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川柳的逍遥 人の世の一家言
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百均の聖書は途中から白紙  くんじろう




『茲三題噺集会(ここにさんだいばなしのよりぞめ)』 一恵斎芳幾

「三題噺」とは提出された三つの題を、即座にまとめて“オチ”をつける
話芸のこと。張り出された紙に、参加者それぞれに与えられた三つの題
が書かれている。この絵を描いた一恵斎芳幾(いっけいさい・よしいく)
「粋狂連」という三題噺の会のメンバーだった。


捕まえた陽射しと午後のお茶にする  吉川幸子





「坊野寿山」 鹿連会


「鹿連会」は、噺家が参加する川柳会の嚆矢である。
「あなた達は、俳句をひねったりするのに、どうして川柳をやらないの
ですか」
昭和の初め、4,5年頃。当時まだ30を越すか越さないかの
若さだったが、花柳界を題材にした「花柳吟」の第一人者として知られ
ていた川柳家・坊野寿山が、親交のある4代目・柳家小さん、5代目・
三遊亭圓生の2人へ、盛んに川柳の句作を勧めた。小さんは俳句につい
て造詣が深く、句作にも自信があった。
「俳句が詠めるんだから、川柳だって」とすぐにその気になった。
「寿山先生が教えてくれるというなら、他の仲間にも声を掛けましょう」
と、圓生も乗り気になった。

朗報は春の小川になりました  美馬りゅうこ




    
   4代目・小さん  五代目・圓生
 


小さん・圓生
2人の師匠の肝煎りで、そうそうたる顔ぶれが集まった。
8代目・桂文楽、7代目・三笑亭可楽柳家甚五郎(5代目・志ん生)、
5代目・蝶花楼馬楽(8代目林家正蔵から彦六)、6代目・橘家圓蔵
(後の6代目三遊亭圓生)、蝶花楼馬の助(後の8代目金原亭馬生)
橘家圓晃(圓生の異父弟)、初代・林家正楽、桂文都(後の9代目・
土橋亭里う馬)、8代目柳家小三治(後に落語協会事務長)、春風亭
柳楽(後の8代目・可楽)これに小さん、圓生、坊野寿山が加わって
15人の発足メンバーとなった。
これだけの顔が揃ったからには、それなりの名前が必要だ。小さんと
寿山が頭をひねり、考え出したのが「鹿連会」である。いつもは叱ら
れることのない大師匠連も、この川柳会では素人だから(選者)に
「叱られる」という洒落であった。



とろとろ歩けばチコちゃんに叱られる  靏田寿子



それにしても弱冠30歳の寿山が、大半が自分より年上の、一癖も二癖
もある噺家連中を向こうに回して、川柳指導をする。「よくもまあ、こ
んな
会を仕切ったものだ」と感心するばかりだが、後に「句を直すとす
ぐに文句を言われるし、大変だった」と回想しているものの、実際のと
ころ、寿山師匠の「力量」はなかなかのものだったようだ。
子どもの頃からの寄席通い、落語に詳しいだけでなく、十代の頃から噺
家を何人も従えて、料亭や吉原へ繰り出しという、いわゆる「旦那」
あったし、大河ドラマ「いだてん」でお馴染みの甚五郎時代の5代目・
古今亭志ん生ら、貧乏な噺家たちの面倒をみた。いわゆるスポンサーの
言うことを聞かぬ噺家などいない、というのが本質だったかもしれない。



切り口がシャープ有無を言わせない  柳田かおる



メンバーの1人である文楽は、後に寿山が小唄の発表会に出演したとき、
子連れで応援に行った。客席で声をかけているうちはよかったが、その
うち大声で「先生が唄うんだから、とにかく拍手するんですよっ!」
わが子に指示を出したので、周囲は大笑い。高座の寿山に冷や汗をかか
せたという。とにもかくにも、寿山という若き川柳家は、噺家蓮にとっ
てしくじってはならぬ大事な「若旦那」だった。



とりあえずうなずいておく偉い人  山口ろっぱ









かくして昭和5年、根岸の寿山邸で第一回「鹿連会」が第一歩を踏み出
した。その会で最高点をとったのは、のちに8代目・馬生となった「ゲ
ロ万」
こと馬の助である。この日は、馬之助の母親が付いてきていて、
上野黒門町の「うさぎやの最中」を差し入れに持参し「万ちゃんは頭が
悪いから面倒をみてやってください」と頼みこんだ。母親の応対にでた
小さんが「それじゃ幼稚園だよ」と言った泣いて笑える逸話が残る。
そのときの馬之助の最高点を作品が、
手伝いは鴨南蛮の味を知り
この最高点の句を師匠連に大いにほめられ、味をしめた馬之助の次の句
が問題であった。
大掃除鴨南蛮の味を知り
と、来た。



生涯をかけて悟ったこと一つ  瀬川瑞紀



何が問題化というと、以後、しばらく、鹿連会でどんな題を出されても、
馬之助の句には、必ず「鴨南蛮」が入った。
また馬之助は数の勘定が苦手だった。大抵は両手の指を総動員して勘定
をする。ところが、川柳は五七五の17音。両手の指10本では足らな
いではないか、馬之助はやむなく、句作をするときは、寿山の算盤を借
りることにした。新しい題のたびに、パチパチパチとにぎやかに算盤を
はじく馬之助に、たまりかねた柳楽(後の可楽)が顔をしかめて言った。
「万ちゃん、君の川柳はうるさいねえー」



言い訳は無用尻尾は巻いている  上田 仁



「ゲロ万」の呼び名の謂れがある。
馬之助は無類の酒好きだが、飲むとすぐに吐くので、本名の小西万之助
の万と吐くゲロにちなんで「ゲロ万」という珍名をいただいた。ただ、
ゲロ万の吐き方は、名人芸だった。いつもけっして、周りが汚れること
がないように吐くのである。ある時、小さんが、東京駅で下車した途端
に気持ちが悪くなり、その場で吐いてホームを汚してしまった。一緒に
いた先代の鈴々亭馬風があそれを見ていった。
「師匠も噺はうまいけど、ゲロを吐くのは馬之助にかなわない」
名人小さんに比べられ、ゲロ万はぼんのくぼに手をおいて恐縮していた。



あっさりがいいね小言も称賛も  新家完司



かくも華々しい?スタートを切った鹿連会だが、結局、回数にして5,
6回、つごう2年ほどしか続かなかった。長続きしなかった理由とおぼ
しきことを寿山が自著に書いている。
「句を直すと怒るし、ご機嫌を損じると来なくなるしで、こちらが叱ら
れている会みたいなところがあった」と。



法螺ばかり吹いて達磨を怒らせる  笠嶋恵美子



当会で詠まれた句の一部を紹介。
 
 
押入れの枕が落ちる探しもの  小さん
姐芸者こんな香水けなしてる  圓生
また聞きは本当らしい嘘になり  可楽
拳を打つ男同士へ花が散り  文楽
鼻歌で寝酒も寂し酔い心地  甚五郎
縁起物お召しのドテラ使われる  馬之助
新所帯雑誌を読んで眠くなる  柳楽
言い訳の顔は煙草の煙の中  正楽
三階で見ればダンスは足ばかり  文都
誘惑の眼すんなりと美麗な手  小三治


疲れたら大阪弁で弾くピアノ  中村幸彦

拍手[3回]

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どこから切っても僕であるよな無いような 山口美代子




「田家茶話 六老之図」 歌川国芳画


詞書は次の通り
「しわがよるほくろができる せはちゞむあたまははげる毛は白くなる
 手はふるふ足はよろつく 歯はぬける耳は聞こえず 目はうとくなる 
 身におふは頭巾えり巻 杖眼鏡たんほ温石しびん孫の手 くどうなる 
 愚痴になる 心はひがむ 身は古くなる 聞たがる死とも ながる淋
 しがる 出しゃばりたがる 世話をしたがる 又してもおなじ咄に 
 子をほめる達者自慢に人は いやがる」 (たばこと塩の博物館)   


                                       
偏平足の話でしばし盛り上がる  竹内ゆみこ 


            
「清左衛門残日録」 藤沢周平




 清左衛門とその仲間



時代劇専門チャンネルでは北大路欣也が、NHKでは仲代達が清左衛門を
演じたお馴染みの藤沢周平「三屋清左衛門残日録」「日残りて昏るる
に未だ遠し」をテーマに「江戸時代の老いの実態」から現代に通じる何
かを、考えさせてくれるお勧めの一冊です。
(最新のドラマでは、北大路欣也、美村里江、優香、麻生祐未、伊東四
朗、渡辺大、寺田農、笹野高史、岡田浩輝、小林綾子、鶴見辰吾、金田
明夫、小林稔侍らが熱い演技を見せてくれています)



いいことが聞けそう耳を置いてくる  都司 豊



「清左衛門を読む」江戸時代の老いの実態
三屋家の隠居、三屋清左衛門(北大路欣也)は52歳。現役時代は家禄
120石から出世して320石という上士並の禄高を得て、亡くなった
先代藩主の用人を勤めていた。用人というのは、大名や旗本家で家老に
次ぐ役職である。藩主や旗本の政治顧問役や庶務・会計などに携わった。
かなりの重役であるから役料のほかに大きな屋敷をもらえたわけである。
隠居するにあたり清左衛門は、その大きな屋敷も出なければならないと
予想していたが、藩主は屋敷そのままで、さらに隠居部屋まで建ててく
れた。それは藩主が世子に決まる際、清左衛門が賢い弟の方でなく長幼
の序を守って兄のほうを推薦してくれた、その助言をありがたく思い続
けていたためらしい。



縦糸は夕陽 終の衣を縫いあげる  太田のりこ



最近隠居が許され、長男又四郎への家督相続を済ませた。隠居のあとに
は釣りや鳥刺しをする悠々自適の暮らし待っているはずだったが、そう
はならなかった。清左衛門の予想では、世の中から一歩退くだけだった
のだが、隠居は世間から隔絶されてしまうことだったのである。
…その安堵のあとに強い寂寥感がやって来たのは、清左衛門に思いがけ
ないことだった。勤めていたころは、朝目覚めたときにはもうその日の
仕事をどうさばくか、その手順を考えるのに頭を痛めたのに、隠居して
みると、朝の寝覚めの床の中で、まずその日一日をどう過ごしたらいい
かということを考えなければならなかった。



人肌でゆるゆるパンツぬるい風呂  雨森茂樹



君側の権力者の一人だった清左衛門には、藩邸の詰め所にいるときも、
藩邸内の役宅に寛いでいるときも、公私織りまぜて訪れる客が絶えなか
ったものだが、今は終日一人の客も来なかった。妻の奈津(美村里江)
は3年前、つまり清左衛門が49歳のときに病死していた。それゆえ、
家の中での話し相手もない。嫁の里江(優香)は、清左衛門を何かと気
遣う優しいこころの持ち主だが、若い嫁とは思い出話をすることもでき
ない。そこで清左衛門は、空白を新しい習慣で埋めようと、日記をつけ
始めた。



たとえようのない孤独と向き合った  福尾圭司



嫁は日記の題名「残日録」の言葉に漂う、寂しげな感じを心配したが、
清左衛門はすこし気張って、「日残りて昏るるに未だ遠しの意味でな。
残る日を数えようというわけではない」ひまになったのを幸いに埃
をはらって経書を読み、むかしの道場ものぞいて見るつもりだ」
と説明した。



魚拓だと言えないこともないですね  竹内ゆみこ








「思い出は永遠に古びない」
隠居のひまの日々に、世俗の空気を持ちこんで来るのは、かつての道場
仲間で「政権が変わっても、かれほどの者はおらぬ」と、いまも町奉行
勤めている佐伯熊太(伊東四朗)である。佐伯は清左衛門が隠居してか
ら、はじめての外からの客で、その後もたびたび訪れてくる。昔の知り
合いが「ボケた」という噂を教えてくれるのも、かれである。しかし、
そういう隠居の身にも、華やいだ気持ちが蘇ってくるときがある。



でこぼこを埋めるでこぼこの片割れ  清水すみれ



菩提寺をたずねたとき、清左衛門は若い女性とすれ違うが、かの女が昔
の淡い恋の相手の娘だと知ると、その淡い恋の思い出がまざまざと心に
浮かび上がってくるのだ。思い出は永遠に古びない。清左衛門は日記を
ひらき筆を取り上げると次のように記した。
「寿岳寺に礼物・寺にて加瀬家の息女に会いたり多美女と申される由。
何かは知らねど、あるいは清光信女仏のひき合わせにてもあらむか」
そう書きながら、清左衛門は身体の中に若い血が蘇るのを感じた。



お互いの隙間に入れる接続詞  みつ木もも花



「落ちぶれた友人との苦い再会」
ある日、旧友の金井奥之助(寺田農)と30年振りに出会う。金井は、
150石の家禄があったが、与した朝田派が派閥争いで敗れて以来零落
し25石の貧乏暮らしとなった。出世を重ねた清左衛門への屈託をかか
える金井は、清左衛門を磯釣りに連れ出す。日が暮れかけた頃、金井は
清左衛門を海へ突き落そうとして、逆に自分が落ちてしまった。助けた
清左衛門に金井は、詫びも礼も言わず、清左衛門はひとり城下へ帰って
ゆく。



失った昨日を覗くマンホール  山本早苗



「寂寥感に浸かる間もなく、清左衛門に起る様々な出来事」
初秋の夕刻、清左衛門は野塩村での釣りの帰り道に、急流に取り残され
おみよとその子の命を救う。しかし、それを契機に清左衛門は藩内の
政治抗争に少しずつ巻き込まれてゆく。筆頭家老・朝田弓之助(金田明
夫)を中心とする朝田派と、元家老の遠藤治郎助を中心とした遠藤派と
の争いは何十年も藩を二分してきた。朝田家老は、自身の子どもを次期
藩主にしようと企む石見守と結託して、野塩村の富豪多田掃部から派閥
強化のための莫大な支援金を受け取っていた。清左衛門は形ばかりは遠
藤派に加わり、集会にも出ていたが、派閥抗争には距離を置いていた。



人の世はモヤモヤモヤの繰り返し  喜田准一







隠居して三年目の春、江戸から近習頭取の相庭与七郎(渡辺大)が藩主
に命じられて訪ねてきた。藩内の派閥抗争の現状を聞きたいといわれ、
清左衛門は、現藩主の自分への信頼に胸をあつくする。その相庭からの
頼まれ事で、城下の繁華街にある行きつけの小料理屋「涌井」で人と飲
んでいた清左衛門は、清次という男が女将のみさ(麻生祐未)に乱暴し
ているところに居合わせた。料理人で、みさの元恋人であるという清次
を追い払った後、みさの酌で飲み、ふたりの距離は急速に縮まってゆく。



今日の日を特別にするいいお酒  ふじのひろし



「涌井の女将みさとの恋と平八の勇気」
清左衛門は、若き日の同僚でライバルでもあった小木慶三郎を訪ねる。
むかし小木が突然左遷された原因は、自分が藩主にした告げ口にある
と長年思い悩んできた。そのことにけりをつけようと、出かけたが、
結局言い出せず、自己嫌悪に陥る。大雪のため自宅に帰り着けず清左
衛門は、涌井で一晩を過ごした。春同年の友人・大塚平八(笹野高史)
が中風で倒れた。歩く練習をしようにも、力が入らないと嘆く友人の
病気は他人ごとには思えず、清左衛門は、鬱然とする。



螺旋階段を後ろ向きに降りる  木口雅裕



一方、藩内の派閥争いは、藩主の息子の毒殺を企み始めた石見守を、朝
田家老が危ぶんだすえに殺害したことから急展開する。藩主は事態を収
めるために、朝田家老を免職、処罰し、遠藤派に政権を握らせる判断を
した。清左衛門の元には用人の船越喜四郎(鶴見辰吾)が訪れ、藩主の
命により、朝田家老の説得への同道を請われる。藩の執政府が一変した
秋の日、清左衛門は、親友の佐伯と飲む酒に酔っていた。帰りしな見送
りに出たみさと二人きりになると、突然の帰郷の決意を聞かされ別れを
告げられる。藩内人事の大幅な入れ替えが行われたころ、みさはひっそ
りと帰っていった。



お別れねニッコリドアを閉められた  森田律子



「平八の勇気」
そして旧友の金井奥之助は病死した。野辺送りにでた清左衛門は、冬の
間に風邪をこじらせた自分や現在も中風を患う大塚平八のことを思い、
老いを痛感する。重い気持ちのまま橋を渡った。そしてふと大塚平八を
見舞って行こうかという気になった。路地をいくつか通り抜けて、清左
衛門は大塚平八の家がある道に出た。そして間もなく、早春の光が溢れ
ているその道の遠くに、動く人があるのに気づいた。清左衛門は足を止
めた。
こちらに背を向けて、杖をつきながらゆっくりゆっくりと動いて
いるの
は平八だった。つと清左衛門は路地に引き返した。胸が波打って
いた。
清左衛門は後ろを振り向かずに、急いでその場を離れた。
胸が波
打っているのは、平八の姿に鞭打たれた気がしたからだろう。



夕焼けに焼いてもらって帰宅する  徳山泰子



ーそうか平八。いよいよ歩く修練をはじめたかー、と清左衛門は思った。
人間はそうあるべきなのだろう。衰えて、死がおとずれるそのときは、
おのれをそれまで生かしめたすべてのものに、感謝を捧げて生を終われ
ばよい。しかし死ぬるそのときまでは、人間は与えられた命を愛しみ、
力を尽くして生き抜かねばならぬ。そのことを平八に教えてもらったと
清左衛門は思っていた。家に帰り着くまで、清左衛門の眼の奥に、明る
い早春の光の下で虫のような、しかし辛抱強い動きを繰り返していた、
大塚平八の姿が映って離れなかった。
今日の日記には平八のことを書こうと思った。



新しい坂を栞にしておこう  西田雅子



【豆辞典】 「江戸時代の隠居」
当時の武士の誰もが、清左衛門のようなしみじみと力強い老後ー
めぐまれた隠居生活を過ごせたわけではない。幕府も藩も定年制がなく、
それだけに「隠居」を願い出る手続きも煩瑣だった。なにしろ、城内で
老眼鏡を掛けるにも「眼鏡願」、杖をつくにも「杖願」の提出が必要だ
った時代である。主君に身命を捧げたはずの家臣が、悠悠自適の日々を
送りたいという理由で隠居を願うことなど、少なくとも建前があり得な
かった。



誰も彼も見えないゴールめざしてる  石橋能里子



「隠居願を提出できる条件。弘前藩の場合」
70歳以上ー病気断りを出していなくても隠居願を提出できる。
60~69歳ー病気の期間に関わらず病状によって出願可能。
50~59歳ー病気期間が5カ月以上であれば勝手次第(自由。
50歳未満ー病気断りを出して10ヵ月を経過しなければ出願できない。


これによれば50代の清左衛門は、最低5カ月間病床にあるか、勤務不
能なほどの重態でなければ、隠居はできないことになる。とはいえ、清
左衛門のようなケースもあり得ないことは、断言できない。腰痛の持病
を抱えているとか、頻尿の症状がひどく長時間の会議や儀式に耐えられ
ないなどの、適当な理由をつけて、隠居する抜け道もある。




シュレッダーにかける積み重ねた吐息  赤松蛍子

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 「小林一茶」 小説『一茶』ー藤沢周平
 
 
 
 
   
                      長沼一茶門人連衆  中央が一茶




小林一茶という詩人は「痩蛙まけるな一茶是に有」「やれ打な蠅が手を
すり足をする」
といった小さきもの、敗れゆくものに対しての愛情を、
ユーモアを持った俳句に詠んだ。そのことによって、中学生などにも好
かれている。そして、多くの大人たちにとっても、一茶という俳人のイ
メージは同様のものであろう。これはしかし、ある時期までの藤沢周平
にとってもそうだったようで、彼は「一茶という人」というエッセイで、
こう書いている。
≪私の頭の中には、善良な眼を持ち、小動物にも心配りを忘れない。
多少こっけいな句を作る、俳諧師の姿があっただけだった≫

ところが藤沢が青年時代、東京の北多摩の結核療養所で俳句の会に出る
ようになったあと、そういう一茶像を「みじんに砕くようなこと」が起
こった。<一茶は義弟との遺産争いにしのぎをけずり、あくどいと思わ
れるような手段まで使って、ついに財産をきっちり半分取り上げた人物
だった。また50を過ぎてもらった若妻と、荒淫ともいえる夜々をすご
す老人であり、句の中に悪態と自嘲を交合に吐き出さずにいられない、
拗ね者の俳人だった>

これには愕然とし「あっけにとられる思いだった」と書いている。

(一茶のユーモラスな句
かくれ家や歯のない口で福は内
をり姫に推参したり夜這星
振向ばはや美女過ぎる柳哉
ふんどしで汗をふきふきはなしかな
陽炎や縁からころり寝ぼけ猫
不性猫きき耳立てて又眠る
木母寺の鉦の真似してなく水鶏



その一茶像のあまりに大きな落差により、藤沢は『一茶』という俳人に
対する感心を抱き、かれの俳句や、かれについての伝記を少しずつ読む
ようになったという。
<そしてゆっくりと価値の転換期がやって来たのが近年のことである。
一茶はあるときは欲望を剥き出しにして恥じない俗物だった。貧しく憐
れな暮らしもしたが、その貧しさを句の中で誇張してみせ、また自分の
醜さをかばう自己弁護も忘れない。したたかな人間でもあった。だが、
その彼は、また紛れもない詩人だったのである>

藤沢がこのエッセイを書いたのは、歴史小説の『一茶』を連載中のこと
である。ここに藤沢がどのような考え方において、一茶を描きだそうと
したのかが、余すところなく述べられている。 (松本健一)



(一茶の句の特徴)
我好きで我する旅の寒さ哉  
旅の皴御覧候へばせを仏 

霜がれや鍋の炭かく小傾城
ともかくもあなた任せの年の暮

としとへば片手出す子や更衣   
片乳を握りながらやはつ笑い   

仰のけに落て鳴きけり秋の蝉
身の上の鐘と知りつつ夕涼み 
 
 
 
 
 

 一茶が所持した折りたたみ式マップ (拡大してご覧ください)
 
 
 


小林一茶は宝暦13年(1763)、信濃柏原の農家に生まれた。名は弥太郎。
3歳で母に死別し、8歳で継母との反目が続き、15歳で江戸に奉公に
出た。これが生い立ちの伝記的事実である。

藤沢は『一茶』でその伝記的事実を押さえながら、父親・弥五兵衛が江
戸に出る弥太郎(一茶)を見送りに来た場面を、次のように描いている。

「あのな」
弥五兵衛はそう言った。だがそのままいつまでも黙っている。
弥太郎が顔をあげると、放心したような父親の横顔が見えた。
父親がみている方に、弥太郎も眼をやった。
ゆるやかな山畑の傾斜の下に、丘は一たん落ち込み、そこから
北の鼻見城山に這いのぼる斜面が見えた。
日に照らされているのは、寺坂、善光寺、塩之入の村々らしかった。
通り過ぎてきた牟礼の宿は、谷間のような丘のくぼみの端に、わずかに
人家がのぞいているだけだった。

途中の丘に遮られて、柏原の方は見えなかった。
澄んだ青い空が、北に続いているだけである。
「身体に気をつけろ」
不意に弥五兵衛は、弥太郎に向き直って言った。
ぎこちない微笑を浮かべている。
「はじめての土地では、水に慣れるまで用心しないとな」
「それからな」
弥五兵衛は、弥太郎をのぞきこむようにして、ちょっと口籠ってから
言った。

「お前は気が強い。ひとと争うなよ」
弥太郎は、父親がお前はひねくれているから、と言おうとしたのかも
知れないと思ったが、素直にうなずいた。

弥五兵衛は、低い声でぽつりぽつりと訓戒めいた言葉を続け、最後に、
「時どき便りしろ、辛抱出来ないときは、遠慮なく帰ってこい」
と言った。

「では、ひとが待っているから、行くか」
と弥五兵衛が言った。
それで別れの儀式が終わったようだった。
弥太郎がほっとして道端にいる連れを振り返ったとき、後で奇妙な声が
した。振りむいた弥太郎から顔をそむけて、弥五兵衛が言い直した。

「ほんとうはな…」
言い直したが、まだ喉が詰まった声になっていた。
「江戸になど、やりたくなかったぞ」
「……」
「わかるな」



(旅の句)
剃捨てて花見の真似やひのき笠
衣がへ替へても旅のしらみ哉
通し給へ蚊蠅の如き僧ひとり
 




一茶自筆



その後、一茶は俳諧師として世には出たものの、一門を立てることがで
きない。一門を立てられなければ、俳句の宗匠として、生活してゆくこ
とができないのである。彼は全国流寓のはてに、故郷で父の死にあった。
これも伝記的事実である。
藤沢は死を前にした老いた父親と一茶の会話を、次のように描いている。
「お前、なんぼになる」
「三十九だ」
「それじゃ来年は四十になる。そしてな四十になると五十はすぐだぞ」
一茶は顔をあげた。父親の声に胸を刺されていた。
その一茶の眼に、弥五兵衛はうなずいてみせた。
「そうさ、あっという間に五十になる、いったいいつまで浮草の暮らし
を続けるつもりかね」
江戸時代は四十歳といえば、初老である。老年期に入っている。
その老年期に入っても、まだ家も妻も持たず、定住の地を持っていない
一茶は、父親の言うように浮草である。
藤沢は一茶の文学的遍歴を描きながらも、実生活の方も見逃さずに描い
ている。かれは武家を描く小説で、生活者としての武士に焦点をあてた
ように、俳人としての一茶を描いても、その実生活から目をそらすこと
はしなかったのである。



(世を厭う句)
雉鳴いて梅に乞食の世也けり
茨の花ここをまたげと咲きにけり
時鳥我身ばかりに降る雨か
五月雨や夜もかくれぬ山の穴


 

 
柏 原 宿



文化九年、一茶は故郷に帰ってくる。五十歳になっていた。遺産問題で
継母側と争い、文化十年には和解が成立して、翌年初めて結婚する。
藤沢は次のように描いている。
『巻紙をひろげると、暫く考え込んでから「柏原を死所と定めて」と前
置きし、次に行を改めて句を書いた。

是がまあつひの栖か雪五尺
雪が降り積もる夜道を帰りながら案じた句だったが、書いてから迷いが
出た。中七の坐りが悪い気がしたのである。一茶はついの栖の隣に、
「死所かよ」と併記した』




(ふるさとの句)
たまに来し古郷も月もなかりけり
寝にくくも生れ在所の草の花
背筋から冷つきにけり越後山
心からしなのゝ雪に降られけり


 
 
歴史上の人物なら、日記や手紙といった一次資料や、先行する記録研究
がその小説化の土台になるのはいうまでもない。ところがそこに、同じ
く言葉でありながら、事実の世界とはまた違う次元にずれ込んで、詩歌
の言葉が並ぶ。そのことが何といっても詩人や歌人を扱う小説の難しさ、
だという。




「ざっと一万」
いや待て、ひょっとしたら二万くらいも作ったかな、と一茶は呟いた。
「二万句じゃぞ。日本中さがしても、そんなに沢山に句を吐いたひとは
おるまい」
「えらいもんじゃねえ、じいちゃん」
とそばに寝ているヤヲが言った。ヤヲは前の妻雪が去ってから丁度二年
たって迎えた三度目の妻だった。まだ若かった。ヤヲの声は眠げだった。
「なにしろ、花のお江戸で修業したひとだもんなえ」
「なにも沢山作ろうと思って作ったわけじゃない。だがわしは、ほかに
は芸のない人間でな。鍬も握れん、唄もうたえん、せっせせっせと句を
作るしかなかったの」

「……」
「誰も褒めてくれなんだ。信濃の百姓の句だという。
だがそういうおのれらの句とは何だ。絵に描いた餅よ。花だと、雪だと、
冗談も休み休みに言えと、わしゃ言いたいの。
連中には、本当のところは何も見えておらん」

「……」
「わしはの、ヤヲ。森羅万象みな句にしてやった。月だの、花だのと言
わん。馬から蚤虱、そこらを走り回っているガキめらまで、みんな句に
詠んでやった。その眼でみれば蚤も風流、蚊も風流…」

一茶は口を噤んだ。闇の中にヤヲの寝息が聞こえている。その向こうに
ヤヲの連れ子の倉吉の幼い寝息も聞こえてくる。若くて丈夫なヤヲには、
眠もすみやかに訪れるらしかった。一茶は微笑した。




(一茶の小動物の句)
昼の蚊やだまりこくって後ろから
やれ打つな蠅が手をすり足をする
雀の子そこのけ〳〵お馬が通る
蝶々を尻尾でなぶる子猫哉
松虫や素湯もちん〳〵ちろりんと
夕日影町一ぱいのとんぼ哉
あまり鳴いて石になるなよ猫の恋
大江戸や芸なし猿も花の春
おりよ〳〵野火がついたぞ鳴雲雀
牢屋から出たり入ったり雀の子
 
 

 (拡大してご覧ください)


藤沢がとりあげる一茶独自の句は<木枯らしや地びたに暮るる辻諷ひ>
というローアングルな「町行く人を足元から見上げるかのよう」な作品
である。また、俗物そのものでありながら、透明な美しさをもって句を
つくることのできる詩人一茶の<霞む日や夕山かげの飴の笛>という作
品である。かくして、藤沢は一茶が「俗物である」にも関わらず、かれ
の句を「取り澄ました俗っぽさから救ったのは強烈な自我の主張ではな
かったか」と考え、そのような自我の強い一茶像を描こうとした。
それが一茶という歴史小説にどう描かれているかが、本作品の読みどこ
ろだろう。(松本健一)




春立つや四十三年人の飯

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痩かへるまける那一茶是に有 



足立区竹ノ塚の炎天寺の句碑



蛙合戦は炎天寺のものだけでなく、一茶の古郷信州の小布施の岩松院
もやっていた。ここは越後椎谷藩の飛地で、代官の玉木其壁、寺島花蕉、
白也親子も一茶の門下で、小布施にはしばしば訪れている。
信州の小布施の岩松院の裏庭に「蛙合戦の池」という小さな池があり、
サクラが満開の頃、たくさんのアズマヒキガエルが終結して、壮絶な
「蛙合戦」がくりひろげられる。この寺には福島正則の墓や葛飾北斎
晩年の大作「大鳳凰図」などがあり、「痩せ蛙の碑」などもあって、
訪ねる人が多い。小布施は栗の産地としても知られる。
栗拾いねんねんころり云いながら  小布施岩松院入口

「小林一茶」 53歳~65歳







帰郷後2年、一茶52歳の文化11年(1814)、つまり滝沢馬琴
『南総里見八犬伝』を出した年は、小林一茶にとって久方ぶりの心楽し
い年であった。遺産問題もようやく解決し、妻と結婚し、新妻と仲よ
く花見や月見に行ったり、栗拾いに行ったり、江戸へ出ても菊への通信
を怠らなかった。
吾菊やなりにもふりにもかまわずに


さらに一茶が、江戸俳壇を去るにあたって、別れを惜しんで一茶と交友
のあった242人もの俳人たちが「三閑人」にひっかけて『三韓人』
いう記念集「送別の句集」を11月出してくれたのだった。それには師
夏目成美がすばらしい序文を書き、故人となった栗田樗堂の手紙も紹介
し、芭蕉の高弟其角と、嵐雪笠翁が一つの蒲団に共寝した珍しい図ま
で添えてあった。絵は芭蕉の弟子笠翁で、英一蝶について学んだ。
人らしく更えもかえたりあさ衣



 
  夏目成美

夏目成美の序文より
「木のかくれ、岩のはざまにも、ひさしくとどまざるは法師の境界なり。
しなのゝ国に一人の隠士あり。はやくより、その心ざしありて森羅万象
を一陵の茶に放下し、みずから一茶となのりて、吾いのもとの中をこと
ごとくめぐりて、風餐露宿(ふうさんろしく=野宿)さらに一方に足を
とどめず」

(成美、一瓢、巣兆、道彦、完来ら全国の有名俳人の名がずらりと並ん
だこの記念集は、小林一茶の信濃俳壇での立場をゆるぎないものにした)

誰にやる栗や地蔵の手のひらに




       雪国の暮らし

「しかし江戸に来てからは風土もよろしく、友達も多く、住みついたが、
今回住み慣れた草庵を捨てて、どうしてもふるさと信州へ帰るという。
旧友たちはみんなで引き止めたが聞き入れず、残念ながらここに笠翁が
描いた絵を形見として送りたい」という文で、そのあと一茶と夏目成美
と日暮里の一瓢と成美の息子の諌圃(かんほ)の四人の連句へ続く。
雪ふるやきのふは見えぬ借家札  一茶
楢に雀の寒き足音  成美
鍋ひとつ其日〳〵がうれしくて  一瓢
たもとかざせば晴る夕雲  諌圃
丸書なぐる壁の秋風  一茶
三絃のばちで掃きやる霰哉






と結婚して一茶が、何よりも望んだのが、子どもを筆を持つ手に変え
て抱くことであった。しかし一茶には不幸なことが付いて回った。
文化13年(1816)4月14日、一茶54歳。ついに長男の千太郎
が菊の実家の常田家で生まれ、一家の喜びようはたいへんなものだった。
一茶も可愛さのあまり、次の一句を詠んだ。
はつ袷にくまれ盛りにはやくなれ
だが、一茶の喜びも束の間、千太郎はわずか28日目の5月11日夜半
過ぎ急死した。息子と一緒に暮らしたのは、数日だけであった。一茶は
天を仰いで慟哭した。
陽炎や目につきまとふわらひ顔




     雪五尺の碑 (冬と夏)

その後、一茶は門人の家を転々としたなかの7月8日、浅野の文虎邸で
オコリ(突然の寒気ののち高熱を発するという症状)にかかる。
11月19日には、夏目成美死去(68歳)。一茶が柏原に帰ってからは、
句稿を送って、添削を受けていたが、まさかその夏目が世を去ろうとは、
一茶が江戸を去るとき送別にくれた『三韓人』の序も夏目成美でその後、
この本の出版によって信州の俳壇でどれだけ得をしたか。
因みに成美は、次の①②の句を並べ、添削をしている。
① 是がまあつひの死所かよ雪五尺
② 是がまあつひの栖か雪五尺
の「死所かよ」を「栖」に改めれば「極上上吉」(最高点)だ、と添削
し送っている。
木母寺の鉦の真似して鳴水鶏(くいな)




          一 茶 俳 諧 堂

同年11月頃より、ひぜん(ヒゼンダニの感染による皮膚病)で苦しむ。
文化15年4月22日(一茶56歳)。文化から文政へ改元。
文政元年5月4日、長女さと生まれる。一茶はもう大喜び。聡くなるよ
うにと「さと」と名付けてことのほか可愛がった。一茶の一文がある。
「人の来りて『ワンワンはどこに』といへば犬に指さし『かあかあと問
えば、烏に指さすさま、口元より爪先まで愛嬌こおれて、愛らしく、い
わば、春の初草に胡蝶の戯るゝよりもやさしくなん覚え侍る。此をさな、
仏の守りし給ひけん。逮夜の夕暮れに、持仏堂に蝋燭てらして縒打なら
せば、どこに居てもいそがわしく這いよりて、さわらびの小さき手を合
せて『たんむ〳〵」と唱う声しをらしく、ゆかしくなつかしく、殊勝也」

一茶は、障子紙を破るなどのいたずらをしてもほめ、さともまたキャッ
キャッとかわいらしく笑った。だが文政2年(一茶57歳)6月21日、
長女さとは疱瘡がこじれて哀れ世を去ってしまう。
露の夜は露の世ながらさりながら






文政3年(一茶58歳)10月5日、次男石太郎生まれる。石のように
丈夫な子を期待しての命名であった。何ということか、翌年1月11日
石太郎が母の背中で窒息死をする。その落胆は一通りではなく「石太郎
を悼む」
という一文を書いている。
「老妻菊女というもの、片葉の葦の片意地強く、おのが身にたしなみに
なるべきことを人の教えれば、うはの空吹く風のやかましとのみ露〳〵
守らざる物から、小児二人とも非業の命うしなひぬ。このたび三度目に
当たれば、又前の通りならんと、いとど不便さに、盤石の立るに等しく、
一雨風さえことともせずして、母に押しつぶさるる事なく、したゝか長
寿せよと、赤子を石太郎となん呼べりける。ははあにしめしていふ。
『此さざれ石、百日あまりにも経て、百貫目のかた石となる迄、必ずよ
背に負う事なかれ』
と日に千度いましめけるを、いかゞしたりけん、
うまれて九十六日といふける、朝とく背おひて負い殺しぬ。あわれ、
今迄うれしげに笑いたるも、手のうら返さぬうち、苦々しき死に顔をみ
るとは…」

もう一度せめて目を明け雑煮膳





たしかに、の過失に違いないが、それをこのように強く責めるとは、
腹を痛めた我が子、菊とて悲しい思いは同じで、故意でやったわけでも
ないのに。強い子に育つように石太郎と名付けたのに、たった96日で
死んでしまうとは。慟哭する一茶であった。
はつ雪や我にとりつく不性神

千太郎が身まかって5日後の16日、一茶は、千曲川沿いの浅野の雪道
で転んで、そのひょうしに、中風にかかって、一時半身不随となった。
4月22日には、こんどは妻が痛風で寝込み、年末には村役人に伝馬
役金免除願いを出し始末。
雪散るやおどけもいへぬ信濃空

文政5年2月(一茶60歳)。小布施の梅松寺からに、手紙を送る。
その頃、菊は4度目の妊娠中で、家を空けたことを一茶は心配していた。
3月10日、三男金三郎生まれる。一茶8月29日善光寺に参詣した折、
転んで足に怪我をする。
おとろえや榾(ほた)折りかねる膝頭




 
拾れぬ栗の見事よ大きさよ



文政6年(一茶61歳)。妻2月19日に発病し、3月になると容態
ますますおかしくなる。動悸や息切れがひどく、肌はかさかさになり、
嘔吐 と下痢を繰り返す。薬草を煎じて飲ますが、さっぱり効き目がない。
4月には、絶食状態に。菊はしきりに赤川の実家に帰りたがった。駕籠
に乗せて帰したが、5月12日ついに亡くなってしまう。37歳だった。
我菊やなりにもふりにもかまわずに

菊が病気のため預けてあった金三郎を呼び寄せると、これまたひどく衰
弱して骨と皮ばかりなっている。乳母に乳がでず、毎日水ばかり飲ませ
ていたという。そして12月21日、栄養失調で母の後を追う。ここで
も一茶は、金三郎を預かった赤川の富右衛門への恨みつらみを綴った
「金三郎を憐れむ」という一文が残している。
悪い夢のみあたりけり鳴く烏

文政7年5月22日(一茶62歳)。関川浄善寺の住職の斡旋で飯山̪士
田中氏の娘ゆき(38歳)と再婚したが、8月3日には離婚。まもなく中
風が再発し、言語不自由になる。
夜の声しんしん耳は蝉の声



 
     大栗は猿の薬禮と見へにけり


度重なる不幸に、よからぬ噂が村に広まり一茶を苦しめた。まるで疫病
神にでも摂り憑かれたように、長男・千太郎、長女・さと、二男・石太
郎、三男・金太郎、妻・菊
が次々と死に、一茶も全身に疥癬(かいせん)
ができ、やがては中風。これは江戸からよからぬ毒を持ってきたのでは
ないかと村人たちは疑った。それでなくとも帰郷以来、鍬も鋤も持たず、
ひたすら弟子たちの間を、ふらふら回って、遊民的徒食生活をしていた
から、村人の評判が悪いこと〳〵
人誹る会が立つなり冬籠り

文政9年8月(一茶64歳)。足や言葉も不自由なので、なんとしても
つれあいが欲しく、知人たちに頼んでおいたら、ようやく宮沢徳左衛門
の世話で越後二股村の宮下所左衛門の娘ヤヲ(32歳)と3度目の結婚す
ることになった。ヤヲは柏原の旅籠屋っで奉公人としいて雇われていた。
燐家の大地主中村徳左衛門の三男倉次郎と恋愛して私生児倉吉を生み、
子連れで嫁に来た。気立てよくヤヲは、一茶のためにせっせと尽くした。
老いらくの星なればこそ妻迎え

文政10年(一茶65歳)6月1日、柏原に大火があり83戸が焼失。
一茶の家も類焼したが、辛うじて裏の畑の土蔵だけが残った。やむな
く一茶は、焼け残りの荒壁の土蔵に住んだ。しばらくは不自由な身な
がら、一茶は、門人たちの家に身をよせたり、湯田中温泉に滞在して
11月8日帰宅。11月19日にふと気分が悪くなって、其日の午後
5時頃に土蔵の中で息をひきとる。
やけ土のほかほかや蚤さわぐ





翌11年4月、一茶未亡人ヤヲに娘やヤタが生まれる。一茶はヤタの
顔をみることは出来なかったが、ヤヲからヤタへ一茶の血は、今現在、
7代目・小林重弥さんに受け継がれている。住いは一茶の里・信濃町
柏原。著名な俳人の血を継ぐ人だから、俳句と何かしらの縁を持って
生きているのではと期待したが、あにはからんや、「俳句は?」の問
いに「俳句には興味がないんです」と返ってきた。「俳句は性に合い
ませんでした。ここで豆腐屋をやったり、勤めに出たりしています」
と、少々残念な返事も、「それもありかも」と笑う
一茶柏原旧宅前には、次の句碑が掲げられている。
門の木も先つつがなし夕涼み

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ほくほくとかすんで来るはどなたかな 


 

「小林一茶」 45~52歳
 

放浪の貧乏俳人一茶にとって、秋元双樹大川斗囿(とゆう)が住む東
葛地方はまことに天国であったが、ひとたび江戸に戻れば、一茶には頭
の痛いことが待っていた。それは、柏原にいる弟・仙六との確執である。
なんとかせねばと思えば思うほど孤独に陥り、ふるさと喪失の思いが一
茶を苛んだ。
我星はどこに旅寝や天の川




 (拡大してご覧ください)
  東葛地方
右上に古田月船、真上・鶴翁、秋元双樹と大川立砂の名がみえる。
一茶句碑、この界隈に六基建立されている。

というのは、一茶は、いずれは信州柏原へ帰るつもりでおり、そのため
には、柏原に安住の地を確保しておかなければならない。だが今はそれ
もない。ただ一縷の望みは、父弥五兵衛が死ぬ前、遺言をしたため「財
産の半分を一茶に譲る」と書いている。継母も弟もそれを承知し、父の
死後、その権利を確保するため毎年金一分ずつ、伝馬役金として、柏原
宿問屋に納めてきた。それが今はどうなっているのか、一茶の苛立ちは
つのり、世を儚む思いが次第にましていく。
はいかいの地獄は我を見くらぶる
 


文化4年(1807)7月ごろ、一茶45歳。父の死後6年ぶりに柏原
を訪れた。亡父7回忌のためで、このとき継母と弟仙六らに遺産分配の
話を持ち出した。継母の冷ややかさは昔と同じだし、仙六にも応ずる気
配がない。また継母と仙六が、汗水流して田畑を増やしてきたことや、
その勤勉ぶりを毎日見てきた村人たちも、一茶の勝手な願望をそのまま
受け入れるはずもなかった、一茶は帰郷の都度、村人から冷たい視線を
浴びせられた。
雪の日や古郷人もぶあしらい
 



つひの身のけぶりたねに椎柴の曲がらぬ枝をたき残しつ



 その年の11月、ふたたび雪深い故郷に戻って、遺産相続の話を持ち出
せば、村人たちからはぶあしらい(冷遇)されて相手にしてもらえない。
心の底から信濃の重い雪にふられたようにすごく疲れるが、それを覚悟
でまた交渉のため故郷にむかう。そういう自分を、村人たちによってた
かって非難する。一に向ける視線は、茨のように刺々しく感じられた。
心からしなのゝ雪に降られけり
 

実際問題として、いま弟たちが住んでいる家や田畑、山林を二つに分割
は簡単に出来ないことは分る。しかし、足場のない遊民暮らしの怖さを
知り尽くしている一茶は、しつこく交渉を重ねた。が進展はない。翌年
7月一茶は、祖母33回忌で故郷に戻り、菩提寺明専寺の住職の後押し
もあって、8月ついに決着。父の遺言通り、財産を折半することになり、
村役人に「取極一札之事」を差し出している。取極めの内容は、田と畑
合わせて五石六斗四升五勺、家屋敷半分、山三ヵ所、所帯道具一通り、
夜具一通り、柏原では中くらいの持高だったという。柏原村の年貢関係
の書類には、文化6年から「本百姓弥太郎」としてあらわれる。
証文がもの云い出すやとしの暮
 

ところが12月、いい気分で江戸に戻ってみると、相生町5丁目の家に
は別の人が住んでいた。あまりにも長く家を開けたままだったので、愛
想をつかした家主の日吉太兵衛が、他の人に貸してしまったのである。
回向院近くにあり、富士山も見え、双樹ら多くの友人が来た家だったが、
追い出されたとあっては仕方がない。師の夏目成美の家に転がり込んで
年を越した。文化6年元日、佐内町で大火事があり、多くの人たちが焼
け出された年であった。
元日や我のみならぬ巣なし鳥
 



  句会の様子



一茶の師匠といえば、元夢、素丸、竹阿といるが、中でも最も影響を受
けたと思われるのは、夏目成美である。幼少の頃から読書を好み、温厚
篤実な性質で、家業(札差)にも励み、父の代よりも大きくし、商才に
も長けていた。毎月7のつく日に、ここで「随斎会」というサロン風の
句会が開かれ、一茶も足繁く通っていた。時には、泊めてもらったりも
している。地方から出る俳人は成美の謦咳(けいがい)に接することを
無上の光栄とし、また成美も貧乏俳人たちの面倒をよくみた。
大名のもみじふみゆく小はるかな 成美
東海道のこらず梅になりにけり 成美
 


文化7年11月3日一茶48歳。一つの事件が起こった。成美が隅田川
の紅葉見物に出かけた留守に、銭箱の中の金が紛失し、この家の誰かに
違いないということになった。一茶も4日間禁足を命じられ、5日目に
なってようやく釈放された。一茶の屈辱感はいかばかりだったか、おれ
は信用されていないと、心をうちのめされた、と日記に綴る。
「十一月八晴、金子未出ざれど其罪ゆるす。九、夜大雨、丑刻雷、イセ
ヤ久四郎奴 四百八十両盗み去」
こんな悲しい仕打ちを受けても、一茶はせっせと富豪夏目成美のもとみ
通うのだった。
撫子のふしぶしにさす夕日かな 成美



この一茶「禁足事件」が起きる三月ほど前の4月3日、木更津の花嬌
病没する。年上ながら美貌才媛で一茶の思い人という人もいる。一茶は
いつも墨染の衣で旅をし、知人たちの間を転々としていた。貧しかった
から、おそらく着物も一帳羅で汗臭く、みすぼらしい状態だったろう、
一茶と会う女性はみな敬遠して、そばにも寄り付かなかった。お金がな
く、たかりのような日々だったから、たまに寄ってくる女性にも、奢る
ことはまずなく、ケチに徹していたから、女性との縁はきわめて薄く、
江戸にいるかぎり、独身でいざるをえなかった。
春雨に大欠伸する美人哉
 



墨染の蝶がとぶ也秋の風




そんな中で千葉県の冨津の女弟子・織本花嬌だけは師として一茶を何日
も泊めて厚遇した。花嬌はおそらく品の良い美しい女性だったのだろう。
一茶より3,4歳上と見る人もいれば、20歳以上違うという人もいて
正しい年齢はわからない。養子の子盛は一茶より3歳下であったから、
これより想像して花嬌は60歳近い老女だという人もいる。ゴシップ好
きの人たちの中には、一茶と未亡人花嬌のロマンスを取る人もいるが、
家柄も年齢も違うし、一茶の句帖にもそんなふしは全くみられない。
だが一茶が文化9年4月4日花嬌三回忌に詠んだ句は、多少気にはなる。
目覚ましのぼたん芍薬でありしよな
何というはりあひもなし芥子の花
 



  右が秋元双樹



信州柏原から帰ってきた翌月の文化9年、一茶50歳。いつものように
流山、馬橋とまわり、布川の月船のもとに長期滞在している間に、流山
秋元双樹が病気で倒れたという知らせを受けた。10月12日、その
日は曇りであったが、午後4時頃から雨が降り出す。ずぶ濡れになった
一茶は、勝手知った双樹宅のこと、泥んこになった着物を洗って自分で
干した。なんとか一日でも早く全快してもらいたい、と祈る気持ちだが、
医者でもない自分には、なにすることも出来ない。ただ祈るのみだった。
14日馬橋の大川斗囿のもとに双樹の病状を報告して翌日江戸に戻った。
26日双樹は看病もむなしくついに息絶えた。「折々の南無阿弥陀聞き
しりて米をねだりしむら雀哉」流山の富豪ゆえ、多くの雀たちが無心に
来たことであろう。私もその一人にすぎなかったのだが…と歌っている。
西山やおのれが乗るはどの霞
 



 
  大川斗有
 

秋元双樹が亡くなったのは文化9年、松平定信が隠居して楽翁と称し、
高田屋嘉兵衛がロシア船に捕われ、式亭三馬『浮世床』を著した年で
もある。かねてより古郷柏原へ帰ることを考えていた一茶は、双樹が亡
くなった今、潮時と考えてのことか、双樹の葬儀のあとの11月17日
思い出の江戸を去る。振り返れば、江戸には37年間居たことになる。
一茶も今は、50歳であった。板橋、鴻巣、本庄、松井田などに泊まり、
碓氷峠では大吹雪に遭い、柏原に着いたのが24日、毎日が雪である。
是がまあつひの栖か雪五尺
 


それではと村に戻ったからといって、即座に村社会に馴染めるほど村は
甘くない。仙六は働き者で、父の死後、かなりの面積を新たに開墾して
いた。「その半分をよこせ」と無理難題をふっかける江戸の遊民一茶に、
土地の人たちの風当たりが強いのは、当然であった。とりこんだ田畑は
自分では耕せず、小作に出す、そういうこともあり、相変わらず周囲か
らは意地悪い目で見られ、頭巾を被り文人風情の姿で出歩けば誹られる。
人誹(そし)る会がたつなり冬籠り



 「ああまた遊民の一茶がおるぞ、田畑を耕さないとんでもない野郎だ」
と長い冬の退屈しのぎの話題をさらう。そんな罵声が背後から聞こえて
くる。こうなると憎しみはすべて、ことの発端となった継母へ向けられ
るが、そんなことばかり考えていては、食べてはいけない。幸い一茶
「江戸の一茶」として故郷信州でもかなり知られる俳諧師になっていた。
しばしば遊俳たちの句会に招かれるようになるが、いままでの苦難が頭
をかすめ不安はついてまわる。
俳諧を守らせたまえ雪仏




うまさふな雪やふふわりふふわりと




それでも一茶にとって念願の古郷、雪深い場所で終生住み続けることを
覚悟する。しかし今や故郷に帰り、信州の片田舎といえど、俳諧を生業
とする宗匠であれば、何としても新妻を迎えたい。幸い、亡母くにの生
家である二ノ倉の宮沢家の徳左右衛門が結婚話を持ちこんできた。親類
常田久右衛門というのがおり、野尻宿で農家を営み、下男下女もいる
豪農で、そこに28歳になる働き者の娘がいた。さっそく話は纏まり
菊を迎えることになった。
こんな身も拾う神ありて花の春




さ越しかやゆひしてなめるけさの霜




相続争いで村人にあれほど嫌われた、オレのような男でも好いてくれる
女性がいる。新春から花が咲いたような気分だと、喜びを爆発させた。
文化11年2月21日、徳左右衛門らの立ち合いのもとで、父の家を半
分分けてもらい、4月11日徳左右衛門が仲人となって一茶は菊と結婚
した。一茶52歳は28歳、まるで親子のようで、大いに照れている。
「五十年一日の安き日もなく、ことし春漸く妻を迎え、我身につもる老
いを忘れて凡夫の浅ましさに、初花に胡蝶の戯るゝが如く、幸あらんね
とねがふことのはずかしさ」
五十聟天窓(あたま)をかくす扇かな

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