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川柳的逍遥 人の世の一家言
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 やれ打つな蠅が手をすり足をする   
 

         扇面自像自画賛 八番日記
 
 

  天井や壁やガラス窓など、どんなツルツルの場所でも、ピタッと止まる
ことが出来る蠅の能力についの講釈は、さておいて、蠅が手や足をこすり
あわせる動作は、おいしい餌を探し、それをおいしく食べるため、人が手
を洗うように、常に清潔を心掛けているのだそうです。
それを一茶は、何かお祈りしている姿と捉えましたが、それがまさに一茶
の世界観だといえます。
蟻の道 雲の峰より つづきけん
 

「小林一茶」 30~44歳


  小林一茶 旅姿



一茶が俳諧師として一目おかれるようになるのは、寛政4年(1792)
30歳のとき関所が通りやすい僧の姿で、江戸を立ち、西国への俳行脚
からである。西国には二六庵竹阿の弟子が多いし、また浄土真宗の信徒
としては、西本願寺にも参詣するつもりで、関西ほか四国、九州の長旅
に出た。夏は京阪で過ごし、秋には四国の観音寺へ。そして故郷の柏原
から江戸に戻ってきた一茶は、今度は春3月出発して寛政10年6月頃、
帰ってきているので6年に及ぶ長旅であった。
夏の夜に風呂敷かぶる旅寝哉

好きで出た旅とはいえ、時には野宿もし、身のまわりのことはすべて自
分で始末しなければならない。
秋の夜や旅の男の針仕事
 
 
 
  一茶の旅のお供の行李

 

寛政5年(31歳)肥後八代で新春を迎え、長崎にも滞在。
君が世や唐人(からびと)も来て冬ごもり

寛政6年(32歳)九州各地をまわり、山口、尾道をまわって四国へ。
蓮の花虱(しらみ)を捨るばかり也

寛政7年(33歳)新年を讃岐観音寺町にて迎える。
3月17日大坂着。5月頃には京都にいた。この年一茶は寛政4年から
の西国俳諧修行の旅の成果を「たびしうゐ](旅拾遺)という本にまとめ
出版する。当時、句集を出版する場合には、句の作者は一句ごとにお金
を支払う、いわば出句料を拠出する習慣があった。つまり「たびしうゐ」
で紹介された句の作者は、応分の出句料を一茶に支払った。西国俳諧修
行中、一茶は、各地の俳人を巡る中で、俳諧の先生として受け入れられ、
報酬を得ながら旅を続けてきたものと考えられる。7月俳人素丸が死去。
10月12日、近江義仲寺の芭蕉忌に列席している。
是からも未だ幾かへりまつの花
 
 



  栗田樗堂
 

寛政8年(34歳)ふたたび四国に渡り、松山で酒造業を営む豪商栗田
樗堂(ちょどう)と歌仙を巻くなどして、ここに長逗留、道後温泉で句
を作っている。
 寝転んで蝶泊まらせる外湯哉

一茶は、当時多くの俳諧師たちが、芭蕉の足跡をたずねる道の奥、東北
から北陸を遊ぶのにあえて四国、西国の旅を選んだだけあって四国では
当代一流の俳諧師たちと句会を通して親交を結んだだけでなく、旅の先
々でも『万葉集』などの古典学習を怠らず、しだいに独自の俳風を確立
していった。
月朧よき門探り当てたるぞ
 
寛政9年(35歳)西国俳諧修行の旅の総決算ともいうべき著作『さら
ば笠』を京の書林勝田吉兵衛から刊行。6月末木曽路を経て故郷の柏原
へ帰る。9月末帰京し『急逓記』を記しはじめる。急逓記とは、一茶の
旅着発の書簡控えである。10月10日立砂と真間手児奈堂に遊ぶ。
夕暮れの頭巾へ拾う紅葉哉




   大田南畝



 
寛政10年(36歳)俳諧、和歌、川柳が最盛期を迎え『俳風柳多留』
『俳風末摘花』がベストセラーに。一茶が生れ育った明和、天明、寛政、
文化、文政の時代は、江戸や上方に様々な「笑文芸」が生れ興った年で、
柄井川柳が川柳を広めたのは、江戸中期明和のころであった。
戯言歌といわれた「狂歌」が流行ったのは天明、烏亭正焉は狂歌師とし
て活躍し、落語も自作自演し落語中興の祖といわれた。南畝京伝らの
「洒落本」が出たのも明和~天明にかけてで、そのあとに引き続き十返
舎一九『東海道中膝栗毛』式亭三馬『浮世床』などの滑稽本も出
ており、こうした文芸の花盛りの時代、一茶もそうした風潮の影響を受
け面白い句を多く作った。
罷り出でたるは此の藪の蟇(ひき)にて候



   
一茶が手にしているものは何       頬杖




 西国への旅には一茶の様々な思いがあった。浄土真宗の盛んな土地に育
った一茶にしたみれば、京の東本願寺参詣は年来の憧れであった。一年
中参詣者は絶えず、門前には多くの宿屋や仏具、法衣を売る店、土産屋
などが立ち並び、典型的な門前町を形づくっている。西本願寺と合わせ
ると、真宗門徒の数は千数百万人といわれている。一茶は、どうしても
一度はこの東本願寺を詣でたかった。また名実ともに二六庵の弟子が多
い西国にきちんと挨拶回りをする必要もあったし、また京阪の談林系の
有力俳諧師と会って見聞を広め、箔をつける必要もあった。
門前や何万石の遠がすみ




  松尾芭蕉



「若いうちに見聞を広める。そりゃいい考えだ。芭蕉だって奥の細道の
旅をしたことによって多くのものを得た。及ばずながら助力しましょう」
簡単に旅といっても、金のいること。貧乏な一茶は、馬橋の大川立砂
流山の秋元双樹に相談をもちかけたに違いない。芭蕉には魚問屋の鯉屋
杉風というパトロンがいたし河東碧梧桐には東本願寺の大谷句仏がいた。
一茶は髪を剃り、僧侶の姿をして江戸を出た。坊さんだと相手も警戒心
を緩め、喜捨にあずかることも多かろう。人との情を容易に得られるた
めの方弁でもあった。
剃捨て花見の真似やひのき笠
 
 

寛政11年(37歳)11年正月、江戸に帰っていた一茶は、浅草八幡
町旅館菊屋儀右衛門方で新春を迎え、3月末には、再び旅に出る、甲斐、
越後への旅のあと、11月2日いつものように馬橋に出かけて立砂と炉
端談話を楽しんだ。
人並にたたみの上で月見哉

その日、立砂も機嫌よく迎えたが、急に気分が悪くなって倒れ、その夜
のうちにあっけなく死んだ。親とも師とも頼む立砂の突然の死に、一茶
はただ茫然とするばかり。「ほんとうに、あなたがくるのを待っていた
ようでしたよ」と、息子の斗囿(とゆう)は何度も言った。
何はともあれ、一茶は6年の旅で立砂が期待していた通り、まさに俳諧
の宗匠としての風格をそなえ、作風も格段の進歩をとげていた。この年
一茶は、正式に二六庵を継いだ。
炉のはたやよべの笑ひが暇ごひ 
  
  
 

  (画像を拡大してご覧ください)
俳諧番付のなかの一茶の位置
① 「俳諧士角力番組」 文政4年(1821)
   下から二段目「差添」右側に一茶の名がみえる。
② 「諸国流行俳諧行脚評定」 文政6年(1823)
   「行事」として左側に一茶がいる。
③ 「正風俳諧師座定配図」 文政5~6年版
   最下段「勧進元」に一茶の名がある。
※こうした番付には、俳諧の世界でもかなり知られた人物が名を連ねる。
その点で一茶は、晩年、俳諧仲間では押しも押されもしない存在だった
ことがわかる。
 
 
 
寛政12年(38歳)2月27日、蔵前の俳人の夏目成美と俳諧。成美
一茶の連句がある。両者の連句の初見である。夏目成美は、大島完来、
鈴木道彦、建部巣兆と共に江戸四大家と称されており、寛政2年頃、成
美の法林庵(随斎)で催される句会に足繁く通ったという。 成美は一茶
より14歳年長だが、少しも偉ぶるところがなく、流派を問わず、つね
に優しい態度で一茶を迎え入れたという。この年、大坂で発行された俳
人番付に「前頭江戸一茶」と載る。葛飾派では一茶一人のみだった。
雉鳴て朝茶ぎらいの長閑也 成美
二葉の菊に露のこぼるゝ  一茶
 

享和元年(39歳)3月信州柏原に帰郷。4月末、一茶と継母と仙六
の対立激しく、父・弥五右衛門は、一茶宛てに財産分割の遺言を書く。
そしてこの年の5月21日父・弥五右衛門は69歳で死ぬ。
一茶15歳の春、江戸へ立つ息子を牟礼宿(むれじゅく)まで送ってく
れた父が「あと2,3年もすれば家督を譲れるのに、年はもいかぬ痩骨
に荒奉公をさせ、つれなき親と思いつらめ」と危惧と悔恨に泣いた父で
あった。一茶の『おらが春』には<鬼ばば山の山おろしに吹折れ〳〵て、
晴ればれしき世界に芽を出す日は一日もなく、暗鬱な日々を送って歳を
とってしまったが、こんな辛い思いをさせたのも、鬼ばばの仕業だと、
生涯継母・さつを恨み続けた>とある。
痩せ蛙まけるな一茶是に有
 
 
 
 
 本所深川の堅川付近
 

享和2年(40歳)大坂の俳人番付にたとえ「前頭江戸一茶」と載った
としても、江戸に帰れば、一茶は依然として信州生まれの田舎俳諧師に
すぎなかった。本所深川の間を流れる堅川付近の借家住いで、そこを拠
点に下総地方の俳諧師たちをまわる暮らしが続いた。ようやく40代に
入るころ、江戸きっての遊俳夏目成美に認められ、彼の句会である随斎
会に参加できるようになり、江戸で著名な一流の俳諧師たちと交われる
ようになった。しかし、一茶にとっての江戸は、安住の地ではなかった。
依然、裏長屋住いであり、貧窮な店借の暮らしには変わりなかった。
秋の風乞食は我を見くらべる

享和3年(41歳)この頃、真言宗勝智院の寺内にある本所五つ目大島
の愛宕社に住む。住職の栄順は俳人。4月になると上旬房総から浦賀へ
の旅。8月7日には、下総布川へ巡回俳諧師の旅を続け、上総、下総を
こまめにまわり、他人の家に泊まることが多かった。女流俳人織本花嬌
のいる木更津へ通うのはこのころからで、木更津船を利用して文化14
年(1817)まで11回行っている。4月半ばから12月半ばまで、
「享和手帖」を書く。11月に流山の双樹と歌仙を行う。
名月や乳房くはへて指さして 花嬌
名月をとってくれろと泣く子かな 一茶

享和4年(42歳)この年の初めから文化5年まで『文化句帖』
2月、流山で『俳諧草稿』をしたためる。3月、享和から文化へ改元。
10月末、本土寺で芭蕉句碑の建立があり列席する。10月愛宕社を
引き払い相生町5丁目に引っ越す。この相生町5丁目の家は間借りでは
なく、小さいながらも一軒家であり、庭には梅や竹が植えられていて、
垣根には季節になると、朝顔が育った。家財道具一式を親交深い流山の
秋元双樹がプレゼントしてくれており、これまでよりも暮しに落ち着き
が出来た一茶のもとには、俳人の来訪者が増えた。
梅が香やどなたが来ても欠茶碗
 
 

   当時の句会場


文化2年(43歳)夏目成美の随斎会で歌仙興行。福引会やら花鑑賞や、
無礼講の酒宴などもあるサロンで、巣兆、蕉雨、道彦、一瓢らは常連。
10月、立砂亡きあとも経済支援を受けている馬橋の大川斗囿を訪れる。
霞む日や夕山かげの飴の笛
 

文化3年(44歳)深川で流山の双樹と歌仙。
この頃、一茶は葛飾派の句会に出席しなくなった。一茶と葛飾派との関
係が徐々に疎遠となっていったのは、一茶にとって葛飾派の作風が物足
りなくなり、また閉鎖的な葛飾派の体制に飽き足らなくなったからでは
ないかと考えられている。
夕月や流れ残りのきりぎりす
 

少し戻る享和元年(1801)3月頃、一茶は故郷柏原に帰省した。一茶が
父の死去の経緯について書いた「父の終焉日記」では、一茶が帰省中の
4月23日、父が農作業中に突然倒れたとしている。父の病状は次第に
重くなり5月20日には危篤状態となった。危篤状態の父の姿を一茶は 、
父の寝ている姿を前に一句詠んだ。
寝すがたの蠅追ふもけふが限りかな
 

父は5月21日の明け方に亡くなった。父の葬儀を終え、初七日に一茶
は継母さき、弟仙六に対して遺産問題について談判した…。
父ありてあけぼの見たし青田原

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反骨に生きるひとすじの夕日  和田洋子


 
                   「鶯やこの声にしてこの山家」


「正岡子規が見つけた小林一茶」
明治時代の俳人・正岡子規が、江戸時代の俳人・小林一茶の俳句を評価
した自筆原稿が長野市の住宅で見つかった。そこには
「一茶の特色は主として滑稽、風刺、慈愛の三点に在り。中にも滑稽は
一茶の独壇に属し、しかも、其の軽妙なること俳句界数百年間わずかに
似たる者をだに見ず」などと評価している。加えて子規は、「一茶の俳
句が勉強になるとしており、注目すべき俳人 の一人」としている。

名水に眠った酒のまろやかさ  徳山みつこ





        一 茶 (月僊画)

「小林一茶」  幼少期~29歳迄



小林一茶は宝暦13年(1763)5月5日、信濃国水内郡柏原の百姓
の長男に生まれた。父の名は弥五兵衛、母の名はくに。本名は弥太郎
暮らしは中の上くらいであったが、もともとが、貧しい村であったから、
「中の上」といっても暮らしは厳しく、夫婦は身を粉にした働くしかな
かった。しかし祖母・かなや母のくには優しく一茶にとっては、幸せな
日々であった。両親と野尻湖へ行ったり、諏訪社の祭礼や菩提寺の明専
寺の縁日に出かけたり…。



                 
振り向くとみんな大きな愛でした  牧渕富喜子       


         

しかし一茶が3才のとき、突如不幸が襲いかかった。生母のくにが急死
したのである。父はあいも変わらず朝早くから畑仕事にでていく。幼い
一茶の養育は祖母・かながあたった。その時の寂しさは、57歳のとき
著した『おらが春』にでてくる。

我と来て遊べや親のない雀 六歳・弥太郎

頑張れの芽がでたバァちゃんの煮豆  菊池 京


「『親のない子はどこでも知れる。爪をくわえて門に立つ』と北飛騨の
民謡に出てくる歌詞である。子どもらに唄わるるも心細く、大かたの人
交わりもせずして、うちの畑に木萱など積みたる片陰にかがまりて長の
日を暮らし、我身ながら哀れなり」
孫の弥太郎を不憫に思った祖母は、孫を懐に抱いて乳をもらい歩き、薬
を乞い、こころから慈しんだとう。一茶が8歳のとき、父・弥五兵衛は、
近くの三木村倉井からさつという27歳の女を後妻に迎えた。なかなか
のしっかり者で、気性も激しく働き者であった。その2年後の安永元年
(1772)5月10日、異母弟の仙六が生まれた。(のちに弥兵衛
一茶が満10歳のときであった。


訳ありの涙に明日を閉ざされる  上田 仁


安永5年(1776)8月14日、一茶14歳の時、可愛がってくれた
祖母・かなが死ぬとさつは一層つらくあたった。
「夜遅くまで子守りをさせられたり、おしめを取りかえたり、あやした
り…泣いたりむずかると叱られ、叩かれ…」、心の休まるところもなく、
同年9月熱病にかかり、一時、命にもかかわる重体に陥る。継母との折
り合いの悪さを懸念した父・弥五兵衛は、一茶を継母・さつから引き離
すことを目的とし、また口減らしもあって、15歳のときに江戸に奉公
に出すことにした。

七並べから始まったいけずの芽  オカダキキ

15歳で江戸に奉公へ出たあと、俳諧師としての記録が現れ始める。
25歳の時まで一茶の音信は、約10年間途絶える。奉公時代の10年
間について、後に一茶は非常に苦しい生活をしていたと回顧している。
その時の切なさを次のようにと詠っている。

椋鳥と人に呼ばるる寒さ哉

 馬橋の大川立砂の子孫の話では、御徒町の油屋に奉公し、のちに大川
家に来て、働きながら俳諧を学び、流山の味醂業の秋元双樹とも知り合
ったともいう。ただ、この頃の一茶のことはよくわからず、井上ひさし、
田辺聖子、藤沢周平らは、小説の中でさまざまな虚構する。
藤沢の小説『一茶』では、初め谷中にある市川という書家の家に奉公し、
その後、神田橘町の米屋に勤めたが、ここも長続きしない。あとは左官
の手伝いをしたりと、転々。そのうちに、「三笠付け」というご法度の
句会で露光という男と知り合う。その場面を抜粋すると。

人に耐え寒風に耐えはした金  新家完司

「これといった仕事もなく、さっきのような危ない場所に首を突っ込ん
で暮らしているのだったら、知り合いにあんたを世話しようかと、ふと
思ったもんでな」
「知り合いって、どういうひとですか」
「馬橋の油屋の大川という家で、そこから人を頼まれていてな」
「馬橋というと下総ですか」
「下総だってあんた松戸の先だからそんな遠い所じゃない。いいところ
ですよ。宿を一歩はずれれば、のんびりした景色で、大川という家は、
そのあたりじゃ聞こえた金持ちでね。旦那が立砂といって俳諧に凝って
います。旦那芸だが、たしかこの春、点者に推されたはずだから、ご本
人もただの道楽とは、思っていないようだ」

保身ならこうだが捨てきれぬ正義  中村幸彦

一茶はこの大川さん下で働き、俳句の薫陶を受け、やがてその才能が多
くの仲間に認められることになったのではないか、と考えられている。
馬橋の俳人・大川立砂の旧宅跡は、JR常盤線馬橋駅に近く、いまは、
松戸信用金庫になっている。史料というものがない一茶に、いい影響を
与えた大川立砂との関係をどのように結びつけるか、一茶を描く作者は
苦心をした。井上ひさし場合も劇作に「賭け初め泣き初め江戸の春」
と自作の句を作って、一茶に賭事から泥棒の真似迄ごとをさせている。
つまりは賭事で、貧しさのあまり一茶はギャンブラーまがいのことまで
したというわけだが、金のない一茶が、金のかかる博奕に走るだろうか。
おそらくNOで、一茶が「三笠付け」をしたという確たる証拠はない。

不機嫌な果実は甘くなる手前  平尾正人


少し脱線すると。
当時の博奕には「三笠附」「富くじ」「采博奕」の三種類ある。
「三笠附」とは、俳諧の選者が冠の5文字を3題出し、それぞれに七五
を付けさせ、3句一組みにして高点を競った。もともとこれは、俳句の
句を合わせて競うものだったが、いつからか、お金が賭けられるように
なり、ついには句はどうでもよくなってしまい、完全に博打となってし
まったものである。
やり方は親が上中下段に数字を並べ、各段のどれかを選んで〇をつけて
封じて置いて、その数字をあてる数字合わせの博打である。
「采博奕(さいばくち)」は、サイコロの1~6の出る目に賭ける樗浦
(ちょぼいち)と丁半博奕がある。これについては説明不要だろう。
よく知られる「富くじ」もれっきとした博奕のひとつだ。


その先は曲がっています水平線  河村啓子


上でも少し触れたが、大川立砂の直系の子孫は、明治時代に絶え、その
分家筋の女性大川八重子さんから聞いた大川家代々の言い伝えによると、
「大川立砂が上野広小路の油問屋に出入りしていた頃、一茶はそこの小
僧をしており世話を頼まれて馬橋へ連れて来たということになっている。
それは天明3年の浅間山大噴火の頃である。この噴火で、多数の死者を
出し、降灰は関東一帯をおおい、大飢饉となり江戸は深刻な不況に見舞
われた。一茶は21歳、立砂50歳の時だった。親子ほど歳が離れてい
たから、立砂はなにくれとなく一茶の面倒を見、かわいがり、小遣いも
与えた。肉親の温かみに飢えていた一茶にとっては、まさに慈悲のよう
な存在であった」後年、一人前の俳諧師となった一茶は、師の立砂と連
れ立って、真間の手児奈(てこな)の社へ行ってこんな句を詠んでいる。

夕暮の頭巾へ拾ふ紅葉哉       立砂
紅葉ゝや爺はへし折子はひろふ      一茶

ダンベルを持ち上げている福寿草  徳山泰子



 小林一茶・肖像(村松春甫画)


真間の手児奈堂は安産や子育ての神として知られ、万葉集にも出てくる
名勝である。従来の定説では、一茶は葛飾派の元夢について俳諧を学び、
同門に油屋平右衛門(栢日庵立砂)がいたということになっているが…。
 それからしばらくして一茶は東葛地方(松戸・流山・柏)にしきりに
脚を運ぶようになる。江戸川を上り下りする六斎船をよく利用した。
それは一茶の俳諧仲間であり、同時に頼りになる後援者がいたからであ
った。馬橋の俳人・大川立砂の邸宅で暮らしたり、流山の俳人・秋元双
の豪邸に厄介になったりしている。

暑き夜の荷と荷の間に寝たりけり  一茶


そっとそっと目薬さして小休止  山本昌乃


「一茶の名称」
ともかく天明7年(1787)25歳の時、立砂の後援で一茶は、江戸
の東部や房総方面に基盤があった葛飾派の俳諧師として、記録に現れる
ようになる。雅号は己橋・菊明・亜堂・蘇生坊・俳諧寺入道などを使い
分けた 。己橋を使ったのは、葛飾派の俳人・二六庵竹阿の門人になって
からで、翌年出た竹阿の句文集『白砂人集』には己橋の名で書き写した。
その翌寛政元年、秋田県の象潟を旅したが、その頃、宿泊先の揮毫で
「東都菊明」と署名している。
同時に「一茶」の雅号を使い始めたのは、このあたりからだといわれる。

春立や弥太郎改一茶坊


神さまがやっと私を見てくれた  原用洋志


(拡大してご覧ください)
句・小林一茶 書・夏目漱石 画・小川芋銭
「やせがえる」 

『寛政三年帰郷日記』がある、そこには、
「西にうろたへ東にさすらひ、一所不在の狂人有。且(あした)には、
上総に喰ひ、夕には武蔵に宿りて、白波のよるべをしらず、立つ淡
(あわ)の消えやすき物から一茶といふ」とある。

痩蛙まけるな一茶是にあり


じっと待つ明日がピークのメロンです  山本早苗


「28歳・29歳」
寛政2年3月13日、一茶28歳の時。二六庵竹阿が死ぬ。
4月7日、葛飾派の溝口素丸に入門し執筆役を務める。
執筆とは、俳諧の席で句を懐紙に記して進行を図る役。竹阿の師である
葛飾派・其日庵二世長谷川馬光の句碑が鋸山に建立されたとき、竹阿の
かわりに参列、その時、冨津大乗寺の徳阿から織本花嬌を紹介される。
夫は酒造業で儒家・俳人。この頃、江戸の夏目成美と知り合う。夏目は
元夢立砂と知り合いであった。
寛政3年3月26日、一茶29歳、江戸を立ち、馬橋の立砂・月船など
をまわって、4月18日郷里柏原に着く。14年ぶりの帰郷であった。

古郷やよるも障るも茨の花

おもいでの山で背伸びしてごらん  立蔵信子

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坊さんが音痴で成仏せぬお経  上田 仁




祐天和尚・累ケ淵怪談(北斎画)

「北斎百物語」 夏はやっぱり怪談話


「百物語」とは、百の物語を画題として、幽霊・妖怪を描いた化物絵。
当初は百の化物絵として、北斎に依頼したものと思われるが、
今日確認されるものは、下記の5図のみである。







「お岩さん」
「東海道四谷怪談」お岩さん。夫・伊右衛門に惨殺されたため、幽霊
となって復讐を果たすという怪談の定番である。歌舞伎などの舞台では、
恐怖感を煽るため、お岩さんの美しい顔の半分は、毒によって爛れ、目
は腫れ上がり、髪は乱れ、恨めし気な表情で闇に浮かぶが、北斎の描く
お岩さんは、目はたれ目に大きく開き、後頭部の髪が提灯というユーモ
ラスな絵にしている。


ウイッグを捨て駆け出してゆく夕日  河村啓子







「皿屋敷」
番町皿屋敷お菊の幽霊である。ある大名の腰元・お菊は、家宝の皿を
割ったために手討ちにされ、古井戸に投げ込まれる。実は濡れ衣だった。
怨念を抱いたお菊の霊が古井戸から出てきて、夜な夜な皿を1枚2枚…
と陰に籠った声で数えるという話である。北斎が描くと、幽霊のお菊は、
胴体は蛇でろころ首に仕立て、皿が巻き付いている。お菊の横顔は怨念
など認められず、口元の煙は、溜息を吸い込んでいるようである。


人の世はモヤモヤモヤの繰り返し  喜田准一







「笑ひはんにや」
般若とは「嫉妬や恨みの篭る女の顔」とある。女の怨霊である。子ども
の生首を手づかみし、般若顔の女が食べている。血がべっとりついた口
元、何が可笑しくて笑っているのか。人間の子どもをさらっては食べる
鬼子母神の姿と重なる。鬼子母神は後に改心して善神になるが、この鬼
女はまだまだ改心しそうもない。鼻の穴を大きく開き、口は子どもの顔
を一飲み出来るほど大きい。左の人差指は子どもを指さし「これはうま
いぞ」
と言っているようだ。子供の顔が蒼ざめている。


生きているものはいつでも湿ってる  居谷真理子







「小はだ小平二」
小平治は江戸の歌舞伎役者である。ようやく小平次が得たのは、顔が幽
霊に似ているとの理由で幽霊役だった。彼はこれを役者人生最後の機会
と思い、死人の顔を研究して役作りに努めた。苦労の甲斐あって小平次
のつとめる幽霊は評判を呼び、ほかの役はともかくも幽霊だけはうまい
ということで、「幽霊小平次」と渾名され人気も出はじめた。そんな小
平治を尻目に女房は、鼓打ちの安達左九郎と密通していた。二人
には小平治が邪魔になり、旅興行先で左九郎は、「釣りでもどうか」
小平治を誘い安積沼へ行くと、そこで沼に突き落とし殺してしまう。
絵は藻の茂る沼の通路から死んだはずの小平治が顔をだすという、実際
にあった恐い恐いお話し。


悔しさをこんなに溜めてゴミ袋  美馬りゅうこ







「しうねん」
戒名の「茂問爺無嘘信士」。茂問爺は後の画号・百々爺のもじり。北斎
のウイットである。ところどころに隠し絵を散りばめて、戒名の上の梵
字は女の横顔のようだ。また、は北斎が信仰する妙見の印であり、こ
れも北斎の晩年の画号でもある。水の溢れた卍の茶碗にひらりと一枚の
葉っぱ。これは自身の命を表現したものだろうか。白い画紙と北斎大好
物の甘いお菓子が三方に載り、それを大蛇が取り巻いて、生きている自
分を弔っているのだ。「しうねん」とは何に対しての「執念」なのか、
その結論は、自分の長寿へのしうねんなのかもしれない。




マフラーのように大蛇を巻きつける  青砥たかこ





新板浮絵 化物屋敷百物語


『百物語』とは明和~安永、天明、寛政、文化、文政まで流行した「会
談会」のことで、人々が集まり、次々と怪談話をする灯明や蝋燭を百本
灯して、一つの話が終わるたびに一つずつ消していく、最後の一つを消
した途端、あたりが真っ暗になって、何かが起こるという趣向である。


煩悩を捨てると柿は甘くなる  笠嶋恵美子


天明6年(1786)~寛政元年(1789)北斎が勝川春朗を名乗っ
ていた頃、西村永寿堂から大判錦絵「新版浮絵 化物屋敷百物語」を刊
行していた。これはちょうど最後の話が終わり、蝋燭が吹き消された時、
話に登場した化物や妖怪たちがどっと現われ、居合わせた人々がこれに
びっくりして逃げ惑う場面を描いている。
銅版画風透視法を意識した奥行きのある屋敷や邸内を背景に、一つ目小
僧やろくろ首の化物も登場している。女の化物の長い髪の毛やろくろ首
の鱗の鋭い細線が異様で、気味悪さが満ちている。


見たくないでも見たくなる蛇の穴  藤井寿代


北斎、歌舞伎役者と大喧嘩 「葛飾北斎伝ゟ」
文化7年(1810)頃、俳優・尾上梅幸の技芸世に名高し。最も幽霊
に扮するに巧にして、殊に賞せらる。梅幸かつて北斎を招き、「幽霊を
かしめ、その図果たして真に迫らば、これにならい、扮装をなし、愈
々、
其の芸を巧みにせんとす」。北斎来たらず。梅幸一日輿(駕籠)に
のり、北斎の家を訪う。其の家もとより貧しければ、茶、煙草盆の設け
もなく、室内荒れはてゝ、かつて掃除せしことなければ、不潔いはんか
たなし、梅幸このありさまに驚き、再び戸外に出でて輿丁(駕籠かき)
を呼び、輿中の毛氈を出だし、これを室内に敷かしめ、さて室に入りて
座し、一礼を述べんとせしが…、

沈黙がカリフラワーになっている 岩田多佳子


北斎、其の挙動の不敬に亘れるを憤り、机によりて顧みず、梅幸もまた
憤然、一語を交えずして立ちさりたり。北斎意をまげ、世に媚びること
なき此のごとし。されど平常は、謙遜辞譲(譲り合う心)にして、門に
は、百姓八右衛門と書きたる名刺を貼り、室には、おじぎ無用、みやげ
無用の壁書をかかぐ。
 尾上梅幸=文化文政から幕末にかけて活躍した名優・三世・尾上菊
五郎が文化中期のころにこの芸名を用いた。容姿がよく、どんな役をも
こなし、特に怪談もの早変わりものに長じた。


低気圧テトラポットに八つ当たり  中川喜代子


清水氏の話
後に梅幸不敬の罪を謝す。夫(それ)より相交わること甚だ深し。かつ
て梅幸が一世一代の演劇、『東海道四谷怪談』を演ぜし時、北斎の来り
て一覧せんを請う。頃しも夏時北斎夜々其の用いるところの蚊帳を売り、
金二朱を得て、これを懐にし、劇場に赴き、一覧の後、かの二朱を紙に
包み、梅幸に与え、本所石原の家に帰りたり。そもそも本所の地は、卑
湿にして、蚊多し、夏夜蚊帳の設けなければ、寝ること能わず。北斎蚊
帳を売りて後、夜々蚊に刺さるれども、晏然(あんぜん=落ち着いている
様)筆を採りて業をなすこと、平常の如し。友人某これをこれを聞き、
蚊帳を購いて、与えたり。


匕首の流儀は俺様の流儀  居谷真理子




 
法懸松成田利剣(鶴屋南北)


『東海道四谷怪談』
「仕掛け物」についての鶴屋南北の考案もまた非凡で、文政8年(18
25)に書き下ろした『東海道四谷怪談』では、蛇山の庵室に提灯から
お岩の幽霊が抜け出てくる工夫や、敵役がお岩に襟をつかまれて仏壇の
中に消えるという工夫を見せたばかりでなく、穏亡堀(おんぼうぼり)
では、一枚の戸板の裏表に打ちつけられたお岩と小仏小平の幽霊を早替
わりで見せ、さらに水門から、もう一役、佐藤与茂七の美男の姿で現れ
るという、鮮やかな演出を創造した。


薬師如来の駆け出しそうな裾捌き  岩根彰子





謎帯一寸徳兵衛(鶴屋南北)


尾上菊五郎は、この芝居がよほど得意だったとみえ、翌年、大坂の角の
芝居に『いろは仮名四谷怪談』という外題で、上方向きに直した脚本で
上演、江戸に帰るや、次の年の中村座で再演している。以後、江戸で五
回演じた。エピソードがある。「伊右衛門が団十郎、お岩と小平と与茂
七が菊五郎で、団・菊の顔合わせだったが、庵室の場で、伊右衛門に赤
ん坊と見えて、仕掛けで石地蔵に変る小道具を手渡し、「イヒヒヒ」と
笑うとき、あまり怖いので、団十郎が毎日顔をそむけた。菊五郎は《じ
っとこっちを見てくれなくちゃ、情が移らねえじゃないか》と言ったの
だが、どうしても正視ができなかった」
という。


そこにいるあなたの声が聞こえない  河村啓子





尾上菊五郎のお岩

また三演のときは、伊右衛門を二代目関三十郎が演じたが、庵室のお岩
の恐ろしさに、とうとう開演中、病気になったともいわれ、秋山長兵衛
に扮した坂東善次「とても目をあいてみていられなかった」と、述懐
している。『四谷怪談』はいまでも上演の時に、出演俳優が、四谷左門
町のお岩稲荷に参詣するのが例で、それを怠ると、「病人がでる」とい
われる。戦後三越劇場で中村もしほ(後の17代勘三郎)が四谷怪談を
上演した時、劇場の入口に祀られていたお岩の祭壇を拝まずに出入りし
ていた。宅悦の役の中村七三郎がまもなく死んだりして、芝居の世界の
人々を震えあがらせたという話もある。


終章は三原色で描くつもり  瀬戸れい子

拍手[3回]

僥倖はドラを積って幕が開け  村田 博





          歌川国芳 「猫」

奔りまくっているネズミなども気に止めず、将棋に熱中する猫

「空前の将棋ブーム」



知っているようで正確な意味を知らない熟語があります。
「空前」「空前絶後」です。辞書を引いてみると、
「空前」とは、今までに一度もなかったこと。
「空前絶後」とは、奇跡のように稀なこと、とありります。
この「空前の将棋ブーム」が続いている。ブームの火付け役は、14歳
2カ月でプロ入りを決め、「史上最年少棋士記録」(29連勝)を62
年ぶりに更新した藤井聡太天才棋士である。
王位戦や棋聖戦では「天才棋士、藤井聡太七段の今日の勝負メシは何か」
と将棋とは離れたところでも、将棋が盛り上がっている。将棋をすると
「記憶力がよくなる」といい、老若男女、将棋を始める人が増えた。

素のままの君に引かれる物理学  宮井いずみ

「神武以来の天才」といわれた加藤一二三さんこと「ひふみん」との戦、
両棋士の年齢差62歳6か月も話題となり、それまで、ひふみんが持っ
ていた62年のプロ入り「最年少記録」を更新した。
さらにデビュー以来負けなしで「公式戦の連勝記録を塗り替え」、藤井
聡太が五段の時に、中村太地王座が「前にすると緊張する」といわせた
羽生善治永世七冠に非公式戦とはいえ、いつもの1局といった感じで、
さらりと勝ってしまった。

蟻んこがライオンの背に咬みついた  合田瑠美子

そしてこの7月16日の第91期・棋聖戦五番勝負では、令和最強とも
いわれた三冠・渡辺明棋聖を1勝3敗で敗ってしまった。
「史上最年少17歳11カ月でのタイトル獲得」である。まさに「空前
絶後」
である。つまり長い歴史の間に幾人かの天才が現れ、盤上、盤外
で鮮烈な印象を残すとともに、数々の大記録が打ち立てられた。それで
も、めったなことでは「史上空前」ということは起こりえない。

蹴とばしたつもりの石に蹴つまづき  宮原せつ




(各画像は拡大してご覧ください)
江戸時代の浮世絵「碁将棋双六遊び」 (鳥居清満)
将棋ブームの中で将棋をする女性

「羽生さんや谷川さんら多くの棋士が、藤井聡太を絶賛している」


「スターが出れば業界は盛り上がり、周囲にいい影響を与えてくれる。
それがスーパースターならば、その業界にとどまらず、世の中をも動か
していく。藤井さんはそういう存在になりつつある」

「相手のエネルギーを、自分の力に変えていると思う。そうでなければ、
これほど指数関数的な成長の説明がつかない」

神様が描いた葉っぱが虫になる  谷口東風

「積んでいるエンジンが違う。こっちがとぼとぼ歩いている間に一瞬で
抜き去られたような感じ。スピードがすごかった」
「序盤巧者、中盤の急成長、終盤の切れ味、一気の攻めに丁寧な受け…。
自在で弱点が見当たらない」谷川九段

「序盤の研究、分析の深さを感じた」
「中盤で丁寧に読む姿勢はデビュー当時から変わらない強さ」
「終盤の切れ味の鋭さが光る将棋が多い」羽生善治九段

溜息からできる私の湿地帯  柳田かおる

「プレッシャー、感じてないんじゃないか。というか、もうすでに藤井
くんがプレッシャーをかける側になっているのでは?」

「藤井さんの将棋には、常に序盤で新しい工夫がある。普通の棋士なら
1回や2回で弾切れになるところを、次々と撃ち続けているのが、彼の
すごさ。研究量と発想力の両方が備わっている」

ポジティブな包装紙から出す明日  斉藤和子

「形勢が良くなっても、とにかく勝ちを急がない丁寧さがある」
「中盤の混沌とした局面において、本質や急所をできるだけ短い時間で、
直観的に見極める力が非常に高い」

明日こそ意地がこぼれる独り言  津田照子

「高野六段が語るAI越え」
藤井棋聖が桂取りに金を上がる新手を放ち、悪形とされる「玉飛接近」
の陣形から攻撃を仕掛けた。高野六段には「将棋を始めたばかりの子が
やりそうな手」
とすら映った。が、実は計算ずくの研究手順だった。
中盤では一転、攻めに使うと思われた銀を、守備駒として、自陣に打ち
つけた。多くの棋士の意表を突いたこの手は、最新AIが6億手を読み、
ようやく最善と判断した「AI超え」の妙手として話題になった。

A I は水など飲まぬとも生きる  上島幸雀




 
  関根金次郎と坂田三吉
吹けばとぶような将棋の駒に賭けた命を笑わば笑え

「高野六段が語る羽生9段との観戦記」
「終盤の仕留め方も鮮烈だった。
まるで作ったかのように、痺れる手筋が次々と飛び出した。真剣勝負で
、しかも最強の棋士を相手に、あんな将棋は見たことがない」

奇跡ってこんな喉ごし薄荷水  斉藤和子

「藤井強しというのを知らしめましたね。
藤井さんにしてみれば、普通に指して、普通に勝った。
一番すごいことをやってのけましたよ」
「いくら藤井さんでも、何年かに1回の出来であってほしい。
これが標準だとしたら、勝てる棋士がいないだろう」

皆逃げてだあれも居なくなりました  雨森茂樹

「凄いい人が出てきたなという感じです」
渡辺前棋聖を唸らせた今回の棋聖戦の藤井七段の「58手目3一銀」
は、将棋ソフトに4億手読ませた段階では、5番手にも挙がりませんが、
6億手読ませると、突如最善手として現れる手だったようです。
最強ソフトが6億手読んで初めて最善手と分かる──そんな手を藤井七段
は、わずか23分の考慮時間で指していた。

頬寄せてきたのは枯れてゆく向日葵  みぎわはな

  
   現存する最古の将棋駒



奈良興福寺で11世紀末(平安時代)の将棋の駒「酔象」(すいぞう)
など4点が見つかった。現在の将棋では使われない「酔象」の駒として
は最古。過去の出土例を、約250年さかのぼる。

酔象の長さ2・5センチ、幅1・5センチ。表に酔象と墨書されていた。
ほか2点は表に「桂馬」「歩兵」と書かれ、残り1点は文字が確認でき
ず種類は不明という。




   シャンチー


「将棋の歴史」
「シャンチー」(中国)や「チャンギ」(朝鮮)を伝言ゲームすると
「ショウギ」と聴こえくる。すなわち「将棋」は中国ー朝鮮を経て日本
にやってきた。平成26年に発見された最古の将棋駒「酔象」でもわか
るように、平安時代ころから将棋は主に公家や僧侶の趣味として広まり、
やがて数え切れないほど多くの人々が、この「面白いゲーム」に親しみ、
遊んできた。9×9のマス目の将棋盤の上では、40枚の駒によって、
万華鏡のように数え切れないほどの局面が生じた。盤上も盤外も、つね
に新しい何かが起こる。それが将棋というものである。


瓢箪を出れば我がもの顔の駒  岸田万彩

平安時代に始ったされる将棋も、戦国時代になると、武将にとって戦い
の疑似体験の場であると同時に、静かな空間で精神を研ぎ澄ます修養の
場ともなった。「戦略の重要性、大局的なものの見方、的確な判断力、
精神の集中力」など、厳しい時代を生きる力を養うものと考えられたの
である。とりわけ豊臣秀吉は家臣に将棋・囲碁の戦略性を学ばせるため、
当代一の棋士・本因坊算砂に講義をさせたりしたという。
織田信長も算砂に学び、「本能寺の変」の前夜に算砂を召し出していた
といわれる。算砂は将棋・囲碁ともに優れており、徳川家康庇護のもと、
江戸に「碁所」「将棋所」を創設した。
これが今日に続く将棋・囲碁の基盤になったともいわれている。

巻尺に無かった明日という単位  くんじろう

さて、自陣最前列に並ぶ将棋の駒には、当時の珍品・宝物の名前が付け
られている。金、銀、馬、香(香木)という具合に。
ならば「王」「玉」の方がふさわしいのではないか、となった。
ところが
「〈玉〉では不満じゃ〈王〉にせよ」と難題をふっかけた人がいた。
無理難題をふっかけたのは、豊臣秀吉である。
これを解決したのが、秀吉のお側に仕える知恵者であった。

頭突きでよければ助太刀をいたす  酒井かがり 




「王将」「玉将」には、実質的には違いはないが、「天に二日なく、
地に二王なし」
との言葉に基づき「王将」は1枚とし、上位者(後手ま
たは上手)が「王将」を使い、下位者(先手または下手)が「玉将」
使うようにした。そのため、渡辺棋聖と藤井聡太七段が対局した場合、
「王将」は渡辺棋聖が使い「玉将」は藤井七段となる。
(竜王戦、王座戦、名人戦、棋聖戦など、タイトル戦では、タイトル保
持者が「王将」挑戦者が「玉将」となる)
藤井棋聖は今後上座に座ることになる。ああ尻が痒い。



       
分かった振りするしかない地動説  三宅保州



 
「歩」は大抵、最前線で真先に敵陣に突っ込み戦死する。しかし、まん
まと敵陣に入り込むと、その功績で格が上がり「歩」は「と」になる。
怪しいものだが「と」「金」の崩し文字らしい。
説によると、将棋の駒を作っていた職人が、「歩兵」の駒すべて(18
枚)に「金」という字を彫るのが面倒くさく嫌がったからという。
説まで、まことにあやしい。
「飛車」は、縦横直線に動き爆撃機のようなもの。成る(敵陣に入る)と
「龍」になる。龍に成ると、斜めにも一コマづつ動かせる。
「角行」は、略して「角」といい、成ると、「龍馬」になる。
角は駒として、目くらまし的存在で、斜めに進むから飛車よりも、効果的
トマホークというところだろうか。成ると縦横に一コマづつ動かせる。

雑巾をしぼると引き算ができぬ  靏田寿子







「羽生善治が語る将棋&名言」
対局について、棋士は勝負の時、1つの手を1秒とか数秒で検討する。
そして1つの変化に対して、1000手くらいを数十分から1時間以上
かけて集中して考える。名人戦ともなれば、こうした集中を朝9時から
夜9時まで、丸二日間続けるわけだから、並大抵の集中力ではない。
対局が終わると体重が3キロ落ちているという。

頬から髭へ亡命先を書き換える  村山浩吉

集中力について、羽生さんは車を運転しない。運転をしないのは、免許
がないからでも、車が嫌いだからでもなく、羽生さんの頭の中にある将
棋盤がいったん動きだすと止まらなくなる。あまりにも集中しすぎて、
運転するのが危ないからだそうだ。頭の中で将棋の「シミュレーション」
が始ると、運転をしていることを忘れてしまうから運転はやりません。

黙り込む眉間のあたりから悟る  山本昌乃

感想戦について、大抵の将棋士は、対局後、もう一回最初から最後まで
再現することが出来る。それを「感想戦」という。名人戦などの対局で
は、丸二日間ずっと将棋を指す。朝から夜まで、将棋のことを考え続け
ている。一手指すごとに、「この手はやってはいけない」とか、「この
手は可能性がない」とか、本当は瞬時にたくさんのことを考えている。
その一手一手が脳にインプットされるのです。

この俺をじっと見ている俺がいる  五十嵐定幸

対局中の気持について、勝負には、澄み切った気持ちで始まりますが、
対局が進むと、「喜怒哀楽」が出てきます。
それらを盤上で、有利に生かせるようコントロールしています。
将棋をやると、人の気持ちが分かるようになります。

与謝野晶子的になっている時間  田口和代

一手について、その一手を決断するときに、一番必要なのは、他人の
せいにしないで、自分で結果を受けとめるという覚悟です。
決断した結果が自分に回ってくるという体験を、将棋で重ねることで、
「決断力」が磨かれていきます。

煩悩を捨てると柿は甘くなる  笠嶋恵美子


記憶力について記憶したことを忘れないようにするには、何回も繰り返
すこと。そして深く理解すること。理解すると、絶対忘れません。
やれば誰にでもできます。

正念場脳の湿気を取り除く  上田 仁 

拍手[6回]

お祈りをしてから鮎の骨を抜く  笠嶋恵美子



  「富嶽三十六景三十六景」 江都駿河町三井見世略図


この絵は、富士山が作り出す三角の相似関係が狙いのように見えるが、
本当の葛飾北斎の狙いは、別のところにある。
歌川広重「自分の絵は見たままの景色を写しているのに対し、北斎の
絵は、構成の面白さに主眼を置いている」と言っているように、ここは
「越後屋」という有名な呉服商がある場所で、風景画の題材として、し
ばしば選ばれる。が、普通の浮世絵師ならば往来の雑踏や、ずらりと並
ぶ呉服商の暖簾を必ず˥描こうとする。下の広重の「名所江戸百景」と比
較しても判るように、北斎は一階部分をばっさりカットして、あえて二
階部分をクローズアップしている。
土産物の絵葉書のような役割を持つべき浮世絵として、あり得ない構図
を選択している。これが北斎の北斎たる奇想なところでだろう。
「山を見るためにまん中あけておき」


「無いものを見せて嗅がせる六代目  きゅういち




       呉服物品 越後

北斎の絵の下にちょこっと見えるのは越後屋の看板。
越後屋が信奉する「三囲」(みめぐり)をもじったものでしょう。
「三囲の雨以降傘を貸しはじめ」 宝井其角
「一に富士二には三井をほめて行き」
越後屋では、俄雨の時に店のマーク入りの傘を無料で貸し出す商法で
江戸っ子たちに喜ばれた。


頑固親爺が着るバリバリの浴衣  岸井ふさゑ


「川柳で詠む江戸の町」 呉服店・越後屋


 (拡大してご覧ください)
名所江戸百景「駿河町」(廣重)


江戸の町人地の中心となった日本橋は、南北の町屋から、江戸城と霊峰
富士が望めるように、道路向きが縄張りされている。駿河町の通りから
南西方向の正面に駿河の富士が望めることで、「駿河町」と名付けた。
「駿河町畳の上への人通り」
「本店と出店の間に不二が見へ」
「木戸をしめると越後屋のにわになり」
雨が降るとさすがに富士山は見えないようで…
「するがからするがが見えるいい日より」
「くもってる時にはゑちご丁(町)になり」
「するが丁ほうらい山もよそならず」


利き足に小春日和を巻いておく  みつ木もも花




「越後屋・歴史」
今から三百年ほど前、伊勢は松坂の町に「越後屋の酒屋」という評判の
高い酒屋があった。以前は武士であった主人の三井越後守高俊は夫人の
内助を得て営業も繁盛し、町の人々の尊敬を受けていた。これが越後屋
の歴史の出発点である。そして高俊の子の三井高利が星雲の志を抱いて
江戸へ出、本町一丁目に「越後屋」という呉服商を開いた。
延宝元年(1673)のことである。
高利は今までの呉服屋が売掛金を七月、十二月の二季に集金するために
資金繰りに不便を感じているのを改め、店頭の「現金売り」をして資金
の廻転をはかり、更に「現金掛値なし」という定価販売を決行し、それ
までの顧客の顔色を見て値をつける悪習慣を打破したり、又は、顧客が
必要とする寸法の布地が自由に買える「切り売り制度を敢行した。
「越後屋に長い返事もきれい也」
「したてまで一夜に出来る駿河町」
「あいさつもけんぶのようなごふく店」
長い返事は「あ~い」 けんぶは絹裂く音。


しりとりのうまい男と銀河まで  森田律子




(拡大してご覧ください)
掛け値なしに賑わう越前屋


『先祖は寛永の頃、勢州松坂より江戸へ奉公に出で…中略…大店三ヵ所
ありて、千余人の手代を使い、一日に金二千両の商いあれば、祝をする
と云う。二千両の金は米五千俵の価なり、五千俵の米は五千人の百姓が
一ヶ年苦しみて納めるところなり。五千人が一ヶ年苦しみて納むべきも
のを、畳の上に居て楽々と一日に取ることなり。又地面より取り上ぐる
所が二万両に及ぶという。是五万石の大名の所務なり。十月蛭子講の祝
に用ゆる酒五十樽、吸物にする鴨の代百両以上なりと云う。是を持って
大造を知るべし』(文化13年(1821)『世事見聞録』ゟ)
(因みに宝永4年~天保14年迄の越後屋の最高売り上げは、享保3年
の26万両とある)「三越『花ごろも』ゟ」
「夢に見てさえよい所へごふく店」
「壱丁は井桁に三がひらひらし」
「五十里も先を手に取る呉服店」
越後屋の紋は「井桁に三」 駿河の国は「五十里先にあり」


あの辻で出会ってからの半世紀  吉川幸子




(拡大してご覧ください)
三井陳列場側面来客出口の光景


「越後屋にきぬさく音や衣更 其角」
越後屋の前を通ると其角の耳にも、布を切っている音が聞こえてきたよ
うだ。その革新的な販売方法と顧客に奉仕する精神で江戸へ出て5年目
で本町に2店目を開き、両店とも大繁盛をした。が、同業者から蛇蝎の
如く嫌われ、その迫害と江戸の大火を機に天和3年(1683)駿河町
に移転した。
「駿河町呉服より外用はなし」
「するが屋とかえてやり度き呉服店」
「うざついたあきんどのないふじのすそ」
うざついたは「うじゃうじゃ居る」「ありきたりの」


流しそうめんの速度が気に入らぬ  大野佐代子  





 (拡大してご覧ください)
  三井開店の図


「ひじがよく見へると元和見世を出し」
<ひじ><ふじ>の間違いだろう。天和2年12月28日駒込大円寺
から出火した大火災に本町店焼失、翌年、駿河町に新築されたので句と
上の絵の<元和><天和>も字が似ていて間違いか。
とりもなおさず「越後屋」の成功を横目に、通一丁目の「白木屋」や本
町四丁目の「伊豆蔵屋」など、当時の多くの呉服屋が越後屋を理想とし、
同じ経営手法を選んだことはいうまでもない。
「白木屋」の句
「根のつよい見せと大ぜい水をくみ」
「白木屋で娘八丈買うている」
「しんだいをひろげた親と鑓の手じゃ」
「伊豆蔵」の句
「伊豆蔵が店に非番の氷室守」
氷献上(6月1日)で名高い。




鼻母音でおのおの方と言いなさい  くんじろう



 扶桑名処名物集

絵の右側、木綿店の前の町方番所。俗に「番太郎」といわれ、
越前者が多く勤めていたので、越後屋に対して「越前屋」と洒落た。
「越後屋の前にちっさな越前屋」


ところで、「越後屋」の江戸進出に先立つこと67年前の慶長11年
(1606)伊勢出身の木綿商が大伝馬町へ多数出店した。いわゆる
「伊勢商人」たちの江戸進出だ。日本橋に出店した呉服屋を見ると、
「越後屋」を筆頭に、元禄時代の四大呉服店と呼ばれた「伊豆蔵屋」
「大黒屋」「家城太郎次郎」
は、みな「伊勢商人」だった。もちろん、
日本橋で活躍したのは「伊勢商人」だけではない。近江国から商圏を
広げていった「近江商人」も、日本橋で多く活躍した人々だった。
「日本橋西川」「白木屋」「高島屋」といった老舗・大店は近江国に
ルーツをもつ企業だ。されど越後屋は№1。
「越後屋の庭を大名通るなり」
「ごふくやの門から曲がるお江戸入り」
「いつくらも見せてごふくやほしがらせ」


荒海を描けば故郷の風の音  相田みちる




( 拡大してご覧ください)
  越後屋本店内




呉服物を買うためでなく普通に駿河町を通り抜けようとする人々に対し
ても、丁稚、小僧が「(御用)は何でござります〳〵」と用向きを聞く。
それがなみ一通りのやかましさではない。
「あいそふすぎて一町のやかましさ」
「うろつけばなぜ〳〵といふごふく店」
「うっかりとのぞかれもせぬ呉服店」
「壱丁を通り抜けるとしづかなり」


大きな呉服店には<茶番>という湯茶接待係が居て、
その接待用の湯茶は買い物の決まった客にのみ出した。
もっとも店に入る客は大体買い物をしたと思われる。
「呉服見世大和茶ほどにたぎらかせ」
「何かくゝんではん取よ茶番よび」
「ひれふして仕廻うと茶番〳〵也」
くゝんでは「咥えて」 はん取は「金銭や品物の受渡役番頭」


捕まえた陽射しと午後のお茶にする  吉川幸子




(拡大してご覧ください)
  越後屋本通り


千客万来する客も、多種多様で品物を買いに来る客以外に、
土産話に見物していく人もあった。
「するが町めしを三石一斗たき」
一人一食一合五勺として約2千人、ちょっと大袈裟なきらいも。
これだけ忙しい呉服店、どのように飯にありついたのか…?
拍子木を打ってめし時をしらせたという。
「ひやうし木で人をおろぬくごふく店」
「いつめしを喰うやらしれぬごふく店」
「若衆一群越後屋の飯」
髪を結うところも店内にあった。
「髪結いのようなのもいるごふく店」
「剃りたての浅黄に揃うごふく店」
「げんぷくを一チ時にするごふく店」


ヒトの手はつなぐかたちにつくられた  渋谷さくら




(拡大してご覧ください)
 呉服屋の風景


番頭たちは暖簾分けの関係上、相当な年齢になってもお嫁さんがもらえ
ないという「呉服店残酷物語」があった。
「ごふく店天命しつて女房もち」
「ばけそうな花むこの出るするが丁」
「番頭のまつご子のあることをいい」


大福をいくつ食べても来ない福  銭谷まさひろ


また番頭となると休日も増え、給料も高くなり、懐も豊かなので、深川
遊里へよい客として出かけていたことが句でわかる。
「旦那白川番頭は夜ぶねなり」
「さよふけてから番頭はまかりこし」
「かね四ツにするが町までこぎつける」
とはいえ公休日にも責任上、四ツ(午後10時)の門限は守らなければ
ならなかった。


若いわたし想い出の中だけに棲む  岡本なぎさ


今と変わらずこの時代にも万引きはいた。
やはり万引きは店の悩みの種であったようで、中二階の踊り場のような
ところから見張りをつけていた。
「ごふく店上に目の有る処なり」
「ごふくやの目明し二かい住居なり」
「呉服屋でぶちのめされる万左衛門」


言い訳をするたび鱗はがれだす  山本早苗





   伝馬町大丸


貸傘は頭にも書いたが、越後屋以外にも尾張町の各呉服屋も降雨の際に
広告を兼ねて貸傘の倣いがあった。
「するが町江戸一番の傘や」
「ごふくやのはんじょうを知るにわか雨」
「ごふくやの傘内心はかえさぬ気」
「ゑちごやを又かしにするにわか雨」
「するが丁とあるのが私の傘」
「夕立のあす指を折るごふく店」
呉服店の宣伝広告は、貸傘の他に引き札配ったり、神社仏閣のお手洗い
の手拭に自家の名を染めたものを奉納したりして行った。
「江戸中の家数を知る呉服店」
「まくら紙江戸中くばるごふく店」
「引き札にふじをえがかぬ斗りなり」


中七に八分休符が利いている  井丸昌紀




扨て、三井家の先祖は深く「三囲稲荷(みめぐりいなり)」を信心し、
その利益により、家運益々繁盛し、終には、江戸一番ではない日本一
の呉服店に成った。ということで今日に至るまで深く渇仰(かつごう)
し、同社のために資材を惜しまず後援した。
「一めぐり半も三井で持って居る」
「越後屋のいなりを其角しゃくるなり」
「ない雨のさいかくをした名句なり」
時に元禄6年6月28日、其角33歳の時、次のように詠った。
うだちや を三囲りの みならば」
「三めぐりの雨は豊の折句なり」とある通り、
其角の句は、ゆたか(五穀豊穣)の「三字の折句」になっている。


真夜中の雷お忘れものですか  都倉求芽          



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  絵本艶庭訓

新築の棟上げ祝いに当時は餅を蒔いた。 


   

やがて越後屋を立ち上げた三井高利の優れた経営センスに、幕府も一目
置いた。貞享4年(1687)高利は親戚でもある三代本因坊・道悦
通じて、将軍綱吉の側用人・牧野成貞の知遇を得て、六大店の呉服商で
独占されていた「幕府御用達」となる。天和3年(1683)この幕府
御用により、駿河町に「両替屋」を出店すると、高利は幕府の勘定方に
「千両箱を馬の背にのせての輸送は、盗賊の襲撃の警護など、負担が大
きく危険です」
と、越後家の為替決済網の利用を勧めた。その後幕府は、
元禄4年(1691)に12の両替商を「御為替」に指定し「株仲間」
が形成された。三井家は、この「両替商」でも、江戸、京都、大阪の三
都に決済網を持ち巨利を得た。
「すさまじく呉をとりさばく越の見世」
「越後の謙信掛値なしの軍」
「三百里もちをふらせる始皇てい」
呉は呉服 越は越後屋。中国の呉越に掛けた。
二句目は、越後の謙信と越後屋の戦いぶり。
三百里は万里の長城。そこに餅を降らせる。などと大きく出たものだ。


ここ一番山を動かす低姿勢  後洋一



(拡大してご覧ください)
「絵本庭訓往来」北斎画 




ここから越後屋を離れて他の呉服店へ。
「ゑびす屋・布袋屋・亀屋」
「尾張町二丁目西側北門より南中程過ぎるまでは、亀屋七左衛門、夷屋
八郎左衛門といえる呉服商人の家只二軒なりしを…亀屋も今は、跡形も
なくなりて夷屋のみ残れり」「『神代余波』斉藤彦麿」
「賑やかさ亀の左右に福の神」
「十月(蛭子=恵比寿屋)の隣へ布袋見世を出し」
「大黒でありそうな見世布袋なり」
「宝船ごふくや二軒乗って居る」
「尾張町福井町ともいいつべし」
ゑびす、ほてい、亀、皆縁起のよい名。浅草には福井町もあると作句者。
これらの呉服店の貸傘の句。
「恵比寿屋へ大黒傘を客へ貸し」
「大黒をかすゑびすやの俄雨」
「尾張町われ劣らじと傘を貸し」
「七福の中三人はごふく店」
「駿河尾張は人を濡らさない国」
大黒傘といのは、番傘の粗末なもので傘の端に大黒天の印が押してあった。
「大丸」
「大丸や傾城どもが夢の跡」
「どちらから見ても四角な大丸屋」
「大丸の向こう一万三千里」
「伊豆蔵」
「伊豆蔵が店に非番の氷室寺」


沢庵も人のうわさもまだ噛める  美馬りゅうこ




ゑびすやは元禄13年とある



「松坂屋」
越後屋・白木屋などは会社のPRを兼ねて、創業から今の隆盛に至る
まで社史が編纂刊行されている。しかし、この松坂屋は明和・安永期
以降の江戸の呉服店として、越後屋・大丸に次いでの名店舗であった
にもかかわらず、江戸愛好家以外に殆ど知られていない。社史による
と明和5年(1768)4月、 江戸進出。上野広小路の「松坂屋」
買収し、同店を「いとう松坂屋」と社史にあるが、『川柳江戸砂子』
には、開店の時代を「甚だ憶測ながら安永頃に開店したことと思う」
とあるのみ。その基点をみてみると、
「この頃迄呉服店は…中略…<新橋まつ坂や見世開き>のおひろめを、
勘三郎芝居において、『木場の親玉という団十郎かげ清の狂言時、春
芝居に広めしなり』」という箇所があるが、これだけ。
「芝口の松のうしろに二葉町」
「目黒から引っきりもなくすすめこみ」
「法眼の筆万木にすぐれたり」
尾張町『増補浮世絵類考』に「呉服屋の仕入物などに画名見ゆ」とあ
り、二代目・柳文朝が尾張町にあった呉服太物店の布袋屋や、芝口の
呉服店・松坂屋の景色を描いている。


結論はいつも諭吉が引き受ける  ふじのひろし

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