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川柳的逍遥 人の世の一家言
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痩かへるまける那一茶是に有 



足立区竹ノ塚の炎天寺の句碑



蛙合戦は炎天寺のものだけでなく、一茶の古郷信州の小布施の岩松院
もやっていた。ここは越後椎谷藩の飛地で、代官の玉木其壁、寺島花蕉、
白也親子も一茶の門下で、小布施にはしばしば訪れている。
信州の小布施の岩松院の裏庭に「蛙合戦の池」という小さな池があり、
サクラが満開の頃、たくさんのアズマヒキガエルが終結して、壮絶な
「蛙合戦」がくりひろげられる。この寺には福島正則の墓や葛飾北斎
晩年の大作「大鳳凰図」などがあり、「痩せ蛙の碑」などもあって、
訪ねる人が多い。小布施は栗の産地としても知られる。
栗拾いねんねんころり云いながら  小布施岩松院入口

「小林一茶」 53歳~65歳







帰郷後2年、一茶52歳の文化11年(1814)、つまり滝沢馬琴
『南総里見八犬伝』を出した年は、小林一茶にとって久方ぶりの心楽し
い年であった。遺産問題もようやく解決し、妻と結婚し、新妻と仲よ
く花見や月見に行ったり、栗拾いに行ったり、江戸へ出ても菊への通信
を怠らなかった。
吾菊やなりにもふりにもかまわずに


さらに一茶が、江戸俳壇を去るにあたって、別れを惜しんで一茶と交友
のあった242人もの俳人たちが「三閑人」にひっかけて『三韓人』
いう記念集「送別の句集」を11月出してくれたのだった。それには師
夏目成美がすばらしい序文を書き、故人となった栗田樗堂の手紙も紹介
し、芭蕉の高弟其角と、嵐雪笠翁が一つの蒲団に共寝した珍しい図ま
で添えてあった。絵は芭蕉の弟子笠翁で、英一蝶について学んだ。
人らしく更えもかえたりあさ衣



 
  夏目成美

夏目成美の序文より
「木のかくれ、岩のはざまにも、ひさしくとどまざるは法師の境界なり。
しなのゝ国に一人の隠士あり。はやくより、その心ざしありて森羅万象
を一陵の茶に放下し、みずから一茶となのりて、吾いのもとの中をこと
ごとくめぐりて、風餐露宿(ふうさんろしく=野宿)さらに一方に足を
とどめず」

(成美、一瓢、巣兆、道彦、完来ら全国の有名俳人の名がずらりと並ん
だこの記念集は、小林一茶の信濃俳壇での立場をゆるぎないものにした)

誰にやる栗や地蔵の手のひらに




       雪国の暮らし

「しかし江戸に来てからは風土もよろしく、友達も多く、住みついたが、
今回住み慣れた草庵を捨てて、どうしてもふるさと信州へ帰るという。
旧友たちはみんなで引き止めたが聞き入れず、残念ながらここに笠翁が
描いた絵を形見として送りたい」という文で、そのあと一茶と夏目成美
と日暮里の一瓢と成美の息子の諌圃(かんほ)の四人の連句へ続く。
雪ふるやきのふは見えぬ借家札  一茶
楢に雀の寒き足音  成美
鍋ひとつ其日〳〵がうれしくて  一瓢
たもとかざせば晴る夕雲  諌圃
丸書なぐる壁の秋風  一茶
三絃のばちで掃きやる霰哉






と結婚して一茶が、何よりも望んだのが、子どもを筆を持つ手に変え
て抱くことであった。しかし一茶には不幸なことが付いて回った。
文化13年(1816)4月14日、一茶54歳。ついに長男の千太郎
が菊の実家の常田家で生まれ、一家の喜びようはたいへんなものだった。
一茶も可愛さのあまり、次の一句を詠んだ。
はつ袷にくまれ盛りにはやくなれ
だが、一茶の喜びも束の間、千太郎はわずか28日目の5月11日夜半
過ぎ急死した。息子と一緒に暮らしたのは、数日だけであった。一茶は
天を仰いで慟哭した。
陽炎や目につきまとふわらひ顔




     雪五尺の碑 (冬と夏)

その後、一茶は門人の家を転々としたなかの7月8日、浅野の文虎邸で
オコリ(突然の寒気ののち高熱を発するという症状)にかかる。
11月19日には、夏目成美死去(68歳)。一茶が柏原に帰ってからは、
句稿を送って、添削を受けていたが、まさかその夏目が世を去ろうとは、
一茶が江戸を去るとき送別にくれた『三韓人』の序も夏目成美でその後、
この本の出版によって信州の俳壇でどれだけ得をしたか。
因みに成美は、次の①②の句を並べ、添削をしている。
① 是がまあつひの死所かよ雪五尺
② 是がまあつひの栖か雪五尺
の「死所かよ」を「栖」に改めれば「極上上吉」(最高点)だ、と添削
し送っている。
木母寺の鉦の真似して鳴水鶏(くいな)




          一 茶 俳 諧 堂

同年11月頃より、ひぜん(ヒゼンダニの感染による皮膚病)で苦しむ。
文化15年4月22日(一茶56歳)。文化から文政へ改元。
文政元年5月4日、長女さと生まれる。一茶はもう大喜び。聡くなるよ
うにと「さと」と名付けてことのほか可愛がった。一茶の一文がある。
「人の来りて『ワンワンはどこに』といへば犬に指さし『かあかあと問
えば、烏に指さすさま、口元より爪先まで愛嬌こおれて、愛らしく、い
わば、春の初草に胡蝶の戯るゝよりもやさしくなん覚え侍る。此をさな、
仏の守りし給ひけん。逮夜の夕暮れに、持仏堂に蝋燭てらして縒打なら
せば、どこに居てもいそがわしく這いよりて、さわらびの小さき手を合
せて『たんむ〳〵」と唱う声しをらしく、ゆかしくなつかしく、殊勝也」

一茶は、障子紙を破るなどのいたずらをしてもほめ、さともまたキャッ
キャッとかわいらしく笑った。だが文政2年(一茶57歳)6月21日、
長女さとは疱瘡がこじれて哀れ世を去ってしまう。
露の夜は露の世ながらさりながら






文政3年(一茶58歳)10月5日、次男石太郎生まれる。石のように
丈夫な子を期待しての命名であった。何ということか、翌年1月11日
石太郎が母の背中で窒息死をする。その落胆は一通りではなく「石太郎
を悼む」
という一文を書いている。
「老妻菊女というもの、片葉の葦の片意地強く、おのが身にたしなみに
なるべきことを人の教えれば、うはの空吹く風のやかましとのみ露〳〵
守らざる物から、小児二人とも非業の命うしなひぬ。このたび三度目に
当たれば、又前の通りならんと、いとど不便さに、盤石の立るに等しく、
一雨風さえことともせずして、母に押しつぶさるる事なく、したゝか長
寿せよと、赤子を石太郎となん呼べりける。ははあにしめしていふ。
『此さざれ石、百日あまりにも経て、百貫目のかた石となる迄、必ずよ
背に負う事なかれ』
と日に千度いましめけるを、いかゞしたりけん、
うまれて九十六日といふける、朝とく背おひて負い殺しぬ。あわれ、
今迄うれしげに笑いたるも、手のうら返さぬうち、苦々しき死に顔をみ
るとは…」

もう一度せめて目を明け雑煮膳





たしかに、の過失に違いないが、それをこのように強く責めるとは、
腹を痛めた我が子、菊とて悲しい思いは同じで、故意でやったわけでも
ないのに。強い子に育つように石太郎と名付けたのに、たった96日で
死んでしまうとは。慟哭する一茶であった。
はつ雪や我にとりつく不性神

千太郎が身まかって5日後の16日、一茶は、千曲川沿いの浅野の雪道
で転んで、そのひょうしに、中風にかかって、一時半身不随となった。
4月22日には、こんどは妻が痛風で寝込み、年末には村役人に伝馬
役金免除願いを出し始末。
雪散るやおどけもいへぬ信濃空

文政5年2月(一茶60歳)。小布施の梅松寺からに、手紙を送る。
その頃、菊は4度目の妊娠中で、家を空けたことを一茶は心配していた。
3月10日、三男金三郎生まれる。一茶8月29日善光寺に参詣した折、
転んで足に怪我をする。
おとろえや榾(ほた)折りかねる膝頭




 
拾れぬ栗の見事よ大きさよ



文政6年(一茶61歳)。妻2月19日に発病し、3月になると容態
ますますおかしくなる。動悸や息切れがひどく、肌はかさかさになり、
嘔吐 と下痢を繰り返す。薬草を煎じて飲ますが、さっぱり効き目がない。
4月には、絶食状態に。菊はしきりに赤川の実家に帰りたがった。駕籠
に乗せて帰したが、5月12日ついに亡くなってしまう。37歳だった。
我菊やなりにもふりにもかまわずに

菊が病気のため預けてあった金三郎を呼び寄せると、これまたひどく衰
弱して骨と皮ばかりなっている。乳母に乳がでず、毎日水ばかり飲ませ
ていたという。そして12月21日、栄養失調で母の後を追う。ここで
も一茶は、金三郎を預かった赤川の富右衛門への恨みつらみを綴った
「金三郎を憐れむ」という一文が残している。
悪い夢のみあたりけり鳴く烏

文政7年5月22日(一茶62歳)。関川浄善寺の住職の斡旋で飯山̪士
田中氏の娘ゆき(38歳)と再婚したが、8月3日には離婚。まもなく中
風が再発し、言語不自由になる。
夜の声しんしん耳は蝉の声



 
     大栗は猿の薬禮と見へにけり


度重なる不幸に、よからぬ噂が村に広まり一茶を苦しめた。まるで疫病
神にでも摂り憑かれたように、長男・千太郎、長女・さと、二男・石太
郎、三男・金太郎、妻・菊
が次々と死に、一茶も全身に疥癬(かいせん)
ができ、やがては中風。これは江戸からよからぬ毒を持ってきたのでは
ないかと村人たちは疑った。それでなくとも帰郷以来、鍬も鋤も持たず、
ひたすら弟子たちの間を、ふらふら回って、遊民的徒食生活をしていた
から、村人の評判が悪いこと〳〵
人誹る会が立つなり冬籠り

文政9年8月(一茶64歳)。足や言葉も不自由なので、なんとしても
つれあいが欲しく、知人たちに頼んでおいたら、ようやく宮沢徳左衛門
の世話で越後二股村の宮下所左衛門の娘ヤヲ(32歳)と3度目の結婚す
ることになった。ヤヲは柏原の旅籠屋っで奉公人としいて雇われていた。
燐家の大地主中村徳左衛門の三男倉次郎と恋愛して私生児倉吉を生み、
子連れで嫁に来た。気立てよくヤヲは、一茶のためにせっせと尽くした。
老いらくの星なればこそ妻迎え

文政10年(一茶65歳)6月1日、柏原に大火があり83戸が焼失。
一茶の家も類焼したが、辛うじて裏の畑の土蔵だけが残った。やむな
く一茶は、焼け残りの荒壁の土蔵に住んだ。しばらくは不自由な身な
がら、一茶は、門人たちの家に身をよせたり、湯田中温泉に滞在して
11月8日帰宅。11月19日にふと気分が悪くなって、其日の午後
5時頃に土蔵の中で息をひきとる。
やけ土のほかほかや蚤さわぐ





翌11年4月、一茶未亡人ヤヲに娘やヤタが生まれる。一茶はヤタの
顔をみることは出来なかったが、ヤヲからヤタへ一茶の血は、今現在、
7代目・小林重弥さんに受け継がれている。住いは一茶の里・信濃町
柏原。著名な俳人の血を継ぐ人だから、俳句と何かしらの縁を持って
生きているのではと期待したが、あにはからんや、「俳句は?」の問
いに「俳句には興味がないんです」と返ってきた。「俳句は性に合い
ませんでした。ここで豆腐屋をやったり、勤めに出たりしています」
と、少々残念な返事も、「それもありかも」と笑う
一茶柏原旧宅前には、次の句碑が掲げられている。
門の木も先つつがなし夕涼み

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