忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[828] [827] [806] [826] [824] [823] [822] [821] [820] [818] [817]

擂鉢の底で粘っている思案  荻野浩子

「蛤御門の変(蛤御門の変)」の画像検索結果

    蛤御門合戦図 六尺六曲一隻屏風 (会津若松市所蔵)

禁門の変では薩摩藩兵を指揮した西郷。的確な指揮により長州藩を
撃退するとともに、御所に発砲した罪により、長州藩を朝敵として
征伐する大義名分を獲得した。

「西郷どん」  禁門の変

歴史を少し遡れば、そこにから徳川幕府と長州藩の確執が見えてくる。

激動の幕末に多くの志士を輩出し、威信の原動力の中核を成していた長州藩。

治めていたのは外様大名・毛利家で藩祖の毛利輝元は、一代で中国地方の

大半を勢力下に治めた「三本の矢」でも有名な毛利元就の孫である。

慶長5年(1600)の関が原の戦いで、輝元は西軍の総大将に担ぎ上げられる。

西軍が大敗したため、毛利家は危うく改易されるところであったが、

一族の吉川広家の働きにより大幅な減封を受け入れ、何とか家名は存続した。

以来、徳川幕府に対しては、恨みを抱き続けてきたのである。

透明になるまで自転しています  合田瑠美子

 関が原の戦いから253年、幕府の屋台骨を揺るがす大事件が起こった。

黒船の来航である。

見たこともない巨船と強力な武装の前になす術もない幕府は、

朝廷の許しも得ずに日米和親条約を締結する。

朝廷を蔑ろにした行為と、外国の砲艦外交に不甲斐ない姿を晒した幕府

に対して多くの志士たちが憤慨した。

徳川に対する憎しみの気持ちを持ち続けてきた長州藩の中でも、

尊王の志が強かった若い連中は、当然のように幕府に対する風当たりを

強くする。その中心的な存在だったのが、

吉田松陰が開校した松下村塾の塾生たちであった。

そこでは彼らは、日本全体を大きく改革する必要性を学んできた。

緞帳が降りる迄夢追い続け  石田ひろ子

だが、井伊直弼が断行した安政の大獄で松陰は処刑される。

このとき藩の直目付である長井雅楽は、幕府に対して長いものに巻かれ

るごとく開国と公武合体を推進する「航海遠略策」を藩主に建白した。

これが長州藩の方針とされる。

こうした一連の動きが、藩内の尊皇攘夷派の怒りを買うことになった。

幕府内で公武合体を進めていた老中の安藤信正が、江戸城坂下門外で

水戸浪士に襲われた事件をきっかけに失脚すると、長州藩の議論も

一気に「尊王攘夷」へと転換する。

地下茎を太らせながら風を待つ 前岡由美子

文久3年(1863)3月、14代将軍・家茂とその後見役の一橋慶喜は、

朝廷や長州藩などの執拗な要求に押され、5月10日をもって攘夷を

決行することを約束する。

しかし,攘夷を実際に行動で示したのは、バカ正直に幕府を信じた長州

ただ一藩だけであった。

この日、馬関(下関)海峡を通過しようとしていたアメリカ船に向かい、

長州砲台が火を噴いた。

さらに続いてフランス、オランダの船にも砲撃を加えたのだ。

しかしアメリカ・フランスから報復攻撃を受け、長州は軍艦や砲台を破壊

され、外国の圧倒的な軍事力を身をもって知らされることになった。

一発で天狗の鼻を叩き折る  池部龍一

徳川に再び苦渋を飲まされた、その後の長州藩は、苦難続きであった。

文久3年8月18日の京都における公武合体派によるクーデター。

そこで長州藩は御所の警備の任を解かれてしまう。

しかも三条実美ら7人の攘夷公卿とともに、京都を追われてしまう。

しかし長州藩の攘夷派や三条実美らは、そうした逆境にも屈せず、

再び、京へ復帰することを画策していた。

この糸先に新撰組急襲による「池田屋事件」が起こり「禁門の変」となる。

手を打つと怪しい雲がやってくる  森 茂俊

「蛤御門の変(蛤御門の変)」の画像検索結果

 蛤御門の激戦の様子を描いたかわら版

6月下旬、長州藩は京都南郊に軍勢を集結させ、洛中への進撃の態勢を

示した。対する慶喜は、長州藩を平和りに撤退させようとしたものの、

交渉は不調に終る。

そして7月19日未明、長州藩兵は、御所に対して攻撃を開始し、

薩摩藩兵と会藩兵を主力とする御所守備部隊と激戦を繰り広げた。

特に、御所の西側中央に位置する蛤御門周辺で激しい攻防戦が繰り広げられた。

いわゆる、ポピュラーに言われるところの、「蛤御門の変」である。

また蛤御門など九つの門は、禁門と言われることから、

禁門の変」とも称される。

頑な私にまぶす塩麹  松本柾子

禁門の変において、薩摩藩は直接の当事者ではなかったが、

ともあれ軍の責任者として西郷は、最前線で指揮をとり、敵弾をうけて

軽傷を負いながらも、長州藩兵を敗走へと導いた。

この激戦を制したことにより、その名を天下に高めることになったが

西郷は、次のように語ったという。

「2度とこのような経験はしたくない。戦いとは本当に骨が折れることだ」

結局、御所を舞台にした禁門の変に敗れた長州藩は朝敵の汚名を着せられ、

さらに幕府軍による征討軍の的にならなければならなくなった。

もしも幕府の力が磐石であったら、長州藩はこの前後で消えていただろう。

しかし禁門の変を主導した三人の家老を切腹させたことで、

ひとまず征討軍は矛を収めた。

崖上の水仙 崖の下のぼく  井上一筒

【付録】 戦後処理

禁門の変の戦後処理に関し西郷は、長州を徹底的に叩くのはよくないと
考えていた。大久保への手紙でも「長人(長州人)を以って長人を処置
させる」
という方策を通し、幕府と長州を何度も行き来し
「降伏の条件」を次のようにまとめた。

①禁門の変を指揮した3人の家老と4人の参謀の切腹。

②藩主父子の蟄居謹慎と謝罪文の提出。

③都落ちした7人の公卿のうち長州に残る5人の公卿の大宰府移転。

④山口の城の破却。

処罰は他に「転封」などの意見も出たが西郷の反対で立ち消えとなった。
第一次長州征伐はこのような形で終わったが、この時の西郷の奔走は、
長州に「西郷は信頼に足りる人物かも知れない」という印象を与えた。

体重計で人の器は計れまい  笹倉良一

拍手[3回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開