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川柳的逍遥 人の世の一家言
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鉄分が脳に回って錆びてくる  ふじのひろし


  滝川一益

「滝川一益の波乱万丈」

滝川一益は、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀と並ぶ織田四天王の一人。

甲賀出身ゆえ、忍者説もある。 特技は鉄砲。

30歳頃に織田信長の家臣になる。  

一益は徳川家康との同盟に知略を発揮する一方で、

長島一向一揆、石山本願寺合戦、雑賀攻めなどに参陣し武功を挙げた。

この時、東国支配の重要性から、信濃二郡と上野国主を与えられたが、

「領地ではなく茶器・珠光小茄子が欲しい」 と言った話は有名。

また、信長は58歳になる一益を草深い遠国に送る事を気の毒に思い、

秘蔵の馬を一益に贈り「この馬で入国せよ」 と気遣いを示したというほど、

信長から厚く信任された重臣の一人でもあった。

お人柄なんざぁ眉にでてますなぁ  くんじろう

ところが、関東を任されてから三ヶ月。

天正10年(1582)6月2日、信長非業の死から間もない18日に、

「天正壬午の乱」のとっかかりで、一益は北条氏直と戦闘状態に入る。

敵対行動をとるように なった北条氏政に対し、

一益は上野衆の応援を得て倉賀野へ出陣、

神流川にて北条氏邦の軍を破った。

しかし続く19日の戦いでは、一益方1万8千は、5万の氏直勢に完敗。

一益は箕輪から小諸、木曽を経て本領の伊勢長島へ逃げ帰ってしまった。

滑り台の途中にあった信号機  嶋沢喜八郎
             まやばし
この最中真田昌幸は、厩橋で一益との酒宴に参加し、

一益に護衛をつけて、木曽路まで送らせたという。

そして一益を見送る一方で、昌幸は小県・上野の国衆たちに対する

所領宛がいを矢継ぎ早に実行しはじめた。

「信長も一益も、我が頭上から命令する者はいなくなった。

    今のうちに皆を糾合して、動乱に対応できるようにせなばならぬ」

信長の死によって旧武田領国の甲斐・信濃・上野が無主の地となり、

「天正壬午の乱」と呼ばれた大風が吹き荒れ始める。

昌幸の闘士はこの風に煽られ激しく燃えあがった。

追い込まれてからの男のジャンプ 美馬りゅうこ

そんな中、信長の死を知った羽柴秀吉は、

中国毛利攻めの真っ只中
にも関らず、毛利と和議を結び、

主君の「弔い合戦」の大義名分の元に、


神戸信孝・丹羽長秀・池田恒興・中川清秀・ 高山右近らを率いて、

明智光秀との「山崎の戦い」に臨んだ。

そして本能寺の変から、わずか10日あまりで仇討ちを果たした。

信長からは一番に信頼されていた一益が、どうして、

伊勢へと逃げる足を、主君の敵討ち・明智討伐に向けなかったのか。

伊勢に逃げ帰った一益の行為は、その後の彼の一生を決めることになる。

信長の後継者を決める「清洲会議」に間には合わず、

織田家宿老の立場からも外されてしまう。

運勢もやっぱり渦を巻いていた  森田律子



天正10年6月27日、尾張の清洲城で織田の重臣を集め開かれる。

「清須会議」の目的は「信長の後継者問題」「遺領の配分」である。

集まった重臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の宿老4人。

いわゆる一益はこの場には、不在したのである。

遺領の配分は後述のこととして、信長の後継者問題では、

信長の三男・織田信孝を推す勝家と、


信長の嫡孫にあたる信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を推す秀吉が対立。

そこで三法師をたてるにあたり、秀吉は「長男後継の筋目」を主張。

この秀吉の意見には、信孝を推す勝家は、強硬に反対したであろうが、

丹羽長秀「筋目論」に同調し、多数決をもって秀吉の主張が通り、

三法師が後継者となったのである。

ここで三法師後見人の立場をも秀吉が握る。

ザクロ弾けて相性なんてこんなもの  山本昌乃

その後、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が激化、

秀吉は勝家と結ぶ織田信孝を討ち、着実に勢力を拡大していった。

このとき、一益は柴田勝家に与して、長島城に拠り秀吉と対峙した。

そして折りから家督相続争いで紛糾していた関氏の亀山城を奪うと

腹心の佐治新介を入れ、峰城には甥の滝川儀大夫を城将とし、

秀吉の来襲に備えたのである。

対する秀吉は、弟の秀長を美濃土岐多羅口から、

甥の三好孫七郎を近江君畑越から、

そして、みずからは近江安楽越から長島城へと迫った。

一益はよく持ち応えたが、恃みの柴田勝家が「賤ヶ岳の合戦」で大敗、

越前北ノ庄城で滅亡すると万事窮してしまった。

結局、一益奮戦も空しく、降伏開城して秀吉の軍門に降った。

坂うねりうねりつ坂は7合目  筒井祥文

秀吉と織田信雄・家康連合軍との間で小牧・長久手の戦いが始まると、

一益は秀吉に味方して参戦した。

そして、蟹江城の留守を守備する前田種利と前田城の前田長種らを

調略することに成功すると、嫡子・一忠とともに蟹江城に入った。

ところが、信雄・家康連合軍の猛攻撃を支えきれず降伏。

あろうことか種利の首の差し出せという条件を呑んでの投降であった。

一益の行動は諸将の非難を浴び、秀吉からも愛想を突かされ、

栄光に彩られた武将人生は、晩節を汚す格好で幕を閉じたのであった。

夕暮れを歌うと棒になってゆく  富山やよい



とはいえ、秀吉から越前国大野に三千石の捨扶持を与えられ、

子の一時には1万2千石の地が与えられた。

しかし、みずからの行為を深く愧じた一益は京都妙心寺で出家すると、

丹羽長秀を頼って越前に流れていった。

流れ流れて、自らの才覚と腕一本で大名に出世しながら、

肝心のところで齟齬をきたした一益は、

天正14年、越前大野で死去。


享年62歳であった。

甲冑を脱ぐと人情交叉する  上田 仁

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透明な隙で黙祷いたします  山本早苗


    四阿山(あずまやさん)
日本百名山の一つ四阿山(標高2,354m)は長野県と群馬県の県境に跨る。

「修験者」

修験者とは何者なのか…。簡単に言えば、

険しい山を駆け上り、岩の上で法螺貝を吹く姿に象徴される通り、 

山岳修行で心身を鍛え、呪術的な霊力を得ようとする宗教家のことである。

背景にあるのは、山には霊気が宿るとする山岳信仰で、

ルーツを遡れば、
平安中期、密教が輸入されて以降のことになる。

山岳地帯である信州では、多くの修験者が山野で修行を積んでいた。

特に重要視されたのが、

真田の郷がある信濃と上野の境にある四阿山である。

真田氏が崇敬した山家神社も四阿山をご神体としている。

生き霊と死霊の話聞き分ける  井上一筒

そんな彼らを上手に利用したのが真田氏である。

例えば、天文20年、真田昌幸の父である幸隆「砥石城攻め」では、

内通者を出して内側から守りを崩したと伝わる。

それも砥石城の抜け道を熟知して城内への

情報伝達の攪乱を請け負った修験者の、支援があっての調略戦だった。

二等辺三角形からの誘い  蟹口和枝

時に修験者は、呪術で雨を降らせることが出来たとも言うが、それは即ち、

山暮らしの中で天気を先読みする能力を身に付けていたということ。

第一次上田神川合戦で、昌幸が、神川を堰き止めた上で決壊させ、

徳川軍勢いを殺いだと伝わる。

実は、神川は幅が狭く川底が深い。

一雨くれば、一気に3メートル近くも水嵩が増し濁流となる。

わざわざ堰き止めずとも、いつ雨が降るか予測できれば、

川が増水する時間に合わせて、徳川軍をおびき寄せるだけで事足りる。

天気予報を担ったのは、もちろん修験者だ。

予感的中ドアノブに静電気  村上てる

天正10年6月2日、京で「本能寺の変」勃発。

天下統一を目前にしていた織田信長は非業の死をとげた。

その知らせが350キロ離れた信濃国真田郷の昌幸に届いたのは、

いつ頃だっただろうか。

滝川一益が自主的に昌幸らに情報公開したという話もあるが、

北条氏直が変を知って、一益に問い合わせの書状を発したのが11日。

この以前に昌幸は変のことをを知っていた、動きをしている。

そこに修験者の情報があったからである。

そうだそうだこの手で行こう猫だまし 谷口 義


  ノノウの墓

「歩き巫女」

『信濃国小県郡禰津村が、江戸期三百年を通じて、

    我国で随一の巫女村である云々』

民俗学者・中山太郎「日本巫女史」でそう語る通り、
   ねず             とうみし   ねつ
小県郡禰津村、現在の長野県東御市祢津はかって、

「歩き巫女の里」
として知られ、現在も巫女たちの墓90基が残る。

歩き巫女はノノウ(ノノウ巫女)とも呼ばれ、全国各地を遍歴し、

祈祷や死者の言葉を伝える「口寄せ」「勧進」などを行なった。

ノノウとは、神様や先祖の霊を指す方言であるとも、

「のうのう」という呼びかけの声からそう呼ばれたともいう。

三日月のポーズでヒップ引き締める  合田瑠美子


 本屋の前の歩き巫女

信濃の巫女は各地で歓迎され、俗に千石取りに匹敵する物持ちで、

荷物は「荷持ち」と呼ばれる男性が運び、どこでも手形なしで歩ける。

全国を歩く彼女たちは、

修験者と同様に多くの噂や情報に接することになり、


保護する者に貴重な情報をもたらしたであろうことが、

容易に想像できる。


また時に彼女らは修験者と組んで行動し、口寄せの際、

憑依した霊に修験者が問いかけ、言葉を引き出す相方を務めたという。
                           あずまやさん
小県郡禰津は真田に隣接する地域であり、四阿山の修験者も多かった。

当然ながら、歩き巫女も真田氏の情報源としての役割を果たしていた。

信じてもよろしおすえ あぶらとり紙やから
                   山口ろっぱ


因みに、禰津が「歩き巫女の里」となった起源については一説に、

武田信玄望月千代「甲斐信濃二国巫女頭領」に任じて、

禰津に「歩き巫女を養成する場」を設けたことに始まるともいう。

望月千代は川中島合戦で討死した武田の将・望月盛時の未亡人で、

甲賀望月家の出身とされる。

甲賀望月家は忍術で知られるが、

もともとは信濃の滋野三家(望月氏、海野氏、禰津氏)の望月家の一族であった。

信玄が歩き巫女の養成を命じたのも、

彼女たちの情報収集活動を期待してということになるのだが、

とはいえ、望月盛時という人物は確認できず、

甲賀忍びの血をひくという千代についても確実な史料はない。

話には続きがあって船が出る  中村幸彦


 ノノウの説明板 (拡大すれば読めます)

そもそも信玄の声がかりで禰津が「歩き巫女の里」になったのではなく、

それより以前から歩き巫女は、この地を拠点に活動していたと見る方が、

自然だろう。

いずれにせよ禰津の古御館には、明治に至るまで数十戸のノノウ宿があり、

女性は巫女としと呪術を行なっていた。

戦国期の彼女たちが真田氏の保護のもとに活動し、

修験者とともに各地の
情報をもたらしていたことは、間違いないだろう。

「各地の情報をもたらした歩き巫女」・(歴史街道より)

酢で締める昆布も永遠も  山田ゆみ葉  

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墓標にはこんなもんじゃと書いてくれ くんじろう


   本能寺の変

「松はここで死んでしまうのか」

「本能寺の変」から2日たち、安土城下は明智の軍勢に占拠された。

信繁たちは琵琶湖近くの農具小屋に身を潜め、

安土から脱出する機会をうかがっていた。

「明智の兵がうろうろしています」  信繁が周辺を探ってきた。

そのとき、人質の子どもが泣きだし、明智の兵に見つかってしまう。

信繁たちが敵兵を引き付けて必死で戦い、松たち人質は捕まらないように

四方に散らばって逃げた。  

明智の兵は松を執拗に追いかける。


佐助が助勢に駆けつけ、一度は敵兵の手を逃れたが、

とうとう断崖まで追い詰められた松は、

琵琶湖が満々と水をたたえる崖下へと身を躍らせた。

ドラマ「真田丸」6話はこのように始まる。


はたして松は、本当にここで死んでしまうのだろうか。

マスキングだれか剥がしてくださいな  岡谷 樹

歴史ではこうなってます。

「村松殿」

松こと、村松殿は、永禄8年(1565)真田昌幸の長女として誕生。

真田信之・信繁の姉で、名は於国。

17歳のころ、真田家家臣の小山田茂誠に嫁ぐ。

しばらくして、茂誠が昌幸から小県郡村松を領地として与えられ、

知行地としたことから、「村松殿」と呼ばれた。

因みに茂誠の父は、甲斐国都留郡の国衆・小山田有誠

なお、天正10年に武田家が滅亡した後、織田信長に臣従した際に、

昌幸は人質を安土城へ送っているが、それが村松殿であったといわれる。

松は茂誠との間に、男児ひとり(小山田之知)を儲けている。

湯葉シュッとすくう寿色になる  田中博造
                 いぬぶし
慶長5年(1600)下野国犬伏で真田一族は、東軍につくか西軍につくか

去就を決断するための協議を持った。

信幸「徳川への恩」昌幸・信繁「豊臣の義」と三成への友情を主張。

いわゆる、真田存続の策ともいわれる「犬伏の別れ」である。

この時、    村松殿、夫・有誠、長男・之知らは、信幸に帯同。

慶長11年3月13日には、之知は信幸から知行を与えられている。

慶長19年(1614)からの「大坂の陣」では、

病床にあった信之の名代の信吉・信政兄弟に従い、子・之知と共に従軍。

茂誠は信繁とも親交があり、信繁から茂誠宛に出した近況を伝える手紙は、

信繁が最後に出した手紙であったという。

仮面から仮面に届くクール便  荒井慶子

「大坂・冬の陣」が講和休戦となったあとの慶長20年(1615)正月24日、

大阪城中から信繁は、『お便りいただきましたので、一筆したためます』

の書き出しで、姉(村松殿)に対して書状を送っている。

『お伝えしたいことがございましたので、一筆申し上げます。

   さてさて今度、思わぬことから合戦となり、

   わたしたちもこちらへまいりました。


   おかしなことと思われたことでしょう。

   しかし、まずまず無事にすみ、わたしたちも死なないですみました。

    お目にかかって申し上げたいと思います。

 明日はどうなるかわからない情況ですが、いまは何事もありません。

   主膳殿(村松殿の長男・小山田之知)にも時々、お会いしますが、

   こちらがとりこみ忙しがっていますので、

   ゆっくりとお話もできませんでした。


   こちらはかわったこともありませんので、ご安心ください。

   くわしく書きたいのですが、この者が急いでいますので、

   あわてて書きました。     
またお手紙をさし上げます。

                                                                                                    かしく

※ わたしたちとは=信繁・大助父子と一族郎党。
※ こちらへとは=九度山から大坂城・秀頼に出仕したこと。

割り算の余りがとても愛しい  雨森茂樹

【原文】
(たより御さ候まま一筆申あけ候、さてもさてもこんとふりよの事ニて、
御とりあひニ成申、われわれここもとへまいり申候、
きつかいとも御すいりやう候へく候、たたし、まつまつひすミ、
われわれもしに申さす候、御けさんニて申たく候、
あすにかハり候ハんハしらす候へとも、なに事なく候、
しゆせんとのニもさいさいあひ申候へとも、ここもととりこミい申候まま、
心しつかに申うけたまわらす候、ここもとなに事もなく候まま、
御心やすく候へく候、くハしく申たく候へとも、
此ものいそきたちなから申入候ままさうさう申候、かさねて申入候へく候、
                                                                                          かしく、
正月廿四日     さへもんのすけ
                         むらまつへまいる

                                                                     (真田一族の史実とロマン 東信史学会)

うっすらと血を通わせて空動く  岩田多佳子

村松殿からの見舞いに対して返信する信繁の、

姉に対する親愛の情が感じられる。


彼はこの中で村松殿の夫・有誠や子息・之知のことにも、触れているが、

「大阪の陣」に参加した有誠も、休戦中、何度か信繁を訪ねたのだろう。

夫婦ともに、信繁の身の上を心配していたのだ。

村松殿は寛永7年(1630)6月、死去。 

享年65歳。


ドラマの死より、47年長生きしている。 法名は宝寿院殿残窓庭夢大姉

ぬらりひょんから人間の取り扱い書  前中知栄

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天かすになり天麩羅を離脱した  井上一筒


  真田信尹

「真田生き残りの陰の立役者」

北条・徳川・上杉という三大勢力がせめぎあった「天正壬午の乱」に於て、

巧みに陣営を替えつつ、自らの所領を守りぬいた真田昌幸

その鮮やかな手腕を影で支援した人物がいる。

昌幸の実弟・加津野昌春信尹)である。

昌春は昌幸同様、幼くして武田家の人質となり、

信玄の命で甲斐の名族・加津野氏の名跡を継承。

槍奉行を務め、武田家臣団の一翼を担う存在であった。

そして、武田家滅亡後は兄・昌幸と別行動をとりつつ、

昌幸の意を汲んで、真田本家のために暗躍するのである。

暗雲にそなえ寝息を溜めている  清水すみれ

本能寺の変後、上野の滝川一益が北条氏に追われると、

昌幸は一時的に上杉景勝に従属し、北条氏直の信濃侵攻を前に、

北条に鞍替えした。

この時、上杉陣営に残り、北条に与する兄のために、

上杉方将士へ調略を仕掛けたのが、昌春である。

おそらくそれは昌幸の指示であったろう。

しかし調略が露見すると、昌春は上杉領から退去した。

三分間のアリバイがないのです  森田律子

ほどなく北条と徳川の対立が信濃・甲斐で始まると、

昌春は次に徳川家に身を投じる。

これもまた、昌幸の指示であった可能性が高い。

そして昌春の存在が、昌幸の運命に大きく影響する。

北条の大軍を前に苦境に立つ徳川家康は、
       よだのぶしげ
武田旧臣・依田信蕃らの進言もあり、

北条に与する昌幸を陣営に迎えることを望んだ。

この時、そのパイプ役を果たしたのが、昌春であった。

善悪の手前に損得があって  中村幸彦



その後、昌幸は、徳川と手を切るが、昌春は残留。

紆余曲折を経て、その子孫は徳川の旗本となった。

なお大阪の陣の折、信繁に徳川につくことを誘ったという。

                         参照・平山優『天正壬午の乱』

手を打って鬼に知らせる鬼ごっこ  青砥たかこ

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隙間の件でよせてもろてもいいですか 竹内ゆみこ


天正壬午の乱勢力図  (画像は拡大してご覧ください)

天正10年6月2日、京で「本能寺の変」勃発。

天下統一を目前にしていた織田信長の死を千載一遇の好機とみて、

上杉景勝、北条氏政、氏直父子、さらに徳川家康が甲信・上野などの
     さんだつ
旧武田領簒奪に向けて動き始めた。

「天正壬午の乱」と呼ばれる争乱の始まりで、

信濃・上野に拠点を持つ真田氏は、大大名たちの侵攻に直面する。

こうした混乱の中で真田昌幸は、自身を取り巻く情勢を的確に読み、

大大名たちを次々に手玉にとって、独立大名として生き残っていく。

それはまさに神業だった。

煽てたら行進曲になりました  美馬りゅうこ  


   岩 櫃 城


「天正壬午の乱ー概略」

『天正10年6月末~7月中旬』

上野を領する滝川一益は北条氏に追われた。

滝川に帰属していた真田昌幸は沼田城・岩櫃城を取り戻す。

沼田・吾妻領を固めた昌幸は、北信濃を窺う上杉に従属するが、

7月中旬に北条の大軍が信濃に侵攻してくると、

上杉から離れて北条に従う

善人の貌へ修正液こぼす  笠嶋恵美子

矛先を変え、碓氷峠を越えて信濃に入った北条軍2万は、

川中島まで進み、
海津城に入っていた上杉景勝軍8千と対峙。

しかし海津城の内通工作に失敗した北条氏直は、

徳川家康が進出中の甲斐に転進する。

昌幸は上杉への備えを主張して、小県に残留。

一見、北条の後顧の憂いを除く提案である。

しかし、昌幸の思惑は別にあった。

すなわち昌幸は独立に向けて、自然な形で北条と距離を置いたのである。

この辺で飛んでみなはれ運だめし  前中知栄

『7月下旬~10月末』

甲斐に入った北条氏直は、若神子城に拠り、新府城の家康と対峙。

一方、北条軍別働隊が御坂城に入り、家康の腹背を衝く構えを見せた。
                   きか
劣勢の家康は、昌幸の存在を奇貨として陣営に誘うと、昌幸はこれを受けて、

沼田城・岩櫃城に固執する氏直を見限って、10月下旬に手切れを通告。

徳川に与する。

氏直は昌幸を牽制すべく、配下に岩櫃城攻撃を命じるが、
    よだ のぶしげ
昌幸は依田信蕃とともに碓氷峠を占領。

北条軍の補給路と人馬の往来を遮断した。

氏直にすれば見事に昌幸に急所を衝かれた格好で、

結果、形勢不利となった氏直は、信濃から撤退、

同時に家康と和解し、
徳川・北条同盟が結ばれる。

指切りの指落ちつかず長い夜  藤原邦栄

『閏12月~天正12年6月』

巧みに真田を取り込んだと思われた家康ですら、

実は、昌幸の掌の上で転がされているに過ぎなかった。

北条が信濃より去ると、昌幸は小県を完全掌握するとともに、

家康に上杉の脅威を訴え、

徳川の支援を得て尼ヶ淵に新城を築く。


上田城であった。

押さえられなくて踊っているハミング  畑 照代


 尼ヶ淵から見た上田城

ところが問題が起きる。

家康が北条との和睦を結ぶ際に、

家康は真田の沼田・吾妻領の北条への引渡しを条件にしていた。

しかし、昌幸は断固としてこれを拒否。

家康は自分に従わぬ昌幸を亡き者にすべく、天正12年6月、

信濃の国衆・室賀正武を使って暗殺を画策するが失敗し、

真田と徳川の関係は悪化する。

昌幸は家康との断交を視野に、

新たな帰属先に選んだのが上杉景勝であった。

つついてもつついても沈まない箱  森田律子

『天正13年7月』

天正13年4月、昌幸は家康からの正式の使者に対し、

「沼田は徳川や北条からいただいた領地ではない。

    自分の武功によって得たものを、北条に渡せるものか」

と大見得を切って見せた。

言うまでもなくその背景には、上杉という「保障」がある。

徳川と決裂した昌幸は正式に、上杉への帰属を申し入れ、

7月15日に寝返りが決定する。

景勝は昌幸に対し小県・沼田・吾妻への援軍派遣を保障し、

大幅な加増も約束していた。

昌幸側からは、二男の信繁が人質に出され、

閏8月2日、「第一次上田合戦」が始まる。

犬の小便ごときに負けぬタンポポ  雨森茂喜

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