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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ソライロヲミル海月のマボロシヲミル  山口ろっぱ


  4大老・5奉行
右から、毛利輝元・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家・石田三成・
前田玄以・
浅野長政・長束正家・増田長盛 (画面は拡大してご覧ください)

慶長3年(1598)7月、自分の死が近いことを悟った秀吉は、

徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家に宛て遺言を送る。

「返すがえすも秀頼のこと頼み申し候。五人の衆 頼み申し候。

委細五人の者に申しわたし候。名残惜しく候。以上」

息子・秀頼の行く末を案じる秀吉。

家康に秀頼の後見人になるように依頼する。

「露と落ち露と消へにしわが身かな 浪速のことは夢のまた夢」

生きてとんとんと天下人となった秀吉さえも、その末路は空しいものだった。

零ひとつ増えて火柱遺言書  上田 仁

徳川家康

「秀吉の足跡」

天正10年、信長の暗殺後、光秀を討ち継承問題で勝家を破り権力を奪取。

天正13年、関白太政大臣になり、朝廷から豊臣の姓を受ける。

天正17年、側室の淀君が嫡男・鶴松を出産。

天正18年、小田原北条氏を攻め落とし、天下統一完成。

天正19年、鶴丸と弟・秀長が病死。千利休の切腹。

文禄元年、二度の朝鮮出兵に失敗。淀君が第二子・秀頼出産。

      関白秀次切腹。キリシタンの弾圧。地震による伏見城倒壊。

慶長3年 3月の醍醐の花見の後、5月ころから体調を崩して床に伏す。

      下痢、腹痛、食欲不振、手足の激痛などの症状が出。

       漢方薬の効果もなく痩せ衰え病状は悪化の一途、失禁もあった。

病名はほかに、急激な痩せかたから大腸がんや赤痢が疑われ、また認知症、

栄養の偏りによる脚気、脳梅毒、尿毒症、女好きの過淫が祟った腎虚、等々

いかにも秀吉らしい病気の種類の賑やかさである。

横隔膜ピクピクいとしい いのち  靍田寿子

 前田利家

教宣教師・ロドリゲスが秀吉を見舞った時の様子を次のように述べている。

「干からびたかのように衰弱しており、ぼろぼろになっている。

まるで悪霊のようで人間とは思えない」

生きる力を全て使い果たしたかのような醜悪な終末だったと語っている。

     ねんれいしつきじゅつ               しんいけい
一方で『燃藜室記述』には「秀吉は明の使節・沈惟敬によって毒殺された」

と、
とんでもない説もある。

そして慶長3年8月18日、秀吉、62年間の生涯を閉じる。

吹き溜まり行きの最終便が来る  岡内知香

毛利輝元

慶長4年4月、遺骸は伏見城から運ばれ、阿弥陀ヶ峰の山頂に埋葬。

朝廷から「豊国大明神の神号、正一位の神階」を授与される。

神として祀られたため、葬儀はとり行われなかった。

その後、豊臣家の家督は秀頼が継ぎ、「五大老と五奉行」が秀頼を補佐。

五大老と五奉行は、明軍と和議を結び、朝鮮からの撤兵を決定。

この戦争は、朝鮮に多大な被害を及ぼし、

明は莫大な戦費と兵員の損耗によって疲弊、滅亡へ向かう。

参戦した西国大名たちの財政は逼迫。

秀吉の没後、豊臣政権の内部抗争も激化。

関ヶ原の戦いへの導火線となっていく。

通り雨昨日のことは零にする  三村一子
 
上杉景勝・直江兼続

「五大老・五奉行」
自分の死後、幼い跡継ぎの秀頼の行く末を案じた秀吉は、
秀頼を盛り立て豊臣政権を守っていく為の制度・五大老と五奉行を定めた。
五大老とは立法機関であり、豊臣家に忠誠を誓った有力大名5人を任命。
五奉行とは、五大老の下で実務を司る機関とされ、秀吉の家臣で、
官吏としての行政処理能力に長けた5名が任命された。
 
「五大老」
徳川家康
北条攻め後、秀吉により北条旧領の関八州に転封。
秀吉没後、五大老の一人として秀頼を補佐。関ヶ原戦で三成を筆頭とする
反対勢力を一掃し、権力を一手に握る。更に15年後、大阪夏の陣にて
豊臣家を滅ぼし、徳川政権を盤石のものにする。 
 
前田利家
若い頃からの親友として陰に日向に秀吉を助けてきた。
勇将として若い武将達から信頼される。信義を貫き豊臣家を守ろうとするが、
「秀頼公をお守りせよ」との遺言を残し、秀吉の死からわずか1年後に病没。

毛利輝元
家康に次ぐ身代の大きさを期待され、西軍の総大将として大阪城に入るが、
決断力に欠け、関ヶ原で三成が敗れると、為すすべもなく降伏している。

上杉景勝
関西の三成に先立って、領国の会津で家康に反旗を翻す。
三成と東西から挟み撃ちにする作戦だったが、それを読んでいた家康は、
伊達、最上といった東北の大名に後方を攪乱させ、その隙に西へ進軍。
関ヶ原で西軍が敗れた後も、徹底抗戦の構えを見せる景勝だったが、
家名存続を条件に降伏。

宇喜多秀家
関ヶ原戦の当時27才、五大老中最若年。秀吉の養女で利家の娘・豪姫
が正妻であることなどから豊臣家に対する忠誠心は人一倍強かった。
関ヶ原では西軍の主力として活躍するが、敗れて逃走。
のち捉えられて八丈島へ流罪となるも、そこで84才まで生きる。  

底辺に本音しっかりへばりつく  柏原夕胡
 
宇喜多秀家

「五奉行」
石田三成
秀吉の重臣。検地や財政などんお政務に手腕を発揮、「治部」と呼ばれる。
秀吉没後、加藤清正ら7人の武将の襲撃を受け、佐和山に逼塞するが、
台頭する家康の打倒を決意し、毛利輝元、宇喜多秀家らと結び挙兵する。
 
増田長盛
事務処理能力に長け、関ヶ原の際は西軍の中心として大阪城に入るが、
家康に密告書を送るなど不穏な行動を取る。 輝元が、三成から救援要請が
来ても大阪城を動かなかったのは長盛の裏切りを心配した為という説もある。
関が原敗戦後、家康に事情釈明するも許されず、高野山へ追放ののち切腹。 

長束正家
経理に明るく、豊臣政権の大蔵大臣的役割を担う。
五奉行の一人として西軍に参加したものの三成のような積極的意志はなく、
関ヶ原でも 軍勢を率いて出撃していながら、結局傍観したまま終わってしまう。
その後、自分の城に戻ったところを攻められ切腹。 
 
前田玄以
僧侶である。法律や朝廷のしきたりなどに詳しく、京都奉行として活躍した。
関ヶ原戦では、家康に内通し、増田長盛と違い、こちらは許されている。
 
浅野長政
秀吉の正妻・おねの義兄であり、早くから秀吉に仕えた。
奉行として行政一般を司ったが、武将としても活躍している。
秀吉没後は家康に取り入り、関ヶ原戦では息子・幸長を東軍に参加させている。

土砂降りを歩く自虐も捨てられず  笠嶋恵美子

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