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川柳的逍遥 人の世の一家言
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騒乱に泳ぐワラにすがりながら  山口ろっぱ
「薩州屋敷焼撃之図」の画像検索結果

                                                  薩 州 屋 敷 焼 撃 の 図

西郷は旧幕府を挑発するため、江戸市内を攪乱させるテロを考案。
その密命を受けた薩摩藩士・益満(ますみつ)休之助は、討幕、
尊王攘夷派の浪士を集め江戸市中で放火、強盗、辻斬りなどの
作戦を実行。さらに江戸市中の警護にあたっていた庄内藩邸へ
発砲して挑発。旧幕府サイドは薩摩藩邸に攻撃を加えて制圧した。
が、西郷は鳥羽・伏見の戦い開戦の口実とした。

「西郷どん」 倒幕への動き
慶応3年(1867)5月、西郷と大久保は協力して諸侯合議によって
「長州の名誉回復」と「兵庫開港」という懸案の解決を幕府に迫ること
を藩父・島津久光に説いた。
久光もそれに同意して、京都で久光のほか、松平春嶽、山内容堂、伊達
宗城の4人で協議した。これを四侯会議という。
そして、この二大懸案を将軍慶喜に提案した。
しかし、慶喜は巧妙で提案を受け入れる素振りをみせながら、
自身の外交権に関わる兵庫開港を優先して勅許を得た。
長州の名誉回復は後回しにされた。
久光は怒って、京都に潜伏している長州藩の山県狂介(後の有朋)と
品川弥二郎を呼んで、「慶喜の反省がみられず、もはや尋常の手段では
とても大勢挽回できない。薩長連合して大義を天下に示したい」
と伝えた。これを機に薩摩藩は武力行使方針を決定するのである。
(兵庫開港とは、外国嫌いで兵庫港が京都にも近いことから、
孝明天皇が開港を断固反対していた案件である)
聞こえないふりにはもってこいの雨  山田ゆみ葉
6月には、薩摩藩は土佐藩と「薩土盟約」を結ぶ。
これに小松帯刀と西郷、大久保が同席した。
慶喜に「政権返上や将軍辞職」を求め、加えて倒幕が主な内容だった。
もっとも土佐藩は、大半は倒幕へと意思統一されつつある薩摩と異なり、
藩上層は倒幕に反対的な立場を取っていた。
藩祖・山内一豊は徳川家によって土佐を与えられた恩顧大名であり、
公武合体の立場をとっていたからである。
藩の中間的立場の後藤象二郎もこの頃には、龍馬から船中八策を授けら
れており、幕府に大政を奉還させることで徳川家を存続させるという
方針をとる意向でいた。
従って、この会談では土佐側は倒幕を原則回避するという方向性を示し、
薩摩側もそれを容れるしかなかった。
明日なら飛べると思う水たまり  瀬戸れい子
そして、このことを長州藩にも伝える。
京都に同藩使者を迎えた西郷は有名な「三都同時挙兵計画」を長州側に
披露する。三都とは京都・大坂・江戸のことである。
京都では、兵1000人で禁裏御所の警固、会津邸や幕府屯所の襲撃、
大坂では、兵3000人で大坂城襲撃と軍艦の乗っ取りという内容だ。
壮大な計画で、西郷はこれを薩摩藩だけで断行するつもりでいたが、、
さすがにリスクが大きく、9月、大久保が長州に赴いて「薩長芸三藩
挙兵計画」を提案した。
薩摩・長州・芸州の三藩が海路、大坂に集結し、薩摩藩の京都制圧を
残り2藩が助けるというものだった。しかしこれは失敗に終わった。
歯車の一つがダダをこねている  嶋澤喜八郎
これら表向きのものとは別に、西郷は武力討幕を開始する導火線として、
慶応3年10月頃から「秘策」の準備を進めていた。
薩摩藩士・益満休之助に対し、
「江戸周辺で浪人を集め、江戸市中や関東を騒乱に陥れるようにせよ。
徳川家が討伐の兵を派遣したなら、可能な限り抵抗せよ」
という密命を下した。
益満は、約500名の浪人を集め、12月上旬から江戸周辺の治安悪化
工作を開始した。浪人たちは商家に押し入って金品を強奪すると、
三田の薩摩藩邸へと引き揚げた。
西郷は江戸を錯乱状態に陥らせ、幕府の方から薩摩藩に武力行使をする
ように仕向けたのである。
足し算の途中で夕陽が沈んだ  森田律子
西郷の思惑通り、江戸市中は三田の薩摩藩邸を根城とする浪人集団に
よって錯乱状態に陥った。
対する幕府内部では、「まずは上洛中の慶喜公の指示を仰ぐべき」
という慎重論を唱えるものもいた。
だが「即刻、薩摩藩邸を焼き討ちにすべきだ」との意見が大勢を占めた。
旧幕臣たちにとって、薩長両藩は徳川将軍に歯向かう敵には違いない
ものの薩摩藩は八・一八政変では蹴落とした長州藩と、いつの間にか
手を結び、幕府に背いたため、長州藩よりも薩摩藩を敵視した。
薩摩藩の首脳部では、裏工作の推進役である大久保よりも、政界の表
舞台で活動する西郷の知名度が高く、憎悪や反感の対象となった。
白黒をはっきりさせたがる右手  清水すみれ 
一方の慶喜は、武力衝突を避けて、まだ基盤が確立されていない新政府
を有名無実化することを策していた。
旧幕臣の大多数は、慶喜が大政奉還を実行したことに不信感を抱き、
そのような高等戦術を理解しようともしなかったのである。
12月23日、薩摩藩の息がかかった浪人部隊は、庄内藩邸へ発砲した。
このころ庄内藩は江戸警備を下命されていたことから、
庄内藩邸への発砲は最上級の挑発行為だった。
江戸の旧幕府首脳部は、強硬論を抑制するのは無理と判断し、
慶喜の指示を仰がないまま、25日未明、薩摩藩邸への攻撃を開始した。
錆だけが渡り切ってる歩道橋  新海信二
戦闘は翌日の午前中には決着がつき、薩摩藩士の大多数は品川沖に停泊
していた軍艦に乗って退却した。
なお益満は逃げ遅れて捕縛され、のちに江戸無血開城交渉の使者として、
重大な役割を演じた。
「薩摩藩邸焼き討ち」の報せは、3日後の28日大坂城にもたらされた。
9日の王政復古の政変以来、会津藩を中心とする強行派は慶喜に対して
武力による新政府の打倒を訴えた。
慶喜はそのような動きを封じていたものの、事件の一報がもたらされると
強行派を抑止することは無理と判断し、不本意ながらも、
薩摩藩討伐のため京都に向けて進軍する命令を下した。
慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いの開戦である。
人間のエゴでブルーの薔薇が咲く  清水久美子 
【付録】 龍馬暗殺の謎
鳥羽伏見開戦の2ヶ月前の11月、龍馬は暗殺された。
西郷が暗殺事件の黒幕だったとされる説も提起される。
西郷にとって多くの秘密を知った龍馬は、もはや危険で
無用な存在となりつつあった。口封じだったのか。
龍馬暗殺の実行犯は、幕府見廻組である確率が高い。
だが、龍馬の動きを密告し、教唆した黒幕として西郷が関与した
可能性は残される。

レッテルを剥がせば違う別の顔  与三野保  

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落款を押すとまばたきする椿  合田瑠美子

 ã€Œãƒ•ãƒ©ãƒ³ã‚¹äººç”»å®¶ãŒæã„たイラスト慶応2年の正月、祝賀のために登城した家臣たちとの謁見の様子。」の画像検索結果フランス人画家が描いたイラスト
慶応2年の正月、祝賀のために登城した家臣たちとの謁見の様子

「西郷どん」 将軍慶喜

幕府による長州征伐の試みは、停戦という名の敗北に終わる。
これによって幕府は、広く世間に弱体化を示すことになってしまった。
こうした状況を見極めた薩摩藩は、日本の政治をこれ以上幕府中心で
動かすことの無意味さを痛感。そしていよいよ朝廷を動かして、
武力による政権交代を正当化する為の倒幕の密勅の獲得を画策し始めた。
こうした薩長の動きに遅れをとったのが土佐藩だ。土佐藩の尊攘派中心
人物であった武市半平太は、慶応元年(1865)5月、前土佐藩主の
山内容堂により切腹させられていた。
だが予想以上に幕府が弱体化しているのを見せ付けられたため、
後藤象二郎を登用して議論を再び尊王方向に転換したのである。

潮騒にしばらく心ゆだねよう  柴田園江

慶応2年8月20日、大阪城内で没した徳川家茂に代わり、慶喜が徳川
宗家を相続。しかしながら将軍職は固辞し続けた。そして15代将軍に
就任したのは12月5日になってからのこと。これは周囲に恩を売るこ
とで政治活動が有利になる、という考えがあってのことと言われている。
 この年の12月25日、攘夷勢力の拠り所とも言える孝明天皇が崩御。
外国嫌いの天皇が逝き、慶喜ははっきりと開国を指向するようになる。
将軍職を引き受けることで、以降は開国政策が本格化していく。
なかでも幕府が肩入れしているフランスから240万ドルもの巨額援助を
受け、横須賀製鉄所や造船所などを設立。軍事顧問団も招聘し、幕府軍の
大幅な軍制改革も行った。言い換えれば、フランスに取り込まれる不安を
作ったのである。

緞帳が降りる迄夢追い続け  石田ひろ子

そんな中、西郷は徳川慶喜に対して複雑な思いを抱いていた。
西郷にとって、神のように慕い、絶対的な存在であった島津斉彬は慶喜が
14代将軍に就任することを熱望し、一橋派の最先鋒として行動した。
西郷もまた、救世主として期待した時期もあった。
だが、複雑に進行する幕末政局のなかで、慶喜が目指した政治目標は幕府
の再生だった。そのため、西郷が新しい政治体制を築くためには、
「慶喜は排除すべき危険な存在」として認識せざるを得なかった。
めまぐるしく動く政局のなかで、西郷は、慶喜を政権の中枢から追い落と
すだけでなく、その生命を奪い取る気概を抱きつつ、新国家建設のための
策謀を練った。

雷鳴へ少うし野生をとりもどす  笠嶋恵美子  

慶応3年10月13日、慶喜は在京中の幕臣を二条城内に集め「大政奉還」
を決意したことを表明した。もともと大政奉還は、倒幕を目論む西郷らが
提出する予定のものであった。ところが後藤象二郎を通じ山内容堂からの
進言により、西郷の考えに気付いた聡明な慶喜は、先手を打ったのである。
大政奉還により政権は朝廷に返還されても、それは名目に過ぎず徳川家が
外交事務を行うなどは継続され、実質的な変革へのガイドラインは示され
なかった。また御所の警備は、京都守護職の会津藩が統括しており、天皇
の身柄は旧幕府の監視下に置かれていた。
そのため慶喜は自身に叛く勢力に対し天皇への反抗者、つまり朝敵として
討伐できる大義名分を確保していたのである。
慶喜が打った起死回生の大博打は、この時点では功を奏したように見えた。

いい線行ってるなどと他人のいいかげん 青砥たかこ

慶喜にしてやられた西郷は、大久保一蔵や岩倉具視らとともに、天皇の
身柄を奪取するためのクーデターを計画する。
そしてそれは12月9日、実行された。
薩摩藩兵を主力とするクーデター部隊が御所に迫ると、不意を突かれた
会津藩兵は、追い払われた。
西郷と大久保と密議を重ね、クーデターを演出した岩倉は、薩摩藩兵が
御所を制圧したことを確認すると、天皇の名のもと「王政復古の大号令」
を発令し天皇親政の原則が宣言された。
そして同日夕刻、新政権の基本方針を決定する小御所会議が開会される。
この小御所会議には、明治天皇も列席した。

三角定規のするどいほうで掻く頭  萩原五月 

この会議で土佐の山内容堂は、クーデターを主導した岩倉に論戦を挑んだ。
「本日の政変は、やり方が陰険である。慶喜公が大政奉還を断行したのは
忠誠心の現われであり、排除すべきではない」
小御所会議は、前将軍の慶喜を新政府に参画させようとする容堂と排除し
ようとする岩倉が対立して紛糾した。議論が堂々巡りとなり、空転すると
休憩がとられた。
 この間に御所の警護を担当していた西郷は、次のような言葉を伝言する
ように依頼した。
「短刀一本で立派に片がつくではごわせんか。岩倉さんへも一蔵どんへも、
西郷がおはんの短刀は切れ申すかと訊ねたと、よろしゅう言うて下され」
西郷は「容堂が異論を唱え続けるなら、刺し殺せばすむ」と混迷する会議
の流れを単純に片付けようとした。

分が悪くなると化石になっている  小谷小雪

岩倉は西郷の一言で覚悟を決め、土佐藩士の後藤象二郎らに対して容堂が
抗論しないように説得したことから、会議が再開されると、岩倉の思うよ
うに議事は進行した。慶喜は王政復古のクーデターにより、新政権から排
除されたものの、容堂や越前の松平春嶽が慶喜復権のために尽力を続けた。
そのため、12月中旬の段階では、王政復古の大号令によって成立した新
政権が有名無実化されかねない状況に陥りつつあった。

崖上の水仙崖の下のぼく  井上一筒

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襖前右・岩倉具視 向い羽織袴・山内容堂 手前背中・大久保利通

【付録】  徳川慶喜

慶喜は幼い頃から聡明さは知られていたが、要職について以降は立場が
ころころ変わることでも知られるようになり、「二心殿」と叩かれること
もあるほどであった。
14代将軍・家茂没後の緊急事態においても将軍就任に激しく抵抗して、
幕閣を悩ませ、長州征伐においても最終直前まで自身が出陣するつもりで
いながら、それが無理となるとすぐに朝廷に停戦の勅許を求めて、朝廷を
呆れさせた。

鉤裂きはあなたが逃げた跡ですね  米山明日歌

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ようやく咲いた朝顔の裏話  山本昌乃

              幕 府 陸 軍

「西郷どん」
 第二次長州征伐
誰もが不可能だと考えていた「薩長同盟」を実現させたのは、
坂本龍馬が考えた奇策であった。
それは武器が買えない長州藩に代わり、
龍馬が経営している亀山社中が、薩摩名義で武器を購入する。
そして米が不足していた薩摩藩へは、長州から米を納入する。
というものだ。
どちらの藩にとってもメリットのある策であるが、
当初はお互いに面子を重んじるばかりで、話が頓挫しそうになった。
削除してくださいゆうべ言ったこと  阪本こみ

だが龍馬と中岡慎太郎による和解工作が功を奏し、慶応2年1月21日、
小松帯刀邸において西郷と桂小五郎の会談が実現することとなる。
その正月、桂は同盟締結交渉のため上洛した。
西郷は、桂をもてなしたものの、薩摩藩の優位を保ちつつ、同盟交渉を
進展させるため、肝心な話を切り出さないまま、数日の時が流れた。
だが龍馬から「薩摩藩から同盟を切り出すべきだ」と説得されると、
西郷は薩摩藩優位な条件という路線を放棄し、対等な条件での
同盟締結を提案した。
その結果、武力討幕を視野に入れた薩長同盟が締結された。
同盟の効果はすぐに現れた。
喉から手が出るほど欲しかった新式の銃と蒸気船が薩摩から
亀山社中経由で入ってきた。
しゃきっとせん男に贈るネジ回し  岸田万彩
「同盟と武器」それが自信となり、長州は以前にも増して幕府との
対決姿勢を鮮明に表すようになってきた。
こうした長州の態度に憤懣が収まらない一橋慶喜は、
再び征討軍を編成することを決め諸藩に通達した。
ところが頼みにしていた薩摩は、出兵を拒否してきたのだ。
これは薩長同盟による既定路線であったが、慶喜は困惑した。
だが、幕府の面子に於て、長州をこのままにしておくわけにはいかない。
慶喜は薩摩抜きで軍を編成した。
それでも15万もの兵力を集めたのである。
これに対して長州軍は、わずか3500人程度である。
この兵力差から慶喜は、それほど苦労なく勝利できると確信していた。
ところが動員された諸藩の兵たちは、この戦いは自分たちの利害とは
まったく関係ないものと考えていたため、兵士の士気は甚だ低かった。
加えて長年の平和が、戦争の戦い方を知らない者ばかりにしていた。
操りの糸がもつれて時雨くる  桑原伸吉
一方寡兵だが長州軍は、大村益次郎により軍制も西洋式に改革され、
しかも、四方から押し寄せる大軍の攻撃に備えるには、
従来の武士だけでなく農民、町人階級から組織される市民軍の
確立が急務と大村は考えた。
その給与を藩が負担し、併せて兵士として基本的訓練を行わなければ
ならないと訴えた。
こうしてそれまでは有志によって構成されていた諸隊を整理統合し
藩の統制下に組み入れた。
朗報は春の小川になりました  美馬りゅうこ
慶応2年(1866)6月7日、慶喜は第二次長州征伐の開始を号令。
戦いの火蓋は切って落とされた。
長州は最新の武器と巧妙な用兵術を縦横に活用。
それは無駄な攻撃を避け、相手が自滅に陥ったところを攻撃するという
合理的なもので、旧態依然とした幕府側をことごとく撃破した。
長州軍が優勢に戦いを進め、幕府にとっては予想外の苦戦が続くなか、
さらなる不幸に見舞われる。
長州征伐に大坂までやって来ていた将軍・徳川家茂が病に倒れ
7月20日に薨去したのである。
8月1日、小倉城が陥落すると、慶喜はこの戦いにおける勝利は断念。
それまで伏せていた将軍家茂の死を公表するとともに、
勝海舟を派遣して講和を結んだ。
長州征伐が失敗に終わったことは、
幕府がすでに張り子の虎になったことを知らしめた。
幕引きをせよとささやく影法師  上田 仁

「薩長同盟」の画像検索結果
透けて見える裏の赤字は、龍馬が6ヶ条の内容を保証する裏書。

【付録】
 薩長同盟6ヵ条
 長州藩が幕府と戦争になった場合には、薩摩藩がすぐさま2千余の
  兵を差し上らせ、在京の兵と合し、大坂へも千人ほど配置して、
       京坂両所を固める。
 もし長州藩が勝利する形勢になった場合、朝廷に進言して必ず調停に
        尽力する。
 万一長州藩が負けた場合にも、半年や一年で壊滅するようなことは
       決してないはずであるから、その間も必ず尽力する。
 このまま幕府軍が東帰した場合には、薩摩はすぐさま朝廷から長州藩
       の冤罪を免ずる運びになるように尽力する。
 一橋・会津・桑名などが朝廷を擁して薩摩の周旋の道を遮る場合には
       ついに決戦に及ぶ他はないものとする。
 長州藩の冤罪御免しが得られた場合、薩長双方は誠意をもって力を合せ、
       皇国のために砕身尽力する。
       勝敗いずれの場合も、今日から双方が皇国の皇威が輝き、
       回復に至るのを目標に誠心誠意一致協力する。
大きな虹だ誰の企みだ  居谷真理子

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どうみてもへのへのもへじではないか  桑原伸吉

 

一草も月日のむらはなかりけり  桂小五郎

「西郷どん」 逃げの小五郎

変幻自在で多彩、そうしたイメージからる桂小五郎.は、

鞍馬天狗のモデルだともいわれる。

小五郎は天保4年(1833)6月、長州の藩医の子に生まれ、

禄高150石の桂家の養子になった。

学問を好み、藩校・明倫館で吉田松陰に兵学を学び、

「事をなすに才あり」と評価された。

松下村塾の門下ではなかったが、塾にはよく顔を出し、

塾生の高杉晋作や久坂玄瑞らとも親しく、

ともに尊攘運動をリードした。

太鼓打つごとに一コマ進む夢  井上一筒

龍馬が姉の乙女らに宛てた慶応元年(1865)の手紙には、

「長州に人物なしといえども、桂小五郎なる者あり」

と褒めちぎっている。

西郷隆盛、大久保利通と並ぶ維新の三傑・桂小五郎には、

「逃げの小五郎」という異名があった。

長州が「朝敵」として孤立、苦境に陥っていた頃である。

京都留守居役として藩の外交を任された桂は、

京都に残って情報収集に努め、

潜伏しつつ再起の道を見つけようとする。

長州藩の討幕運動を進めるリーダーとして、幕府側から命を狙われ、

危険を察知すると、戦わず逃げることに徹したからだ

他言無用赤から白になるところ  雨森茂樹

京都三条大橋の下に隠れていたという、英雄らしくない逸話も残る。

それにしても、三条大橋は江戸に繋がる東海道の終点、

橋に繋がる三条通りは、当時の京都のメインストリートだ。

血眼になって捜す新撰組ら追っ手を警戒していた桂が、

なぜそんな危険と思しき場所に隠れたのか。

整備された今の鴨川と当時の鴨川は、まるっきり景色が違う。

河川敷が整備された今と違い、当時は川幅が広く中州がいくつもあった。

そこに掘っ立て小屋を建てて住む人や友禅染の水洗いする人もいて、

紛れることが出来た。

また市街の3分の2を焼いた「禁門の変」の後で、

避難民も河川敷に多くいたのも利点になった。

交通の要衝なので各地の情報を得るには格好の場所である。

そこで情報を探っていたとも考えられる。

十字路で拾う堕天使のささやき  斎藤和子

変装し名前を変え、身分も偽って、桂は逃げることに徹した。

自らの剣で人を殺しいたことがないと伝わる。

弱かったからではない。

19歳で江戸に出た小五郎は練兵館で斉藤弥九郎から神道無念流を学び、

道場の塾頭を務めるまでになった。

剣の達人だった。

しかし、「出来れば逃げよ」というのが、

殺人否定に徹底した師・斉藤弥九郎の教えであった。

自然、斉藤の愛弟子だった桂は、剣で習得したすべてを、

「逃げることに」集中した。

司馬遼太郎は次のように桂小五郎を評している。

「生きてこそ忠義を尽くせるという思いが強かった。

時流を読むことに優れ、生き延びたからこそ、

新しい時代をつくることができた」 

そして

「革命家でありながら、長州人に多い思想への陶酔体質は持っておらず、

ごく常識的な現実認識家である面が強い」とも

蜘蛛だったことは内緒にしてほしい  宮井いずみ

 

【付録】 幾松

「桂小五郎は身長が1㍍74あったとされ、当時としては大柄だった。

残された写真を見てもわかる通り、男前で、鼻筋が通り、

眼もと涼しい、苦みばしった美男」と司馬遼太郎は書いている。

小五郎の女遍歴・・・あんまりな・・・男でもある。

小五郎は、坂本龍馬をはじめ、多くの維新志士と交友したが、

女性関係も派手だった。

美形で、弁舌さわやかな小五郎は、女性受けの良い男だったのだ。

小五郎の最初の結婚は、27歳のときだが、

わずか3ヶ月で離縁している。

この妻との間に、子どもがいたものの早世。

小五郎は、江戸に上って志士活動を開始することになる。

一波乱起きそう月が歪みだす  笠嶋恵美子

その後、江戸で斉藤弥九郎道場の塾頭を務めた小五郎は、

隣家の娘・千鳥と知り合う。

小五郎は、彼女に手を出したものの、ほどなく千鳥を放り出して、

志士活動のため上洛。

千鳥は、小五郎の出立後に妊娠が判明し、

乳飲み子を抱えたまま、京都へ向かった際に、

「蛤御門の変」の混乱に巻き込まれ、会津藩兵に斬り殺された。

(子どもは、後に会津で養育されたと伝えられる)

よろしいですかと良心を片付ける  山口ろっぱ 

一方、そんな事情を知らない小五郎は、

京都で三本木の芸妓・幾松に惚れ込み、

大金を払って彼女を落籍する。

すでに志士として、名を知られていた小五郎は、

常に命を狙われる毎日だったが、幾松の存在は彼の心を和ませた。

次のような有名な話が残っている。

新撰組が料亭に踏み込んだ時、舞を踊りつつすばやく小五郎を逃がしたり、

蛤御門の変以降、小五郎がお尋ね者になって窮すと、

加茂川大橋付近で潜伏する小五郎に、食料や水を運んで助けた。

ときに幾松は、派手な着物をきたまま、桂の元を訪ねるなど、

騒動を起こすも、奔放な彼女の性格を小五郎は、好きだった.

小五郎は幾松と知り合ってからも、多くの女性に手を出しているが、

幾松が、浮気に寛容だったことも、

二人の仲が、うまくいった理由かもしれない。

命をものともせず、小五郎に尽くした幾松の想いは、本物だった。

のちに長州に落ちのびた幾松は、潜伏中の小五郎に、

高杉晋作の「藩政クーデター」の成功を伝えるために、

単身で但馬へ向かうなど、小五郎を最大限に支えている。

火の章で弾む女は粘土質  上田 仁

出石(いずし)では荒物屋を営み身を隠した

一方で逃亡中の小五郎は、但馬の娘と偽装結婚したり、

城崎の宿屋の娘を妊娠させたりしていたが、幾松は意に介さなかった。

幕末当時の「献身と浮気への寛容」さから、

小五郎は、幾松に頭が上がらなくなった。

維新後に、木戸孝允と改名した彼は、

幾松を正妻に迎え、松子と名乗らせる。

幾松は買い物と芝居が大好きで、贅沢をしたが、

小五郎としては、文句をいえない。

それでも二人の夫婦仲は良く、

幾松は、夫の死後は尼になって、生涯を終えている。

世の中は桜も月も涙かな  桂小五郎  

 

「桂小五郎(木戸孝允)の功績」

龍馬の斡旋で薩摩藩士・小松帯刀、西郷隆盛らと薩長同盟を結ぶ。

うめと桜と一時に咲きしさきし花中のその苦労   (木戸孝允)    

薩長同盟を詠った歌である。(梅は長州、さくらは薩摩)

王政復古後は、五箇条の御誓文の草案の作成に関与。

薩摩・長州・土佐・肥前の四藩が版籍奉還の建白書を提出したが、

その実現に木戸が一役買った。

廃藩置県でも西郷と並ぶ参議として重責を担った。

大久保利通、板垣退助らと大阪会議(明治8年)を開き、

立憲制を布くとの方針を定める。

西南戦争では事変処理にあたった。が、途中病死。

(木戸孝允 辞世)

さつきやみあやめわかたぬ浮世の中に なくは私しとほととぎす           

次の世も生きてゆくなら鳥か魚  柴田比呂志

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春を待つ白一色になりながら  河村啓子



「西郷どんー⑩」 西郷の妻・イト

イトが、西郷隆盛(吉之助)と結婚したのは、元治2年(1865)1月28日

のことである。隆盛37歳、イトは21歳であった。


夫となった隆盛には、これ以前に妻とした女性が2人いた。

だからイトは3人目の妻となる。

2人の結婚は、誰から勧められても拒んでいた隆盛の前に、

親戚の有川矢九郎がイトを連れて行き、半ば強引に承諾させたものだった。

実はイトにも親が決めた許婚(海老原家)に嫁いだが、

すぐに戻されるという
離婚歴があり、隆盛は2人目の夫となる。

その時、隆盛はイトの再婚に対して「そんなことは、どうでもよかよか」

と気にもとめず、小松帯刀の媒酌で2人は結婚をした。

言葉など要らぬ背中をポンと押す  原 洋志

180cmの隆盛に対し、イトは150cmあるかないかの小柄で痩せ型。

その性格は温和できれい好き、芯の強い女性だったという。

イトが嫁いだ時の西郷家は、隆盛の弟・吉二郎とその家族など、

使用人も含めると10人以上が同居する大家族で、借金もあって

一家の生活
は苦しかった。

そんな中、吉二郎夫妻が穏やかな優しい人柄で、10歳も年下の糸子を

「姉さあ」と呼んで立てていたという。

モノクロの世をカラーに変えてくれた君 竹内ゆみこ


  愛 加 那

西郷は結婚後も、1年のうち1カ月ほどしか鹿児島にはいなかったが、

イトは、慶応2年(1865)に長男・寅太郎、明治3年(1870)

二男・午次郎
明治6年には三男・酉三を出産している。

明治2年(1869)に9歳になっていた愛加那の子・菊次郎をも引き取る。

このとき彼らの名に、西郷の元妻・愛加那は複雑な思いがあった。

1人目が寅年生まれの寅太郎で、2人目が午年生まれの午次郎。

だが菊次郎がいるのだから、午年の子は、午三郎にすべきではないのか。

少し嫉妬を感じたのである。

そして明治7年には、愛加那の娘・菊草(12歳)をも引き取っている。

家族という厄介者がいて楽し  神野節子

4人も家族が増えると、生活のやりくりに子育てや教育の仕事が増える。

それでもイトは、夫が薩長同盟から王政復古と藩を超えた政治の表舞台で、

名をあげていくなか、夫不在の一家を切り盛りし不平を口にすることなく、

しっかりと家を守った。

西南戦争に敗れ自刃した隆盛の没後の明治10年のことである。

イトは残された一家を連れて各地を転々とした。

その後、鹿児島の武村に帰ると、隆盛の遺志を継いで家塾を開き、

子供の教育に尽くし、愛加那に金10円も贈っている。

背泳ぎで掴まえたのは非日常  美馬りゅうこ

ここでエピソード二つ。

明治11年春、「生活に困っているだろう」と西郷の弟・従道の岳父で、

隆盛とも親しい紙幣印刷局長の得能良介が、鹿児島の野屋敷にいる


イトに香典として7百円を届けた。

「官にある人からこのような金を貰う必要がない」

と、イトは断わった。


「自分の主人は賊の大将として死にました。家も焼けました。


   出征したところの菊次郎も片足を失いました。

   けれども幸い幸い自主開墾
した土地が残っています。

   食べるのには困りませんのでお返しします」


イトは貧しい生活の中で貯めたカネから旅費を出し、

わざわざ下僕を東京にまでやって、この一文を添え返させた。

プライドを編み続けてる冬籠り  百々寿子

 慶応元年(1865)、西郷が小松帯刀とともに鹿児島に帰って来た時のこと。

そのとき、坂本龍馬を伴っており、西郷の上之園の借家に泊まった。

古い家だから、雨漏りがするので、イトは部屋の隅っこへ隆盛を呼び、

「お客様に申し訳ないから屋根を修理しましょう」と言う。

すると西郷は、


「今は国中の家が雨漏りをしている。うちだけ直すわけにはいかない」

とイトを叱った。

家は古く狭いので帯刀にも竜馬にも、この内緒話は丸聞こえ。


夫婦の会話を聞いた2人は、西郷にもイトにも感心したという。

その後、池田屋事件で傷を負った龍馬が、霧島へ治療に行く折、

再び西郷邸に立ち寄り、西郷の使い古しの褌を出してきたことなど、

自然派のイトについて姉の乙女に、手紙を書いている。


「西郷吉之助の家内も吉之助も大いによい人なれば、

   この方に妻など(お竜)
頼めば何も気づかいなし」

シュレッダーの音と呟く内緒ごと  小永井 毬



隆盛とイトの結婚生活は13年。イトは幸せだったのだろうか。

苦労するためにだけ西郷家に入った感がないでもない。

最初の9年は、隆盛はほとんど京都の生活だった。

残る4年は、隆盛は大久保利通らとソリが合わず、参議を辞職し鹿児島に

暮らしたが、西郷とともに帰国した近衛兵や西郷を慕う兵士たちのために

軍事学校設立に奔走する毎日だった。

これでは、イトは隆盛とゆっくりとした時間を持つこともできない。

明治22年、憲法発布で隆盛の賊名は除かれ、正三位が追贈されたが、

イトは人から訊ねられることがあっても、決して苦労話をしなかった。

隆盛は明治2年に作った詩の中で、次のようにイトを称えている。

「貧極まれど、良妻いまだ醜を言わず」

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その後、イトが育てた長男・寅太郎は陸軍大佐に、午次郎は実業家に、

菊次郎は京都市長になり、菊子大山巌の弟と結婚をした。


そして明治29年、長男・寅太郎の結婚式に出席するため上京し、

イトはそのまま東京の寅太郎の家に同居することとなる。

その数年はイトにとって幸せな時間であったかも知れない。

ところが
明治36年、三男の酉三が結核のため、30才で亡くなり、

また大正8年、寅太郎が52歳でスペイン風邪で他界する。

最晩年の3年間は、次男・午次郎の家で過ごし、大正11年6月11日

午次郎夫妻に身守られて長い生涯を閉じた。80歳だった。

人生の沖にスイカが浮いている  青砥たかこ

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