川柳的逍遥 人の世の一家言
老人は二度目の竜宮城へ行く くんじろう
草 双 紙 (赤本・青本・黒本・黄表紙)
赤本はその表紙が丹色(にいろ)であるところからそう呼ばれ、『桃太郎』 『舌切雀』といった童話からとったものや御伽草子などの絵本化、あるいは
一般によく知られた浄瑠璃を素材にしたもので、前者では、『鉢かづき姫』
後者では『頼光山入』などといった豪傑ものが多かった。
頼光山入(酒呑童子) 鉢かづき姫
「往来物」 往来物は主として「手習い」にしようされる。いわば当時の教科書である。
幼童向けの実用書という割り付で、地本屋が扱う商品なのである。
蔦重は安永9年(1780)より往来物の出版を手掛け、寛政期前半まで、毎年の
ように新版を刊行し続ける。
往来物は相対的に価格が安く設定されているので、一冊当たりの利は薄いものの、
長く摺りを重ねられ、売れ行きの安定した商品である。 一見華々しい、浮世絵や草双紙といった地本屋の商売物は、あくまでも、消耗品的
使い捨てられる一過性のものであるが、これは長期に亙って経営の安定に寄与でき るものである。 蔦重は、一方でこのような、経営基盤の強化をはかりながら、極力リスクを負わな
い形の出版活動を地道に展開していく。 親から子から孫へと読む絵本 川畑まゆみ
蔦重の次の一手は赤本から
蔦屋重三郎ー地本問屋 「江戸名所図絵」 (都立中央図書館蔵)
鶴屋喜右衛門の店舗、贈答用の本を求める客達に混じり、左隅に地方発送の
本商いや貸本屋の姿が見える。
江戸の本屋商売といえば、「物の本」の刊行は、須原屋一統に独占的におさえ
られていた故に、多くは上方の書物問屋に隷属した形でなければ、商売は成り
難く上方からの「下り本」の売捌元となるのがせいぜいであった。
たとえば、浮世草子や八文字屋本といった、当時、かなり多数の読者を確保し
ていた売捌元の地位に甘んじていた。
新たに江戸根生い(出身)の資本家が、本屋仲間に参入して成功することは難
しかったのである。
背番号のような臍の緒のような 井上恵津子
赤 本 黄 表 紙 赤本は、表紙が赤いのでそのように呼ばれていた。 草双紙は、時代が下るにつれて、黒本・青本・黄表紙と呼び名が変わり、
江戸後期には、数冊を合本にした「合巻」として登場する。
やがてそうした環境から独立して、江戸の出版界をリードしていったのが、須
原屋と同じく万治年間 (1658-1661)に開業されたとされる鱗形屋で、仮名草子
や師宣の絵本類はもとより、浄瑠璃本なども手がけていた。
鱗形屋は八文字屋本の江戸売捌元となって家業はいよいよ盛んになり、何より
江戸独自の草双紙類、つまり赤本・黒本・青本からやがて黄表紙時代を告げる
恋川春町の『金々先生栄花夢』を出して江戸版元の主導権役割を果たした。
(しかし、番頭が今日でいう著作権問題を起こし、天明年間(1781-1789)に家運は
衰微、没落後は、その孫兵衛の次男が同じ江戸の地本問屋、西村与八の養子と なって、西村屋の隆盛を招くといった皮肉な巡り合わせとなった)
みんな夢でした黄昏観覧車 加納美津子
鶴屋喜右衛門(仙鶴堂)
喜右衛門は書物・地本・暦や往来物だけでなく草双紙や浮世絵を多く手がけ、
江戸出版界の中核を担った老舗の版元。
柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』で名が全国的に広まった。
その鱗形屋より版権を譲渡され、鱗形屋に取って代わるように出版界をリード
したのが蔦屋重三郎であった。
蔦屋はまた、山本九左衛門の最後の当主浮世絵師・富川吟雪より店をすっかり
譲り受け、鶴屋喜右衛門と並んで、江戸戯作の出版界におけるバックボーン的
役割を果たした。
一方、鶴屋喜右衛門は、はじめ京都鶴屋の江戸出店だったようだが、独立した
初代喜右衛門時代に逸早く草双紙出版に手を染めて成功し、書物問屋兼地本問
屋として中心的な活躍をする。
初代没後も二代目の才覚によって家運上昇は続き、老舗として蔦屋と並立する
版元として確たる地位を固め、五代目まで出版書肆としての活動は続いた。
グーだけを出し続けたら勝ちました 広瀬勝博
これら地本問屋に続く新興地本問屋は蔦屋と西村屋に代表されるが、その他に
浄瑠璃本の版元から草双紙まで広く手がけた西宮新六、寛政半ば頃に没落する
ものの草双紙界では、多色刷りの絵題箋を工夫するなど、独自な活動をした伊
勢屋治助、そしてこれも浄瑠璃本から草双紙まで幅広い刊行で幕末まで家業を
続けた伊勢屋勘右エ門等がいる。こうした新興地本問屋のほとんどは、「浮世
絵」の版行により財政的基盤を築いた。
人生は花遅咲きも早咲きも 津田照子
「 し た き れ 雀 」
宴がたけなわになると、いま江戸で大はやりの、正調「雀踊り」が披露された。
「♪ありゃサ、こりゃサ、わたしで、セ、よいよい!」「おいらで、セ、よい
よい! ありゃサ、よいよい!」と、なんとも賑やかなお座敷で、お爺さん親
子もすっかり満足の様子である。
地本問屋が最も積極的に版行したのが「草双紙」と呼ばれるジャンルであり、
また江戸の地で独自な成長を遂げたこの草双紙が広範な読者層を獲得したゆえ
に地本問屋も成長し得たのである。
草双紙の始まりである赤本時代は、寛文未年頃からで、中本という書型や五丁
を一巻一冊とする形式が定まったのは、享保のころとされる。
赤本は、その表紙が丹色であるところからそう呼ばれ、題材を『花咲じじい』
や『桃太郎』『舌切り雀』といった童話からとったものや、御伽草子などの絵
本化、あるいは、一般によく知られた浄瑠璃を素材にしたもので、前者では、
『鉢かづき姫』、後者では『頼光山入』などといった豪傑物が多かった。
こうした常識的な作柄で、素朴な絵と簡単な会話からなる赤本は作者に特別な
人材を求める必要もなく、近藤清春や西村重長、羽川珍重、そして鳥居清倍
(きよます)等の鳥居派の浮世絵師が作者も兼ねて描き、読者はほとんど幼童
に限られていた。
黄 表 紙
誘い合わせてちょいと吉原へ
赤本時代に続くのは黒本の時代とされ、黒本とは、表紙が黒色であることから
呼称されているが、歌舞伎などの絵尽くしに倣って黒色表紙にしたと考えられ
ている。その後に、萌黄色表紙の青本時代が到来、出版の流行は赤本→黒本→
青本と変遷した。
それと相まって内容も、絵組み、筋ともに演劇物や戦記・敵討物が主流の黒本
に対し、青本では、内容もやや成人向きで、当世の社会風俗などを取り込んだ
絵入りの読み物へと成長しているかにみえる。
しかし、そもそも草双紙は、新春正月向けの贈答用の子供向け読物であった。
しかし黒色表紙では、地味でその用向き不釣り合いであること、現在黒色表紙
で伝存される多くが後刷本(再販本)であることなどから、赤本を受けて出さ
れた草双紙の体裁は、黒本ではなく、萌黄色の青本であった。
青本の後を受けた黄表紙時代は、作者たちにも地殻変動があり、それをもって
今日の文学史では、黄表紙時代を特に区分している。
ただし、その本の体裁は旧態然としたもので、表紙は萌黄色、作者たちも暫く
は「青本」と呼んでいた。
鬼も福も皆んな一緒におでん鍋 石田すがこ
「べらぼう17話 ちょいかみ」
織田新之助 うつせみ 蔦重(横浜流星)は青本など10冊もの新作を一挙に刊行し、耕書堂は行列が
できるほどの大人気。これは戯作者・浄瑠璃作家でもある烏亭焉馬(柳亭左龍)
の『碁太平記白石噺』という芝居に、蔦重(横浜流星)をモデルとした「本重」 なる貸本屋「耕書堂」の名を出してもらった効果であった。
お陰で蔦重ブームが巻き起こり、蔦重目当ての吉原客も増えました。
耕書堂の人気が面白くない地本問屋たちは、彫師たちに「耕書堂と組んだら
注文しない」と圧をかけてきます。
それを聞いた蔦重が思案していると、声をかけてきた者がいます。
うつせみ(小野花梨)との足抜けに成功した小田新之助(井之脇 海)です。
三年ぶりの再会。聞けば源内(安田顕)のツテで百姓をしているという新之助
は、うつせみのことを「おふく」と呼んでいました。
本を買いに寄った新之助の荷物から「往来物」と呼ばれる子どもが読み書きを
覚えるための手習い本が出てきます。
往来物は、一度板を作ればずっと使え、長期にわたって安定した利益が見込め
るというメリットがあります。
蔦重は、「学がないと商人や役人に騙される」と話す新之助の言葉に、
「書を以て世を耕すんだ」と言った源内の言葉が脳裡をかすめます。
結論は早く蔦重は、駿河屋の2階の座敷で、吉原の主人たちに「往来物を作り
たい」と申し出ます。そこで町役となったりつ(安達祐実)の賛同を得て、
主人たちは次々に豪農や豪商、手習いの師匠たちを紹介してくれました。
良いことがありそう桔梗ひらく音 宮原せつ
腕は確かだがお調子者でべらぼうな彫師・四五六
地本問屋は、腕利きの彫師・四五六に注文を断られています。
四五六は、耕書堂と毎年20両のサブスク契約(定期購読)を結んだと言うの
です。
百種類以上の往来物が、年20両払っても損はしない商売だと知った地本問屋
たちは、江戸の市中に出回らせないよう邪魔すればいいと企てます。
ついに往来物『新撰耕作往来千秋楽』『大栄商売往来』などが完成。
蔦重は取材した豪農や豪商たちに見てもらった。
感激する面々は、みなまとめ買いをしてくれました。
蔦重が豪農や豪商、手習いの師匠たちに取材したのは、「商品に関わらせる」
のが目的でした。
関わった本というのは、自慢したいし、勧めたくなるもの。
人を巻き込み道を切り拓いていく蔦重は、こうして江戸市中の本屋に縛られな
い販路を開拓していきます。
無意識に行く喝采のあるところ 柴田比呂志
唐 丸 蔦重が、新たな販路について考えを巡らせるなか、地本問屋たちは、耕書堂の
往来物が田舎には売れているが、市中にはさほど広がっていないと噂していま
した。
そこへ日本橋通油町の丸屋小兵衛が汗だくで飛んでくる。
「もってかれました!…うちの上得意だった手習いの師匠たちをごっそり、
なんでもこれからは、師匠仲間の作ったもんを使いたいって話で…」
鶴屋(風間俊介)は、耕書堂に作家や絵師が流れないよう指示をしました。
蔦重が青本を読み、一緒に仕事をする人を探していると、ふと「北川豊章」の
名が目に留まります。
その画風の変化は、まさか…。ある思いが沸きあがります。
かつて礒田湖龍斎(鉄拳)の模写を手掛けた唐丸ではないのか…!
再生のサインかさぶたそっと剥ぐ 上坊幹子 PR |
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