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川柳的逍遥 人の世の一家言
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いやまさかタピオカ喉に詰まるとは  八上桐子



         幽閉先の修禅寺に残る伝頼家の「死相の面」

源頼家が修禅寺に流された頃、夜叉王という面作り師がいた…
岡本綺堂が修善寺温泉に滞在中、宿の主人と語り合っているうちにこの
「死相の面」のことが話題になった。
内容は、この地で暗殺された源頼家のことであった。
岡本綺堂は、宿の主人が語った頼家の史実をヒントに新歌舞伎の傑作
「修禅寺物語」を書いた。


イの一番が呪い続ける交差点  森 茂俊
  
 
 
           修善寺物語

 

「鎌倉殿の13人」 頼家暗殺


「修禅寺物語」 

源頼家が修禅寺に流された頃、夜叉王という面作り師がいた。
頼家は、夜叉王に自分の顔の面を注文する。
しかし、何度作っても、面に死相が現れ、なかなか完成させることが
できなかった。
半年が経った秋の晩、頼家は面の催促に夜叉王を訪れる。
夜叉王は「面に死相が出てしまいお渡しできない」と話すと、
癇癪を起した頼家は、夜叉王を成敗しようとした。
そこへ頼家の興奮を抑えるように、娘のかつらが来て、
「お鎮まりくださりませ。面は唯今献上いたしまする」
と、穏やかな様子で止めに入った。


夜を作ったのは神様の誤算  上砂眞笑



何度、作っても「死相の面」になると嘆く夜叉王


かつら差し出した面を見るなり、頼家
 「おお、見事じゃ、よう打ったぞ。さすがは夜叉王、
  あっぱれの者じゃ。頼家も満足したぞ」
打って変わって、感嘆の声を漏らすのだった。
対して夜叉王は、
 「あっぱれとの御賞美は、憚りながらおめがね違い。
 それは夜叉王が一生の不出来。よう御覧じませ。
 面は死んでおりまする。何度打っても死人の面しか出来ないのです」
と、説明するが、大満足した頼家は、
「この面を持ち帰る」と言い、さらには
「お前の娘が気に入った」
と、言い、夜叉王の娘・かつらを頼家の邸へ連れていくという。


スイッチが入れば飴色の世界  宮井いずみ


修禅寺に幽閉され、不遇な日々をおくっていた頼家は、
かつらを側女に得たことで心の傷を癒やし、
この地で、幸せな生涯を送りたいと考えたのである。
ある日のこと、頼家とかつらが、桂川のほとり虎渓橋の袂を散歩して
いるとき、宵闇の中、草むらに潜む怪しい二つの影があった。
頼家が不審者に気づき「何者か!」と叫んだため、
影はその場から逃散した。
影は、北条時政の命を受けて、「頼家暗殺」にやってきた刺客だった。
刺客は好機を待った。
再三、頼家の油断を狙っていた刺客は、頼家の入浴中を襲った。
無防備な頼家は浴槽で打たれ、湯舟を真っ赤な血に染めて命を落とした。


虹色と抱いて儚いシャボン玉  靏田寿子


頼家の傍らにいたかつらも、また頼家の面を付けて奮戦し、
血まみれになりながらも、実家へ落ち延びてきた…
 「これ 姉さま。心を確かに。のう、父様。姉さまが死にまするぞ!」
妹のかえでが物音に気付き、瀕死の姉を認めて、父を呼んだ。
夜叉王は、さして動揺もみせず、かつらを見て
 「おおぉ、姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であろう。
  父もまた 本望じゃ」
と、一声を吐した。そして、かつらのつけていた割れた面を抱いて、
「幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、
 われ拙きにあらず、鈍きにあらず、源氏の将軍頼家卿がかく相成る
 べき御運とは、今という今、はじめて覚った…伊豆の夜叉王…、
 われながらあっぱれ、天下一じゃのう」
と、言うのだった。


思い出に変化してゆくぼんのくぼ  きゅういち
 
 

 風呂場で刺客に暗殺される頼家
 
 
 「頼家殺害のミステリー」
伊豆修善寺に幽閉された将軍頼家は、その地で暗殺された。
しかし、誰が何のために、という部分はハッキリしていない。
「愚管抄」などの書物によれば、
「浴室で入浴中に襲われ、首を紐でしめられ陰嚢まで取られる」
という、かなり惨い殺され方だったようだ。
すでに力のない頼家を、なぜこうまで無残に消さなくてはならなかった
のだろうか。

「…トミニエトリツザリケレバ 頸ニヲヲツケ
 フグリヲ取ルナドシテ コロシテケリと聞ヘキ」 (『愚管抄』)


華やかな時代も過ぎて冬しぐれ  藤原邦栄


 【追記】
暗殺を命じたのは北条時政説、或いは、子の北条義時説がある。
殺害された理由は、頼家が北条氏へ相当な恨みをもって復讐を計画した
からとも、一種の精神病的な状態にあった頼家の言動を、北条氏が危惧
したともいわれる。
しかし、事実を探る手がかりの1つとして、頼家の側近であった中野能
という武士について驚くべき事実がわかった。
 能成はかつて、頼家の暴挙にさんざん付き合った近臣で比企一族滅亡
の折には、禁獄されている。
だが能成には、その日付で、時政から「所領を安堵する」書状が出され
ているのである。つまり頼家側と思われていた能成は、実は、
時政側のスパイだった疑惑が出てきたのだ。


目が覚めてすぐに昨日が裏返る  小谷小雪 


「中野能成とは」
御家人13人の合議制に反対する頼家が選んだ、側近5人の1人である。
建仁3年(1203)比企氏が謀反を企てた為、北条氏に滅ぼされた。
頼家は伊豆の修善寺に追放され、連座して能成は、所領を没収された。
が、高井郡志久見郷を本拠とする市河氏伝来の「市河文書」によると、
「所領没収」と同じ日に、北条時政から所領を安堵の保証をされてい
ることから、能成は頼家の側近でありながら、北条氏とも通じていた
可能性が指摘されている。


不要になった幽霊船の舵  井上一筒
 
 

    伊豆修善寺 湯治場  歌川広重
 
 
「明治座での初演初日の朝に綺堂が書いた文章」

(抜粋)
『頼家の仮面といふのは、余ほど古びていて、判然とは判りませんが、
矢はり昔の舞楽の面でせう。
之を頼家の仮面と称するのは、恐らく頼家所蔵の面といふ意味であらう
と察せられます。
同じ仮面でも、これが頼朝の仮面では、左のみの感じも起こりませんが、
頼家のやうな悲劇中の人物、其人の形見かと思ふと、一種悲哀の感が湧
いて、悲劇の仮面を着けていたといふギリシャの神などが連想されます。
で、其の仮面をつくづく見ていると、何だか頼家の暗い運命が其の面に
刻み込まれて居る様に思われる』


空き缶を蹴っております飽きるまで  岡本遊凪



修禅寺を訪れた 岡本綺堂 が、鎌倉時代を題材に戯曲を書き上げ、
明治41年(1908)に、明治座で初演したのが夜叉王を二世・市川
左団次が演じた「修禅寺物語」であった。
果たして大好評となり、修善寺温泉の名を一気に高めた。
面打ち師の夜叉王と娘のかつら、そして、幽閉された二代将軍・頼家
かつらの思いを滅びゆく源氏の姿を背景に描いたストーリーで、綺堂は、
「修禅寺の寺宝」である面を見て、作品のヒントを得た、と言われている。


ひっそりと海馬の奥に捜し物  松浦英夫
 
       梶 原 景 時

「景時を死なせたことは頼家の失策である」とは、
「愚管抄」天台宗僧侶・慈円の評。


「梶原景時暗殺」

鎌倉の有力御家人の1人である梶原景時は、武勇で名を馳せる一方で、
敵対者を次々に讒言して多くの恨みを買っていた。
九郎義経を死に至らしめたのも、景時の讒言であった。
「ただちに景時弾劾に同意する者は、鶴岡八幡宮の回廊に参集せよ」
という回文がまわされると、長年の不満が溜まっていたのか
なんと安達盛長・和田義盛ら66人もの御家人が集まった。
早速、「景時弾劾」の決議文を作成された。
当時、武士たちは直接、将軍に書状を渡すことが出来なかったため、
決議文は、和田義盛が大江広元に手渡し、広元から将軍頼家に届けられた。
決議文の内容は、
「景時一人を信任するか?それとも多数の御家人の意見を受け容れるか?」
と、迫ったものであった。


アリ塚に放り込む目覚まし時計  酒井かがり


そして正治元年(1199)10月28日、鶴岡八幡宮に、
ストレスの溜まった東国武士が集まって、ガヤガヤと騒がしい。
「梶原景時を討つべし!」
「そーだ!」
「文治からこのかた…景時の讒訴で命を落した者数知れぬ!」
「世のため君のため退治すべきだ !! 」
「石橋山では平家方だったくせにゴマスリでのし上がりよった」
「そ~。 傍若無人の振舞いは目にあまる !」
「即刻 討つべし!」


底抜けに明るい欠けた瓶の口  笠嶋恵美子


熱い激論の中へ大江広元がやってきて、
「待て待て…弓矢で立っては国中の乱を呼ぶ…ここは、みんなの連判状
 を将軍に提出して、とりあえず景時を諫めてみてもらおうではないか」
「弱腰だが…、一理あるな」
「賛成!」 「異議なし!」
侍所別当の梶原景時結城朝光「謀反の意図あり」と讒訴したこと
に御家人たちが反発し、総勢66人が八幡宮の回廊に集まって、
「景時弾劾」に立ち上がったのであった。


もうすでに生命線は消えている  くんじろう





大御所に場所が移って、
将軍頼家梶原景時が向かい合っている。

頼家 「連判状が提出された!弁明があるなら聞くぞ…」
景時 「御家人どもの悪口などたかが知れています。
    大殿のご信用さえいただけば…」
頼家 「だけど…あのねぇ。これだけたくさんの連中の連判状となると
    庇いきれないよ…なぁ!悪いことは言わん、謝っちゃえ!」
景時 「そーは いきません」
頼家 「無理か…?!」
景時 「無理です」
多数の御家人たちに開き直られたのでは、将軍といえどもなす術はなく、
頼家は、衆議による景時の「鎌倉追放」を承認した。


その刻は使う覚悟の爪と牙  桑原すゞ代


2か月後、景時は鎌倉から追放された。
頼家は、北条に対抗するための大事な懐刀を、失ったのである。
景時は、反鎌倉勢力を結集しようと、京へ向かう馬上にあった。
「待てー。梶原景時だな。尋常に勝負いたせ!」
「駿河の住人、飯田五郎なり!」
「盧原小次郎(いおはら)なり!」
景時 「小癪な! 田舎武士め!」
翌年1月20日、多勢に無勢、景時は、奮戦虚しく駿河国狐崎で、
土地の武士・盧原小次郎飯田五郎らの手によって討たれた。


風葬やったんか墓石あらへんで  黒田忠昭


この梶原景時の失脚について、九条兼実「玉葉」では、
千幡(実朝)を担ぎ出して、「頼家の転覆を図ったため」という
風聞
を記している。
首謀者は、北条政子・北条時政親子だったのだろう…
時政は、源頼家の将軍職を廃止した。
さらに頼家を「修善寺」へと追放し、北条氏が鎌倉支配の実権を握り
始めたのである。



あざ笑うなかれ只の凹凸なんやから  山口ろっぱ

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謝っているようだけど威張ってる  飯田イッキ
 


            源 平 武 者 戯
右上=名代の芋屋は平忠度と一個くれと客の岡部六弥太
右下=曽我五郎と小林朝日奈が枕引きという遊戯をしている。
左上=土佐坊(堀川御所の義経の刺客)と鰹で土佐藩。
中央=家紋から太夫は津藩(藤堂)、三味線は大村藩(肥前)
左下=さなだ与市(尾張)と又野五郎(幕府)そ下の2人は鳥取藩の兵。


源頼朝の跡を継いで、鎌倉幕府の2代将軍となったのは、
源頼朝北条政子の嫡男で、まだ18歳の頼家だった。
苦労知らずのぼっちゃんにありがちな、独断専横な振舞で、母・政子に
見限られ、藩政は、御家人や京下り貴族たちなど、宿老たちの合議制に
よって、運営されるようになった。
当然、この決定に頼家は反発し、近臣の者たちとともに、さらに反抗的
な態度をとるが、それは御家人たちの気持ちを、ますます頼家から引き
離していった。


不意打ちで急所二の句を継がせない  上田 仁


「鎌倉殿の13人」・二代将軍・源頼家
 



「傍若無人の二代目・頼家」

若き将軍・源頼家は自分のお気に入りの5人の家臣・小笠原長経、比企
三郎、細野四郎、和田知盛、中野能成を側近として、特別扱いした。
それは
「5人が鎌倉で狼藉を働いても、敵対してはならないし、敵対した者は
 処罰する」 という、
触書を出すほどの非常識さだった。
 やがて、鎌倉中が大騒動になる事件が起こった。
御家人・安達景盛の愛人に目をつけた頼家が、景盛を三河国に遣わして
追い払うと、その留守に中野能成にその女の誘拐を命じ、自分のものに
したのだ。
しかも、三河から帰ってきた景盛が「頼家を恨んでいる」と聞くと、
将軍への謀反として景盛を討ってしまおうと、合戦の準備まではじめた。
こうなると、頼家の所業は、暴君そのもので、世の批判を集めるのは、
目に見えている。


不意打ちで急所二の句を継がせない  上田 仁


事態を知った母親の政子の対応はすばやかった。
景盛の邸に駈けつけ、頼家に対して、
「謀反の野心はないと、起請文にして差し出しなさい」
と、アドバイスする一方、それを持って頼家に、最近の暴挙のありさま
に苦言を呈したのだった。
母親の説得に、さすがの頼家も刀をおさめ、事件は事無きを得た。
しかし、この事件の波紋は大きかった。
頼家にとって、何かといえば、挙兵以来の勲功をひけらかす父の代から
の宿将たちは、疎ましい存在だった。
この事件は、彼らに対する頼家の、反抗心から生まれた行動だったが、
部下に出張を命じて、その留守に愛人を奪い、さらに帰ってきた部下を
討とうとした二代目の狼藉三昧に、御家人たちの心が離れていったこと
は間違いなかった。


決心のつかぬ地雷を握ってる  百々寿子


 
                   「年中行事絵巻」 蹴鞠する頼家 田中家蔵

宿老たちへの反発は、頼家を雅な強風文化へと向かわせ、やがて貴族の
代表的な遊びだった「蹴鞠」に熱中させることになった。


「蹴鞠に耽るおぼっちゃま」

建仁2年(1202)晴れて将軍となった頼家だが、政治の実権は、
宿老たちに握られたままだった。
御家人たちへの不満は、もともと、雅な京文化へ傾倒していた頼家を
ますます偏重させたが、中でも、「蹴鞠」にはわざわざ京都から、
蹴鞠の名人を招くほどの凝りようだった。


ことば数減らして余生微調整  掛川徹明
 
 
この前年の秋、関東は大暴風雨に見舞われ、甚大な被害を受けた。
鎌倉でも、民家はもちろん鶴岡八幡宮までも破損した。
しかし、この際にも、頼家は蹴鞠に耽って、政務を顧みなかった。
見かねた北条泰時義時の嫡子)が、頼家の近侍である中野能成
会って相談したところ、それを知った頼家は、泰時に対し、
「時政や義時をさしおいて小賢しい」
と、不機嫌さを表したという。
「世人の困窮を忘れてはいけない」 という
泰時の思いは通じず、頼家の蹴鞠への執着ぶりはその後も続いた。


挫けないゼレンスキーをお手本に  新家完司


 
                       京の雅にはまる頼家


政子も何度か頼家をたしなめたが、頼家の蹴鞠好きは、いっこうに止ま
らなかった。
そしてそれと並行するように、頼家の京下貴族への偏重と御家人たちを
無視する態度も続いたのである。
こうして、頼家が蹴鞠に興じている間に、頼家に対する御家人たちの
反感は、限界ぎりぎりまで高まっていたのだった。


好きなことやりたい時にする余生  樋口 眞


「比企一族の悲劇と頼家暗殺」

宿老たちと反目する頼家、中でも母・政子の実家である北条氏との確執
は、日増しに深刻な状況になっていく。
建仁3年(1203)年7月20日、政務を顧みず、蹴鞠にふける頼家
だが、怠惰な生活が祟ったのか、突如、病に倒れ重態に陥った。
8月27日、政子らは、後継について相談し、関東28ヶ所の地頭職と
惣守護職を、長子一幡(6歳)に、西国38ヶ所の地頭職を、弟・千幡
(実朝12歳)に継がせることに決めた。
言い足しておくと、若狭局は、比企能員の娘であり、頼家の妻である。
この2人の間に、一幡が生れている。
だからその決定には、義父の比企能員と一幡の母・若狭局は不満だった。


右廻り左廻りで揉めている  下林正夫
 

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病床の寝間の頼家を前に、若狭局能員が何やらきけん会話を交わ
している。
能員 「若宮さまには、余りにも不当な仕打ちでございます」
若狭局「結局は尼御前よ…自分のことばかり考えて…」
能員 「われら殿に身近な者が力を発揮できるような体制が必要ですぞ」
頼家 「討つか! 北条を!」
能員 「そうです! 殿の病気をよいことに…北条は勝手にことを運び、
    若宮さまから家督を奪おうとしているのですよ」
頼家 「だが、一幡はまだ幼い」
若狭局「そんな弱気では困ります」
能員 「討ちましょう!」
たまたま、回廊を歩いていた政子が、簾越しに3人の企みの会話を耳に
してしまった。
政子 「何ということを! 急いで父に知らせなければ…」
政子は能員の企みを文に認め、父・北条時政に送った。


玄関で素早く面を付け替える   小谷小雪
  

 「もうどうにも止まらない」

かねてより政権剥奪を狙っていた北条時政は、3男の時連(時房)を
頼家の側近におく一方、孫の泰時と三浦半島を本拠地とする、大豪族の
三浦義村の娘を結婚させるなど、着々とその布石を打っていった。
それに比べて頼家は、何の備えもしていなかった。
そんな中で、時政が計る「将軍の権力二分化」の決定を、病床で知った
頼家は、ついに「北条氏追討」の命令を比企能員に下し、
時政のやり方に不満を持っていた能員も動くことにした。
頼家の妻・若狭局の実家であり、将軍後継者の一幡の祖父にあたる比企
能員は、将軍家外戚という立場から、当時、幕府内に大きな力を持って
いたが、同じ外戚である北条氏の台頭に、危機感を持っていた矢先のこ
とであった。

人間の進化を止める独裁者  ふじのひろし


文による政子からの知らせに、時政は、大江広元と相談の上、
「薬師如来の供養をする」
といって、自邸(名越亭)に招き、そこで殺害することにした。
何も疑わずに、名越亭に訪れた能員が、門を潜るやいなや、
時政 「…謀反人! 比企能員!」
広元 「覚悟!」
能員 「謀りおったな!!」
能員は、刀を抜く暇も与えられず、その場で首を刎ねられた。
「…比企能員 謀反の企て露見したるによって、誅殺せり!」
その頃、義時・泰時の率いる北条軍が比企の館に攻め行っていた。
しかし館内では、頼家の妻・若狭局が我が子・一幡を連れて自決し、
比企一族は、ここに滅亡したのである。
「尼御前の仰せにより、一幡どのを受け取りにまいった。
 速やかに解放されよ!」
義時のこの叫びは、館から声出す者もなく、余にも虚しいものになった。


悔しいが夢のつづきはみられない  吉崎徳造



 比企能員邸に建てられた一族ゆかりの妙本寺


その直後、幕府は、
「頼家が死んだので3代将軍として、千幡をたてる」
との許可を受けるため、使者を京都に派遣した。
実際には、頼家は死んでいなかったが、<臨終は近いだろう>とという
時政らの読みがあたったのだろう。
ところが、頼家は持ち直す。
自分が病の間に、妻子が死に、妻の実家の一族が滅ぼされた頼家は、
激怒した。
すぐさま堀親家を使者として、「時政誅滅」和田義盛、仁田忠常に命
じるが、義盛がこの令状を、直に時政に届けたため、その密告によって
堀親家は殺され、翌日には、仁田忠常も滅ぼされる。
やがて、頼家は、伊豆修禅寺に流され幽閉されることとなる。
同じ日、頼家の弟・千幡を征夷大将軍に任ずる宣旨が下されたのだった。


見る場所は違っていても同じ月  津田照子

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主語の無い部屋詠嘆と接続詞  藤本鈴菜


 
            鎌倉右幕下焼香場に頼朝以下御家人勢揃い     (歌川秀貞画)


 建久10年(1199)53歳で亡くなった源頼朝に代わり、
鎌倉の後継者になったのは、息子で18歳の頼家だった。
頼家は意欲的に「鎌倉殿」として務めを果たそうとするが、
それはかえって、頼朝の代から仕えてきた御家人らとの間に
軋轢を生んでいく。
そこで、各所から持ち込まれる訴訟を、頼家の直裁にしない
ために、「13人の御家人」が選ばれた。


勢揃いの御家人一部を拡大すると

      梶原景時と比企能員

 頼朝と肩に乗る万寿丸(頼家)と北条義時

 左から小さく千葉常胤・上総広常・和田義盛

      大江広元・田代冠者
 
北条時政・佐々木盛綱・高綱 下船中に畠山重忠

 
 
  ロボットが武者人形に紛れこみ  宇都宮かずこ


「鎌倉殿の13人」・13人の合議制
 

    
   大倉幕府跡の碑            西御門

頼朝が鎌倉に入るとこの地に屋敷を構え、ここに侍所、公文所、門注所
などを整備した。碑を中心に東御門、西御門と金沢街道に囲まれた地域
に幕府があったと考えられている。その広さは学校のグランド6面ほど
と推定されている。
 
 
「鎌倉殿の13人」が確定する舞台裏。大倉の政所である。
他の者が立ち入らない状態で、「尼御前」または「尼将将軍」と、
呼ばれた北条政子北条時政、大江広元の三人が、面をつきあわせ、
密議を行っている。
広元 「頼家公の親裁を停止するとおっしゃるのですか、尼御前」
政子 「御家人の訴訟は何より大事…いかに裁くかで鎌倉の価値が決り
    ます。残念ながら、あの子にはその器量がない」
時政 「威勢はいいが、ちと思慮に欠けておるでな」
政子 「亡き大将軍の御名を傷つけぬためにも……。
    皆さんのお力を借り、合議制をとるのがよろしかろうと」
時政 「なるほど…それはいい」


林檎だと信じて植えた松だった  くんじろう


広元 「そーしますと まず第一に時政殿と尼御前」
政子 「いいえ。私は表にでる立場ではありません。
    それより大江殿、あなたに加わっていただかねば」
広元 「ありがとうございます」
時政 「そうすると、御家人からは、比企能員、三浦義澄、八田知家、
    和田義盛、足立遠元…」
政子 「安達盛長、それと義時」
時政 「……梶原景時も外せんだろう…」
広元 「京から来た者では、三善康信、二階堂行政、中原親能」
ちなみに、中原親能(ちかよし)は広元の兄である。
政子 「全部で13人ね。では今後、裁判は彼らの談合で行うことに
    いたしましょう」


一つ遠いポストに愛を捨てに行く  石橋能里子


源頼家が将軍の座に就いた約3ヵ月後、この13人の有力御家人たちは、
頼家が直接、訴訟の裁断を行うことを停止させた。
これが、13人の合議制を構成するメンバーで、初めて実施された合議
であったと伝えられる。(『吾妻鏡』)
これを根拠として「頼家は決定権を奪われた」と、されていたが、
より信用度の高い写本『吉川本』には、
「決断ではなく「聴断」を停止する」 と、あり、
「13人以外の人が取り次いではいけない」 という記述が続く。
つまり実際には、
「鎌倉殿は、直訴をきいてはならない。取次役は13人に限定する」
ということだったのである。


こめかみを押し常識に立ち向かう  国塩志保里


即ち、この体制は、<頼家の独断を制約する機能を持っていた> が、
御家人達の合議をへて、将軍が最終的な判断を下すよう定められていた
ため、頼家の裁断そのものを、否定していたわけではなかった。
頼家の裁断の例として、
正治2年(1200)の「陸奥国新熊野社領の堺相論」がある。
この訴訟において、頼家は、係争地の絵図の中央に線を引き、
領家の主張に理を認め、尋問を経ずに地頭職を停止する、一方、
領主側の地頭停止要求に対し、地頭の陳状を踏まえ、
<地頭補任が頼朝の決定であること、地頭に不当な行為がない>
ことを根拠に、その主張を非拠として却下するなど、それなりの判断を
している。(『吾妻鏡』)


労いの言葉こころの温湿布  三浦幸子



北条政子  前賢故実


「母子の対立を生んだ合議制」

専制体制で独裁政治を勧めた頼朝の跡を継いだ頼家は、
自分も同じやりかたをするつもりでいた。
ところが母・政子によって阻まれることとなった。
まだ18歳で、人間的にも未熟な頼家に対して、不安をもった政子は、
重臣たちの合議で、幕府の政治を運営することに決めたのだ。
これでは頼家は面白くない。
実の母子といえども、政治の場面では、敵対関係となってしまった。
実はそうまでして政子が、合議制にしたのには、深い理由があった。
それは頼家が、乳母や妻の出身である比企氏を、何かと大事にするため、
そのままでは、比企氏に幕府を乗っ取られることを恐れたからである。
妻の実家の持つ権力の大きさは、何よりも、政子自身が知っていたのだ。


住み慣れた家も私も焦げ茶色  新家完司


だが、この「13人の合議制」は、長くは続かなかった。
御家人たちの間の結束にも、ひびが入り、相互に不信感をつのらせて、
紛争が絶えなくなったのだ。
結果、元号が改正され正治元年(1199)となった11月、
13人の合議制を構成員であった梶原景時が失脚し、
翌年に、安達盛長三浦義澄が病没したことで、13人の合議制は解体、
その後の権力闘争の末、頼家政権も崩壊することになった。
実際は、、頼家は若くて、経験も浅いから、御家人たちが支えなければ
いけない、そのために13人の取次が設けられたわけだが、
御家人が滑って、襤褸を出していたのでは、うまくいくわけはなかった。


前略と書いてそのまま日が暮れる  成田雨奇


「選ばれし13人」


 
  大江広元  栗原英雄

「私は成人してから涙を流したことがありません」
源実朝の暗殺の直前、広元はこのように語ったと云われる。
広元は、幕府の文官筆頭として、将軍北条氏の厚い信任を受け、
鎌倉幕府の基礎固めに力を注いだ、最大の功労者である。
一見、非情にも感じられる上述の言葉には、情に流されず冷静な判断力
で幕政を運営し、御家人間の抗争から距離をおいて宿老の地位を保った。


北条時政  坂東彌十郎
「時政・牧の方VS義時の確執」へ後述。


絶妙のバランス空気成分表   相見柳歩



  三善康信 小林隆

母が源頼朝の乳母(比企尼)の妹であった縁で、流人として伊豆国に
あった頼朝に、月に3度京都の情勢を知らせていた。
もともとは、太政官の書記官役を世襲する下級貴族であった。
治承4年(1180)5月の以仁王の挙兵の2ヶ月後、
三善康信は頼朝に使者を送り、
「諸国に源氏追討の計画が出されているので早く奥州へ逃げるよう」
にと伝えるなど、頼朝の挙兵に大きな役割を果たした。
元暦元年(1184)4月、康信は鎌倉に下り、頼朝から
「武家の政務を補佐せよ」と、望まれ正式に御家人となった。


すこやかに生きて情けのど真ん中  上田 仁



 中原親能  川島潤哉

もとは京の下級官人で、弟の大江広元に先んじて鎌倉に下り、
頼朝に仕えた。
幕府では朝廷外交の代表者となり、寿永2年(1183)義経が初めて
頼朝の代官として、京に向った際も同行している。
頼朝が死去した年、出家し寂忍と号した。
が、その後も京に常駐し、幕府のスポークスマンとして活躍した。
なお、親能は「頼朝のご落胤」説もある。


わたくしの模様なんです汗の染み  三浦蒼鬼



三浦義澄  佐藤B作

三浦氏は相模の有力在庁官人で、「御三年の役」で活躍した源義家
時代から、家人として源氏に仕えた。
建久元年(1190)頼朝の上洛の際、官職に推挙された10人の御家
人に名を連ね、頼朝が、「征夷大将軍」に任官した際は、鶴岡八幡宮で
任命書を受け取る栄誉を得るなど厚遇された。
 
 
そよぎとかせせらぎとかをポケットに      河村啓子
 
 

八田知家  市原隼人

八田氏は「七日関白」こと藤原道兼の末裔といわれ、
父・宗綱は京で、院武者所に仕えた。
母は宇都宮朝綱の娘・八田局で父は源義朝というご落胤という説もある。
この説でいけば、知家の母は頼朝の祖母になる。
また姉は、下野の有力武士・小山正光に嫁して、後に頼朝の乳母となる
寒河尼。 寒河尼は、頼朝の挙兵後、自ら頼朝の陣を訪れ、
末子の結城朝光を反乱軍に参加させた。
小山氏の参陣により、北関東に靡かせた功績は大きく、
その兄弟である知家の厚遇に繋がった。


やさしさは花の形で降りてくる  佐々木智恵子



和田義盛  横田栄司

将軍家との関係や能吏としての手腕が期待されたメンバーの中にあって、
個人の武勇でもっとも秀でていたのが、義盛であった、が、
地位への執着が強く短慮で、その行動には凄まじいものがあった。
こうした性格的な義盛の野望は、やがて「和田合戦」へと進化し、
北条義時と刃を交わすことになる。


比企能員  佐藤二朗
「比企の反乱」へ後述。


言い訳をすればするほど爪が反る  笠嶋恵美子



安達盛長  野添義弘

政子頼朝の縁を演出したのが、安達盛長である。
もともと頼朝の意中の女性は、政子の妹(阿波局)であったという。
しかし、盛長は、政子の人柄を見て、頼朝から託された妹への恋文を
政子に渡し、そこから2人の恋が始まったという。
それでも、乳母(比企尼)の縁に連なる御家人の中で、頼朝からもっと
も厚い信頼を寄せられたのが盛長である。


善人を装うことは自信ある  奥 時雄



足立遠元  大野泰広

安達盛長の弟。「平治の乱」悪源太義平が率いる17騎の精鋭
として、平氏軍と激戦を繰り広げた。
乱後は朝廷に出仕して、右馬允の官職につき、娘を後白河上皇の近臣・
藤原光能に嫁がせた。
東国武士でありながら、院の権力と結ぶ遠元の人脈や素養は、
幕府の対朝廷外交に大きな力を発揮した。


梶原景時  中村獅童
「景時誅殺」へ後述。


次の間に待たせています冬蛍  酒井かがり



二階堂行政  野仲イサオ

治承4年に主計少允に任官したが、間もなく頼朝との縁を頼って御家人
となった。
その後、公文所寄人、政所次官などを歴任、幕府の能吏として公文署の
作成、発給、頼朝の祐筆など、行政事務で幕府を支え、建久4年には、
政所別当に名を連ねた。
後年、二階堂と呼ばれた永福寺の近くに住んだことから二階堂を名乗る。
(永福寺=頼朝が奥州平泉の中尊寺二階大堂を模して創建)


言の葉も紅葉も背伸びしてキャッチ  合田瑠美子


【知恵袋】

「御家人」とは、頼朝と直接に主従関係を結んだ武士のことをいうが、
実際には何人くらいいたのだろうか。 『吾妻鏡』によれば、
奥州藤原攻めに参加した兵士は、「28万4千騎」とあるが、
御家人だけでなく、その郎党まで含めた数字としても誇大すぎる。
同じく『吾妻鏡』には、
文治元年(1185)、頼朝上洛の折に鎌倉に集まった東国の御家人は
「主だった者、2096人」と、記されている。
しかし、建治元年(1275)京都六条八幡宮の社殿が修造された時に、
北条氏ら御家人たちが費用を負担したが、その記録では、
「鎌倉在住123人、京都在住28人、その他の諸国318人、
合計469人」
となっている。
 「鎌倉御家人の本当の数は、意外に少なかった」のには驚き…。
 
 
天も地も借りものだよと赤とんぼ  みつ木もも花

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断捨離に思いきれない砂時計  市井美香
 

 
                                      東 国 武 士 団

 
かつて「いいくに作ろう鎌倉幕府」と覚えた建久3年(1192)
頼朝は、念願の征夷大将軍に任ぜられた。
日本初の武家政権鎌倉幕府が誕生であった。
その中枢を占めた有力御家人たちは、「源平の戦い」で頼朝のために、
命を惜しまず、戦い抜いた「東国の猛者」たちである。
彼らには、それぞれ重要なポストと領土が与えられ、参戦の目的は果た
されたかに見えた。
しかし、彼らの戦いはこれで終わったわけではない。
今度は権力闘争という新たな戦いが待っていたのである。


カミナリを封じ込めたるピース缶  木口雅裕


「鎌倉殿の13人」・鎌倉御家人と熊谷直実の美談」

 
          
     土肥実平 (「前賢故実」 菊池容斎画)      阿南健治

土肥実平 (権力闘争から身を引いた勇者)
実平は、相模国土肥郷の豪族で、挙兵当初から頼朝に従っていた。
石橋山の合戦に敗れたあと、頼朝が真鶴から安房へ脱出できたのは、
地元の地理に精通した実平の才覚による。
戦いのためには、人家を燃やすことも辞さない実平だったが、
根は冷酷な男ではない。
「平家物語」では、実平が捕虜・平重衡のもとを訪ねてきた女房に対し
特別に面会を許し「なさけあるおのこ」と評されている。
平家滅亡後は、中国五ヵ国の総追捕使となって、西国に勢力をたくわえ、
息子は戦国時代の雄・小早川氏の祖先となる。
しかし、鎌倉での御家人同士の争いには参加せず、自領で地味な晩年を
送った。末裔の繁栄を考えれば、賢い判断だったといえる。


哀しみが折れてひょっとこのお面  くんじろう
 

                     
    北条時政 (「前賢故実」 菊池容斎画)      坂東彌十郎

北条時政 (娘・政子と後家・お牧の方に左右された策謀家)
北条政子の父。頼朝にとっては舅にあたる。
政子が頼朝と結ばれた頃、時政は伊豆のローカルな土豪で、2人の結婚
には大反対であった。しかし時代の流れを察知したのか、やがて、
2人の関係を許し、さらに頼朝の挙兵に一族の命運を賭けることになる。
田舎武士ながら、時政の政治的センスは鋭く、西国での戦いの間は頼朝
を補佐した。
戦後守護・地頭の制度を後白河上皇に認めさせたのも時政の手柄である。
頼朝の死後は、幕府の中枢に君臨し、政所別当の座についた。
しかし、晩年は政治的センスが狂ったのか、後妻の陰謀に乗じたのが発
覚し、政子によって出家させられ伊豆に引退。
出世も失敗も娘に左右された男であった。


あすする事一つ二つを残す技  山谷町子


         
    千葉常胤 (「前賢故実」 菊池容斎画)       岡本信人
 
千葉常胤 (驚異のシルバーパワー)
下総出身。保元の乱 (1156) で源義朝に従って出陣したことがあったうえ、
平家の家臣である地方役人への反感もあって、源氏に参戦を望まれると、
即、快諾した。
源氏の軍勢の中では、三浦義澄とともに最長老の部に入るが、常胤もまた
自ら戦場に赴いて、若い頼朝を大いに助けた。
富士川の戦いのあと上洛を急ぐ頼朝に、まず関東を固めるように進言し、
宿敵・佐竹氏を追い払うなどチャッカリした面もある。
西国遠征では飢えに苦しめられることもあったが、老体に鞭打って戦い
抜いている。
そんな常胤を頼朝は、鎌倉から気遣い、「常胤を大切にしてくれよ」
書き送ったりもした。
鎌倉幕府成立後も健在だったが、政争に巻き込まれず建仁元年 (1201) に
84歳で大往生を遂げた。


蝶ひらひら名残の風が切なくて  藤本鈴菜
 

 (鎌倉殿の13人には出番なし)
   熊谷直実
 
熊谷直実 (頼朝にも異を唱えた肝っ玉男)
武蔵国大里郡熊谷郷出身。若い頃は、平治の乱 (1159) に源氏方で参加
したのち、上洛し平知盛につかえた。
そのため頼朝挙兵には、はじめ平氏の家臣として参加している。
石橋山の戦いののち源氏方に移り、数々の輝かしい軍功をあげ、特に、
平敦盛を討ったことで有名。
もともと家柄は低く、時代の変転を自力で生き抜いてきただけに、
肝っ玉は人一倍で、不満があれば頼朝にも堂々と異を唱えた。
文治3年 (1187) には流鏑馬で命じられた的立の役が不満と頼朝に抗議し、
所領を減らされた。
さらに建久3年(1192) には、所領問題で頼朝の決定を不服とし、鎌倉を
去り、出家してしまった。
(直実と敦盛の涙を誘う物語は、文の後半に出てきます)


正解を探し求める渦の中  上坊幹子


         
    梶原景時 (「前賢故実」 菊池容斎画)       中村獅童

梶原景時 (策におぼれて滅亡)
相模国鎌倉郡梶原出身の武士。もともとは平家方だったが、石橋山合戦
のあと、頼朝を見逃してやった縁から源氏方に身を投じる。
その後、生田の森で大軍勢に少人数で立ち向かうなど奮戦。
しかし景時の本領は、頭脳プレイにあり、木曽義仲に勝利したことを
飛脚で知らせるなど、情報戦術に長けていた。
しかし、自身の頭の良さを過信しているところがあり、屋島・壇ノ浦の
戦いでは義経と対立。
のちにこれを恨んで頼朝に讒訴し義経を失脚させた。
頼朝は景時の頭脳を高く買っていたが、その策士ぶりは、多くの人々の
反感を買った。そして最後は、頼家への讒訴から御家人たちの総スカン
を食らい、謀反の疑いで殺される。


直球の嫌味を素手で受け止める  合田瑠美子
 
 
         
    和田義盛 (「前賢故実」 菊池容斎画)      横田栄司

和田義盛 (射撃の名手も陰謀に弱かった)
相模国三浦郡の豪族三浦一族の出身で、三浦義澄の甥。石橋山合戦には、
間に合わなかったが、安房で頼朝と合流し、関東での地盤固めに大きな
功をあげた。
弓矢の術に秀で、壇ノ浦の戦いでは遠矢を射って3丁 (327m) も離れた
敵さえ外さなかったという。
武功に加えて鎌倉武士らしい気骨に溢れた性格から頼朝からだけでなく、
御家人たちからの信頼も厚かった。
その点では梶原景時とは対照的である。
当然、景時とは仲が悪く、梶原景時の失脚のときには、義盛が積極的に
動いている。
しかし御家人の長老である義盛は、やがて、権力の集中を狙う北条氏に
とって目の上のタンコブとなる。
そしてついに義盛は、建保元年 (1213) 北条義時の挑発に乗ってしまい、
「和田合戦」に敗れ死んだ。


美しい花を咲かせて逝った人  野口 修
 
 
         
    三浦義澄 (「前賢故実」 菊池容斎画)       佐藤B作

三浦義澄・義明 (誇り高き古つわもの)
三浦半島に勢力を張っていた三浦氏は、源頼義・義家の代から源氏の
家臣だった。そのため頼朝の挙兵に三浦氏は大きな期待をかけ、一族を
あげて参加している。
義明は石橋山合戦で戦死するが、子の義澄はひるむことなく、
以後も前線に一族を率いた。その甲斐あって、頼朝が征夷大将軍に任命
された折、義澄は勅使から辞令を受ける大役を与えられた。
そのとき三浦介の肩書ではなく、自分の名前を名乗ったのは、朝廷とは
別の次元に生きてきた、武士としての誇りがあったためといわれる。
 幕府成立後は、自領に戻って北条氏と「つかず離れず」的な関係を保つ。
しかし義澄の没後、義澄の孫の代で、ついに北条氏と衝突して三浦氏は
滅亡してしまった。


日陰には日陰のよさとダンゴ虫  奥山節子
 
 
          
   畠山重忠 (「前賢故実」 菊池容斎画)        中川大志

畠山重忠 (最後まで鎌倉武士の模範)
武蔵国男衾(おぶすま)郡に拠点を置く。坂東平氏の一族。
はじめは平家方につき三浦一族を破ったが、のちに頼朝に従った。
ちなみに参戦当時の重忠は、まだ17歳。戦いを重ねながら成長を遂げ、
宇治川の戦いで果敢に大河を渡るなど、年長者をしのぐ豪胆な戦いぶり
と実直な性格で「鎌倉武士の鑑」と賞賛されるまでになった。
頼朝が建久3年 (1190) 上洛した際には、先陣を務めているが、これは
御家人としての最大の名誉である。
しかし頼朝の没後は、権力の集中化を図る北条時政の陰謀により、
幕府軍に討たれてしまう。
実はこのとき、家臣は「逃げよう」と進言したが、重忠は潔く戦うこと
を選んだと伝えられる。


美しく見える姿勢はくたびれる  黒田茂代


「祇園精舎の鐘の音…聞くも涙の敦盛最後」


  平敦盛
 

源平合戦も終焉へ、カウントダウンもはじまろうとする寿永3年 (1184)
2月、平家の船団へ退散する平氏の隊に遅れて、葦毛の馬に、黄金の鞍、
萌黄の立派な鎧兜・金で着飾った華美な太刀拵をした平家の騎馬武者を、
手柄を探し求めていた 熊谷直実の目に止まった。


 熊谷直実


<これは名のある武将に違いない>
と思った
直実は、その武者を追いかけ、すぐ近くにまで追いつくと
 「あいや待たれい。そこにおわすは名のある大将と見た。
  大将たるもの、敵に後ろを見せるとは卑怯千万。
     わしは日本一の剛の者、天下無双の熊谷次郎直実と申す。
   いざ尋常に勝負せよ」
と、挑発し勝負を挑んだ。 若武者は、馬首を一転させ直実を睨む。
「あっぱれ 死を覚悟しての出陣か」
と、直実は威圧をかけて、渚で若武者との一騎打ちとなった。
しかし若武者が、歴戦の勇士である熊谷直実にかなうはずがない。
たちまち若武者は組み伏せられてしまった。


ラストシーン台詞の長い崖っぷち  原 洋志


直実は若武者の兜を引き剥がし、顔を見ると、我が子・小次郎と同じく
いの年恰好ではないか。
 「若武者ながらあっぱれな、名は何と申す」
 「そなたに名乗る名はない。戦で死ぬは武士の本望」
直実はこの朝、小次郎が左腕に薄手を負っただけでも、心配で心配で
たまらなかったのに、
<もし死んでしまったら、親はどう思うだろうか>
と、見逃してやるつもりになっていた。


あの場では私が主役だったはず  寺島洋子


ところが、後ろからは源氏の軍勢がこちらに向かってくる。
<逃がしてやりたい…。>
直実の眼には、薄く涙が溜まっている。
<だが、自分が彼を逃がしたら、後ろから来る者が、この若武者の首を
 取るに違いない>
「このまま逃がしてあげたいのはやまやまだが、もう逃げるのは、無理
 でしょう」
<どのみちこの武者が助からないのであれば、他の者の手にかけるより
 も今自分が討取り、弔いするほうがましだ>
と直実は考えた。


愛情の欠片を残し除草剤  曾根田 夢
 

          
    平 維盛     (「前賢故実」 菊池容斎画)            濱 正悟

 しばらく、<どうすべきか>と、思い悩む直実へ若武者は
 「早く首を切るがよい」
と、言った。 覚悟を決めた若武者は、最期まで名乗らず、
「お前に対しては名乗るまい。お前にとって(私は)良い敵だ。
 首を取って人に聞け。知っている者がいることだろう」
こうして直実は、唇を噛みしめ、泣く泣く若武者を討ちとったのだった。
名乗らず死んで行った若武者の名は、残された「小枝の笛」と呼ばれる
名笛から、平敦盛であることが判った。


競り勝って心に空いたでかい穴  上田 仁


「平家物語 敦盛最後」では、直実に呼び止められた敦盛は、観念して
潔く浜へ引き返し、直実と戦って討たれた。
実はこのとき、敦盛の馬は、足にけがをして、船にたどり着けずに、
どうせ追いつかれるならと、仕方なく引き返したのだった。
この時代、戦に負けたときは、次の戦での勝利のために、逃げ延びるのが、
「勇気だ」と教えられていた、のだが…。

直実は、決戦前夜に管弦の美しく奏でる音色を聞いていた。
残された一本の笛を見て直実は、
<昨夜の笛の音は、この若武者によるものだったのか>
と、思いかえすと、今度は、誰憚らず号泣した。
直実が頼朝に不満をぶちまけ、鎌倉を去り、法然上人のもとへ出家した
一因に 、「敦盛供養」の約束を果たすためでもあった,、ともいわれる。


ふいに夕立地蔵の水は満まんと  山本昌乃


【余談】 「逆さ馬と将軍・源頼朝への説法」


   〔行住座臥〕 西方に背を向けず
    熊谷直実 (「前賢故実」 菊池容斎画)
  

  ” 極楽に 剛の者とや 沙汰すらん 西に向かいて うしろ見せねば ”
と、 熊谷直実が詠んだ句がある
直実は、ある日、京から関東へ馬で行くことになった。
京から関東へ行くには、東を向いてしまう。
すると背中は阿弥陀様の西を向く。そこで熊谷直実は、
<今までの広大なご恩を思えば、
          どうして、阿弥陀如来に背を向けられようか>
と馬の鞍を逆さに置き、西へ向き、関東へ向かった、という。
直実の実直な性格を表したものだ。


青空をきれいに畳む花の帰路  前中知栄


建久6年2月、 直実が、頼朝に再会をしたときのことである。
「戦いに明け暮れ、権力を得たといっても、死んで行く時には、 
 何も持って行けません。
 生きている時に、変わらない幸せになることにこそ、
 本当の生きる意味があるのです」
と、頼朝に説いた。 そこに居あわせた人たちも感銘し、鎌倉に真実の
仏教が広まるきっかけとなった。
そして北条政子までが、法然上人に教えを求めた。そのとき、
【深く仏のちかいをたのみて、いかなるところをも嫌わず、
   一定迎え給うと信じて、疑う心のなきを 深心とは申し候なり】
との言葉を賜った (鎌倉二位の禅尼へ進ぜられし書)


ふいに夕立地蔵の水は満まんと  山本昌乃

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身も心も乱して雨は走り去る  柴辻踈星
 
 
 
            奥州高館大合戦 歌川芳虎画
 
 
文治5年(1189)、奥州合戦に勝利した源頼朝は、9月22日に
葛西清重を奥州総奉行に任命し、28日に鎌倉へ向けて帰還した。
陸奥国内では、奥州藤原氏に従属していた武士団が土地を没収されて、
清重を始め、多くの東国武士が「地頭職」を与えられた。
一方で、多賀城国府では、在庁官人による国務運営が継続し、
戦場とならなかった出羽国内陸部では、旧来の在地豪族が勢力を保持
しており、東国武士と在地勢力の間に、軋轢が生じるようになる。
奥羽地方では「伊予守源義経、木曽義仲の嫡男・朝日冠者、藤原秀衡男」
と、自称した「平泉藤原氏残党の反乱」があいついだ。
なかでも最も大規模であったのは、
同年12月から、翌建久元年正月にかけておこった、
大河兼任(おおかわかねとう)の反乱であった。


うやむやで済ませた過去が通せんぼ  上田 仁
 

 
                    源九郎狐  (千本桜)寿好堂よし国画


「鎌倉殿の13人」 源フェイクロウ義経
  
  
源義経を自害に追い込んだ、平泉藤原泰衡は、生き残りをかけて、
義経の首を頼朝のもとへ送り、恭順の意を示した。
が、頼朝は、これを認めず
「反逆者義経を長く匿い、また許可なく首を取った」
などといいがかりをつけ、奥州藤原氏壊滅へと駒を進めた。
この奥州合戦で栄華を誇った黄金の都・平泉は灰に帰した。
だが、北奧には、無傷の将兵が数多いた。
「九郎義経や木曽の遺子・義高が生きている」と、
嘘の噂を流し、鎌倉方を錯乱。鎌倉軍の統制の乱れをついて、
ひとりの男が立った。
大河兼任(おおかわかねとう)である。


火の酒を煽ってコンと化けてから  くんじろう


出羽国北部八郎潟沿岸の大河の豪族で、藤原氏累代の郎従であった兼任
は、藤原氏が滅亡した奥州合戦の直後より、鎌倉政権への叛逆を企てた。
そして、挙兵に際して、由利維平に使者を送り、
「昔から今まで六親・夫婦の怨敵に仇を報ずるというのは、
 尋常のことである。だが、主人の仇を討った例はまだ見当たらない。
 兼任が、その例をはじめようとして、鎌倉に赴くのだ」
(古今の間、六親もしくは夫婦の怨敵に報ずるは、尋常のことなり。
 いまだ主人の敵を討つの例あらず。
 兼任独り、その例を始めんがために鎌倉に赴くところなり)
と、言っていたという。
 六親等=昆孫(こんそん)玄孫の孫。 自分から6代後の子孫。


言い切った言葉の先にある想い  靏田寿子


そして、文治5年も明けようとする12月、すでに泉下にいるはずの
九郎義経木曾義仲の子息・朝日冠者義高、藤原秀衡の子息たちが、
「同心して鎌倉へ進軍する」と、いう風説が流れた。
鎌倉を攪乱するため風説を流したのは、大河兼任であった。
戦さの天才や頼朝に強く恨みを抱く者の名を利用して、鎌倉側の混乱
を狙ったのである。それを囃すのが先の宣告、
「…未だ主人の仇を討った例はなく、その例を始める」
というものであった。


わたくしの影にも赤を着せておく  宮原せつ


挙兵した兼任は、秋田城を奪い、さらに7千余騎を率いて、
陸奥の国府多賀城を攻め、鎌倉へと向かい軍を進めた。
その経路は、秋田城を経由して大関山を越えて、多賀城国府へ出ようと
するものであったが、八郎潟を渡る際に氷が突然割れて、
五千人余りが溺死するといった事故にあった。
この痛手にもかかわらず、進路を変えて小鹿島、津軽方面に向かい、
男鹿に進んだ兼任軍は、行く手を遮った鎌倉方の由利雄平・橘公業、
宇佐美実政らの軍勢を撃破した。


ちっぽけな意地でも今日は押し通す  津田照子


明けて7日、兼任の弟で御家人となっていた二藤次忠季、新田三郎入道
らから報告を受けた頼朝は、軍勢を派遣することを決断し、
相模以西の御家人に動員令を下した。
8日、千葉常胤率いる東海道軍、比企能員率いる東山道軍が奥州に向い、
13日には、追討使として足利義兼、大将軍として千葉胤正も出陣する。
奥州に所領を持つ御家人、上野・信濃の御家人も、次々に下向した。
頼朝は、個々の御家人が手柄を競って、寡兵で敵に挑むのを戒め、
兵力を結集して、十分に準備を進めてから事に当たるよう指示を下した。


侵攻の日から桜は眠れない  笠嶋恵美子



           有多宇末井(うたうまい)之梯

「於外濱與糠部間、有多宇、末井之梯、以件山、爲城郭兼任引篭」
『吾妻鏡』に「件の山を以って城郭をなし兼任引き籠もる」とある。
義経を騙って乱を起こした秋田五城目領主・大河兼任が最後の砦とした
「有多宇末井の梯」は、この「善知鳥崎」であるという説がある。
 (兼任が籠もったと推定される山のさらに上に、蝦夷館跡がある)
 
 
兼任軍は、津軽から陸奥中央部に進んで平泉に達し、
奥州藤原氏の残党を配下に加えて、一万騎に膨れ上がった。
この形勢を見て、多賀城国府の留守所も兼任に同調した。
2月12日、兼任軍は、栗原郡一迫で足利義兼率いる鎌倉軍と激突する
が、壊滅的打撃を受け敗走する。
兼任は、残存兵力500余騎を率いて、衣川で反撃するが敗北し、
北上川を越えて、外ヶ浜と糠部の間にある「多宇末井の懸橋」近くの山
に立て籠もったが、義兼らの急襲を受けて行方をくらました。


素頓狂の声から蛇が逃げて行く  高田佳代子


兼任は花山、千福、山本など各地を転々とした後、
亀山を越えて栗原に戻ったが、3月10日、栗原寺で錦の脛巾(はばき)
を着て、金作りの太刀を帯びた姿を地元の樵夫(きこり)に怪しまれ、
斧で斬殺された。
首実検は千葉胤正が行い、約3ヶ月に及んだ反乱は終息した。

3月15日、頼朝は、兼任に同意した多賀城国府の留守所に替えて、
伊沢家景を留守職に任じた。
以後の陸奥国は、平泉周辺を基盤として軍事・警察を担う葛西清重と、
多賀城国府を管轄する伊沢家景の二元的な支配体制となり、
鎌倉幕府の勢力が浸透することになる。


バカだねとすこし笑っている遺影  宮井いずみ
 
 

                                  「堀川夜討乱入之図」 歌川芳虎画

頼朝は、弟・義経の勝手な振る舞いに怒り、家臣・土佐坊昌俊(とさの
ぼうしょうしゅん)に義経追討を命じた。昌俊は熊野参詣のふりをして、
京都六条堀川にあった「義経の館」に近づき、夜討を仕掛けた。
三谷幸喜氏は、5/15のドラマ・「鎌倉殿…」に、このシーンを放送)
 

「義経生存伝説の変遷について」

 
  
『吾妻鏡』の文治5年(1189)閏4月30日の部分ゟ
 「三十日己未。今日。陸奥国に於いて。泰衡が源義経を襲う。
 これは、且つは勅定によるもの、且つは、頼朝の仰せによるものなり。
 義経は、民部少輔基成朝臣の衣河舘にあり。
 泰衡の従兵数百騎、某所へ馳せ至って合戦す。義経の家人など相防ぐ
 といえども、悉く以て敗績す。義経は持仏堂に入り、先ず妻、22歳
 と子、女子4歳を害し、次いで自殺す」
(すなわち、奥州藤原氏の政治顧問的立場にあった藤原基成の居館の
 衣河舘に居た義経は、藤原泰衡の軍勢に襲われ、奮戦空しく敗れ、
 持仏堂に入り、妻子を殺してから自害したのであった)


夕焼け小焼けはゴミの回収車  通利一遍


義経の死直後には、義経に対する「称賛と批判」の両方が存在したが、
積極的生存説はなかった。
当時の貴族の九条兼実は、義経の大物の浦での遭難を聞いた際、
日記『玉葉』に、
「義経こそは武勇・仁義において後世に名を残す人物である。
 嘆美すべし。しかし、頼朝に対して謀反の心を起したのは、
 大逆罪といわねばならない」 と、記している。
自滅した義経に対して「同情は同情、罪は罪」とけじめをつけた。


横っ腹からグリーン化した男  井上一筒


『吾妻鑑』にも、義経の首を見た人々の様子を、
「観ル者ミナ双淚ヲ拭ヒ、両衫ヲ湿ホスト」
(義経の最期を観た人は皆、)
と記すが、
平家討伐の大功労者の変わり果てた姿への、素直な悲しみであった。

また『吾妻鑑』は、男鹿半島に大河兼任の叛乱について、
「奥州の故泰衡の郎従の大河次郎兼任以下、去年の窮冬以来、
 反逆を企て、或いは伊予守義経と称し、出羽国海辺の庄に出る、
 或いは佐馬頭義仲(木曽義仲)の嫡男の日冠者と称し、
 同国仙北郡に立つ」と、書き記している。
これらは、義経義仲という有名な武将の名を騙ったもので、
生存説とまでは言えないとされている。 (相原康二ゟ)


  緑濃き哲学の道雨しとど  樋口百合子



       源頼朝


「義経自害から10年後、頼朝は怪死する。頼朝年譜

文治5年(1189)43歳
4月30日  頼朝の圧力に屈し藤原泰衡、源義経を討つ。
6月13日  鎌倉で義経の首実検
7月29日  頼朝、平泉追討へ鎌倉を出発。総勢28万。
8月8~10日  鎌倉軍、平泉軍を破る。 藤原国衡、死亡。
8月22日    頼朝、平泉に入る。 藤原基成、降伏。
9月3日、    藤原泰衡、秋田比内で郎党・河田次郎に討たれる。 
12月      大河兼任が反乱を企てる。

 奥州征伐の功績で、頼朝は後白河法皇から按察使(あぜち)への任官
を打診される。が、頼朝は辞退する。 按察使=(地方行政の監督)


ガチャガチャを五回挑戦したけれど  山本早苗


文治6年/建久元年(1190) 44歳
頼朝は11月9日千余騎の軍勢を率いて、上洛、後白河法皇と謁見。
「征夷大将軍の任命を希望する」が、叶えられず、
「権大納言・右近衛大将に」と、求められたが、これを辞退する。


建久3年(1192) 46歳
3月、後白河法皇崩御。
7月12日に頼朝は、征夷大将軍に任ぜられ、
鎌倉幕府を開く。

建久4年(1193)47歳
富士の巻狩りで嫡男・源頼家が初めて鹿を射止め、頼朝は後継者と認む。

建久5年(1194)48歳
奥州合戦にも従軍し、鶴岡八幡宮の法会でも、参拝する頼朝の御供の
筆頭として頼朝に信頼された甲斐源氏・安田義定だったが、
謀反の疑いで梟首する。


真っ当な道もそれほど楽でない  西陣五朗


建久6年(1195)49歳
2月、頼朝は、東大寺再建供養に出席するため、
妻・政子と嫡子・頼家・長女・大姫ら子女達を伴い、再び上洛する。
その時、大姫を後鳥羽天皇の妃にすべく、源通親丹後局と接触し
朝廷工作を図った。

建久8年(1197)51歳
頼朝は、病持ちの大姫の入内を計ったが、大姫の病は回復する事なく
7月に死去、20歳だった。
頼朝は大姫の死後、次女・三幡の入内工作を進めて、女御とするも、
三幡もやがて病死し頓挫する。

建久9年(1198)正月、頼朝の反対を無視して後鳥羽天皇は、
通親の養女が生んだ土御門天皇に譲位して、上皇となり院政を開始する。
これにより通親は、天皇の外戚として権勢を強めた。
頼朝はこれに危機感を抱いて九条兼実に書状を送り、朝廷との付き合い
を模索した。


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        頼朝の最後 
義経の亡霊に祟られたのか?


建久10年/正治元年 (1199)53歳
1月11日に出家するも、わずかその2日後の13日に死去。
死因は、「落馬説、糖尿病説、尿崩症説、溺死説、暗殺説、亡霊説、
誤認殺傷説」などの説がある


問うたなら花はこたえの形する 佐藤正昭

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