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川柳的逍遥 人の世の一家言
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白鯨になるまで白を着続ける  くんじろう


   愛 加 那

「西郷どん」-⑦ 別れの歌

奄美大島に蟄居を命じられた西郷の暮らしは、空家を借り、自炊し、

静穏な生活を
していたかと思えば、ひっきりなしに慰問者が訪れていた。

大久保正道、吉井友実、有村俊斎、堀仲左衛門らからの書簡や慰問品が何度も

送られ、斉彬の遺志を忘れない西郷も、返書を出して情報収集に努めていた。
                          あんご
そしてここで2番目の妻である愛加那を島妻とした。

島妻は、現地妻のことで藩の定めた法律で鹿児島には連れて帰れない。

正道の父である利世も2階にわたる沖永良部島での在任中、島妻との間に

2女をもうけ、藩法により3人を残して鹿児島に戻ったと言われている。


便座から国防省を取りしきる  井上一筒

西郷は斉彬の死の心痛もあり、島に来てしばらくは孤独に苦しんだ。

薩摩の家のことも心配だった。

やがて西郷は、島の子供3人の教育を任され、徐々に島とも馴染んでいく。

そんな中で愛加那を娶り、万延元年(1860)菊次郎という男児が生まれた。

しかし時代は、西郷をこの島にとどめておかなかった。

菊次郎が生まれた翌年、薩摩藩からの召喚命令によって、

大島を離れることに
なるのである。

この時、愛加那は2人目の子を身ごもっていた。

トンネルの中で生まれる数え歌  小林満寿夫

少し薩摩の話に触れる。

西郷が大島に配流されている間、江戸で大事件が起きる。

安政7年(1860)3月3日、江戸城桜田門外で大老・井伊直弼が殺害され。

その首級を上げたのは、西郷の同志である有村次左衛門だった。

当時大久保ら若手藩士が結成した精忠組は、藩内で勢力を拡大させていた。

直弼が暗殺され流動的なこの時を、
好機とみた精忠組リーダーの大久保は、

藩主・島津茂久の父で国父として藩の
実験を握る久光に西郷帰参を願い出る。

月はいま指鉄砲の射程距離  河村啓子

一方、久光の方もまた斉彬の遺志を継いで幕政進出を志しており、

上京して政治工作を
展開しようと考えていた。

ならば、江戸や京都で政治工作を進める際には、斉彬の信任を受けて

政治
活動を展開し、他藩からも一目おかれる存在だった西郷の存在は

不可欠と
久光は思っていた。

大久保の説得に久光は同意した。

そして文久2年(1862)2月12日、西郷は
鹿児島に戻ることになる。

雨上がる電池交換しなければ  山本昌乃


   大島の孤猫

「加那」とは島の言葉で「恋人」という意味だが、こうして愛加那は、

「行きゅんにゃ加那節」
という鼻歌のような情景に直面することになる。

そして西郷が島を離れるとき、どこからともなく、悲しい別れの歌である

『行きゅんにゃ加那節』が大島全体に流れた。

歌詞は、いろいろあり、例えばこのようなものが流れたのだろう。

忍の字をなぞり泡立つものを消す  笠嶋恵美子
              わ
行きゅんにゃ加那 吾きゃこと忘れて 行きゅんにゃ加那
う  た
打っ発ちゃ 打っ発ちゃが 行き苦しや  ソラ 行き苦しや
あんま じゅう
阿母と慈父 長生きしんしょれ 阿母と慈父 
ほ                   はたら み
育でぃりば 働し 召しょらしゅんど  ソラ 召しょらしゅんど

            むねめ かんげ
阿母と慈父 物憂や考えんしょんな 阿母と慈父
くむとぅ   まむ
米取てぃ 豆取てぃ 召しょらしゅんど  ソラ 召しょらしゅんど
                        ゆるゆ
目ぬ覚めて  夜や夜ながと 目ぬ覚めて
な             う                ねい
汝きゃ事 思めばや 眠ぶららぬ  ソラ 眠ぶららぬ

な      とぅいくわ     たちがみうき
鳴きゅん鳥小  立神沖なんて 鳴きゅん鳥小
わ                                      まぶり
吾きゃ加那 やくめが 生き魂   ソラ 生き魂

「訳」
行ってしまうのですか 愛しい人
私の事を忘れていってしまうのですか 愛しい人
発とう発とうとして 行きづらいのです

お母さん、お父さん 長生きしてください
大人になったら働いて面倒見ますから
お母さん、お父さん  物思いして考えないでください
豆を取って、米を取って 食べさせてあげますから

目が醒めて 夜中中目が醒めて  あなたの事を思って眠れません
鳴いている鳥は 立神の沖の方で鳴いている鳥は
私の愛しい人の生霊にちがいない

ページ繰る度に涙の句読点  瀬川瑞紀

「愛加那の子供たちのその後」

大島で西郷と愛加那との間に生まれた、2人の子はその後どうなったのか。

西郷の大島での名前「菊池源吾」から菊の字をとり、菊次郎と菊草と命名。

菊次郎は鹿児島の西郷本家に引き取られ、明治5年、13歳のとき、北海道

開拓使が派遣する留学生の1人としてアメリカに留学。帰国後、西南戦争に

参加して政府軍と戦ったが、延岡・和田越の戦いで右足に銃弾を受けて膝下

を切断、政府軍に投降した。西南戦争後は外務省に入り、のちに京都市長を

務め、琵琶湖疎水事業に尽力している。菊草(菊子)も西郷家に引き取られ、

西郷の従弟である大山巌の弟・大山誠之助に嫁いでいる。

荒波という必然に抗わぬ  徳山泰子

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ひとときを大事に砂がおちてゆく  神田良子


 奄美の西郷像

「西郷どんー⑦」 愛加那と西郷

愛加那は、西郷の身柄を預かった奄美の名門・龍一族の娘で、

はじめ2人は、
風習の違いや西郷の奇傑ぶりからなかなか馴染めない。

愛加那にとって西郷は、「大きな目に怖いほどの力がある」恐い人だった。

しかしその印象は、西郷が薩摩藩の奄美に対する過酷なまでの生産管理、

いわゆる「黒糖地獄」を改善しようとしたことから急速に変わってくる。

そして子供も生まれた。

菊次郎である。菊は西郷の仮の名・菊池源吾の菊からとった名である。


できたての輪郭十六夜が撫でる  森田律子

「おいはな、こん島に骨を埋めても、よかち思う」

あるとき西郷は、愛加那にこう語りかける。

「おいは日本ちゅう国を、変えたいと思っておった。

江戸や上方で、先のさまの手足になって働きたかった」

先の上さまとは、島津斉彬のことである。

「じゃが上さまが急逝して自分の役割は終わったと思い、死のうとした。

そいでん死にきれんで、この島に流されっきた。こいも何かの縁じゃ。

おいは、こん島の人々が黒糖の地獄から抜け出せるよう、力を尽くしたい。

おいに出来なければ、菊次郎や島の子供たちに教えて、

次の世代に託そうち思う。それがおいに与えられた役目じゃ」

砂糖ふたつ魔法が解けませぬように  山本昌乃

西郷は国事を一時も忘れたことはなかったが、愛加那との間に子供が

できたことから、島のことを考える心の余裕ができたのである。

西郷の手紙の一文にも「とんと島人になりきる」とある。

大島はもともと琉球王国が統治していたが、琉球が島津氏に征服され

薩摩藩の植民地となった。それまでのんびりと暮らしていた島民は、

過酷な薩摩藩の支配を受けることになる。

強制的に砂糖キビを栽培させられ容赦なく搾取された。

その過酷さは
本土の農民の比ではなかった。
                                   やんちゅ
ほとんどの農民が極端な貧窮に苦しみ、
身売りされて「家人」と呼ばれる

奴隷状態になる者も多かった。


奄美大島の各村では少ない所で人口の2割、多い所で4割が家人であった。

ため息がプチッと糸を切りました  鈴木かこ

農政の下級役人として、薩摩の農民の困窮を目の当たりにしてきた

西郷で
さえ、この状態には目を覆った。

大島に到着した当初から藩の苛政に気付き、胸を痛めていたこともあり、

すっかり島民となった今では、黙っておくことができなくなっていた。

そして、西郷はたびたび悪徳役人と対峙することになる。

相良角兵衛という代官は、着任時に功績をあげようと砂糖の徴収を一段と

厳しくし、納められない者をいかなる正当な理由があっても砂糖を

隠していると決め込み、代官所にひったてて拷問を加えた。


沢山の農民が拷問されているのを知った西郷は憤り、代官所に乗り込んだ。

ギリギリと奥歯3分後に発火  居谷真理子

はじめは穏やかにこれ以上の砂糖の取立ては無理なことや、

農民は決して
砂糖を隠していないと説明したが、相良は聞く耳を持たない。

相良相手では、話は前に進まないと思った西郷は、相良の上司にあたる

見聞役の木場伝内を訪ね、
ことの次第を訴えた。

こうして相良を追い詰めて、農民の釈放を成功させた。

西郷はこれ以外にも理不尽な役人を糾弾し沢山の農民を救ったという。

のちに鹿児島に帰った西郷は、大島の惨状を伝え、島の代官や役人に

適正
な人物を選ぶこと、島民が生産した砂糖に余分が出た場合には、

米と交換
できるようにするなどを至急に改善するように訴えた。

時々は砂を咬むから潤滑油  行兵衛


住民の食糧は、段々畑にもできない場所に植えた蘇鉄 。
ブラタモリでタモリが奄美を訪れている。

【智恵袋】 黒糖地獄

大島は島津家久の支配下にあり、かつて年貢は米を取り立てられていた。

しかし、大島の土の質が米に向いていなかったため、代わりに薩摩藩は、

「砂糖キビ」を作らせた。その取り立ては厳しく、

島民が指についた黒糖
を舐めただけでもムチで叩かれたと言う。


やがて大島中の平地はすべて砂糖黍畑となった。

年貢を納めるため島民は通常作らないような急な斜面にも砂糖黍を植えた。

島津家久の圧政により島民は「黒糖地獄」と呼んでいた。

 砂糖キビのために、自分たちの食料を作る畑さえもらえなかった島民は、

強い潮風が吹き付けるため、段々畑が作れなかった山に蘇鉄を6万本の

蘇鉄を植え、その実を食べることで飢えをしのいだという。

蘇鉄の実には毒があり、そのままでは食べることは出来ない。

そこで、蘇鉄の実や幹を細かく砕き、発酵させた後水晒と天日干しを

繰り
返して毒抜きをしていたという。


蟷螂の左のカマの軋み癖  くんじろう

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暗視スコープ自画像を描き終える  井上一筒



 西郷上陸の記念碑

安政6年1月12日に西郷を乗せた船は竜郷湾阿丹崎に到着した。

「西郷どんー⑤」 流罪人・西郷  

西郷月照はお互い固く抱き合い、冷たい真冬の錦江湾に飛び込んだ。

平野らが急いで引き上げたが、すでに月照は絶命し、西郷は虫の息だった。

懸命な看病によって3日目にようやく西郷は意識を取り戻す。

心身の疲労から1ヶ月ほど静養させた後、藩庁は西郷の処分を決めた。

幕府に死亡届を出し、

菊池源吾と変名させて奄美大島に蟄居させることに
したのである。

横たわる町のかたちのまま沈む  木村健一

入水は藩命に逆らう行為であった。

しかし前藩主から絶大な信任を受け、藩内外の有能な人物と交流を持って

いた西郷を厳罰に処すわけにはいかないということで穏やかな処分で済ん

だのである。

大島行きも流罪ではなく、年6石の扶持米が支給されることになった。

それでも西郷は、いたたまれない気持ちでいっぱいだった。

斉彬公のあとを追って殉死しようとしていた自分を、思い留まらせて

くれた
命の恩人に惨めな死に方をさせ、自分一人生き残ってしまった。

しかも武士である自分が切腹でなく、女のように入水自殺をはかり、

死に切れなかったからである。

やせたねと言われ老けたなと思う  阪本こみち


 西郷の舟を繋いだ松

安政5年(1858)12月14日、西郷は大島に向けて鹿児島を出発した。

しかし風向きが悪かったため山川港付近に滞在して年を越し、

1月上旬にようやく出帆できた。
たつごうわんあだんざき
竜郷湾阿丹崎に到着したのは、年が明け1月12日であった。
     りゅうさたみ
ひとまず龍左民の屋敷の離れに身をよせたが、左民は大島で最初に郷士格に

取り立てられた人物で、家内奴隷が70人以上いる屈指の豪族
だった。

西郷は丁重に扱われ、家内奴隷の少女1人が召使としたつけられた。


しかし西郷はここでの生活が肌に合わず、数日で美玉新行という百姓の

空き家を借りて自炊生活を始めることにした。

脳味噌の酷使 お腹が空いてきた  安土理恵

鹿児島からやってきた巨漢の西郷は、島民にとってヤマトンチュ(大和人)

であり、気味悪がられた。

しかも流罪人のように思われ無言で覗き見される
のが苦痛でしかなかった。

つい半年前まで藩主の腹心となって恩遇を受け、
諸般の英傑と交わり、

幕府を改革するために力を尽くし、近衛忠煕の知遇
を受けていた自分が、

今はこのような離島で埋もれていることに不満と苛立
ちを感じていた。

一幕の劇の終わりに見る夜景  中野六助


  西郷の大島の借家

西郷は島から大久保正助に手紙を書いている。

「毎日毎日雨ばかりのひどい状態で気が滅入ってしまう。

垢で化粧をして、手に入れ墨をしている島の娘たちは美しく、京や大坂の

女たちも適わない。あらよっと一丁あがり。諦め、ふざけて言っている様子)

島民が野蛮人で困っている。島民が物陰から覗くのが不愉快である。

しかし藩の行う大島支配は悲惨なもので、心苦しい。

北海道松前藩による
アイヌ民族に対する政策よりもひどい。

これほど酷いと思ってなかったので
驚いている」

西郷は、島民の野蛮さを軽蔑する反面、藩の虐政に苦しむ島民の貧しい

生活にも目を向けている様子が伺える。

そして同情し憤った。藩の苛政が許せなかった。

大島での生活に苛立ち、鬱屈したいた西郷であったが、

同情心から徐々に
島民と意志の疎通をはかるようになる。

くるりんと一筆 平熱になった  和田洋子
                                  しげのやすつぐ
大島での生活にすっかり気が滅入っていた頃、友人の重野安繹が突然

訪ねてきた。
       しょうへいこう
重野は江戸の昌平黌で7年間学び、そこの舎長にまでなった
人物で、

薩摩藩きっての秀才といわれていた。


斉彬にも重用されて側近として活躍したが、金銭トラブルから反斉彬派

役人に陥れられ、死罪になりそうだったところを、

当時庭方役だった西郷
茶道方の大山正円に助けられたことがあった。

西郷らは斉彬に事情を説明
し死罪という不当な処罰を免れ、大島に

流罪となっていたのである。


重野は三晩泊まっていき、2人は思う存分語り合った。

思い出話に更け、流人生活の先輩である重野に西郷は励まされた。

気のもんと言われてふわっと軽くなる  大海幸生


          愛 加 那

西郷は島民に嫌悪感を抱いていたが、それを払拭させたのは島の子供たち

であった。島の豪族、龍左民から頼まれて西郷は、10歳くらいの子供た

ち3人ほどに手習いを教えることになる。

はじめは「こんな子供に勉強を教えて何になるのか」と気乗りしなかった

が次第に愛情が湧いてきて可愛く思えるようになってきた。

教え子が病気になった時には、島の百姓では殆んど食べることができない

白飯のおにぎりを持って、お見舞いに行ったこともあったという。

こうして徐々に西郷は島の生活にも慣れ、島民との信頼関係も築いていく。

リバーシブルの野原を春へ裏返す  西田雅子

島民からの誤解も解け、西郷はどんどん島民と親しくなっていった。
                                 おとまがね
そうするうちに龍家の親戚、龍佐恵志の娘である於戸間金を、

西郷の嫁にしようという話が持ち上がった。
                          あんご
そして安政6年11月8日、於戸間金を島妻としたが、このときに彼女は

愛加那と名を変えた。西郷33歳、愛加那23歳であった。

西郷は愛加那を愛し、客の前でも平気で彼女の身体を触るため、

周りのものが目のやり場に困るほど、二人は大変仲がよかった。

朗報は春の小川になりました  美馬りゅうこ

「智恵袋」  島妻

薩摩藩では、役人でも流罪人でも島で妻を娶ってもよいが、島を離れる時

は別れなければならないと厳しく決められていた。島妻を本土に連れて帰

ることは絶対に許されなかった。ただし子供は連れて帰ることができた。

よって島妻はいつか夫は本土に帰り、産み育てた子は連れて行かれると覚

悟しなければならなかった。しかしそれでも島妻のなり手はたくさんいた。

ヤマトンチュの妻となれば、たとえ別れることがあっても、名誉ある地位

が残ることになる。さらに夫が男子を島に残して行ってくれた場合には、

その子は鹿児島で武士の子としての教育を受けることができ、島に帰って

来れば郷士格となって大出世を遂げることが出来たからである。

よこ糸たて糸こだわりの玉虫色  田口和代

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嘘ひとつ浅蜊が砂を吐くように  雨森茂喜

(拡大してご覧下さい)
 フルベッキ群像写真

志士として特定されたのは22名だったが、
推論が積み重ねられるうち、このように全員の名が列挙された。



ルベッキ群像写真の中で西郷とされた人物

「西郷どんー⑤」 フルベッキ群像写真

幾つものエピソードが喧伝され「西郷の写真」は存在しないという説が

定着
してきた。その一方で、歴史上の人物で断然の人気を誇る西郷

「写真が
存在しないわけがない」という思いは、宝探しのように拡散した。

そして様々なメディアで「ついに西郷の写真が発見された」という見出し

躍り、いくつかの西郷の肖像と称される写真が紹介されては、鑑定者ら

実証によってことごとく否定されてきた。

そして忘れられた頃、発見が報道されるというサイクルが現代に至るまで、

繰り返されている。

探偵は死者続出後謎を解き  高野末次

そんな中、明治元年(1868)から翌年の初頭にかけ、高杉晋作坂本龍馬

ら多くの著名人の肖像写真を撮影し、黎明期の日本写真界を牽引した上野

彦馬が、明治元年(1868)から翌年の初頭にかけ、イタリア人宣教師の

フルベッキを中心にして総計46名の集合写真を撮影した。そこには西郷

写っていると話題になった「フルベッキ群像写真」である。
                         ともさだ ともつね
群像写真には、岩倉具視の次男にあたる具定具経兄弟をはじめ、肥後

藩士の大隈重信らの参加が確認されている。そのほかの被撮影者たちは

フルベッキの弟子たちとされ、写真の照合によって名前が確認できた者は

22名、残りの24名の素性はわかっていない。

あんたの事はシワの数まで知っとるよ  森田律子

昭和49年肖像画家の島田隆資は、容貌を解析して「フルベッキ群像写真

は薩長土肥の志士たちが一同に会した集合写真である」と新説を発表。

その中に、西郷も含まれていたことから注目を集めた。

但し、岩倉兄弟が長崎に留学したのは、明治元年12月であることが確認

されているため、前年の11月に暗殺された龍馬や中岡慎太郎が写ってい

るはずがなかった。また薩長土肥を主導すうる指導者たちが集合すること

は不可能という常識的判断から島田説は完全否定された。

何をしてこんなに鼻が伸びたのか  こうだひでお

以来、フルベッキ群像写真は新聞・雑誌、テレビなどで取り上げられては、

否定されるというサイクルが繰り返されている。

作家の加治将一は、著作「幕末維新の暗号」「西郷の掟」において、

フルベッキの左斜め後方に写る人物を西郷とみなした。またフルベッキの

斜め左下の人物は、若い日の明治天皇と提示(後に替え玉と判明)した。

加治は、岩倉が天皇のすり替えを主導したと推理している。明治天皇の

「尊顔」を拝することができるのは、高位の公家や女官に限られていた。

そのため綱渡り的ではあるが、すり替えが出来なくもない。

真っすぐな煙突なんてつまらない  嶋沢喜八郎

とはいえ、西郷や天皇までもが群像写真の被写体であったことは、

信頼
性の高い史料では、立証できず、仮説からの脱却は不可能に等しい。

フルベッキ群像写真では、右端近くの被写体が露光過多によって白濁

している。ただし、当時の写真技術からすると、46名が数十秒にも及ぶ

静止に耐え、群像写真といsて成立したのは称賛に値する。

また、維新の志士たちが一同に会して、心を一つにしてレンズを見つめて

いる姿は、微笑ましく頼もしいものである。

よこ糸たて糸こだわりの玉虫色  田口和代

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言うにいわれぬものまで飲み込んだ喉だ 竹内ゆみこ


  月 照

二つなき 道にこの身を 捨て小船 波立てばとて 風吹けばとて

或いはこれが、西郷の辞世になっていたかも知れない句である。

「西郷どん」 月照と重助

文化10年(1813年)月照は大坂の町医者・玉井宗江の長男として生まれ、

13歳のとき出家し京都清水寺・成就院の蔵海に学び、

23歳で師席を
ついで清水寺の住職となった。

憂国の志篤く、諸藩の志士と交わり、ペリー来航後
世情が騒がしくなると、

安政元年(1854)寺を弟の信海に譲り、梅田雲浜、
頼三樹三郎らと

尊王攘夷の運動に奔走しはじめる。
                          ただひろ
西郷隆盛とは、篤姫の養女手続きの付き添いとして
近衛忠煕邸に出入り

している時に知り
合い、親しく付き合う仲になる。

あなたへの思い三角相似形  和田洋子

暫くして安政5年7月、薩摩藩主・島津斉彬は急な発病から急死する。

その死は、当時流行っていたコレラによるものとされているが、

斉彬の嫡子
もすでに既に死去したことなどを合わせて、毒殺の説もある。

死因についてはともかくとして、斉彬の死は西郷にとっては、

非常に大きな
出来事であった。

自分を高く評価し、強い信頼関係で結ばれていた主君
の死に西郷は号泣し、

一度は殉死しようとしたほどである。


この殉死を止まらせ、斉彬の遺志を継ぐことを決意させたのが月照である。

切腹は紙の刀でさせてやれ  井上一筒

その後、月照は西郷らと京都で、井伊直弼への反抗運動を行っていたが、

世に言う安政の大獄で、懇意の仲間の梅田雲浜、頼三樹三郎
らが捕らわれ、

幕府の追求がいよいよ激しくなったこともあり、京都を
脱出を決める。

西郷と大阪から海路九州に逃れ、平野国臣らと辛うじて鹿児島に入
った。

が、しかし幕府の追及が止むことはなかった。

そして厄介者の月照を連れて
薩摩に戻った西郷に対し、

藩は受け入れを拒否した。


ここだけは譲れませんの糸きり歯  前中知栄


月照・西郷入水の図

拒否した上に西郷に藩が下した指令は、「日向国送りにせよ」だった。

それは日向に着く直前で「斬り捨てよ」という死刑宣告なのである。

まもなく船で日向に向う途中、近衛忠煕と月照を守る約束をした西郷は、

前途を悲観し月照と同意のうえ、竜ヶ沖で相抱きあい投身をした。

この直前に西郷が詠んだ歌が巻頭の句である。

”二つなき 道にこの身を 捨て小船 波立てばとて 風吹けばとて”

二人はすぐに救助されたものの月照は死亡し、西郷は蘇生した。

安政5年11月16日の海は、きんきんに冷えていた。月照享年46歳。

検死などせずとも僕は涸れている  中野六助


   忠僕茶屋

歴史を知り、忠僕茶屋を訪ねるのも一興。わらび餅が旨いと評判です。

いつ訪れても観光客で 賑わう京都・清水寺に・・・。

清水坂を上って境内に進み音羽の滝 へ通じる参道をいくと、

「忠僕茶屋」と
いう茶店がある。 この店を始めたのは、大槻重助である。

重助は清水寺の勤王僧・月照に仕え,月照が安政の大獄で薩摩へ避難した

時も同行した。安政5年に月照が西郷とともに薩摩潟に投身し亡くなった


あとは、捕らえられて半年ほど獄中生活を送り、 解放されてから一時期、

古里の高津に帰ったが、 月照を慕う気持ちは拭い去れず、
京都に戻り

妻を娶ると、 同寺境内にあった茶屋 「笹屋」 を買い取る。


 それを西郷らの援助を受けて改装し、同寺から茶屋の営業を許されると、

屋号を 「忠僕茶屋」 と改めた。


現在は重助から数えて4代目が暖簾と先代の遺志を継いで営業している。

たかがルーツされどルーツと木瓜の花  杉浦多津子


寺門前に建つ重助の墓碑

「付録」

重助は精進料理を作るのが得意だったことが伝えられている。

重助オリジナルで豆腐に熟した柿の実を添え、 塩を加えたものである。

(この料理のことは西京新聞の記者の本「忠僕重助傳」の中に出てくる)

安政5年の逃走劇の時、 京都から九州に入った月照に対して重助が材料

を調達してこの豆腐料理をふるまったところ、 心身共に疲れ切っていた

月照
を大そう喜ばせという。


 清水寺には重助の墓も建立されている。 場所は 「清水の舞台」 の南に

位置する 「子安の塔」 横の道を下った所にある墓地。

この碑は、重助を顕彰するために薩摩藩の有志により建てられた。

泡ひとつ消してめし屋の灯をくぐる  桑原伸吉

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