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川柳的逍遥 人の世の一家言
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私を高めそれから書く手紙  三村 舞

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  ≪海援隊京都本部・酢屋≫

”この二階に海援隊の仲間が集まった。”

『高瀬川の流れとともに』

高瀬川畔の「材木商・酢屋」は、御用達だった土佐藩との縁から、

二階を「海援隊」本部として融通した。

酢屋が、海援隊の本部扱いされるようになったのは、

酢屋がもともと、土佐藩と密接な関係にあったからである。

土佐藩の外郭団体といっていい、海援隊の京都本部になったのだ。

また、酢屋が高瀬川のすぐ近くにあり、

その立地を生かして海運業も営んでいた点も、

龍馬の目にとまったともいわれる。

一目惚れこれも一つの運のツキ  西藤次男坊

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≪高瀬川・舟入場一隻の船の展示があり、先の小橋を右へ渡ると酢屋だ≫

海援隊が、酢屋を本拠としたのは、

土佐藩とのあいだに、微妙な距離があったからでもある。

土佐藩は、海援隊を傘下に置いたものの、

藩政に危険が及んだときは、

海援隊を、藩から切り離すつもりだったのである。

そのため海援隊は、土佐藩邸に本部を置くことなく、

土佐藩に近い、酢屋を本拠としたのである。

≪その後、幕府による龍馬とその仲間への追及が厳しくなり、

 隊士の多くは、酢屋ではなく、大阪を本拠とした。

 龍馬も、酢屋では危険であると感じ、近江屋に移っている。

 だが、近江屋とて安全ではなかった≫

ピーナツを目に嵌め込んでいる門出  井上一筒

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右上の看板には、隊士名が記されている。

姉・乙女に宛てた、長文の手紙(慶応3年)には、

”酢屋二階”に投宿していたと記している。

また、酢屋に海援隊・京都本部を置いたこともあり、

陸奥宗光長岡謙吉ら多くの隊士も、投宿している。

11月15日、龍馬遭難の直後の”天満屋事件”も、

この酢屋の二階の一室に隊士が集まり、事件が起きている。

船宿に魚拓を囲む釣り仲間  山本憲太郎

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 姉・乙女宛・5メートルの長文

『龍馬の長文』

慶応3年6月24日、

翌日には、「薩土芸藩約定書」締結を控えていた。

龍馬は、早朝6時、河原町の「酢屋」二階の机の前にいた。

乙女姉と姪の春猪宛てに、手紙を書いていたのである。

その日は、相当爽快な気分であったのだろう、

龍馬が乙女に宛てた手紙の中では、

最も長い5メートルにも及ぶものだ。

花時計止めて待ってた人がいる  森田律子

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高瀬川・碑文

『慶應三年六月二十四日 乙女(姉様)、おやべ(姪)宛て
    
 『今日もいそがしき故、薩州やしきへ参りかけ、朝六ツ時頃より、此ふみしたゝめました。

 当時私ハ、京都三条通河原町一丁下ル車道 酢屋に宿申候。

・・・(中略)・・・

 此頃私しも、京へ出候て、日々国家天下のため、議論致しまじハり致候。

 御国の人ハ 後藤象二郎、福岡藤次郎、佐々木三四郎、毛利荒次郎、

 石川清之助(此人は私同ようの人)。

 又望月清平(これハずいぶんよき人なり)。

 中にも後藤ハ、実ニ同士ニて、人のたましいも志も、

 土佐国中で、外ニハあるまいと存候』

 訳ー≪訳・・・は不要か・・・後藤象二郎をベタ褒めしている≫

味方だと言うが斜めに構えてる  籠島恵子

・・・(中略)・・・

 『かれこれの所、御かんがへ被成、姦物役人にだまされ候事と 御笑被下まじく候。

 私一人ニて、五百人や七百人の人お引て、

 天下の御為するより廿四万石を引て、

 天下国家の御為、致すが甚よろしく、

 おそれながらこれらの所ニハ、

 乙様の御心ニハ、少し心がおよぶまいかと存候。・・・』

訳ー≪「後藤象二郎に騙されているなどと、笑わないで下さい。

五百人や七百人で、御国のために尽すよりは、

土佐二十四万石の力を借りて、天下国家のために尽力する方が、良いでしょう。

姉様には、そこまで考えが及ばないでしょう」≫

こころざしのような背骨はもっている たむらあきこ

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高瀬川に展示の舟入の船≫

”龍馬が爽快な理由” は、

鞆の浦沖で起きた”いろは丸”VS”和歌山藩船・明光丸”沈没事件の賠償問題

が5月に解決し、

6月22日には「薩土盟約」も樹立させていた・・・からである。

≪「薩土盟約」は、薩摩藩小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通等と、

土佐藩の後藤象二郎、福岡藤次郎等で決め、

龍馬は、同志・中岡慎太郎と、現場に立ち会った≫

絆創膏はずすとルーブル美術館  石田柊馬

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≪坂本龍馬は土佐藩士なり・・・≫

手紙には、活躍する土佐藩の逸材として、

後藤象二郎を始め福岡孝弟、佐々木高行、毛利恭助、望月清平を挙げ、

中でも、後藤は、わが同志で志も魂も、土佐一番であると明記している。

これを読めば、

「勤王党贔屓の乙女姉が、気分を悪くする」 

のを、龍馬は十分承知しており、

事実、後藤と龍馬が同席したことは、土佐藩中を駆け巡り、

「龍馬許せぬ」

と騒ぎ出す者も、数多くいたらしい。

熱燗に変わると愚痴の第二幕  平尾正人

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≪龍馬が最も愛した乙女姉さん≫

乙女姉 からは、

「何故、後藤象二郎など、武市の敵と同志を組むのか」

との非難の手紙を、受け取っていたものと思われる。

ましてこの時期、

兄の坂本権平家の養子に入った春猪の夫・清次郎が、

土佐を飛び出して、龍馬の下に来ていた。

乙女の心配が、手に取るように判る龍馬は、

このことも権平兄に傷がつかぬように、後藤とも相談しており、

後藤に、

「天下のために働くことであれば、坂本家に傷はつくまい」

と言わせており、安心したことをさらりと姉に伝えている。

広辞苑電話で予約する霞  岸下吉秋

冗談めかして、大事業をなさんとする固い決心を、示しているのである。

反面、

「土佐から出たい」

と、乙女姉が言い出していることに対して、

「勤王や尊皇と騒ぎ、濡れ手で粟を掴むように、

 天下国家の話を吹き込む輩もいるのだろうが、

 女が出奔するなど、危険なことを考えるのはお止め」

と説得し、

洗脳はハーブの息とうすみどり  井上恵津子

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≪高瀬川沿い・土佐藩邸跡‐(酢屋より約100m)≫

春猪には、亭主が脱藩しているのに

「簪を送ってくれなどとは、何事か」

と諌め、はたまた兄の権平は、酒が過ぎるとか、

妻のお龍は、

「天下国家のことなど、壮言もせずに良く尽くし、

 縫いものなど、女の務めを果たしており、時間があれば本を読むように」 

と言って聞かせていると、

「姉様もそうすれば」

と言わんばかりの長文で、

龍馬の人間味あふれる優しさを、顕している。

踏み台にどうぞ丈夫なこころです  新家完司

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≪龍馬は筆まめだったようだ≫

脱藩以後は、土佐藩からも追われ、

幕府からも命を狙われた龍馬にしてみれば、

「読んだらすぐ火中に」 とか、

「人に見せるな」 と、

出した手紙の破棄を望み、

おそらく膨大な手紙の中から、残った”百三十九通”である。

(宮地佐一郎著参考)

階段の見える風景豆ごはん  墨作二郎

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≪酢屋のこの看板に向いの京劇が写っている≫

『酢屋とは』

享保6年(1721)創業から、京都三条で材木商を営む。

幕末、当時6代目・酢屋嘉兵衛は、この材木商を営む傍ら、

角倉家より、大阪から伏見、そして京へと通ずる高瀬川の木材独占輸送権を得て、

運送業も行なっている。

現在、酢屋の前にある”京劇”は、当時、高瀬川の「舟入」で、

高瀬舟が出入りしていた。

岸には、納屋が建ち、船の荷をあげていた。

そんな時こころで追っている昔  西山春日子

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≪酢屋二階は「龍馬」ギャラリーになっている≫

酢屋の東を流れる、高瀬川の川沿いには、

各藩の藩邸が立ち並び、

各藩との折衝や、伏見そして大阪との連絡にも格好の地であった為、

龍馬は「酢屋」に身を寄せていた。

嘉兵衛は、龍馬の活動に大いに理解を示し、

彼の活動の援助に力を注いだ。

龍馬は、家の者から「才谷さん」と呼ばれ、

二階の表・西側の部屋に住まいし、

当時の面影を残す二階の出格子より、

龍馬は、向かいの船入れにむけてピストルの試し撃ちをしたといわれる。

≪現在10代目・「酢屋」となった二階には、当時を偲ぶものが展示されている≫

男の罪を風の罪だと思わねば  森中惠美子

拍手[5回]

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円の中に座す円に疎外される瞬間  山口ろっぱ

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趣味の三味線を弾き、歌を唄う晋作

「幕末カラオケ事情」

高杉晋作は、折りたたみ式の”三弦(三味線)”を持ち歩き、

それを片手に酒で喉を潤わせて、浄瑠璃を楽しんだ。

十八番は、自作自演の即興だったそうだ。

静々と浄瑠璃を歌うのが、趣味であった。

龍馬が、陸奥宗光と一緒に、馬関にある奇兵隊の兵舎を訪れた際に、

高杉の歌う”鬱の虫が巣くったような”浄瑠璃を、

たんまり聞かされたそうだが、

龍馬の性格からして、飽き飽きしたようだ。

酔えば出る清和源氏のひとくさり  森山勝彦

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龍馬に見せるピストルの威力

しかし、龍馬は、高杉からピストルを一丁、もらうこととなり、

試し撃ちなどして、気が晴れた。

性格の違いか、高杉には近寄れなかった龍馬であったが、

高杉の小倉城攻撃のときには、

「やじうまなどしてよろしいか?」

と許可願いを受けて、

「よろしかろう」

というので、

「随分と勝ち戦を楽しめた」

と書き記している。

しゃっくりを止める話を持ってるか  森中惠美子

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晋作は破天荒に藩の金を自由に使った

このとき高杉は、すでに酒樽などを開かせて、

宴の準備を整え、指揮をとったという。

折りたたみの三弦も、手元にあったことだろう。

その三弦は、いわばカラオケ装置、

マイクは、自分の声のみとなるのだが、

江戸中期頃から浄瑠璃は、流行の兆しがあり、

三弦で節を取り、最初に浄瑠璃を楽しんだ人物は、

織田信長ともいわれている。

ちなみに、

≪源義経と長者浄瑠璃娘との恋歌≫を、シナリオにして三弦を奏でたものが、

いわば、”カラオケの始まり”であった。

巻き貝の奥からもれるピアノソロ  本多洋子

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  カッポレを唄い舞う芸妓

ところが龍馬の場合には、浄瑠璃などでは、満足できない。

テンポの良い歌に踊りが入る。

龍馬の十八番は、”カッポレ”の自作自演である。

いわば、アドリブを加えたシンガーソングライターなのだ。

それに必ず、酒も芸者も入る。

そして三弦、太鼓などの鳴り物に合わせて、

場を盛り上げるのが大の得意であった。

口八丁手八丁で腰軽い  吉岡 修

≪まさに、カラオケで悦に入る主人公を、演じていたのである≫

カッポレは、今でいうロックンロールのようなもの。

大判振る舞いの、馬鹿騒ぎをするのだが・・・、

海援隊の士気を盛り上げるのに、

役立つこと大であった。

≪行きつけの店は、今も残る長崎の料亭・「花月」であった≫

阿波踊りよりもおらがの盆踊り    筒井祥文

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晋作の何故かどこかに影がある

「晋作の日常」

奥番頭役から直目付役へと、昇進していった晋作の父親・忠太小は、

藩主にひたすら忠実で、実直な人物ではあったが、

小心な男でもあった。

「晋作や、おおぎょうなことはしてくれるな。トトの立場ちゅうものが、あるからのう」

というのが口癖であった。

晋作には、耳にタコができるほどではあったが、

彼の偉いところは、父親を心配させぬように、

気を使うところであった。

笑顔の裏も笑顔だなんていい人ね  八田灯子

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しかし晋作は、父親と違って、気性の非常に激しい、

また男気の強い性格である。

おいそれと父親の言いなりに、なってはいられなかった。

「おおぎょうなこと」

をせずにはおれない晋作は、

父親の目に触れないように、

こっそりと”おおぎょうなこと”をしていたのである。

よそ行きの顔は四隅を欠いておく  井上一筒

高杉家と少し離れた平安古(ひやこ)という街筋に、

久坂玄瑞が住んでいた。

このあたりには、槍持ちなどを、任とする武士などが、住んでいた。

そのためか、体格のよい男が、随分といたそうである。

久坂も六尺もある大きな男で、当時としては、相当に大柄であるが、

頭脳明晰で、幼いころから、

神童と呼ばれるほどであった。

その久坂との出会いが、高杉の人生を変えたのである。

取り扱い注意私の虚栄心  中井アキ

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       松下村塾

運命の場所は、吉田松陰の主宰する”松下村塾”である。

父親たちが、子に近寄らないように諭し、恐れた場所である。

村塾には、親の反対を押し切って、入塾した仲間たちが、大勢いた。

勘当されて家を追い出された者も、数知れずいた。

そういう不良仲間と呼ばれた若者たちを、指導していたのが、

吉田松陰である。

その松陰自身も密航を企て、牢獄に入れられていたのだから、

彼を大罪人と考える、萩の人たちも多くいた。

いわゆる、”村塾が危険視”されるのも、当然であった。

なァ息子時計の針を進めるな  板野美子

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   桂小五郎(谷原章介)

高杉にとって最大のライバルであったのが、久坂玄瑞である。

桂小五郎もいた。≪のちの木戸孝充である≫

桂は、19歳のとき江戸へ留学し、練兵館に剣術を学んだのだが、

生来の運動神経の良さか、入門早々に頭角を現し、

その塾頭になって萩に帰ってきた。

しかし、高杉はまだ頭角を現すに至らず、

詩作にふけったり、気まぐれに剣術の稽古をしたりと、

桂のような勢いがまだなかった。

桂の噂は、知っていただろうが、それほど関心も寄せず、

お坊ちゃん育ちの、ただの人だったのである。

美肌菌多いからとて持てもせず  ふじのひろし

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     村塾・教室

気性の激しい高杉は、入塾以来、

同じく負けん気の強い久坂を、意識するようになる。

久坂は、秀才の誉れが高かったのだが、

両親や兄とも死別し、いわば、孤児同然の境遇を送っていた。

久坂もまた孤独ゆえ、仲間を求めての入塾だったのだろう。

村塾には、いろいろな事情から常時20人ほどが、寄宿していたようだが、

通いも含めると、200人の若者が、出入りしていた。

このような中で、晋作は、いつかこの頂点に達し、

彼の個性を、発揮していくのである。

≪いわば”おうぎょうなこと”をしでかす、不良仲間たちとのエネルギーが、

明治維新を導いていくことになるのである≫

クモの糸学べることはたんとある     服部文子

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『龍馬伝』・第41回-「さらば高杉晋作」 あらすじ

長年の確執を乗り越えて、龍馬(福山雅治)は、

土佐藩の参政・後藤象二郎(青木崇高)と手を結んだ。

これにより、龍馬率いる亀山社中は、「海援隊」と名前を変え再出発。

土佐藩という、大きな後ろ盾を得た龍馬たちは、

運輸、開拓など、さらなる大規模な事業を展開しようと計画する。

それもこれも、自分たちの食ぶちを稼ぎながら、

大政奉還を実現するため。

龍馬たち海援隊の面々は、目標に向かって思いを新たにする。

ワインセラーから取り出す翼のひとつ  岩田多佳子

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そんな中、身の危険を感じた龍馬は、

お龍(真木よう子)三吉(筧利夫)に預けるため下関へ向かった。

久しぶりに再会した高杉(伊勢谷友介)は、病の床につき、

明日をも知れぬ身となっていた。

ともに浜辺に出かけ、2人は「新しい世」について語り合う。

「日本を頼みます、坂本さん」   

「ほんまは、高杉さんと一緒に新しい日本を作りたかった」

高杉の無念を肌で感じた龍馬は、

高杉の志を引き継ごうと心に決める。

先に逝くつもり我儘いうつもり  一戸涼子

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海援隊に新たな脱藩浪士も加わり、

小曾根乾堂(本多博太郎)が用意した離れを拠点として、

海援隊の活動がスタートする。

海援隊の経理を任されたのは、

土佐商会の主任である弥太郎(香川照之)だった。

彼は、龍馬たちの要望で、船を手配しようと奔走。

”いろは丸”を大洲藩から、借り受けることに成功する。

義理堅い氷河は水を盛ってくる  壷内半酔

拍手[7回]

耳削いで来れば仲間にしてやろう  井上一筒

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    海援隊の仲間

写真左から

白峰駿馬ー長岡藩藩士。日本最初の造船所を開設する。

千屋虎之助(菅野覚兵衛)ーお龍の妹・君江(紀美)の夫。一時期、お龍の面倒をみる。

龍馬ーこの写真の10ヶ月後に暗殺に遭う。

高松太郎ー龍馬の姉・千鶴の子。龍馬の遺志を継ぎ蝦夷地で活躍する。

岡本健三郎ー龍馬の護衛役。近江屋事件では階下に待機していた。

長岡謙吉ー海援隊副隊長 船中八策・大政奉還副書を起草する。

気が合うね出会いはそんな台詞から あいざわひろみ

”海援隊”を結成する前、龍馬は肝心の船を失い、

経済的に完全に行き詰まり、

亀山社中は、解散寸前の危機にあった。

そこに現れたのが、土佐の参政・後藤象二郎である。

後藤は、土佐商会を運営し、当時、長崎をたびたび訪れていた。

後藤の使命は、土佐藩の海軍力・海運力の強化にあり、

そのノウハウを持つ者を求めていた。

その後藤のアンテナに、龍馬の亀山社中がひっかかったのである。

後藤は、亀山社中が持っていたノウハウに期待した。

風を掬う風を吸う風満ち足りる  山口ろっぱ

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   ”清風亭”使用桐箱

慶応3年1月12日、後藤は、長崎の清風亭に龍馬を招待した。

そのとき後藤は、龍馬が贔屓にしていた芸妓・お元を呼んでいる。

後藤は、抜け目なく龍馬懐柔の下準備をしていたのだ。

この時期、土佐は、薩摩、長州にさまざまな遅れを取っていた。

遠雷を急ぐ自転車のペダル  森田律子

≪軍事力、産業技術力、交易力、国家構想力といった、

 当時、雄藩と呼ばれた藩が、必要としていた、

 すべての面において、遅れていた≫


また、土佐には、薩摩、長州との太いパイプもなかった。

土佐はそれらの遅れに気づいて、

形勢挽回に力を入れ、

その一環として、亀山社中の取り込みを考えたのである。

ライバルの斜め後ろに付くゆとり  上嶋幸雀

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  後藤と龍馬をとりもつ杯

後藤の提案は、龍馬にとっても、悪い話ではなかった。

当時、亀山社中は、薩摩藩の庇護下にあったものの、

資金的な援助はわずかであり、社中の財政は逼迫していた。

龍馬は次の手を打てない窮地にあったのだ。

しかし、土佐藩が出資してくれれば、金に困ることはない。

うまくいけば、土佐藩を動かして、政局をリードできる。

龍馬と海援隊が、幕末の主役に躍り出ることも、可能になる。

龍馬は、後藤の人間力、実行力を見て、

提携できる相手と踏んだのだろう。

そして両者は、過去を問わず、

血塗られた土佐の歴史を乗り越えて、合併した。

怨みからうらみへ向かぬ針の先  森中惠美子

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     土佐・開成館

慶応3年(1867)4月、海援隊が誕生する。

海援隊は、亀山社中と土佐の開成館という、二つの組織が合体して生れた。

土佐の開成館は、

土佐藩が慶応2年、殖産興業、富国強兵を目指してつくった組織。

山内容堂側近の後藤象二郎が、具体的に計画を立て、

 海軍を練成する軍艦局、貿易を振興させる貨殖局、

 産業開発をになう勧業局、外国語を訳す訳局、

 大砲をつくる鋳造局、などから成り立っていた≫

鬼太郎を捻って貧乏から抜ける  本多洋子

開成館の本部は、高知にあったものの、

その組織の性質上、高知では技術の向上を望めない。

そこで、海外交易の中心地である長崎にも、

”土佐商会”
と呼ばれる拠点がおかれた。

やがて、後藤象二郎は、

同じ長崎に拠点を置く、龍馬の亀山社中のことを知り、

提携を考えるようになる。

白い器に僕の野心を盛りつける  和気慶一

それは、土佐藩の上士勢力と、郷士勢力を結びつける、

作業でもあった。

開成館は、土佐でかって実権を握っていた吉田東洋の流れをくむものだった。

≪その吉田東洋は、尊皇攘夷を唱える武市半平太の土佐勤皇党一味に殺される。

 いっぽう、亀山社中には、土佐勤皇党の流れを組む者が多くいた。

 勤皇党は東洋暗殺後、一時、土佐の実権を握るが、

 容堂によって解散に追い込まれ、

 半平太は切腹、多くの党員が裁かれた≫

もうひとつのかけがえのない息遣い  笹田かなえ

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     海援隊約規

上記写真の記述は ”土佐藩および、そのほかの藩を脱藩した者、

海外に行きたい者なら、誰でも入隊できる”とある。

亀山社中の者たちは、後藤を憎んでいたし、

後藤は後藤で、東洋暗殺に関連した亀山社中の者らを、

快く思っていなかった。

だが時代の流れが、相容れないはずの、両者を結びつけた。

龍と象の約束のシェイクハンドぜよ  坂本龍馬

拍手[5回]

白旗をうつくしく持つときもある  森中惠美子

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≪清風亭は、龍馬と対立していた後藤象二郎が初めて会談を行った料亭≫

第二次長幕戦争で、幕府は、長州一藩に敗北する。

その途中、将軍・家茂が亡くなり、

将軍空位の時期がしばらく続くという、異常事態でもあった。

その結果、”割拠の時代”といえるような状況が、現出したのである。

諸藩で、「これからは割拠の時代だ」 という、叫びにも似た言葉が綴られるようになる。

「もう幕府の言うことは聞かなくてもよい」

「藩が独自に富国強兵を目指すべきだ」

ということが、平気で語られるようになった。

おかしくて実から笑いがこぼれおち  河たけこ

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鉄砲の音がゴマをいるように聞える(長幕戦争)

それは、

「これからは軍事力を持たない藩は、政治的発言力もない」

という裏返しにも繋がる。

こうした世情を受け、薩摩や長州に遅れをとった土佐藩でも、

龍馬たちの価値を、評価しようという機運が出てくる。

≪それまで土佐藩は、土佐勤皇党の弾圧などによる分裂状態が続き、

 国事に積極的に参加することが出来なかった。

 ところが、気がついてみると、

 郷土の土佐出身で土佐勤皇党の一員でもあった龍馬が、

 脱藩浪士となって、薩摩や長州の薩長の間を取り持つなど、

 政局の行く末に大きな影響力を、発揮していた・・・≫

今や今 今この波を逃したら  杉山ひさゆき

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龍馬に近づいたのは、

土佐勤皇党によって暗殺された吉田東洋甥・後藤象二郎である。

後藤は東洋の暗殺後、一時失脚したが、

のちに藩政に復帰して、大監察という重職につき、

武市半平太ら、土佐勤皇党の弾圧を主導した。

つまり龍馬にとって、”仇敵”といっていい男である。

ところが藩の参政となった後藤は、

土佐藩が、中央政局で存在感を増していくためには、

”龍馬の海軍”を無視できない現実に直面していた。

そもそも、土佐は、船で海を渡らなければ、

畿内や江戸といった、日本の中枢に、でることが出来なかったのだから、

どうしても、海軍を入手しなければならなかった。

ソロバンを弾き尻尾が飾られる  谷垣郁郎                  

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龍馬から後藤象二郎に宛てた手紙

≪坂本龍馬の手紙には、

 鎌倉幕府以来、700年近く続いた武家政権を、返上させる大政奉還への思いが、

 強い筆致で記されている≫

龍馬にとっても、後藤は、不倶戴天の敵である。

しかし、亀山社中の経営が危機に瀕した今、

龍馬の目指す海軍を、維持するためには、

是非とも、土佐藩を後ろ盾にしておきたかった。

また、薩摩と長州だけが暴走することを、抑えようとしていた龍馬にとって、

土佐が海軍力を手に入れて、発言力を増すことは、

重要な意味を持っていたのだ。

くちばしの先を伸ばせばオフサイド  井上一筒

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海援隊本部・酢屋(京都三条)

≪酢屋の二階の左窓側に龍馬の机がある≫

そして、慶応3年(1867)1月、

龍馬と後藤は、長崎の”料亭・清風亭”で、

恩讐を超えた歴史的な会談を行い、

利害が一致したこともあり、

両者は、たちまち意気投合をした。

後藤は、龍馬の先進的な考えや、藩の枠に囚われない、

広い視野に感嘆し、脱藩の罪を解いて、

土佐藩支配下の「海援隊」隊長に任命した。

≪酢屋に本隊をおく海援隊の誕生である≫

≪この後、後藤象二郎は、

龍馬の大政奉還策を藩論として、”大政奉還”の実現に寄与することになる≫

維新という大歯車を廻した龍馬  木村良三

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『龍馬伝』・第40回-清風邸の対決 あらすじ

馬関での戦いを終え、龍馬(福山雅治)は、長崎に戻るが、

奉行所のお尋ね者になっていて、出歩けない。

一方、”土佐商会”の主任として、長崎で商売をしたい弥太郎(香川照之)は、

どこでも龍馬の紹介が必要と言われ、

後藤象二郎(青木崇高)に言い出せない。

そこへ時勢を見極めた土佐の山内容堂(近藤正臣)から、

「薩長と密かに繋がれ」 

との命が下る。
 
点線で割る濡れおかきの領域  山口ろっぱ


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小曽根乾堂(本田博太郎)お慶(余貴美子)から、

「どうして龍馬に頼まないのか」

と言われた象二郎は、これまでの私怨をこえて龍馬に会うと決心。

しかし、会談がうまくいかなかった場合は、

「龍馬を斬れ」

という命令も出す。
 
腹に一物作り笑顔がぎこちない   倉 周三

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龍馬の居場所を探す弥太郎だったが、

引田屋に、龍馬が突然現れて、

「象二郎と会おう」 と言う。

龍馬は”大政奉還”のためには、

徳川家を大事にする土佐藩を、薩長側にひきこんで、

武力討幕を止めるという、もくろみがあった。

清風亭で、対決する2人。

話の展開次第では、象二郎側の上士や社中の面々が、

斬りこもうと部屋の外で構える、

長い沈黙コーヒーがさめてます  荒井慶子

そして・・・・・

弥太郎が見守る中、龍馬は、象二郎に、

「徳川の世はもう終わる、徳川家を守るには大政奉還しかない、

 薩長と繋がるのなら、しっかり、手を組む覚悟でなければだめで、

 土佐が新しい日本を作る要になるのだ」

と説くが・・・。

黄昏の手前で捨てる破れ傘  荻原鹿声

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後藤象二郎の邸宅跡(長崎)

象二郎は土佐に”開成館”を設置すると、

その出先機関である「土佐商会」を長崎に設け、

自ら代表となり、土佐の特産品である”樟脳”輸出している。

≪後藤象二郎宅は、後に、岩崎弥太郎が譲り受けた≫

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中島川に架かる長久橋のたもとにある、土佐商会跡の碑

土佐商会の運営は、岩崎弥太郎が任され、武器の輸入などの貿易を行った。

弥太郎は、海援隊の資金管理なども担当した。

≪土佐商会が閉鎖された後、弥太郎は

  大阪商会、九十九商会を経て、三菱商会を設立している≫

美しい国へ目薬二階から  たむらあきこ

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傷ついた桃ならさっき食べました  森田律子

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  長幕開戦図(龍馬使用)

慶応2年6月の「四境戦争」とも呼ばれる、幕府による”第二次長州征伐。

幕府の軍勢は、長州の4つの口、芸州口、小倉口、石見口、上関口から、

攻め込もうとした。

ところがすでに長州は、

2年前に幕府に戦わずして、屈服した”長州藩”ではなかった。

和睦後、高杉晋作らがクーデターを起こして、藩の実権を握り、

帰藩した桂小五郎大村益次郎を起用して、

軍事装備を一新させていたのだ。

高杉や大村らに指揮された長州軍は、最新の兵器で幕府軍を迎撃。

幕府方をさんざんに破った。

バーベルで鍛え大ジョッキは軽い  伊藤博仁

この戦争に、長州の海軍総督・高杉から参戦を求められ、

龍馬は、亀山社中を率いて長州側に加勢した。

龍馬の”乙丑丸(ユニオン号)”と、高杉の”丙辰丸”は、

門司と田ノ浦の敵陣めがけて、砲撃を開始、

敵側の砲台を沈黙させた。

完全に倒れ完成するドミノ  平尾正人

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双方が生き残りをかけた、第2ラウンドではあったが、

この戦争の最中に、別のステージでは、

戦況に影響する重要な変化が起きている。

慶応2年(1866)12月、のことである。

大坂城で病死した将軍・家茂のあと、

第15代将軍に、慶喜が擁立されたこと、

そして同じ月、攘夷論者でありながら、

佐幕的立場をとっていた孝明天皇が突然死んだこと。

冬のことあなたはどこで知りました  南野耕平

孝明天皇の死は、毒殺の疑いがかけられているが、

可能性は非常に高い。

たしかな証拠があるわけではないが、

佐幕的立場をとる孝明天皇では、

長州藩、薩摩藩にしても、

倒幕を唱える急進的公家たちにしても、

やりにくかったはずだからだ。

幼少の新天皇を擁立し、それを「玉(ぎょく)」として使いながら、

自分たちの思う方向へ進ませようと、考えたのではなかろうか。

こうして新しい将軍・慶喜、新しい天皇(明治天皇)へ、

と幕府も朝廷も、代替わりしたのである。

塩化水素ひとりでは死ねないのです  山口ろっぱ

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家茂が死んだため、長幕戦争は中止となったが、

幕府の威信をかけた軍事行動を、中止したことにより、

威信は、大きく低下することになった。

もはや幕府は、倒壊寸前のところまできていたのである。

事実、慶喜は京都で将軍になったが、

そのまま京都にとどまり、

江戸へ戻ることができないでいた。

例外をひとつ許してから雪崩  片岡加代

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京都を離れれば、

その隙をついて薩長が、朝廷と幕府の間を割くことが考えられ、

朝廷が、

「幕府に政治を委任するのはやめる」 

と言い出せば、

それで幕府は終ってしまうからだ。

そこで考え出されたのが”大政奉還”という手であった。

≪この大政奉還には、龍馬がからんでいた。

 というよりは、この発想そのものは龍馬から出てきたものである≫

悪口を言わせぬように立たぬ席  下田幸子

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さて、社中の同志とともに、下関へ参戦した龍馬であるが、

大きな心配事が一つあった。

「師の勝海舟が幕府海軍の司令官として、参戦すること」

そうなれば、海舟は幕府海軍を率いて、必ず、”関門海峡”を封鎖する。

海舟の優秀な弟子である龍馬は、

師がその立場に立ったら、

「当然そうするであろう」

と予想していた。

そして龍馬のこの予想は、半分当たっていた。

ふんどしがずれた2分の1気圧  井上一筒

というのは、それまで謹慎させられていた海舟は、

5月28日に突然、江戸城に呼び出され、

「もとのとおり軍艦奉行を命ずる」

と言われていたのである。

「このたびは、どんな仕事をするのか」 

と驚きつつ海舟が聞くと、

「薩摩藩が、第二次長州征伐への出兵を拒否した。

 会津藩(京都守護職)が怒っている。

 両者の間で戦闘が起こるかも知れない。これを調停して来い」

というものだった。

「またそんなクダラナイ仕事をさせるのか」

と、海舟の胸のうち。

ケモノの血薄れ草食系男子  新家完司

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    関門海峡(現在)

あきれながらも海舟は、京都にいって調停にはいった。

ところで、元治元年(1864)の9月11日に、

海舟は、薩摩藩との会談で、

「幕府を見限って、西南雄藩が連合して新しい共和政府をつくりなさい」

と助言している。

それを聞いた西郷隆盛大久保利通は、

「勝先生、冗談キツイですよ」

と一笑に臥しましたが、このときの海舟の心のなかには、

「幕府艦隊をまかせてくれれば、必ず関門海峡を封鎖する」

と考えていたといいます。

すなわち、龍馬の考えは、半分あたっていたのである。

勝海舟が、長伐戦争に加わらなかったことは、

龍馬にとって幸いした。

替え芯を下さい夕陽見たあとで  立蔵信子

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