという。

膝の水を抜いてレマン湖へ返す  井上一筒



「ルソン助左衛門」
堺の豪商・今井宗久から独立後、ルソンに渡海し、当時、現地では単なる
雑器という扱いだった壺に目をつけ、それを輸入、巨万の富を得た。
文禄3年(1594)、ルソンから帰国後、壺50個を秀吉に献上すると、
秀吉は甚く喜び、助左衛門はそこで名声を得、有数の豪商に登りつめる。
この時、秀吉への謁見を仲介したのが、三成の兄・石田正澄。
しかし、慶長3年(1598)、あまりに華美な生活を好んだため、
今度は弟・石田三成の讒言によって、秀吉から、
「身分をわきまえず、贅を尽くしすぎる」として邸宅没収の処分を受ける。

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