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川柳的逍遥 人の世の一家言
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もういいとかたちを神様に返す  たむらあきこ

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寛永3(1626)年9月15日、

は、江戸城西の丸で、54歳でその波瀾の人生に幕を閉じる。

法名は、「崇源院殿昌譽和興仁淸大禪定尼」

遠雷や文庫を括る手くらがり  吉澤久良

お江がこの世を去ったのは、

秀忠・家光・忠長が上洛していた時である。

家康・秀忠・家光という徳川三代の時代は、

将軍職に任命される時、

上洛して「将軍宣下」を受けることになっていた。

その晴れの舞台は、京都南郊の「伏見城」である。

落葉焚きイエスタデイを聴きながら  加納美津子

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元和9年(1623)に、家光は秀忠とともに上洛し、

将軍職に任命されたが、寛永3年にも上洛している。

この年、家光の妹・和子が女御となった後水尾天皇が、

京都の「二条城」に、行幸することになったからだ。

こうして、秀忠・家光・忠長をはじめとする徳川一門や、

有力大名も続々と上洛し、天皇の行幸を迎えた。

千枚漬にはさんで今日を消化する  高橋謡子

天皇の行幸は、9月6日から10日まで5日間に及んだ。

ところが終了後の11日、

江戸からお江の危篤を知らせる急便が、

秀忠たちのもとに届く。

忠長は、その日のうちに江戸に向かった。

家光も側近の稲葉正勝(春日局の子)を向かわせたが、

15日にお江は、この世を去ってしまったため、

臨終に間に合わなかった。

いじわるをちょっとしかけてくる雫  小西カツヱ

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徳川家増上寺墓所全景

家光は19日に京都を出立する予定だったが、

前日の18日夜、お江死去の急便が京都に着いたため、

出立を延期している。

お江の霊廟は、「増上寺境内」に建立された。

お江は増上寺に葬られた徳川家の一族のなかで、

唯一「火葬」となっている。 

≪紅蓮の炎のなか、大坂城内で自害した淀と同じく、

    その身は、火の中に消えていったわけだが、

     当時としてはきわめて異例だった≫

 

風はこぶとぎれとぎれの子守唄  新川弘子

火葬の理由は定かではない。

お江の意志だったのかも分からない。

その不自然さにより、

毒殺説まで伝えられているほどだが、
真相は分からない。 

≪お江の晩年の体調を具体的に知る史料もなく、

    現在に至るまで、その死は謎に包まれたままである≫

 

秋深し花屋の菊に風がない  籠島恵子

≪昭和34年に実施された増上寺内の徳川家霊廟改葬の際、

   学術調査が行われた。

   お江の棺も開けられたが、

   その中には,火葬された後の大小の骨片、炭、鉄釘、

  そして、櫛の歯の残片が入っていたという。

  木炭を用いて火葬にし、そのまま炭ごと骨などを棺に納めたのだ。

  その骨は、意外と細かったことが明らかにされており、

  お江は,華奢な体型だったのではと推定されている≫

散りぎわの紅葉 私を黙らせる  和田洋子

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       二重橋

なにはともあれ江は、

母・お市の方の織田・浅井の血を残すという遺命を、

果たしたのみならず、

幕府と皇室にまで、血を伝えたのである。

しかし、お江は寛永3(1626)に死去しており、

娘が即位する日を、見ることはなかった。

切りのいいところでポンと蓮の花  山本美枝

拍手[5回]

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天と地の境は逆立ちをして歩け  井上一筒

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歌川広重・「目黒爺々が茶屋」

”目黒のさんま”という落語はよく知られているが、

これは将軍の鷹狩に大きく関係している。

3代将軍・家光は鷹狩を好み、

碑文谷原や駒場野などの目黒近郊によく遊猟に出かけたという。

≪村々にて鷹狩が滞りなく行えるよう管理を行う役を通称、

   「鷹番」というが、目黒区内にはそれにちなんだ地名も残る≫

「家光と忠長」

元和9年(1623)7月27日、

家光は三代将軍に任命された。

時に家光は20歳。

秀忠45歳。

お江は51歳になっていた。

江が将軍の御台所から、将軍の母となった日でもあった。

親馬鹿やさて行く末の丁と半  戸田健太郎

家光が将軍に就任する前年に、本丸御殿の改築が完了し、

翌年には、天守閣も再建される。

すべて、家光が将軍に就くための準備であった。

本丸御殿には、現職の将軍が住んだが、

西丸御殿は前将軍、あるいは、時期将軍の御殿として、

位置づけられていた。

寛永元年(1624)11月3日。

本丸御殿には秀忠、西丸御殿に家光が住んでいたが、

将軍職就任に伴い、家光は本丸御殿に移る。

近未来カーブミラーが映してる  高浜 勇

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家光が使用したと伝わる葵紋が入った碗セット(喜多院)

秀忠はお江と共に、その一か月以上前の9月23日、

改築成った御殿に移っていた。

その後、江戸城の大改築が始まる。 

≪現在の外堀が造成されて、江戸城総構えが完成したのは、

   寛永13年のことである。だがお江も秀忠も既にこの世にいなかった≫

 

柿の木に登って見てた天守閣  合田瑠美子

家光が本丸の主となった翌年に、

御台所が五摂家のひとつ、鷹司家の孝子と決まる。

お江は、この結婚に奔走したようだ。

お江が、羽柴秀勝との間に儲けた完子は、

同じ五摂家のひとつ九条家当主の忠栄に、

嫁いでいたが、
そのバックアップもあって、

鷹司家の娘を、江戸城大奥に迎えることができた。

≪以後、五摂家の娘が将軍の御台所に選ばれるのが慣例となる≫

しかし、家光と孝子の仲はよくなかった。

当時、家光が女性には興味がなかったこともあり、

 二人は、いわば家庭内別居状態にあった。

きみ嫁けり遠き一つの訃に似たり  大西泰世

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紅葉山を下りてくる一行(輿には家光が乗っている)          

孝子が御台所に迎えられた翌年(寛永3年)に、

お江はこの世を去るが、

その死は二男・忠長の運命を変えてしまう。

忠長にとり、

最大の庇護者を失うことを意味していたからだ。

この年、家光は右大臣に叙任し、

忠長は大納言に任命された。

家光が将軍に就いた翌年に、

忠長は、駿府城と遠江国 55万石を与えられており、

ここに、駿河大納言が誕生する。

しかし、お江が死去し、

さらに秀忠の最期のときが近付いてくると、

忠長の所行が、常軌を逸するようになる。

ためらいを見せて足音遠ざかる  山田葉子

例えば、寛永8年(1631)のはじめに、

自分に仕えていた大阪船手頭の小浜光隆の子を、

何かの咎で、殺害したことがあった。

ところが、

その翌日に殺害した者を呼び出すように命じたという。

この頃には、こうした正気とは思えない忠長の、

所行の数々が、
世間一般に広まっていたようだ。

ついに、幕府も無視できなくなる。

性格は似ても似つかぬ左右の手  嶋澤喜八郎         

徳川家一門であっても、

幕府の安定のためには、改易は免れなかった。

その一例を言えば、

お江の娘・勝姫の婿である福井藩主・松平忠直は、

重臣・永見貞澄の一族を討滅し、

家臣団を恐慌状態に陥らせていた。

参勤交代の規定も守らなかった。

よって、家光が将軍に就いた年に改易に処せられている。

面取りをしすぎて居場所見失う  河村啓子

そうした先例があるため、

次は忠長が改易されるのではという噂が、

諸大名の間でも流れていた。

同年5月、秀忠は忠長を駿府城から、

甲斐国に移すことに踏み切る。

ただし、改易ではない。

駿河・遠江 55万石の所領はそのままだった。

秀忠としては、世間の評判に配慮しつつも、

忠長の気持ちが落ち着くことに期待して、

所領をそのままにしたのだろう。

投げられた茶碗を拾う私を拾う   時実新子

しかし、秀忠の死期も刻々と近づいていた。

病が重くなっていたのである。

それを伝え聞いた忠長は、

秀忠への見舞いを幕府に願い出る。

併せて自分の赦免も願ったが、幕府は認めなかった。

翌9年1月、秀忠が死去すると、忠長は所領を没収され、

身柄を高崎藩主・安藤重長のもとに移された。

同10年12月6日、幕府から自害を命じられる。

享年28歳だった。 

大の字になって明日へ送られる  鶴 彬
 
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    忠長自刃の間

忠長をはじめとする徳川家一門の粛清とは、

「幕府権力を確立しよう」 

という、徳川将軍家の強い意志を、

内外に示すものに他ならなかった。

お江最愛の息子は、その犠牲になる。

そうした尊い代償を払うことで、

もうひとりの息子・家光の権力基盤は、

磐石なものとなったのである。

過去帳はもう谺さえ返さない  たむらあきこ

拍手[4回]

泣いた子の記憶ばかりが母にある  森中惠美子

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      徳川家光

「将軍の生母・天皇の姑」

幕藩体制の基盤強化に励んだのが、

二代将軍・秀忠だとすると、

それを完成させたのが、

三代将軍・家光である。

大老・若年寄・大目付・目付などの「幕府機構」を定め、

諸大名には、「参勤交代」を義務づけ、

対外的には、「鎖国体制」を完成させたといわれている。

足は葦を合わせ持ってる屈性  中山恵子

にもかかわらず、家光は、 

「すべて重臣まかせ」、

「馬鹿で頓狂者で、他愛もない人」

 

など、後世の人からも酷評される始末。

お忍びで、市中に出たり、

家来を置き去りにして遠乗りしたり、

男色にふけったりと、奇行も目立ったという。

B面を捨てたときから光りだす  中野六助

そうした性格や行動の一端は、

幼少時代に乳母であるお福(春日局)に、

溺愛されるように育てられた結果かもしれない。

病弱で、気弱な家光を当初、

父・秀忠や母のお江は遠ざけるが、やがて父母とも和解し、

徳川三代将軍として、成長していく。

潮騒の欠片 あしたへ握手する  前中知栄

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      明正天皇

「天皇の姑」

お江が秀忠との間に設けた五人の娘のうち、

末娘の和子(14歳)は、

御水尾天皇(25歳)のお妃となる。

そして元和9年、入内した和子が、

後水尾天皇との間に、興子内親王を出産した。

この興子こそ、その後、奈良時代の孝謙天皇以来、

実に860年ぶりの女帝となる、 

明正天皇であった。

 

尾が生えたのでしなやかに振っている  井上一筒

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和子が、後水尾天皇に入内する状況を描いた屏風絵

≪和子は元和6年(1620年)5月8日江戸城を出発し、

    5月28日に京都に着き二条城に入る。

    そして、6月18日、二条城から御所への行列には、

    武家側は藤堂高虎を総指揮者とし、

    譜代大名が家来を多数つれて従い、また公家衆も多数これに従った≫

和子は、天皇家と徳川家の橋渡しする、

”政治的役割” を担わされたわけだが、

和子入内への道は、決して平坦なものではなかった。

和子入内前に、天皇が他の女官との間に皇子を設けたことで、

徳川方が不快感を示し、

入内の期日を延期してしまったからだ。

秀忠としては、和子が皇子を産み、

自分が天皇家の外戚となることで、

徳川将軍家の地位を磐石にしたかった。

遮断機をくぐって通う道がある  籠島恵子

天皇と和子の仲はどうだったのか。

政略結婚で結ばれた二人ではあったものものの、

その仲は睦まじかった。

例えば、元和7年(1621)12月16日に、

天皇の御所に和子が出向き、ふたり水入らずで、

酒のお酌をし合ったことことや、

和子の装束がよくにあっていることに、

天皇が満足したという、記録が伝わってくる。

まぼろしを剥がしつづけた現在地  たむらあきこ

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  明正天皇像

和子は天皇との間に、2人の皇子と5人の皇女を儲けたが、

皇子はふたりとも夭折してしまう。

そして、和子の長女・興子内親王は、

後水尾天皇が譲位するのを受けて、

寛永6年(1629)に、第109代の明正天皇として即位する。

江は、大御所・徳川秀忠の正室にして、

将軍家光の生母、さらには、

天皇の姑として、
その晩年を迎えることになった。

遣り遂げた夕日黙って山の端に  斉藤和子


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大河ドラマ・「お江」-第45回-「息子よ」  あらすじ

元和2(1616)年、秀忠(向井理)は、年頭のあいさつで、 

「多くの血を流した時代は終わった。

 今年は良き年にして参ろうぞ」

 

と語りかけた。

その言葉に感激した民部卿局(宮地雅子)が気合の

入りすぎた返事をして笑いを誘い、

場は平和な時代の幕開けにふさわしい、

和やかな空気に包まれる。

お笑いの地位の向上委員会  杉本克子

一方で、千(忽那汐里)は夫を死に追いやった父が許せず、

秀忠とは、口も利かない状態。

こっそり化粧をしていた竹千代(水原光太)と、

その姿を目撃した江(上野樹里)の関係も、

ぎきしゃくしたままで、
徳川家はいまだ平和とは言えなかった。

共有の藁が浮いたり沈んだり  中井アキ

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江と秀忠は、竹千代に「なぜ化粧をしたのか」

問いただす。

だが、竹千代はその理由を語らない。

口を閉ざす息子を、 

「戦で皆がつらい思いをしているときに化粧など」

 

と叱る江。すると竹千代は

「戦などやめればよかったのです。

  戦で伯母上たちを殺したのは、父上ではありませんか」

と言い返し、立ち去ってしまった。 

焦ったら負けだと諭す試歩の杖  関口きよえ

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江は、そんな竹千代が、

やはり世継ぎにはふさわしくないと考える。

だが常高院(水川あさみ)は、 

「竹千代の心の中を見てやることこそ肝要」

 

 と江を諭す。

夫と義父の関係に気をもむ優しさを、

「自分の息子にも向けてみては」 という思いからだった。

一方、秀忠は、戦を憎み、父に反発する竹千代に、

かつての自分を重ね合わせていた。

本心を見せないために笑ってる  西内朋月

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そんな折、

鷹狩りを楽しんでいた駿府の家康(北大路欣也)が病で倒れ、

それを伝える知らせが、秀忠と江のもとに届く。

だがよく聞くと、家康は回復に向かっているとのことで、

2人はひと安心。

それでも江は秀忠に、家康を見舞うよう提案する。

迷ったら基準は空と決めている  山口美千代

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江は、互いに心を閉ざしている夫と義父が、 

「この機会に腹を割って話をしてくれれば」
 
と考えたのだ。

かくして、駿府に駆けつけた秀忠。

しかしいざ父親と顔を合わせると、

なかなか打ち解けた話ができない。

そうこうしているうちうに、江も駿府にやってきて、

つかの間、3人は不器用ながらもともに穏やかな時間を過ごす。

ところが、家康の病状が再び悪化して・・・。

自信家の語尾少しだけふるえてる  三村一子

拍手[3回]

風生まれ命育む懐へ  合田瑠美子

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姫路城・西ノ丸にある千姫・化粧櫓(国重要文化財) 

「写真で見る千姫の時間」―姫路城へ潜入

 

徳川の血筋である千姫は、

落城の大坂城から救出されたあと、

翌・元和2年(1616)に

姫路城主・本多忠政の嫡子・忠刻と結婚し、

波乱の人生のなかで、 

最も幸せな時期を姫路城で、過ごしたと言われる。

 

これからを踏ん張らねばと青もみじ  山本昌乃

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外部から見る百間廊下          百間廊下

「姫路城」の西の丸には、忠刻と千姫の為に、

「中書丸」という御殿があり、 

その御殿を、囲むように建てられているのが、

「百間廊下」といわれる建物。 

異次元に跳べる魔法の粉をふる  桂 昌月

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               長い長い百間廊下

「百間廊下」の中には、

千姫お付きの女性たちが住んでいた「長局」があり、 

それに続いて、「化粧櫓」がある。

しあわせの形が少しづつ変わる  籠島恵子

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百間廊下から2階へ行く階段へ

『化粧櫓』とは、千姫が朝夕欠かさず、

城の西北の男山にある「天満宮」 を遥拝に訪れる折に、

身支度をしたり、

化粧直しをしたりするための休憩所である。

申し遅れましたが私は女  前中知栄

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                 渡り廊下                       

この櫓、千姫の持参金で建てたといわれる。

もちろん、この「化粧櫓」だけでなく、

そこから続く「渡櫓」と、

塀に囲まれた西の丸一帯、

忠刻&千姫の屋敷も建てられた。

そうかそうかと時計回りのバスに乗る  森田律子

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         2階から3階長局へ

この内部からは、城内の天守群や、西ノ丸の各櫓、

三の丸などが、一望できる。

千姫が眺めていたであろう三の丸の、

西側には、かって「御殿や屋敷」があり、

東側には、「向屋敷と庭園」があり、

本多氏以降の政務の中心の場であった。 

幸せになるまで廻る木馬たち  中井アキ
 
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       化粧櫓

建物や庭園は、明治時代に取り壊され、現存しておらず、

三の丸跡のうち、本城跡は「千姫ぼたん園」に、

向屋敷跡は、「三の丸広場」となっている。

三の丸広場は、「市民の憩いの場」となっており、

花見や各種のイベントスペースとしても使用されている。

人間の心を持っているお城  太田扶美代

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                化粧櫓ー出口

結婚の翌年、桑名から姫路に国替えとなり、

夫・忠刻とともに、、「姫路城」に入城する。 

身の丈に合うまで靴を履き替える  笠嶋恵美子
 
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    姫路城大天守 

「千姫生涯」

 

千姫は、慶長2年(1597)4月11日、

秀忠と江の長女として、伏見城内の徳川屋敷で産まれた。

慶長8年(1603)、7歳で、従兄弟である秀頼と結婚。

たいへん夫婦仲睦まじかったという。

二人が詠んだ連歌に2人の仲睦まじさが伝わる  

『初秋の 風を簾に まきとりて』   秀頼

『軒はにおほう   竹の葉の露』  千姫

  

花いかだ舞うて沈んでまた舞うて  神野節子

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      千姫筆跡

慶長20年(1615)19歳の時、

大坂夏の陣では、祖父である家康の命により、

落城する大坂城から救出される。 

荒城の月は地デジになじめない  美馬りゅうこ

 

その後、秀頼と側室の間の娘・奈阿姫(天秀尼)が、

処刑されそうになった時に、

千姫は彼女を自らの養女にして、命を助けた。

青汁の雫の中の薬学部  井上一筒

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向かって左から二番目の、侍女に手紙を読ませている女性が千姫とされる。

≪葵紋を散らした鹿の子絞りの小袖を着ている≫


元和2年(1616)、本多忠刻と結婚。

この時、「千姫事件」が起こる。

津和野藩主・坂崎直盛が、輿入れの行列を襲って、

千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、

直盛は自害、坂崎氏は改易処分となった事件である。

≪この時に、忠刻には、10万石の化粧料を与えられたといわれる≫ 

風穴へ真面目な貌で入り込む  山本芳男

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     千姫と幸千代

元和3年、本多家が播磨姫路へ移封。

元和4年に、長女・勝姫を出産し、

元和5年には、長男・幸千代が生まれる。

しかし、元和7年に幸千代が3歳で死去し、

寛永3年(1626)には、夫・忠刻、姑・熊姫

そして、母・江が死去するなど不幸が続いた。 

止まり木に残る心の落し物  河津寅次郎

 

その後、本多家を娘・勝姫と共に出て江戸城に入り出家。

「天樹院」 と号す。

出家後は、娘と2人で「竹橋の邸」で暮らした。

寛永5年(1628)に勝姫は、

父・秀忠の養女として、池田光政の元へ嫁いだため、

天樹院は、一人暮らしとなる。 

強がりを言ってしまったあほやなあ  新川弘子

 

寛永9年(1632)、父・秀忠死去。

寛永16年(1639)、光政勝姫の嫡男・池田綱政が誕生。

天樹院の外孫になる。

寛永20年(1643)、鎌倉の東慶寺の伽藍を再建。

正保元年(1644)には、迷信を避ける為に、

江戸城から移った弟・家光の側室・夏(順性院)と、

その後、生まれた家光の三男・綱重と暮らす。 

≪このことで、天樹院は、大奥で大きな権力を持つようになった≫

 

寛文6年(1666)、江戸で死去。享年70歳。 

生涯の一誌ありけり天の川  大西泰世

 

拍手[7回]

雨風にさらされている耳の位置  小川佳恵

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戦が終り繁栄がはじまる江戸

「江の新しい戦い」

豊臣が滅び、徳川の世となり、平和な世の中となった。

だがには、「次の戦い」があった。

夫・秀忠の後継者争いだ。

乳母のお福に預けていた竹千代より、

自分の手で育てた国松に、愛情を注いでいた江は、

伯父・信長の面影の残る国松に、

第三代将軍を継がせようと思っていたのだ。

舞台反転 印鑑を捺すたびに  赤松ますみ

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駿府城家康坐像

ところが、お福の駿府での直訴に、

家康が、「長幼の序」の必要性を説き、

長男の竹千代を、跡継ぎに決めてしまった。

江は腹を決め、竹千代と向き合って、

将軍に必要なことをじっくりと語って聞かせる。

横からお福が、口を挟もうとするが、 

江の気迫は、それを寄せつけようとしなかった。

 

斬り捨てるときの木蔭を探さねば  森中惠美子

元和2(1616)年正月末、

駿府城で家康が倒れたという報せが、

江戸城の江たちのもとにもたらされ、

江と秀忠は駿府に赴き、家康と最期の別れをした。

そのとき、家康は秀忠の隠し子・保科正之の存在を明かす。

そして、数日後の4月17日、

家康は、75年の波瀾の生涯を閉じた。 

省かれた形に朝が白みだす  美馬りゅうこ

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江戸日本橋に入る大名行列

 

元和4(1618)年、秀忠は戦乱のなくなった世の中で、

将軍職を全うする為には、 

「政務の場と生活の場を分けることが大切だ」 

 

と言い、

生活の場を「奥」、

政務の場を「表」と区別する「大奥法度」を作った。

マタタビのエキスを目薬に混ぜる  井上一筒

元和9年(1623)、元服し名を竹千代から、

「家光」に改めた徳川家の長男は、

7月27日、伏見城で将軍宣下を受け、

三代将軍・「徳川家光」が誕生した。

それに伴い、秀忠は大御所となった。

≪それより三年前の元和6(1620)年には、

    後水尾天皇25歳へ14歳の和子の入内が決まっている≫

改札の向こうにあすという流れ  奥山晴生

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       千 姫

『余談-1』・・・「千は弟思い」

竹千代は病弱で、吃音であったとも言われ、

母のお江に愛されずに育ち、

女性の好みが、とても難しい人だった。

男色の噂さえあり、大奥へ渡ることも稀で、

世継ぎができず、周りにいる者の気をもませた。

めがねかけて裏返してもサンマなり  壷内半酔     

 ただ家光には、尼僧好みという一風変わった趣味があって、

伊勢の慶光院の住職でった尼さんを還俗させ、

側室にしている。

千姫が秀頼の短冊を納めた尼寺の、

眉目秀麗な尼さんである。

この尼さんを連れてきたのが、

家光と同腹の姉、千姫であった。

とても仲のいい姉弟だったから、好みの難しい弟のために、

姉が一肌脱いだということだろう。

筋書きの通りに行かぬ穴がある  西内朋月

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          武家諸法度

『余談ー2』・・「武家諸法度」

慶長20年7月7日、家康・秀忠の命により諸大名は、

伏見城に集められ、
本多正信から、

「このたび武家の法令をおおせいださる

と会合の目的を宣言された。

つづいて僧侶・崇伝が、

武家の法令・「武家諸法度」が読み上げられる。

注目は、幕府が一の目的として打ち出した、

「禁中並公家諸法度」だろう。

「天皇や公家は、今後一切政治に関与せずに、

  学問に専念すること」 
と言うのである。 

≪これによって、朝廷は、政治から完全に切り離されることになる≫

 

とんがり帽子の屋根が夕日を串刺しに  籠島恵子

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『余談ー3』・・「参勤交代」

諸法度のもうひとつの注目点は、参勤交代の制度である。

秀吉の聚楽第時代の習慣・強制を刷りなおしたもので、

人質のように、妻子を江戸に住まわせ、

大名行列を仕立てさせることで、

大名の財力を削ぐ目的があった。

この大名を苦しめた強制が、宿場町を繁栄させ、

江戸が大都市になっていく要因にもなったのである。

城下町ここだけ風が動かない  太田扶美代

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  宿場を進む参勤交代

「諸大名に厳守を命じた法度」 

の内容とは、
国元と江戸とを、

1年交代で往復する「参勤交代」を義務づけ、

大名の妻子は、江戸に住むことを強制され、

1年おきに江戸と国元で過ごすことを義務づけた。  

≪規定では、在府・1年・在国・1年であるが、関東の大名は半年交代であった≫

 

参勤交代城は死ぬまで痩せていた  小川しんじ


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大河ドラマ「お江」-第44回・「江戸城騒乱」  あらすじ

 

秀忠(向井理)は、伏見城に諸大名を集め、 

「徳川政権下で武家がどう振る舞うべきか」
 
を定めた『武家諸法度』を発表。

長く続いた乱世の終りを宣言する。

江(上野樹里)とともに目指す” 太平の世 ”に向けて、

大きな一歩を踏み出したのだ。

 指なめて明日のページを繰っている  谷垣郁郎

だが江戸にいる江は、

徳川家が、淀(宮川りえ)や秀頼(太賀)たちを、

死に追いやったことに、

深い悲しみと責任を感じ、食事ものどを通らない状態。

そのうえ、「淀たちには死んでもらう

と決断したのが秀忠だと知らされ、

さらに大きな衝撃を受ける。

ギシギシと地球の軋む音がする  新川弘子

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そんな中、常高院(水川あさみ)千(忽名汐里)が、

江戸に移されてきた。

3人でひとしきり泣いた後、

常高院から淀の最後の文を手渡される江。

文には、

「するべきことをした秀忠様を恨まないように

と記されていたが、

江は父を許せないという千が、憐れでならず、

夫の非情な決断に対して、

複雑な思いを拭い去れない。

泣き言はお止し湿度が高くなる  オカダキキ

やがて、秀忠が江戸に帰還した。

秀忠は、自分を出迎えた江に、さっそく戦の経緯を話し、 

「最後の決断については、憎まれてもしかたがない、

  だが乱世を終わらせるには、必要なことで悔いてはいない」

 

と述べる。

江は、夫の胸の内を理解しながらも、

太平の世のために、
多くの人が犠牲になったことを、

どうとらえていいのかわからない。 

「この胸が裂けてしまいそうなのです」
 
と、江は
自身の混乱を夫にぶつける。

それを受けて秀忠は、江にある覚悟を語る。

アナログの窓に埃も木漏れ日も  岡谷 樹

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一方、「父に夫を殺される」 という重すぎる現実に耐えかね、

泣いてばかりいる千。

国松(松島海斗)は、そんな姉になぐさめの言葉をかけ、

江を感心させる。

実は、竹千代(水原光太)も、

同じように千を心配していたが、

引っ込み思案な性格ゆえ、

弟のように声をかけることができず、

ただ物陰から見守るばかり。

しかし、常高院だけは、姉を思う竹千代の優しさに、

気がついていた。

秋風にあなたが言いかけたことば  河村啓子

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そして、息子たちに対する江の接し方の違いが気になり、

江と秀忠に、

「もっと竹千代の話を聞いてみては」

と提案する。 

「竹千代と国松、どちらが世継ぎにふさわしいか見極めたい」

 

と考えていた秀忠は、よい機会と考えてその提案に乗り、

ある日、2人の息子を呼び出す。

城は今節電中で悪しからず  合田瑠美子

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