忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[184] [185] [186] [187] [188] [189] [190] [191] [192] [193] [194]
かさぶたの下仄かに煮えることがある  たむらあきこ

c23327c9.jpeg

    保元合戦図屏風

画面左に「白河北殿」、右側に攻め寄せる「源義朝軍」を描く。

右面・後方でひときわ立派な黒馬に乗り、戦況を見守るのが
義朝

門脇では、弟の
為朝が強弓を引いて応戦する。

門内で騎馬の一団を率いるのは、二人の父親・
為義である。

殿内には、不安そうに戦況を見守る公卿が描かれている。

左上・高欄から身を乗り出しているのは、
藤原頼長だろうか。

(画面上でクリックすると画像が大きくなります)

おいでおいでと四面体のキツネ  山口ろっぱ

c5d2a675.jpeg   


「開戦秒読み」

藤原家親子の葛藤が、火に油を注いだ形で、

人々は、「新院方」「鳥羽方」に競って参集しはじめ、

そうした異様な雰囲気が、盛り上がるなかで、

鳥羽の死が、伝えられたのだった。

何色に咲くのか知らぬ種をまく  杉本克子

その夜から、早くも、「新院謀叛!」

という噂が市中を駆けめぐった。

新院方(崇徳方)では、

不穏な情勢下での警護の強化という名目で、

武家に召集をかけ、

柳ノ水の御所には、源氏、平家の武将たちが、

続々と集まり始めていた。

市中を駆ける兵馬は、

いっそう、人々の不安と興奮を煽った。


右向け右の列の怖さを忘れない  森 廣子

4cb654f8.jpeg

一方、鳥羽の亡骸を守る側は、後白河がいることから、

「内裏方」(鳥羽・美福門院方)と呼ばれ、

得子と入道・信西、忠通らが、新院方の動きに呼応して、

こちらも武家に召集をかけ始めた。

信西は鳥羽の第一の寵臣と、誰もが認めてきた人物で、


下級の公家では、

「うだつが上がらない」 と出家して、

院政体制に食い込んできた辣腕の政治家だった。


眼の奥に消えないものが咲いている  ふじのひろし

当時の武家は、公家階級に比べると、

格段にその地位が低かった。

内裏や御所の警備にあたり、

地方の反乱鎮圧に向かう、

武力行使の専門集団という程度の、存在でしかなく、


摂関政治のころは、

指令を発する藤原氏を主筋と仰いできた。


粘るとはこうして今日も生きること  河村啓子

だが、院政時代になって、

少しづつ意識も変わりはじめ、

しだいに"自我"が芽生えてきた時期にあたる。

こうした情勢下で、摂関家が親子二つに割れ、

鳥羽の死とともに、

それぞれが、武家に召集をかけ始めたのである。

そこのけそこのけと直線を通す  高島啓子


新院方には、源氏の頭領・為義頼賢(よりかた)

頼仲、為朝など、息子たちを引き連れて参集した。

平家からも、清盛の叔父の忠正

一族の長盛、康弘などの武将が、

手勢を率いて駆けつけた。


てのひらの感情線を握りしめ  谷口 義

一方の内裏方には、為義の嫡男・義朝が駆けつけた。

愛人の常盤が、亡き近衛帝の中宮に仕えていたためで、

源氏一党の落胆は大きかった。

が、為義は源氏嫡流に代々伝わる鎧を届けて、

別れを告げた。


さよならさよなら流れて行くのだね  安土理恵

360cc815.jpeg

60余年前に白河が院政を始めるまでは、

長いこと、摂関政治が行なわれてきた。

つまり、摂政・関白を出す藤原家が、

天皇を補佐するという名目で、政権を握ってきたわけで、

それを天皇家に取り戻そうというのが、

白河が院政を始めた理由だった。


忠実頼長には、新院方について、

重仁とともに、再び

「摂関政治を復活させたい」 という思惑もあった。


どぶ板の含み笑いを聞き流す  井上一筒

拍手[3回]

PR
人生の上がりに匂う沙羅双樹  片岡加代

845e7f33.jpeg

雅仁親王の周りが騒がしくなる。

近衛帝が重篤になったとき、

崇徳院の屋敷に、にわかに人々が集いはじめた。

誰もが後継天皇は、

「崇徳の嫡子・重仁の即位しかない」

と考えたからである。

崇徳に寄った人々は、「新院方」と呼ばれ、

その筆頭には、

摂関家の藤原忠実と次男の頼長がいた。

集客力がある3階の野原  井上一筒

fb9992f9.jpeg


一方、こうした、新院方の動きに対する反発や、

鳥羽の絶対権力を頼みとする人々が、

鳥羽殿へと集まり始めた。

「鳥羽方~内裏方」である。

その筆頭には、なんと忠実の嫡男・忠通がいた。

娘を近衛のもとに、入内させていたこともあったが、

父や弟との不仲から、

対立の道を選んだものだった。

シルエットだけから言えば狢です  合田瑠美子

この藤原家親子の葛藤が、火に油を注いだ形で、

結果、「崇徳院(新院方)」を中心とする勢力と、

「美福門院・近衛天皇(鳥羽方)」を中心とする勢力とが、

対立することになった。

美福門院の従兄弟は、

鳥羽院の一番の寵臣・藤原家成であり、

力関係は、美福門院の方が優勢であったが、

崇徳院派も、外戚である閑院流を中心に、

無視し得ない勢力をもっていた。

※ 閑院流=三条・西園寺・徳大寺など、藤原北家支流の公家の一門

発酵はまだアクセルとブレーキと  前中知栄

233a31c3.jpeg


ところが、「保元の乱」の前年の久寿2年(1155)

近衛天皇が17歳の若さで亡くなり、

バランスが大きく崩れてしまう。

近衛天皇に子がなかったため、

「誰を次の天皇にするか」

 の問題が、いよいよ熱をおびてくる。

おひさまのくしゃみに迷う磁気あらし  藤本鈴菜

そこで、候補として浮上したのが、

美福門院が、養子として迎えていた、

重仁親王と雅仁親王の子・守仁王の2人だった。

それまでの待遇は、

院の皇子である重仁の方が、格上であり、

守仁は、仁和寺に入って出家する予定であった。

並列の前後で散らかしてばかり  山本早苗

7e81933e.jpeg

ところが、いざ近衛天皇が死去すると、

重仁親王を即位させたのでは、

父・崇徳院の力が強くなり過ぎ、

美福門院たちを圧迫しかねない。

結局、鳥羽院は、美福門院のために、

崇徳院と重仁親王を切り捨てた。

矢印の太さに引き摺られている  たむらあきこ

とはいえ、守仁はまだ13歳。

政治的に独り立ちできる年齢ではない。

しかも、健全な父親を差し置いて、

子が即位するというのは、先例のないことであった。

最初から迷路の口は開いていた  佐藤美はる

ad06f69c.jpeg


このとき、鳥羽院と美福門院との間には、

近衛天皇のほかに男子がなく、

娘の八条院を即位させる案も出されたが、

実現には至らなかった。

こうして、鳥羽院を中心に、協議が行なわれた結果、

後継者選びは、意外な人選で決着する。

鳥羽院と待賢門院との間に生まれた、

第4皇子・雅仁親王に白羽の矢が立ったのだ。

後白河天皇である。

都合よく裏口の鍵落ちている  安土理恵

いろいろと事情を考慮して、父の後白河天皇が即位し、

守仁は皇太子とされたのである。

つまり、後白河天皇は、

もともと、皇位を継承する予定ではなく、

守仁が即位するまでのいわば、

「中継ぎ」として立てられた「天皇」だった。

ワンランク上げた噂はもり上がる  山本昌乃

拍手[3回]

つよ気とよわ気はしる稲妻もて余す  桜 風子

b499bd61.jpeg

     源 義朝

「源為義、義朝親子は、なぜ敵味方に分かれたのか?」

義朝は、少年期に父・為義と別れ、

東国の源氏一族の庇護を受けて成長した。

東国に下った理由は、定かではないが、

廃嫡同然に、勘当されたためではないかといわれる。

あれこれを月の光の所為にする  河村啓子

父の愛情を知らずに長じた義朝だが、

源氏の棟梁の嫡男として、

東国の豪族を傘下に収め、

鎌倉を中心にして、勢力を伸ばした。

東国に基盤を固めた義朝は、

やがて上洛し、鳥羽上皇に接近する。

新しい一歩の靴をはきかえる  山口美千代

一方、父・為義は、

天仁2年(1109)検非違使に任じられたものの、

さして振るわなかった。

摂関家の内紛に、

「悪左府」といわれた藤原頼長を有望とみて、

主従関係を結ぶ。

だが、やがて頼長は、鳥羽法皇に疎まれ、

同じく法皇に嫌われた崇徳上皇に接近する。

この上皇方が、乱の敗者となる。

何回も越えたつもりのバカの壁  佐藤狂四朗

9b4ee74d.jpeg


為義は一族の内紛を、収めることも出来ず、

源氏の棟梁としての、才覚を疑われていた。

八男・為朝が西国で、

狼藉を働いたことの、責任を問われる形で、

家督を義朝に譲りわたすと、

一族の多くが、若き頭首義朝になびく。

逆へ逆へと魚群探知機の渦  くんじろう

親子はこうして、対立を深め、

「保元の乱」では、

子が父を斬首する結果に終わった。

「父を切る子、子に切らるる父。

  切るも切らるるも宿執(しゅくじゅう-宿縁)の拙き事。

  恥ずべし恥ずべし、恨むべし恨むべし」
 (保元物語)

61の齢を重ねた、為義の「辞世の言葉」である。

錆色になって明日に拾われる  酒井かがり

edf0edfa.jpeg


「保元の乱の後始末」

敵方の処罰は、勝者である清盛義朝にとっても、

つらいものになった。

清盛が叔父・忠正とその息子たちを、

六波羅の近くで斬首したのに続き、

その二日後、

義朝も自らの手で、父・為義と5人の弟を処刑した。

このとき、為朝は一人逃亡中であったが、

のちに捕らえられて、伊豆大島に流される。

定位置をかえても葬儀屋が見える  都司 豊

さして仲のよくない叔父一族を斬った清盛に比べて、

実の父や年若い弟たちに手をかけた、

義朝の心痛は大きかったはずだ。

『保元物語』によると、

清盛が忠正を斬ったならば、義朝も

「為義たちを斬らざるを得なくなる」ことを見越して、

進んで叔父の処刑に踏み切ったという。

それが、義朝に刑の執行を、

決断させることに、なったのかもしれない。

多情多恨誰も責めてはおりませぬ  山口ろっぱ

拍手[2回]

注射針から噴き出したカーニバル  井上一筒

 ooyama.jpg

義親を追討する正盛(大山寺絵巻)

 

出雲国のも目代を殺害した義親(左上・洞窟に座す)の、

追討を命じられた正盛(右方・舟上の指揮者)は、

討伐に向かった。

この勝利は、平氏の拡大のきっかけともなる。

薄氷の差だねと惜しみない拍手  青砥たかこ

aef9e28e.jpeg

「平氏伸張のはじまり」

「朝敵追討は、源氏に限らぬこと、よう分った」

八幡太郎義家の嫡男・義親の討伐を、

見事成し遂げた、清盛の祖父・正盛を、

白河法皇は、頬を綻ばせ賞揚した。

ともあれ、この一件以来、

白河院は正盛を信愛し、
近臣として重用した。 

滾る血はひと色にんげんの鎖  鶴本むねお

 

こうした間にあって、正盛は悟るところがあった。 

「源氏のように武辺一点張りでは、武士は

  公家の頣使(しんし)するままに甘んじなければならぬ」
 

と。

そこで正盛は、嫡男・忠盛を当代一流の師につけ、

武術はもとより、和歌、舞など、公家の子弟に劣らぬまで、

徹底的に仕込んだ。

飛ぶために大きい荷物から捨てる  西山春日子

正盛は、「公家の青瓢箪に負くるな」 と叱咤し、

忠盛はこれに応えて、よく励んだため、

公家の子弟に劣らぬ、教養深き若者に成人した。

そして、正盛の目論みは、見事に成功した。

公家の中でも、良家の子弟しかなれぬ、

賀茂臨時大祭の「舞人」に選抜され、

華やかに、舞おさめたのだ。

人生の大きい無駄を温める  足立 暁

忠盛もまた、正盛の意思を受け継ぎ、

子どもたちに和歌・舞など、宮廷的教養を身につけさせた。

中には、和歌に秀逸ぶりをみせた、

忠盛の末子・忠度(ただのり)や、

後白河法皇五十歳を祝う賀宴で、

春の夕明かりの中、

雅に舞った清盛の孫・維盛がでている。

負けてたまるか階段を駆け上がる  新家完司

aef9e28e.jpeg

「清盛、平氏の棟梁となって」ーあらすじ

平忠盛がこの世を去り、

正式に平氏の棟梁となった清盛に、

頭の痛い訪問者がくる。

平氏と親交の深い藤原家成が訪ねて来て、

自身の別邸で催す歌会で、清盛に、

「一首詠んでほしい」と依頼してきたのだ。

清盛が、父・忠盛の英才教育を無視し続けた。

そのツケが回ってきた。

落とし穴の中から聞えてくる鼾  笠嶋惠美子

清盛は、しぶしぶ覚悟を決めるが、

歌会の日が間近に迫っても、

一向に歌ができる気配はない。

歌詠みの宿題に困り果てた清盛は、

信西を頼るが、あっけなく断られる。

そのうえ、歌会での振る舞いが、

「平氏一門の未来を左右する」

と言われ、清盛は重責を感じる。

落とし穴の中から聞えてくる鼾  笠嶋惠美子

536d7793.jpeg

 

一方、棟梁の妻となった時子といえば、

宴で振る舞う膳の数を、誤ったうえ、

名誉挽回にと請われた琵琶も、弾けないと辞退。

そんな彼女に清盛は、 

「それでも棟梁の妻か!」」とどなる。

焦る清盛、右往左往の時子と、

新しい棟梁の誕生は、

あたふた、ごたごたの家庭ドラマを生む。

ここで泣くここで笑うと言われても  合田瑠美子

73f22f2a.jpeg

清盛の棟梁就任祝いにかけつけた常盤義朝

いざ、棟梁となって、 

「亡き父上の固き意志を継ぎ、武士の世を目指す!」

 

と、清盛は一同に宣言するものの、

実務を引き継いでみると、実に多忙。

清盛は父・忠盛の有能ぶりを、

改めて、痛感するのだった。

真っ直ぐに歩く心の叫ぶまま  佐藤后子

3921c995.jpeg

「清盛が詠ったと思われる和歌」
 
久安3年(1147)平家一門の新しく棟梁となった清盛は、

 「そもそも、平家かやうに繁昌せられけることを、

   いかにといふに、熊野権現の御利生にてぞありける」


と伊勢の津港から、熊野にお礼参りに向った。

その航海中、大きな鱸が船中へ飛び込んできた。

今日がもう始まっている海の音  加納美津子

 
それを見た清盛は、

「昔、周の武王の船に白魚が躍り込み、

  やがて、天下を制する事になったと云う吉兆がある。

  精進潔済の旅ではあるが、これも権現様の神意とあれば、

  辱けなく頂戴してそなたらにもお裾分けをしよう」


と刺身に作り、家貞ら郎党たちにも食べさせて、

大いに、前途を祝したという。


手の届く高さに夢とあんぱんと  嶋澤喜八郎

和泉国大鳥大社に歌碑として残っている清盛の句

"かよひこぞよ帰りはてなば飛びかけり  育み立てよ大鳥の神 "

(平氏の旗印の蝶をなぞらえ、幼虫が成虫となり羽ばたくように、

  平氏もますます栄えありますことを・・大鳥の神)


清盛重盛が熊野詣での途中、

源義朝が、反乱を起こしたことを知り、

二人は、とってかえして京に戻る。

その途上、文武の神様が祭られている、

大鳥大社(和泉/堺)に立ちより


戦勝を祈願したとされる。

天上天下桜の下の御釈迦様  森 廣子

「ほか、二首」

"又も来ぬ秋を待つべき七夕の 別るゝだにもいとゞ悲しき"

"雲居より只洩り来る月なれば 朧気にては云わじとぞ想う"

見逃してくれる桜も青空も  清水すみれ

拍手[6回]

生涯を独活まで来たる思いかな  大西泰世

kugyou.jpg

      公 卿

仁平3年(1153)1月、平忠盛が58歳で亡くなった。

武士として、初めて、「内昇殿」を許され、

大国の受領を歴任し、

受領としては、最高クラスの「播磨守」も経験した。

また、死の2年前には、「刑部卿」に就任しており、

位も「正四位上」と四位の最上位に達していた。

その上は三位、すなわち「公卿」である。 

紙ふぶきこぼしてて恋を終わらせる  笠原道子

80cb9671.jpeg

 

国政に携わるのも、

夢ではないところまできていただけに、

まことに惜しい死であった。

「祇園社乱闘事件」では、

忠盛・清盛父子の刑を主張した、

「悪左府」藤原頼長でさえ、

忠盛の死にあたって、次のように日記に記している。 

「数国の吏を経て、富は巨万を累ね、

  奴僕は国に満ち、武威は人にすぐる。

  然るに人となり恭倹にして、未だかつて、奢侈の行あらず。

  時の人、これを惜しむ」

 

(巨万の富と多くの家人をもち、人に勝る武威を身につけながら、

  性格はあくまで慎み深く、ぜいたくな振る舞いはなかった)

バネだけになってしまったバネ秤  筒井祥文

もっとも、「正四位上」というのは、

通例では、あまり、"与えられる者のない位階" である。

公卿になる人は、これを飛び越えて、

三位になることが、ほとんどであったのだ。

忠盛が、異例の正四位上についたのは、 

「何としても平家を公卿にしてはならない」

 

という政治的な力が働いた結果なのだろう。 

さっきの出血は赤ペンキでした  井上一筒

 

いかに富を蓄え、武力を持ち、

宮廷人としての、素養を身につけても、

武士が公卿にのぼる道は、

依然として険しかったのである。

だが、その道は、決して遠いものではなかった。

武士の地位、そして、

平家に飛躍をもたらす「保元・平治の乱」

すぐそこまで、迫っていたのである。 

海に出る覚悟を決めた冷奴  清水すみれ

082a0d41.jpeg

 

ときに、清盛36歳。

平家の棟梁となった清盛は、

いよいよ、

歴史の表舞台へ飛び出していく。

哀しみはマスクの中に閉じ込める  合田瑠美子

 

『余談』

忠盛が命じられた「高野山大塔」の造営事業は、

仁平3年(1153)の忠盛の死後は、

清盛に引き継がれ、

保元元年(1156)に竣工した。

厳島との関係が生まれたのは、この間のことである。 

いつの世も飽かず求める開け胡麻  下谷憲子

35d598e1.jpeg fb5d9cec.jpeg

 

鎌倉初期に生まれた説話集・『古事談』によると、

清盛が高野山の大塔を造営していたとき、

自ら材木を運んでいると、

弘法大師の化身である僧が現れて、

厳島に奉仕するよう勧めたという。

平家納経の「願文」に、 

「夢感誤り無く、早く子弟の栄華を験す」

 

(夢のお告げどおり、一門に栄華がもたらされた)

と述べられている。 

春嵐ゆっくり足を組みなおす  森田律子

 

拍手[2回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開