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川柳的逍遥 人の世の一家言
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鍵穴の大きさほどに生きている  森中惠美子

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 小田原城(復元)

「北条氏掃討」

天正18年(1590)3月1日、

天下統一の総仕上げになった「小田原攻め」に、

秀吉は、
当初、北条氏にそれほど厳しいことを、

要求したわけでもなく、

関白としての顔を、立ててくれればよかった。

ところが、北条氏は上洛しないのみならず、

”惣無事令”
も無視した。

これに腹を立てた秀吉は、小田原の「北条掃討」の決意をする。

いつの間に図太くなった豆もやし  合田瑠美子

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     北条氏直

ひとときは北条氏も、

天下統一に積極的に関与した革新大名だったが

五世代百年も経て、名門意識に凝り固まり、

すっかり保守化してしまっていた。

このぬるま湯につかった集団は、世の情勢にもうとくなっており、

結果、北条氏は滅亡への道を歩むことになる。

≪(惣無事令)ー大名間の私闘を禁じた法令≫

跨いでいくしかない凡庸なオトコ  山口ろっぱ

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    北条氏政

秀吉は、石田三成に綿密な兵站計画をたてさせ、

長期戦に耐えられるように図った。

このとき秀吉は、

「長陣となり、退屈であろうから、

  諸将には女房を呼び寄せてもかまわない」

と通達し、その上に自分のことでは、

北政所に、

「お前の次に茶々を気に入っているので、

  こちらに来る手配をしてくれ」

 と手紙を書き送っている。

そして小田原城を見下ろす石垣山に”一夜城”を築かせ、

そこに茶々を呼び寄せた。

恋だって時どき衣替えしたい  泉水冴子

難なく小田原城を落とした秀吉は、

奥州まで平定して、天下統一を果たし、

9月1日、
聚楽第に凱旋する。

竹籠で水仙一本始末する  田中博造

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     徳川家康

「関東移封で家康は大喜び、家臣は泣きの涙」

やがて、戦後の論功行賞がはじまった。

家康には、北条の領地である関八州が与えられ、

転封を命ぜられた。

秀吉としては、あまり関心のない関東は、

好意的にとれば、実力のある家康に、

まかせておきたかったとの言い方をするが、

秀吉の意図は明らかだった。

カンナ屑私は何を削りとる  森田律子

秀吉は寒村であった江戸を、居城に指定し、

目障りな家康を京・大坂という政の中心から、

遠ざけようということだった。

だが家康は、何も言わずに従った。

≪このとき、秀吉じきじきの指示で、上州箕輪で12万石をあてがわれ

   筆頭家老に躍り出たのが、彦根藩祖になった井伊直政だった≫

ひとつづつ忘れていけばできあがり  加納美津子

この関東移封は、「清和源氏」を名乗る家康にとっては、

新田郡世良田(太田市)を”先祖の地”と自称している上野国や、

源頼朝が幕府を開いた相模国の、主になるわけだから、

気持ちの上で、突拍子なことでもなく、

さほど、嫌悪することでもなかった。

よよよとは泣くに鳴けない糸蚯蚓  岩根彰子

しかし家臣たちは、骨の髄まで三河人で、

「家康が最近になって新田氏の末流」

だと強調しだしたことすら、違和感を持っていたから、

小田原へ移ることには、大反対であった。

とはいうものの、家康が受けた以上は、

その家臣は従わざるをえなかった。

≪戦国大名にとって移封は、家臣の力をそいで、

   中央の力を強くする最高のチャンスでもあった≫

遮断機を下ろし回りを黙らせる  籠島恵子

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山河あり静かに足を浸けるべし  富山やよい

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   秀忠誕生の浜松城

「徳川秀忠」

お江が三度目に嫁ぐ相手・徳川秀忠は、浜松の城で生まれた。

天正7年(1579)4月7日、

幼名は、長丸、竹千代

徳川家康の三男である。

さわやかな香りを放つ若いって  森下よりこ

家康の長男・信康は、

17歳で、”長篠・設楽ヶ原の戦い”に初陣を果たしており、

家康の後継者として期待を集めていた。

しかし、妻・徳姫との不和が原因で、切腹を命ぜられる。

徳姫は信長の娘だった。

家康といえども、信長に逆らうことはできない。

秀忠が生まれて間もなく、信康は自ら命を落とした。

カサブランカの切り口上に逆らえず  美馬りゅうこ

次男・秀康、「どうも自分に似ていない」という、

家康の思い込みから遠ざけられ、

豊臣秀吉・結城晴朝の養子となった。

そして、三男の秀忠が、

徳川家の世子(あとつぎ)に定められたのである

点線をつたい滴り落ちる湖  岩田多佳子

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   秀忠

「竹千代」

秀忠の”幼名・竹千代”という名には、

家康にとって、特別の意味があった。

いわゆる、秀忠は、「竹千代」という名を冠してから、

すでに、
家康の後継に決まっていたことになる。

そして、天正18年(1590)上洛。

秀吉に謁見して元服し、

偏諱(へんき)により、

秀吉の「秀」の字を受けて「秀忠」と名乗り、

まもなく秀忠の名をもって、北条攻めで初陣を飾る。

≪偏諱ー上位者が下位者に諱(俗名)を、一字与える事≫

最終の器へ確と釘を打つ  吉道航太郎

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家康の家は、三河国(愛知県)の山間部、松平郷出身の松平氏。

代々平野や海を求めて、南下政策をとっていた。

しかし、東(駿河・静岡県)の今川氏と、

西(尾張・愛知県)の織田氏との間に挟まれて、

思うようにいかない。

今川・織田とも、周辺の弱小豪族を、吸収しようと虎視眈々。

松平氏も、この両サイドから狙われていたのだ。

真っ暗闇ひとり一個のカギの穴  前中知栄

そんな状況の中、敢然と勇気をふるい、

大手の圧力にも屈せず、

地域豪族の主体性と自由を実行したのが、

家康の祖父・清康であった。

清康は多くの抵抗をしりぞけ、

松平家の悲願である”南下”を実現して、

三河安城城や岡崎城を確保したのである。

のちにその勇猛さを警戒した家臣に、暗殺されてしまうが、

幼少期から家康にとっては、 

”あこがれの祖父”であった。

外圧に決して負けぬ意志を持つ  足立淑子

尊敬する祖父・清康の幼名が、「竹千代」だった。

そして、家康の幼名も、「竹千代」なのだ。

家康も幼少時代に、今川・織田の人質になって苦しんでいる。

しかし、どんなにつらいときでも、

家康は、竹千代という名にちなんで、

祖父の勇猛心を思い出した。

家康が、息子・秀忠の幼少時、長丸から竹千代と名を改めたとき、

”徳川家のスピリット”を、継げという意思だったのである。

ひょっとしてガラスの靴を試してる  三村一子

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「秀忠とは・・・?」

秀忠の血液型は、”実直”、”うっかり”、”一本気”のO型で、

性格は、地味で温厚で、

父に忠実な律儀な人であったと伝わる。

身長は当時としては、大柄な159cmほどで、

筋肉質であった、と遺骨から推定されている。

また銃創の痕跡が複数見つかっている点から、

敵の攻撃に、直接曝されるような場所で、

指揮を取る戦法を多用していたこと、

骨にまでダメージが及ぶ負傷にも耐え切るだけの体力、

生命力を有していたことが、推定されている

骨密度電圧計で測られる  井上一筒

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秀忠が書き写した壬生忠岑(みぶただたね)の和歌(古今和歌集)

”有明のつれなくみえし別れより あかつきばかりうきものはなし”

「律儀で温厚な秀忠の人柄を示す逸話」
 
-秀忠は律儀でありすぎて、嘘をつけない人柄だった。

少々の嘘は政治には必要なこと。

ある日、家康は本多正信に、

「秀忠は律儀一辺倒だが、それでは、世を治めることはできない」

と漏らした。
 

それを受けた正信は、秀忠に

「秀忠様も、たまには嘘をつかれてはどうですか?」

と言った。
 
すると秀忠は、

「いや、自分は嘘をつけない。たとえついたとしても、

 父上の嘘なら買う者もあろうが、自分の嘘を買う者はいないだろう」

と答えたという。

ひなげしの花の訛りが直らない  十織一返
 
-鷹狩りの好きだった家康のDNAで、秀忠も鷹狩が大好き。
 
鷹狩の出発は、近習の者が太鼓を鳴らして知らせるのだが、

ある日、予定の時間で近習の者が、太鼓を鳴らした。

その時、、秀忠は食事の真っ最中だった。
 
すると秀忠は、「出発の時であるか」と、

食事の途中であるにもかかわらず、

箸を置き、さっさと出発の支度を整え始めた。

人を待たせまいとする秀忠の、律儀を語る一面だ。

ほがらかと言われKYとも言われ  石堂潤子

-秀忠が死の床についた時、家光を枕もとに呼び、

次のように言った。
 
「徳川家が天下を取って、まだ日も浅い。

  今まで制定した法令も完全なものとはいえない。

  近いうちに、これを改正しようと思っていたが、

  不幸にしてその志を果たすことができない。

   私が死んだあとは、少しもはばかることなく、これを改正せよ。

   これこそが、我が志を継いだことになるのだ」

輪郭をほどよくぼかす和ローソク  山本昌乃

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『大河ドラマ・「お江」-第23回ー「人質秀忠」 あらすじ』

天正18年(1590)正月14日、秀吉の北条討伐が迫る中、

家康は三男・竹千代(向井理)を人質として、大坂城に送った。

そこで竹千代は、江とはじめて出会った。

竹千代12歳、お江18歳だった。

二人は、運命の糸で結ばれているとは、思いもしなかった。

二人の出会いはお互いに、

あまり良い印象でなかったからだ。

電光ニュースチカチカ車停滞す  森中惠美子

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結局、秀吉(岸谷吾朗)は、

竹千代を人質にとらず駿府に送り返した。

更に、秀吉自ら竹千代を元服させ、

「秀忠」という名前まで付けてくれた。

やがて春頃から豊臣勢の北条攻めが始った。

豊臣勢に三か月にわたって、陸と海から完全に包囲されては、

難攻不落といわれた小田原城の北条方も、

降参するほかに道はなかった。

さぬきうどんの軽さで男呑みこまれ  笠嶋恵美子

そして、7月5日、北条家当主・氏直(岩瀬亮)は投降し、

前当主・氏政(清水綋治)と弟・氏照らは切腹、

家康と昵懇だった氏直は、家康の取り成しで、

高野山に送られ、
北条氏は滅亡した。

有様もあらざるモノも現世  山口ろっぱ

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お江(上野樹里)は、

家康の後妻となった秀吉の妹・旭(広岡由里子)の病状が、

よくないと聞き、京・聚楽第に駆けつける。

しかし周囲の励ましもむなしく、ほどなく旭は亡くなってしまう。

兄・秀吉の政略で、

半ば強引に家康(北大路欣也)に嫁がされるなど、

波乱の人生を送った人だった。

さらさらと流れる川に逢いに行く  西藤 舞

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そこではじめて、江は、見舞いに来ていた竹千代と出会う。

そして、旭の最期の枕元で、優しい言葉をかける竹千代に、

江は好感を持った。

それゆえ、少し後に再び顔を合わせた際には、

彼の「見舞いをうれしく思った」と伝える。

しかし、竹千代の反応は、

「人質として連れてこられただけで、

  見舞いに来たくて、来たのではない」

という、あまりにそっけないものだった。

初めての印象とは正反対の、竹千代の冷たい態度に、

江はただあぜんとするばかり・・・・。

山で恋に町でこんな人やったん  梅谷邦子

秀吉は、旭が亡くなったあくる日、

竹千代元服の儀が執り行われる。

竹千代は秀吉から一字を授かり「秀忠」と改名。

その後、再び江と顔を合わせた秀忠は、

秀吉や家康への不満をあらわに。

家康らをかばう江と言い争い、二人は決裂する。

目が合って毛穴がひとつ増えました  酒井かがり

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竹千代を秀忠に改名させて、家康との関係を固めた秀吉は、

いよいよ小田原への出陣を決める。

そして、「そちも同行せよ」と、

利休(石坂浩二)
に命ずる。

しかし利休は、「もう長旅はつらい」と従わない。

結局、彼は同行することになるのだが、

このとき2人の間には、かつてない緊張が生じていた。

草庵で浮世の外に転んでる  早泉早人

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ごっこでした貴方のこどもでした  酒井かがり

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      淀川・淀

「淀殿の産んだ子の父親が本当に秀吉なのかどうか・・・?」

茶々悪女説のなかでも述べた通り、

当時も多くの人が疑問を抱いていた。

秀吉が亡くなった慶長4年(1599)10月朔日付の書状で、

毛利家家臣・内藤隆春は、

淀殿大野治長「密通」について触れ、

治長は殺されるべきところ、

高野山に逃げたらしいと報じている。

戒律は説いたりしない花の寺  美馬りゅうこ

この大野治長の、高野への逃亡に関しては、

奈良・興福寺の『多聞院日記』にも記述がある。

それによると、秀吉の遺言によって、

「慶長4年9月10日に、
大坂城で、

淀殿徳川家康の”祝言”が、行われる予定であったが、

治長が淀殿を連れ出し、高野山に向かったのだ」という。

弁解はラップに包み持ち帰る  泉水冴子

「淀殿と家康の結婚」については、

当時、伏見に抑留されていた朝鮮王朝の、

官人・姜沆(かんはん)も記しており、
秀吉は、

「家康には、秀頼の母(淀殿)を室として政事を後見し、

  秀頼の成人を待ってのち、政権を返すように」

遺言したと言い、

「家康はまた、この秀吉の遺命をたてに、

  秀頼の母(淀)を室にしようとした。

   秀頼の母は、すでに大野修理(治長)と通じて妊娠していたので、

 拒絶して従わなかった。

   家康はますます怒り、修理をとらえて関東に流した」

と述べる。 

≪秀吉没後のことではあるが、淀殿の恋のお相手として、

  大野治長の名を、具体的に示している≫ 『看羊録』

黒い血のどくどく残酷な穏やかさ  山口ろっぱ

江戸時代に入ると、

真田増誉(ぞうよ)『明良洪範(めいりょうこうはん)』
が、

「豊臣秀頼ハ秀吉公ノ実子二アラズ」

と断言して、

「淀殿、大野修理ト密通シ、捨君ト秀頼君ヲ生セ給フト也」

と記し、これは占いに長じた法師が、

「いい出したことだ」と述べ、

淀殿は歌舞伎の創始者ともいわれる

「美男子・名古屋三郎とも、不義をはたらいた」

と記す。

どきどきと逢いほっこりとして帰る  片岡加代

そして、天野信景の『随筆・塩尻』には、

「大野治長の子ではないか」

と疑われているが、

実際には鶴松秀頼も、

淀殿と占いの上手な法師との、間に出来た子で、

名古屋三郎とも関係を持ったと記している。

口角をあげて含んだことを言う  別所花梨

さらに、『玉露證話(ぎょくろしょうわ)』になると、

一説として、大野治長・実父説をとりあげつつも、

実際は、名古屋三郎(役者)と不義をはたらいて生まれたのが、

秀頼であると記す。

どこまでも纏わりついてくる因果  桂 昌月

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このように、秀頼の父の名は、次々と変化するが、

同時代史料に名前が挙がるのは、

”大野治長ただひとりである。”

彼は淀殿とは乳兄弟で、

たしかに幼い頃から、実の兄弟のようにして育ち、

特別な関係にあったのは事実であるが、

だからといって、「不義をはたらいた」

ということにはならない。

自分史に向かえばペンが嘘をつく  ふじのひろし

「鶴松と秀頼の父親が、秀吉であるか否か」

は、永遠の謎としかいいようがない。

ただ、秀吉が鶴松や秀頼をわが子として、

溺愛したことは紛れもない事実であり、

淀殿を家康の正室にしてまで、秀頼を守ろうとし、

死に際して、五大老・五奉行に最後の最後まで、

繰り返し、繰り返し秀頼の将来を頼んだこともまた、

動かしようのない、事実なのである。

七曜の顔を持ってる私です  河村啓子

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與杼(よど)神社 ~伏見区・淀の産土神

「淀殿不倫疑惑説について、堂門冬二氏が解く」

大蔵卿局は、茶々の乳母であり、

小谷城落城のときも、お市・三姉妹とともに脱出し、

その後の伊勢での生活、柴田勝家へのお市の再婚、

勝家の滅亡、三姉妹の脱出、そして、大坂城入りなど、

ずっと茶々に従ってきた。

茶々にとって、誰よりも信頼できる存在である。

二幕目はちょっとニヒルなスマイルで  荻野浩子

大蔵卿局は、おのずと大坂城に仕える女性たちの総取締役を任され、

茶々を囲む側近のなかでは、もっとも力を持った。

そしてその息子・大野治長も成長し、

秀吉の寵臣(ちょうしん)に育っていき、

秀吉子飼いの側近にとって、脅威となっていった。

≪治長の弟・治房、治胤(はるたね)のいずれも、

   やがて秀頼の忠実な家来になる≫

太陽を貫く剣を手に入れる  油谷克己

長兄の治長は、秀吉時代からの家臣であり、

ことに、家康を敵視していたことなどにより

ここに、茶々派と家康派という権力闘争が起こる。

角度を変えてみてみると、

石田三成が淀殿相手の対象の一人にされたのも、

  三成は、意識して茶々に奉仕していたことなどから、

  当時の三成が、茶々派とみられていたことの証し。

 三成も徹底した反家康派で、治長ともよく気が合っていた』

と、三成も噂の的にされる。

≪三成はこの時期、戦地におり、淀殿と不倫に及んでいる暇はない≫

大さじ一杯の水っぽい殺意  井上一筒

役者の名古屋三郎も茶々相手の槍玉にあがる。

これら中傷のすべては、

茶々の勢力を揺さぶるためのもので、

家康派か茶々派か、大阪城内の侍女群も両派に別れ、

『噂の発生源は、反茶々派の侍女たちではないかと考えられる』

と言い、

「大阪城内の権力関係に変化があり、茶々の周りに、

  新しい側近が発生したことに、理由があるのではないか」

と堂門氏は分析するのである。

気に入らぬ奴はブスッと串刺しに  嶋澤喜八郎

この説を、深読みすれば、

家康に近かった淀殿のライバル・北政所(おね)が、

反茶々派の頭領だったかも知れませんね。

「秀頼は、ほんとうに秀吉の子なのか・・・?」

はたして、どうなんでしょう。

気にするなそう言っている昼の月  森 廣子

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【余談】ですが・・・。

さて、宝塚歌劇では、

石田三成が茶々の恋人になり、話題を呼んでいる

豊臣家への忠義にその生涯を捧げた三成の、武将としての生き様と、

『茶々を愛した故に、「戦に負けたのではないか」と悔やみながらも、

  愛さずにはおれなかった』

三成の苦悩を描いている歴史ロマン。

宝塚宙組公演ー『石田三成 美しき生涯』

茶々に、野々すみ花   三成に、大空祐飛  

天気図を見ながら漕いでゆくボート  赤松ますみ

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あと戻りできないことを知っている  たむらあきこ

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淀古城の石碑がある妙教寺

天正17年(1589)5月27日、淀は淀城で男児を出産した。

53歳にして、初めて我が子を得た秀吉は大喜びで、

捨て子は、よく育つとの俗信から「棄(捨)」と名付け、

まもなく「鶴松」と呼ぶようになった。

その年8月23日、母子は大坂城へ移った。

出来たての名前をもらう新生児  中野六助

多くの側室を差し置いて、

淀殿だけが男児を授かったことに,、疑問を持つ人は少なくなかった。

「彼には、唯一人の息子(鶴松)がいるだけであったが、

  多くの者は、もとより彼には子種がなく、

  子供をつくる体質を欠いているから、

  その息子は、彼の子供ではないと密かに信じていた」 

、『フロイス日本史』にも、書かれている。

臍の緒を切ったナイフは他人です  岩根彰子

出産の3ヶ月前の2月25日の夜には、

聚楽第の表門に、淀殿の懐妊を揶揄する内容の落首が、

貼り出される事件が起った。

これを知った秀吉は激怒して、

門番の者たちを、残虐きわまる方法で処刑し、

多くの人々が死刑となった。

どくだみの花来し方は生乾き  嶋澤喜八郎

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 秀吉が配った天正大判

秀吉は、同年5月20日に、

聚楽第で淀殿の懐妊を正式に披露し、

多くの金銀を諸大名、寺社に分配した。

史上有名な「金賦り(きんくばり)」で、

秀吉は、自らの実子誕生の前祝いを、盛大に演出した。

魂をあげるラッピングは不要  須田さゆり

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豊臣家において揺るぎない地位を確立した淀殿は、

この年の12月、

高野山小坂坊(持明院)において父・長政の17回忌、

母・お市の方の7回忌の法要を営み、

2人の肖像画を奉納している。

やっと交わる私の中の平行線  合田瑠美子

大河ドラマ・「お江」-第22回・「父母の肖像」 あらすじ

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々(宮沢りえ)が懐妊し、

上機嫌で天正17(1589)年を迎えた秀吉(岸谷五朗)は、

秀長(袴田吉彦)に、京と大坂を結ぶ要所にある,

淀城の改築を命じる。

なんとその城を、茶々の「産所」にしようというのだ。

しばらくして、大坂城の茶々を訪ねた秀吉は、

城を用意することを彼女に伝え、

「そなたとややのためならなんでもする」

と約束。

二の腕に今日はお陽さま乗せてゆく  前中知栄

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また、生まれてくるのは男子だと決めつけ、

早くも男の子が使う玩具などを、大量に持ち込む。

その様子を見ていた江(上野樹里)は、

「子を授かっただけでもありがたく思うべき」

とあきれ顔。

時々は横に流れることにする  山本早苗

しかし、茶々は気にすることもなく、逆に真剣な表情で宣言する。

「私は男の子を産む」

さらに秀吉に、

「もし男子を産んだら聞き届けてほしい願いがある」

と訴える。

秀吉は、「なんでも聞いてやろう」 とえびす顔。

同席していた三成(萩原聖人)が願いの内容を尋ねるが、

その問いに、彼女は答えなかった。

スポットライトでさらす神経線維  岩田多佳子

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やがて茶々は、出産に備え、立派になった淀城へ。

そして5月の末、

城の名にちなみ”淀殿”と呼ばれるようになっていた彼女は、

いよいよ産気づく。

秀吉と江は、心配でしかたがないが何もできず、

ただ淀の産室の前をうろうろするばかり。

たまらず江が産室に入ろうとすると、

秀吉は彼女の着物の裾をつかみ、

「わしを1人にしないでくれ」

と懇願する。

腹括る紐が見当たらないのです  高橋謡子

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彼はもう、関白でも天下人でもなく、

不安の中で我が子の誕生を待つ、1人の男にすぎなかった。  

と、そのとき、元気な産声が聞えてくる。

淀が無事に子を産んだのだ。

しかもそれは、秀吉待望の跡継ぎ。

そう、彼女自身も強く望んだ男子だった。

少年のまんまで物を言っている  籠島恵子

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淀が産んだ子を”鶴松”と名付け、

新たな活力源とした秀吉は、

ついに最後の強敵、小田原の「北条攻め」に乗り出す。

だが、一応戦の大義名分は立てたものの、

秀吉はこの戦いを「鶴松のため」と言ってはばからない。

その態度は、大胆な行動力の裏に、

いつも万全の心配りがあった彼らしくない、

露骨なものだった。

赤児を洗う 月の盥で  こはらとしこ

実は、かつて秀吉は、まだ淀のお腹の中にいた鶴松を、

揶揄する落首に激高し、

落首を許した門番など、

数十人を死罪にするという苛烈な処分も下していた。

鶴松誕生は、豊臣家にとって、これ以上ない慶事だが、

子を思うあまり、秀吉の心には、不穏な偏りが生じていたのだ・・・。

蒼天の中でまさかを渡される  斉藤和子

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「お江ーこれからの見どころ」

いよいよお待ち兼ね、現在、№1人気の向井理くんが登場する。

役柄は、家康(北大路欣也)の三男・竹千代、そして、

お江の最後の夫となる、2代目将軍・秀忠である。

りりしい向井秀忠は、明晰な頭脳を持ちながら、

心に屈折を抱える若者として登場し、

まっすぐな性格で、気が強いお江と、衝突を繰り返す。

ここのところ、低迷気味の「NHK/お江」の視聴率に、

向井理(むかいおさむ)くんが、救世主となりえるか?


罪ほろぼしへ時々つかみ洗いする  山本昌乃

拍手[7回]

お日さまに恋した月の物語  杉本克子

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   鶴松坐像

≪鶴松没後すぐに造像されたもの≫

「鶴松誕生」

秀吉、「ここがお江の家じゃ」と言って、

大坂城に部屋を用意し、贅沢な暮らしもさせてくれたが、

お江の心は空しかった。

お江が大野城主・佐治一成との別れに、

やっと踏ん切りがついたのは、翌年の天正16年(1588)。

この年、秀吉は18歳になった次姉・を、

寵愛する側室・松の丸殿の弟・京極高次に嫁がせる。

ほろ苦いほうを選んだ福の神  岡田陽一

お初がいなくなると、頼れるのは長姉・茶々だけになる。

茶々は本心では、夫と引き裂かれたお江を哀れんでいた。

なんと言っても、悲しみを共有してきた姉妹である。

自ずと打ち解け、溝は次第に埋まりつつあった。

その茶々が、ついに秀吉を受け入れ、

妊娠したのは、お江が一成と離婚させられた2年後である。

丹田をトロンボーンで突かれる  湊 圭史

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  鶴松が遊んだ玩具船 

≪全長2mを超える金箔塗りの豪華な玩具。

可動式車輪がついており、実際に台座上に鶴松が乗り、

守り役に曳かせて遊んだという≫

天正17年(1589)5月

淀殿は、「淀城(伏見区)」鶴松を産んだ。

53歳で跡継ぎを得た秀吉は、狂喜乱舞して、

公家や大名に金子4900枚、銀子3万1000枚をばらまいた。

また、我が子のそばに居たいため、

小田原氏討伐を延期した。

初恋でした苺大福でした  前中知栄

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     鶴松の守刀

蒲生氏郷が鶴松誕生を祝って贈ったと伝わる≫

秀吉は、「淀殿には立派な後ろ盾が必要じゃ」

と言い、

「養子の小松秀勝とお江を結婚させたい」と語る。

淀殿もわが子を妹・お江が支えてくれることに、異存はなかった。

ここに天下人・秀吉と姉・淀殿の都合によって、

お江はその年の終わり頃、

18歳で再婚させられた。

守り神みたいに落陽も月も  赤松ますみ

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      淀古城(C/G)

≪正面手前中央に「淀殿御座の間」・「淀殿の風呂」が再現されている≫

「淀古城」

茶々が秀吉の側室となり、

ほどなくして、「茶々懐妊」という知らせが、

秀吉の耳に届いた。

秀吉は正室・お祢のほかにも、数多くの側室をもっていたが、

天下人になってからは、

ただの一人も秀吉の実子を産んだ女はいなかった。

故に、茶々の懐妊を知った秀吉は大喜びで、

彼女の出産のため「淀に築城」を開始する。

あなたへの愛はいつでもピークです  山本明美

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    淀古城址

この淀は、京都と大坂の間に位置し、

宇治川、桂川、木津川が合流して、

淀川となる交通の要所であり、

舟運の陸揚げ地であった淀津は、京都の外港とされていた。

そのため、かねてより政治的にも重視され、

山崎の合戦の折には、

明智光秀が勝竜寺城とともに、両翼としたが、

光秀敗死ののち、秀吉が接収した地である。

カギの無い人2階の窓へ帰る  井上一筒

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  山州淀城府内の図

この淀城は「淀藤岡城」とも呼ばれ、

秀吉は、これを修築したものだが、
工事は、

「このたび、都から三里あまり隔たり、

 淀川の傍にある淀の城において、

   同様な工事を命ぜられております。

  そこでは5万人が集められ、工事に従事しているのです」

と、フロイスが記述しているように、本格的なものであった。

そして、天正17年(1589)3月、

奉行を秀吉の弟・秀長が務め、

本丸・二の丸、そして、天守をも備える立派な城が完成する。

とんでもないことが当たり前のように  平尾正人

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  移築された伏見城の石垣

この淀城こそは、秀吉が茶々出産のために築城した城で、

「産所」として築かれたわが国史上唯一の城だったのである。

出産を控えて城に入った茶々は、以後、

「淀の上様」・「淀の御前様」・「淀の女房」・「淀殿」

などと呼ばれるようになる。

淀城は、この後いろいろな変遷があり、

「淀の古城」という呼称になる。

お届けものですわたくしの心です  八田灯子

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伏見城から発掘された金箔瓦

「淀城の変遷」

この淀古城は、文禄3年(1594)に廃城とされ、

多くの建物が、秀吉の「伏見城(指月城)」に移された。

ところが、この指月城も2年後の、

文禄5年7月の伏見大地震で廃城となる。

秀吉は、この大地震の経験を踏まえ、

その翌日より、
まず築城地に、

地盤の確かな「木幡山(桃山)」の地を選ぶとともに、

新たに耐震性のある構造の城を築城した。

伏見木幡山城である。

ただいまとあとどれぐらい言えるだろう  河村啓子

本丸の西北に、”五重の天守”が建てられ、

そのほかに”二の丸・松の丸・名護屋丸”などを配置し、

出丸を加えると”十二の曲輪”があったといわれる。

(秀吉はこの伏見城中で没している)

すぐさま築かれた伏見木幡山城も、

関が原の前哨戦で落城する。

そしてまた、徳川家康が再建したものの、

元和9年(1623)に廃城となった。

世の掟につまづいて逢う炎天か  森中惠美子

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  園城寺三重塔

≪秀吉築城の伏見城から園城寺(滋賀県)に移された三重塔。

 家康によって園城寺に寄贈されるまで伏見城内にあった。

 伏見城の建物は、これらさまざまな段階で、各地に移築され、

 今も遺構とされる建築がいくつも残る≫

備後・福山城(重要文化財)の「伏見櫓」もそのひとつで、

解体修理の結果、

伏見城の「松の丸東櫓」を移したものであることが、

明らかになった。

福山城はこの他、第二次大戦の戦火で焼失したが、

伏見城から御殿も移築されていて、

そこには、

「淀殿御座の間」
があり、「淀殿の浴室付き物見御殿」 


も残されていた。

喝采の消えた持論を持ち歩く  たむらあきこ

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