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川柳的逍遥 人の世の一家言
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聖母にも娼婦にもなる両乳房  日下部敦世





                                            『辞 闘 戦 新 根』 (恋川春町作・画)

『 辞闘戦新根(ことばたたかいあたらしいのね) 』 は黄表紙作家・恋川春町の
『 金々先生栄花夢 』に次ぐ大傑作で、江戸の庶民や下級武士の間で大ヒットした
絵本である





                      お 仙 茶 屋      (鈴木晴信)
 
浮世絵師・鈴木春信は、お仙の錦絵を多数描き、これらの錦絵によりお仙の
存在がさらに多くの人々に知られるようになった。
またその有名になったお仙を描いて、春信が有名になった。





「江戸のニュース」
明和2年(1765)、笠森お仙、美人ナンバーワンとして脚光をあびる



「いずれがあやめ、かきつばた」と、双美人としてこの時期に有名なのは、
浅草境内の楊枝屋の娘・お藤と笠森稲荷前の茶屋の娘・お仙。
このお仙が、にわかに脚光を浴びたのがこの年。
お仙は、もともと田端村の百姓五兵衛の娘。双美とは言え、お藤「脂粉にい
ろどる」といった妖艶な娘。それに比してお仙は、もと百姓の娘らしく素朴の
中に人を魅了する美しさを溢れさせて、街中では「お仙が断然に艶美」とする
ものが多かった。それが、この年、数え歌に「八つ谷中のいろ娘」と唄われ、
人気が急上昇。錦絵の題材となり、一枚絵が出、やがて、市村座の芝居にまで
「笹森お仙」が採りあげられるようになって、数年後には江戸中の人気をさら
った。笹森稲荷の参詣者は増える一方だったが、稲荷人社などそっちのけで、
お仙の居る茶屋に通い詰めるものが後を絶たなかった。
ところが、この人気絶頂の最中、お仙はあっさり、将軍家の御庭番・倉地甚左
衛門の養嗣子政之助の妻になり、江戸城桜田門内に住む身となってしまった。
茶屋の娘が正妻では具合が悪いと、西の丸御門番之頭・馬場善五兵衛の養女と
の届け出をしての嫁入りだった。お仙は、政之助との間に男女合わせて十余人
もの子を生んで幸せな生涯を送ったが、お仙嫁入りのおかげですっかり客足が
途絶えた茶屋を、人々は、「笠森稲荷水茶屋のお仙、他に走りて跡に老父居る
ゆえの戯言に、とんだ茶釜が薬缶に化けた」と、父親の禿げ頭をネタに囃し立
てて残念がった。




降って湧いた話を乗せる救急車  井上恵津子





 「年が寄ても若い人だ」  (歌川国芳)
<遊び絵> 振り向いた若男。よーく見ると 、パーツ が十二支 の動物に。




「江戸時代にもあった流行語」
江戸の戯作文学のジャンルに黄表紙(草双紙)がある。
黄表紙は、当時、最先端の流行・風俗を取り入れている。
服装、髪形、ナウいスポット情報、遊女や芸人の動静、等々を逸早く作に取り
込もうと作者たちは、競うのである。
こうした中で面白い流行語が生まれてくる。
黄表紙は、簡単にいうと現在のマンガのようなもの。
当時、江戸の町に流行った流行語が、擬人化されて闘うという大変ユニークな
ものが多い。登場する流行語はというと、「大木の切り口太いの根」「鯛の味
噌吸」「どらやき・さつま芋」「四方の赤」等々。
内容は、当時の庶民の流行り言葉が、化け物の姿で現れ、黄表紙の著者や製造
職人に悪さをするという異様な、天才しか思いつかない物がたりになる。
例えば『とんだ茶釜』とは、「息を呑んでしまうほどの美女をいい、笠守お仙
という実在した江戸随一の美女で、お茶屋にまつわる話」を黄表紙作家・恋川
春町『辞闘戦新根』に書いている。



血色の良くなる話聞いている  竹内ゆみこ






         お仙茶屋ーお仙目当に来てみたら  (鈴木晴信画)



『評判に吊られて茶店に行ってみたら、お仙は、確かにとんでもない美人だと 
 分かったものの、あからさまに褒めるのは、さすがにはばかられたので、
 つい目にした「茶釜をほめてしまった」、というお茶らけからはじまる』
 「 大木の… は太い根」という言葉を引き出すための言葉遊びで、随分と太い
  んだね、という意味」(こうした流行り言葉は、当時、「地口」と呼んだ)
さて、ドラマべらぼう19話では、鯛の味噌吸(たいのみそず)」「四方の赤
(よものあか)」という蔦屋重三郎(横浜流星)のセリフが出てきます。
目は皿に、耳はナマコにして、お見逃しなく。




妖怪になってしまった友がいる  西澤知子





           『千代田之大奥 歌合』   (画:楊洲周延)




蔦屋重三郎ー大奥・お知保の方




「家治側室・お知保の方」
徳川十代将軍・家治は、祖父の吉宗から将来を期待され、直々に帝王学や武術
を仕込まれた。書画も得意とし、家治の描いた絵も現代まで伝わっているほか、
趣味の将棋もかなりの腕前だったとされている。
一方で、政治にはあまり積極的に関わらず、父・家重の遺言通りに田沼意次
重用し、幕政は専ら家臣頼みだった。ある時、書道に卓越する家治の豪快な筆
づかいを見て、吉宗が洩らした言葉がある。
「天下をも志ろしめされむかたの 御挙動かくこそあらましけれ」
(天下を志す者は、こうでなければいけない)と褒めちぎった、という。





風騒ぐ幹のえくぼの何思う  通利一遍





         家 治 肖 像





宝暦4年(1754)にその家治は、正室に五十宮を迎え婚礼の式を挙げた。
お相手は、東山天皇の孫、直仁親王の娘の五十宮倫子(いそのみやともこ)で
ある。家治と五十宮は、仲睦まじい夫婦で、宝暦6年には長女・千代姫が誕生。
千代姫は、わずか2歳で夭折したが、宝暦11年(1761)には、次女の万寿姫
が誕生している。
だが2人の仲は良かったものの、世継ぎとなる男子に恵まれなかった。
家治自身は、側室をもつことに消極的だったものの、将軍にお世継ぎがいない
ままでは「後継者問題でまた争いが起きてしまう」と、近臣たちは、しきりに
「側室を迎えて、子をつくるように」と迫った。
結局、家治は、田沼意次をはじめとする近臣の強い勧めで、渋々側室を迎える。




止まり木に隣り合わせてからの縁  村田 博




その側室のうちの一人が、お知保の方である。
寛延2年 (1749) に徳川家重の御次(雑用係)として仕えていた「お蔦」(後の
お知保)は、寛永4年(1751)1月18日には、御中臈に昇格した。
田沼意次の引きもあってお蔦は、宝暦11年(1761)8月5日、江戸城本丸大
奥へ移り、家治付きの御中臈となる。
同12年(1762)10月25日に長男・家基(竹千代)を出産したが、11月に、
家治の御台所・五十宮倫子が、その養母となったため、家基は倫子のもとで育
てられることとなった。
同月15日、お知保の方は、長子出産の功労から「老女上座」の格式を賜わる。
竹千代誕生からわずか2ヶ月後、家治のもう1人の側室お品の方が、貞次郎
出産する。





浮雲にふと立ち止まるわが想い  靏田寿子











側室が、いずれも男子を出産したために、正室の五十宮の立場が悪くなったか、
といえば、そうではない。
家治は、五十宮を尊重し、変わらず妻として愛し続けたという。
その傍証に、家治は、竹千代貞次郎の両方を、五十宮を養母として養育する
よう命じた。そのうえ出産後は、お知保の方のもとにも、お品の方のもとにも
通わなくなったという。
あくまでお世継ぎをという、家臣の言葉に従ったまで、と言わんばかりである。
貞次郎は、生後3ヶ月で夭折した。
一方の竹千代は、五十宮の養子となり、文武に優れた聡明な次期将軍として成
長していった。




深からず浅からずよし人と人  西田喜代志




明和6年(1769)に家基が、将軍世子として西の丸御殿へ移ると、お知保の方
は、それに随従して西の丸大奥へ移り、同月4日には格式が「浜女中(浜御殿
にいた先代将軍側室)」同様となる。
この2年後の明和8年、家治が寵愛した五十宮が世を去る。34歳だった。
五十宮の死後、御三家のひとつ、尾張徳川家への輿入れが予定されていた万寿
もまた、13歳で逝去してしまう。
家治の哀しみは、筆舌に尽くし難いものがあったことだろう。
そんな家治の哀しみとは別に、大奥では五十宮がいなくなったことで、家基の
生母であるお知保の方の、権力と存在感が一気に増したのだった。




神様は下さるそして取り上げる  居谷真理子




五十宮が死去して以降は「御部屋様」と称され、世子生母の扱いを受けたが、
家基は、安永8年(1779)に、18歳の若さで急死という凶運に見舞われた。
天明6年(1786)家治が逝去すると、落飾して「蓮光院」と称し、同年11
月3日に、江戸城二の丸へと居を移した。
寛政3年(1791)3月8日、55歳で死去する。
(文政11年(1828)に従三位を追贈された。御台所および将軍生母以外の
大奥の女性が叙位された珍しい例である)




網棚にポンと骨壺置いたまま  荻野浩子





      老中・田沼意次




episode 「家治の養子選定を行った田沼意次」





子どもを悉く失った家治。このとき家治はまだ41歳。
十分に子どもができる年齢だったが、もはやその気力もなかったのだろう。
次期将軍候補として養子を迎えることを決意した。
家基の没後、次の世継を決める「御養君御用掛」に命じられたのが、若年寄の
酒井忠休、留守居の依田政次、そして、老中首座の田沼意次である。
自ずから老中の意次が中心となり、家治の養子の選定が行われることとなった。
実質的には、次の将軍を決めるという大役を担うことになった意次である。
天明元(1781)年4月15日に命じられて以来、意次は、江戸城から屋敷に帰
ると小座敷に籠もり、側近さえも遠ざけて、選定に頭を悩ませたいう。
そして、天明元年(1781)年閏5月27日、家治の養子については、御三卿の
一つである一橋家の徳川治済の子、豊千代に決まったと公表された。
この豊千代が、のちの十一代将軍・徳川家斉である。
跡継ぎ問題を解決させたことで、意次は、1万石の加増を受けて、4万7千石の
大名となっている。しかも次期将軍選びで主導権を握ったことで、その後の影響
力も確約されたようなもの。(この時は、まさか恩を売ったはずの家斉によって、
田沼派が一掃されるとは、夢にも思わなかったことだろう)





追いかけて追いかけて踏切の音  山口ろっぱ






        険しい表情のお知保の方




「べらぼう19話 あらすじちょいかみ)





江戸城ではかつて将軍後継者として「西の丸様」であった徳川家基(奥智哉)
生母・知保の方(高梨臨)が、毒をあおるという騒ぎが起こった。
しかし、その毒は、致死性の高いものではない。
知保の方は、毒を飲んでも死なないことを分かった上で「狂言」をしたのである。
老中・田沼意次(渡辺謙)が、将軍・家治(眞島秀和)のために差し出した、愛妾
鶴子のことを当てこすりたかったのだろう。
もし家治と鶴子の間に男子が出来れば、その男子が「西の丸様」となってしまう。
知保の方が毒をあおるという行為は、「将軍後継者の母」という地位を絶対に明け
渡したくないという意思表示でもあった。





翻訳は出来ないウボボイのこころ  合田留美子




家治は、知保の方が毒を飲む行為は、「狂言」であることがうすうす分かって
いた。しかし、自分の父親である九代将軍・家重は体が弱く、また自分の息子
たちも早逝しているため、鶴子との間に男子をもうけて、自分の血を継ぐ人間
に跡を継がせることにも消極的である。
家治から後継者問題を相談された老中・田沼意次は、最初は家治の考えに反対
するものの、家治の真意が徳川家内部の人間が、家基松平武元(石坂浩二)
のように殺害されないことであると知ると、家治の意向に従います。
そして家治の跡を継ぐ将軍後継者は、御三卿の一つで一橋家の一橋豊千代(のち
に十一代将軍・家斉)であるこという意見に大きく傾き始める。





カラスならカァで終りにする悩み  山下炊煙











「一方、町では」
黄表紙は、絵と文章を組み合わせた庶民向けの娯楽、洒落本は遊郭文化を題材
にした知識人向けの知的娯楽という違いがあります
江戸市中では、地本問屋たちが、日本橋にある鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)
店に集まって、板木を買い取っていく。
座頭金による貸金や偽板作りによる奉行所からの処分で、鱗形屋は問屋の体裁
で本屋の商いを続けていくことはできない状態になっていたからだ。
その地本問屋たちの中でも、鶴屋喜右衛門(風間俊介)は、鱗形屋と組んで青
本を出版していた戯作者・恋川春町(岡山天音)の担当をすることになる。
そこに蔦重(横浜流星)が現れて、春町に作品を書いてほしいと頼むものの、
剣もほろろに追い返されてしまう。




湿っぽくなってしまった裏表紙  高浜広川






       『辞闘戦新根』 (恋川春町作画)





恋川春町
は、鶴屋で青本を書くとは決めたものの、鱗形屋と違って鶴屋喜右衛門
とはどうも相性が良くない様子。元の担当であった鱗形屋も、実は鶴屋ではなく
蔦重に春町の本の板元となってほしいと内心を明かす。
そこで蔦重は、新しい作品を書けずに困っている春町のために、『辞闘戦新根』
(ことばたたかいあたらしいのね)」のような、奇想天外な作品が生まれるよう
「案思(あんじ)」を考え始めた。
そして蔦重が、春町に案思を授けられるよう、歌麿(染谷将太)北尾政演(古川
雄大)・志水燕十など、蔦重を慕う人たちが家田屋跡の「耕書堂」に集まってく
るのである。





ぼてぢゅうへ集う偏平足会議  井上一筒

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