川柳的逍遥 人の世の一家言
神様の声をトサカで聴いている 井上恵津子
「歌麿にこれを描かせれば伸びるはず」
蔦重版の狂歌絵本は、歌麿の画技を得て、派手やかに開花する。
その華麗な筆致を十分に生かした印刷の技術と造本の贅沢さは、これら絵本の
名を出版史にとどめるに足るものにしている。
天明元年(1781)歌麿名で蔦重と初めて組んだのが「身貌大通神略縁起」。
歌麿が、それまでの「豊章」をやめ、はじめて「うた麿」を名のった黄表
紙である。そこに蔦重は、歌麿の才能を感じ取り、2人の深く長い関係が
生れた。「絵草子問屋蔦屋重三郎方に寓居す」(天明3年頃)とある。
その年の9月に蔦重は、吉原大門外五十間道から、江戸地本問屋の集中する
日本橋油町に進出した。移転以前か以後かは分らぬが、もはや青年とはいえ
ない歌麿を食客として遇したからには、並々ならぬ期待をそこに込めていた
ものであろう。
こっそりが長い長~い影になる 津田照子
蔦屋重三郎ー喜多川歌麿
身貌大通神略縁起 (みなりだいつうじんりゃくえんぎ)
刊記に「板元 蔦屋重三郎」、「画工 忍岡哥麿」とある。
作者の清水栄十は、歌麿の師・鳥山石燕と俳諧でつながり、これ以後、
哥麿と版元の蔦屋重三郎の関係がつづく。
喜 多 川 歌 麿 (細田榮之筆)
「歌麿が蔦重の宅に身を寄せて、下積み生活を送っていた頃」 早くから名声を博していた朋誠堂喜三二や太田南畝らと異なり、蔦重が自ら
発掘し、人気絵師として大成させたのが喜多川歌麿である。
本姓は北川、名を勇助といった。出生地(江戸・川崎・近江など諸説あり)や
出生日(生年は過去帳から逆算して宝暦3年か) については不詳である。
画技を鳥山石燕に学び、23歳の安永4年(1775)浄瑠璃本『四十八手恋諸訳』
(しじゅうはってこいのしょわけ)の挿絵で、デビューしたとされる。
今までのところ、これより遡る作品は発見されていない。
この時の画名は、豊章で異説もあるが素直に考えて、石燕の名の「豊房」から
豊の字を貰ったものだろう。以後、黄表紙や絵本番付、錦絵にも筆を執ってい
るが、画名は「北川豊章」もしくは「豊章」で一致している。
生きているただそれだけで満点だ 林 國夫
さて、巻頭にも述べたが、天明元年(1781)春に刊行された黄表紙『身貌大通神
略縁起』の挿絵を担当する。文章を書いたのは、御家人の鈴木庄之助、筆名を
志水燕十という侍で、その筆名からもわかるように鳥山石燕であった。
つまり、歌麿と燕十は兄弟弟子、同窓のよしみだったのである。巻頭に歌麿に
よる文章が載っていて、そこに「忍岡数町遊人うた麿」と録していることで、
これがすなわち画名・歌麿の初出ということになる。 この時、歌麿29歳。歌麿と燕十は、その後も、洒落本『山下珍作』『契情知
恵鑑』などで組んだほか、天明3年には、黄表紙『啌多雁取帳』(うそしっ
かりがんとりちょう)を刊行した。
作者の奈蒔野馬乎人(うそのばかひと)は、燕十の別号である。
腹の中見せぬが裸見せる仲 浦上恵子
「三保の松原道中」 (喜多川歌麿画)
駿河在住の酒楽斎滝(しゅらくさいたき)が狂歌師・四方赤良
(大田南畝)に入門したときの記念に刊行する。
「歌麿と狂歌」
鳥山石燕は、絵師であると同時に俳諧師でもあった。
歌麿も「石要」と名乗って俳諧の世界にも顔を出していたようだが、狂歌にも
強い関心をみせた。というより、安永から天明という時代は、狂歌文化が江戸
を覆った時代であり、江戸文化人の端くれとしても、参加せずにいられなかっ
たのだろう。
歌麿が一時「忍岡歌麿」と名乗っていたのも狂名であったのかもしれない。
そして、浮世絵師として、生きてゆく自信がついたものか「筆の綾丸」を使う
ようになり、吉原大文字屋の主人・村田屋市兵衛(狂名・加保茶元成〔かぼち
ゃもとなり〕)を中心とする吉原連に属して、『狂歌知足振』などにその狂歌
がとられたりもする。歌麿がこののち狂歌絵本に縦横の才を揮うための基礎が、
かくて造られたのであった。
どこまでも師匠は師匠なんですよ 中村幸彦
(1) 「画本虫撰」 (2) 「画本虫撰」 (日本浮世絵博物館蔵本) 天明8年(1788)正月刊。歌麿の写生の技量、彫板や摺刷の技術、造本の確かさ 豪華さ、とにより高い芸術性保持している。左の文は、蔦重が直接読者に題の
狂歌を募っているのである。
歌麿の描く虫の絵と、狂歌師による狂歌が組み合わさっています.。
歌麿の狂歌作品は、主に、絵本形式の「狂歌絵本」として知られる。
特に「画本虫撰」「百千鳥狂歌合」「潮干のつと」の三部作が有名。
「 潮 干 の つ と 」
貝をテーマにした狂歌絵本で、天明8年(1788)刊。朱楽菅江率いる八重垣連の
狂歌集。36種類の貝に、36人の狂歌師が狂歌を添えており、歌麿の繊細な
絵と、狂歌の組み合わせが魅力になっている.
「百 千 鳥」
寛政3年(1791)頃刊。鳥をテーマにした狂歌絵本。
30種類の鳥に、30人の狂歌師が狂歌を添えており、歌麿の色彩豊かな絵と、
狂歌の組み合わせが見た目にも楽しい。狂歌は奇々羅金鶏の撰であるが、この ぽっと出て派手に振舞う狂歌師の入銀は相当なものであった。
狂歌と錦絵
鳥とともに泣きつ笑ひつ口説く身を それぞと聞かぬ君がみみづく 市仲住(いちのなかずみ)
うそと呼ぶ鳥さへ夜は寝ぬるものを 止まり木のなき君のそらごと
笹葉鈴成(ささばのすずなり)
再生のサインかさぶたそっと剥ぐ 上坊幹子
歌麿の名を高めた狂歌本と絵本を融合した「狂歌絵本」の挿絵
天明6年(1786)正月刊。江戸名所を歌丸が描き、それに合わせた狂歌を廃した 「狂歌絵本」である。菅江によると序に「ここに津多唐丸江戸の名勝を図せし めて、これに好士の狂詠を乞う」と見え、蔦重主導の政策であることが分る。 江戸の名所や潮干狩りの貝殻、草花や虫など、狂歌のテーマに合わせて巧みに 挿絵を描き、卓越した画才を世に示した。
やがて、鳥居清長の美人画がブームになると、蔦重は歌麿とともに浮世絵市場
に参入する。
「豊章から歌麿へ」と改名した彼は、錦絵の方面では、どのような実績をあげ
たのだろうか。「忍岡花有所」「通世山下綿一」(かよわんせやましたのわた
のいち)などの一枚絵は、ちょうど改名直後の、天明2年ごろの作とみられる
が、その画風は、北尾重政風を出るものではない。
この二作、いずれも上野山下の「けころ」と呼ばれる安直な娼婦を描いたもの
で、のちの歌麿美人画の特質というものは現れていない。
そしてあくる天明3年は、鳥居清長が全盛期を迎えた年である。 プレッシャー鈍感力でやり過ごす 上坊幹子
「当世踊子揃 吉原雀」
「婦人相学十躰」に先行する歌麿の大首絵。
清長風風を脱し、歌麿風の女絵がようやく成立しつつある。
そこで清長が江戸名所をバックに八頭身美人を描いたのに対し、歌麿は女性の
上半身をクローズアップした「美人大首絵」で勝負に出た。
大首絵は全身像と異なり、背景はほとんど描けない。そうした制約の中、歌麿
は、表情の微妙な違いや手首の仕草、上半身の動きなどにより、女性の性格や
境遇まで描き出した。
「寛政三美人」
中央に芸者富本豊雛。左右にそれぞれ、両国の煎餅屋の娘高島おひさ、浅草の
水茶屋の難波屋おきた、歌麿の自信がかいまみえる作品。
人気の町娘を描いた「当時三美人」、吉原の名妓たちを活写した「当時全盛似
顔揃」「北国五色墨」などのヒット作を連発し、歌麿は、美人画の第一人者の
地位を確立する。しかし、40軒以上の版元からの注文を受けてこなすほど多 作(版画だけで2千6百以上)だったため、おのずと作品は様式化されてゆく。
偏屈なキウイのような褒め言葉 新家完司
「太閤五妻洛東遊観之図」
歌麿は、文化元年(1805) 5月、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした 寛政の改革が始まると、美人画も風紀を乱すものとして、たびたび、取締りの
対象となる。これが歌麿の運命を狂わせた。
寛政9年 (1796) 、最大の支援者であった版元の蔦屋重三郎が歿した後、その
画品はいちじるしく落ちてしまったという。 文化元年(1804)、豊臣秀吉が、美女たちに囲まれて花見に興じる「太閤五妻洛
東遊観之図」が幕府の禁令に触れ、歌麿は入牢三日、手鎖五十日の刑を受ける
のである。以後、歌麿の筆は衰え、2年後に世を去った。
憂うつな話に海苔が湿けている 銭谷まさひろ
『画図百鬼夜行』より河童(川太郎) 鳥山石燕、蓮池の茂みから現れ出でた河童を描く。
鳥山石燕(とりやませきえん)
「妖怪絵」などを得意としていた狩野派の町絵師
多くの弟子を育てたことでも有名で、蔦重と関係の深い恋川春町、喜多川歌麿、
志水燕十、栄松斎長喜などのほか、歌川派の祖・歌川豊春なども門人である。
志水燕十の『通俗画勢勇談』で絵を書いたり、喜多川歌麿の代表作・『画本虫
ゑらみ』に序文を寄せている。 年取れど躍動感は持ち続け 肥田正法
「一騎夜行」
唯一、妖怪を描いている絵には特に署名がない。
ため、その稚拙さから志水燕十が描いたものと推測されている。 志水燕十(しみずえんじゅう)
燕十は、蔦屋からいくつかの黄表紙を刊行した戯作者。
鳥山石燕に師事して絵も学んだ。
蔦屋でのデビュー 作は、56歳で書いた『身なり大通神略縁記』と考えられ
ていて、この挿絵を喜多川歌麿が担当した。
武士の出身で、幕府御家人の大田南畝と交流を持ち戯作者となったという。
ペンネームの由来は、家が清水町だったこと、石燕から一字もらった、入門し
たのが10歳だったこと。 柳亭馬琴の記録では、「他のことによりて罪を被りて終わるところ知らず」
とあることから、晩年に何らかの罪を犯して戯作から足を洗ったものと思わ
れる。
悪友はアンドロメダになりました 合田瑠美子
捨 吉(染谷将太) 「18話あらすじ ちょいかみ」 「青本」の作者を探していた蔦重(横浜流星)は、北川豊章(加藤虎ノ介)と
いう絵師が描いた数枚の絵を見比べるうちに、ある考えが浮かぶ。
早速、豊章を訪ねるが、長屋で出会ったのは、捨吉(染谷将太)と名乗る男だ
った。そんな中、蔦重は朋誠堂喜三二(尾美としのり)に、新作青本の執筆を
依頼する。女郎屋に連泊できる〔居続け〕という特別待遇を受けて、書き始め
た喜三二だったが、しばらくして、喜三二の筆が止まってしまう。
花巡り孤独の深さ分かち合う 靏田寿子
蔦重の妻 (橋本愛) 重三郎はようやく唐丸を見つけ出します。
今では捨吉と名乗り、吉原の裏で体を売る生活をしていました。
「この生活が気に入っている」と口では言う捨吉ですが、本当は生きる意味を
見失っていました。
捨吉は、夜鷹の母親に虐待されながら育ち、幼い頃から売られる生活を送って
いました。そんな彼に光をくれたのが妖怪絵師・鳥山石燕。
絵を描く喜びを知り、逃げ出そうとしますが、「お前は鬼の子だ」と罵られ、 ついにその手をふりほどいて逃げてしまいます。 この罪の意識がずっと唐丸を苦しめてきたのです。 「死にたかった」と語る捨吉に、重三郎は「生きろ。俺のために」と語りかけ
ます。駿河屋の協力を得て、捨吉に「勇助」という人別〈戸籍)を与え、過去
とは決別させます。 その上で、画号として「歌麿」を授けました。
「お前を一人前の絵師にしてやる」という重三郎のまっすぐな言葉に、捨吉は、
はじめて「生きたい」と思ったのです。
くるぶしのあたりに灯す常夜灯 笠嶋恵美子 PR |
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