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川柳的逍遥 人の世の一家言
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春を待つ白一色になりながら  河村啓子



「西郷どんー⑩」 西郷の妻・イト

イトが、西郷隆盛(吉之助)と結婚したのは、元治2年(1865)1月28日

のことである。隆盛37歳、イトは21歳であった。


夫となった隆盛には、これ以前に妻とした女性が2人いた。

だからイトは3人目の妻となる。

2人の結婚は、誰から勧められても拒んでいた隆盛の前に、

親戚の有川矢九郎がイトを連れて行き、半ば強引に承諾させたものだった。

実はイトにも親が決めた許婚(海老原家)に嫁いだが、

すぐに戻されるという
離婚歴があり、隆盛は2人目の夫となる。

その時、隆盛はイトの再婚に対して「そんなことは、どうでもよかよか」

と気にもとめず、小松帯刀の媒酌で2人は結婚をした。

言葉など要らぬ背中をポンと押す  原 洋志

180cmの隆盛に対し、イトは150cmあるかないかの小柄で痩せ型。

その性格は温和できれい好き、芯の強い女性だったという。

イトが嫁いだ時の西郷家は、隆盛の弟・吉二郎とその家族など、

使用人も含めると10人以上が同居する大家族で、借金もあって

一家の生活
は苦しかった。

そんな中、吉二郎夫妻が穏やかな優しい人柄で、10歳も年下の糸子を

「姉さあ」と呼んで立てていたという。

モノクロの世をカラーに変えてくれた君 竹内ゆみこ


  愛 加 那

西郷は結婚後も、1年のうち1カ月ほどしか鹿児島にはいなかったが、

イトは、慶応2年(1865)に長男・寅太郎、明治3年(1870)

二男・午次郎
明治6年には三男・酉三を出産している。

明治2年(1869)に9歳になっていた愛加那の子・菊次郎をも引き取る。

このとき彼らの名に、西郷の元妻・愛加那は複雑な思いがあった。

1人目が寅年生まれの寅太郎で、2人目が午年生まれの午次郎。

だが菊次郎がいるのだから、午年の子は、午三郎にすべきではないのか。

少し嫉妬を感じたのである。

そして明治7年には、愛加那の娘・菊草(12歳)をも引き取っている。

家族という厄介者がいて楽し  神野節子

4人も家族が増えると、生活のやりくりに子育てや教育の仕事が増える。

それでもイトは、夫が薩長同盟から王政復古と藩を超えた政治の表舞台で、

名をあげていくなか、夫不在の一家を切り盛りし不平を口にすることなく、

しっかりと家を守った。

西南戦争に敗れ自刃した隆盛の没後の明治10年のことである。

イトは残された一家を連れて各地を転々とした。

その後、鹿児島の武村に帰ると、隆盛の遺志を継いで家塾を開き、

子供の教育に尽くし、愛加那に金10円も贈っている。

背泳ぎで掴まえたのは非日常  美馬りゅうこ

ここでエピソード二つ。

明治11年春、「生活に困っているだろう」と西郷の弟・従道の岳父で、

隆盛とも親しい紙幣印刷局長の得能良介が、鹿児島の野屋敷にいる


イトに香典として7百円を届けた。

「官にある人からこのような金を貰う必要がない」

と、イトは断わった。


「自分の主人は賊の大将として死にました。家も焼けました。


   出征したところの菊次郎も片足を失いました。

   けれども幸い幸い自主開墾
した土地が残っています。

   食べるのには困りませんのでお返しします」


イトは貧しい生活の中で貯めたカネから旅費を出し、

わざわざ下僕を東京にまでやって、この一文を添え返させた。

プライドを編み続けてる冬籠り  百々寿子

 慶応元年(1865)、西郷が小松帯刀とともに鹿児島に帰って来た時のこと。

そのとき、坂本龍馬を伴っており、西郷の上之園の借家に泊まった。

古い家だから、雨漏りがするので、イトは部屋の隅っこへ隆盛を呼び、

「お客様に申し訳ないから屋根を修理しましょう」と言う。

すると西郷は、


「今は国中の家が雨漏りをしている。うちだけ直すわけにはいかない」

とイトを叱った。

家は古く狭いので帯刀にも竜馬にも、この内緒話は丸聞こえ。


夫婦の会話を聞いた2人は、西郷にもイトにも感心したという。

その後、池田屋事件で傷を負った龍馬が、霧島へ治療に行く折、

再び西郷邸に立ち寄り、西郷の使い古しの褌を出してきたことなど、

自然派のイトについて姉の乙女に、手紙を書いている。


「西郷吉之助の家内も吉之助も大いによい人なれば、

   この方に妻など(お竜)
頼めば何も気づかいなし」

シュレッダーの音と呟く内緒ごと  小永井 毬



隆盛とイトの結婚生活は13年。イトは幸せだったのだろうか。

苦労するためにだけ西郷家に入った感がないでもない。

最初の9年は、隆盛はほとんど京都の生活だった。

残る4年は、隆盛は大久保利通らとソリが合わず、参議を辞職し鹿児島に

暮らしたが、西郷とともに帰国した近衛兵や西郷を慕う兵士たちのために

軍事学校設立に奔走する毎日だった。

これでは、イトは隆盛とゆっくりとした時間を持つこともできない。

明治22年、憲法発布で隆盛の賊名は除かれ、正三位が追贈されたが、

イトは人から訊ねられることがあっても、決して苦労話をしなかった。

隆盛は明治2年に作った詩の中で、次のようにイトを称えている。

「貧極まれど、良妻いまだ醜を言わず」

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その後、イトが育てた長男・寅太郎は陸軍大佐に、午次郎は実業家に、

菊次郎は京都市長になり、菊子大山巌の弟と結婚をした。


そして明治29年、長男・寅太郎の結婚式に出席するため上京し、

イトはそのまま東京の寅太郎の家に同居することとなる。

その数年はイトにとって幸せな時間であったかも知れない。

ところが
明治36年、三男の酉三が結核のため、30才で亡くなり、

また大正8年、寅太郎が52歳でスペイン風邪で他界する。

最晩年の3年間は、次男・午次郎の家で過ごし、大正11年6月11日

午次郎夫妻に身守られて長い生涯を閉じた。80歳だった。

人生の沖にスイカが浮いている  青砥たかこ

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