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川柳的逍遥 人の世の一家言
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反骨に生きるひとすじの夕日  和田洋子


 
                   「鶯やこの声にしてこの山家」


「正岡子規が見つけた小林一茶」
明治時代の俳人・正岡子規が、江戸時代の俳人・小林一茶の俳句を評価
した自筆原稿が長野市の住宅で見つかった。そこには
「一茶の特色は主として滑稽、風刺、慈愛の三点に在り。中にも滑稽は
一茶の独壇に属し、しかも、其の軽妙なること俳句界数百年間わずかに
似たる者をだに見ず」などと評価している。加えて子規は、「一茶の俳
句が勉強になるとしており、注目すべき俳人 の一人」としている。

名水に眠った酒のまろやかさ  徳山みつこ





        一 茶 (月僊画)

「小林一茶」  幼少期~29歳迄



小林一茶は宝暦13年(1763)5月5日、信濃国水内郡柏原の百姓
の長男に生まれた。父の名は弥五兵衛、母の名はくに。本名は弥太郎
暮らしは中の上くらいであったが、もともとが、貧しい村であったから、
「中の上」といっても暮らしは厳しく、夫婦は身を粉にした働くしかな
かった。しかし祖母・かなや母のくには優しく一茶にとっては、幸せな
日々であった。両親と野尻湖へ行ったり、諏訪社の祭礼や菩提寺の明専
寺の縁日に出かけたり…。



                 
振り向くとみんな大きな愛でした  牧渕富喜子       


         

しかし一茶が3才のとき、突如不幸が襲いかかった。生母のくにが急死
したのである。父はあいも変わらず朝早くから畑仕事にでていく。幼い
一茶の養育は祖母・かながあたった。その時の寂しさは、57歳のとき
著した『おらが春』にでてくる。

我と来て遊べや親のない雀 六歳・弥太郎

頑張れの芽がでたバァちゃんの煮豆  菊池 京


「『親のない子はどこでも知れる。爪をくわえて門に立つ』と北飛騨の
民謡に出てくる歌詞である。子どもらに唄わるるも心細く、大かたの人
交わりもせずして、うちの畑に木萱など積みたる片陰にかがまりて長の
日を暮らし、我身ながら哀れなり」
孫の弥太郎を不憫に思った祖母は、孫を懐に抱いて乳をもらい歩き、薬
を乞い、こころから慈しんだとう。一茶が8歳のとき、父・弥五兵衛は、
近くの三木村倉井からさつという27歳の女を後妻に迎えた。なかなか
のしっかり者で、気性も激しく働き者であった。その2年後の安永元年
(1772)5月10日、異母弟の仙六が生まれた。(のちに弥兵衛
一茶が満10歳のときであった。


訳ありの涙に明日を閉ざされる  上田 仁


安永5年(1776)8月14日、一茶14歳の時、可愛がってくれた
祖母・かなが死ぬとさつは一層つらくあたった。
「夜遅くまで子守りをさせられたり、おしめを取りかえたり、あやした
り…泣いたりむずかると叱られ、叩かれ…」、心の休まるところもなく、
同年9月熱病にかかり、一時、命にもかかわる重体に陥る。継母との折
り合いの悪さを懸念した父・弥五兵衛は、一茶を継母・さつから引き離
すことを目的とし、また口減らしもあって、15歳のときに江戸に奉公
に出すことにした。

七並べから始まったいけずの芽  オカダキキ

15歳で江戸に奉公へ出たあと、俳諧師としての記録が現れ始める。
25歳の時まで一茶の音信は、約10年間途絶える。奉公時代の10年
間について、後に一茶は非常に苦しい生活をしていたと回顧している。
その時の切なさを次のようにと詠っている。

椋鳥と人に呼ばるる寒さ哉

 馬橋の大川立砂の子孫の話では、御徒町の油屋に奉公し、のちに大川
家に来て、働きながら俳諧を学び、流山の味醂業の秋元双樹とも知り合
ったともいう。ただ、この頃の一茶のことはよくわからず、井上ひさし、
田辺聖子、藤沢周平らは、小説の中でさまざまな虚構する。
藤沢の小説『一茶』では、初め谷中にある市川という書家の家に奉公し、
その後、神田橘町の米屋に勤めたが、ここも長続きしない。あとは左官
の手伝いをしたりと、転々。そのうちに、「三笠付け」というご法度の
句会で露光という男と知り合う。その場面を抜粋すると。

人に耐え寒風に耐えはした金  新家完司

「これといった仕事もなく、さっきのような危ない場所に首を突っ込ん
で暮らしているのだったら、知り合いにあんたを世話しようかと、ふと
思ったもんでな」
「知り合いって、どういうひとですか」
「馬橋の油屋の大川という家で、そこから人を頼まれていてな」
「馬橋というと下総ですか」
「下総だってあんた松戸の先だからそんな遠い所じゃない。いいところ
ですよ。宿を一歩はずれれば、のんびりした景色で、大川という家は、
そのあたりじゃ聞こえた金持ちでね。旦那が立砂といって俳諧に凝って
います。旦那芸だが、たしかこの春、点者に推されたはずだから、ご本
人もただの道楽とは、思っていないようだ」

保身ならこうだが捨てきれぬ正義  中村幸彦

一茶はこの大川さん下で働き、俳句の薫陶を受け、やがてその才能が多
くの仲間に認められることになったのではないか、と考えられている。
馬橋の俳人・大川立砂の旧宅跡は、JR常盤線馬橋駅に近く、いまは、
松戸信用金庫になっている。史料というものがない一茶に、いい影響を
与えた大川立砂との関係をどのように結びつけるか、一茶を描く作者は
苦心をした。井上ひさし場合も劇作に「賭け初め泣き初め江戸の春」
と自作の句を作って、一茶に賭事から泥棒の真似迄ごとをさせている。
つまりは賭事で、貧しさのあまり一茶はギャンブラーまがいのことまで
したというわけだが、金のない一茶が、金のかかる博奕に走るだろうか。
おそらくNOで、一茶が「三笠付け」をしたという確たる証拠はない。

不機嫌な果実は甘くなる手前  平尾正人


少し脱線すると。
当時の博奕には「三笠附」「富くじ」「采博奕」の三種類ある。
「三笠附」とは、俳諧の選者が冠の5文字を3題出し、それぞれに七五
を付けさせ、3句一組みにして高点を競った。もともとこれは、俳句の
句を合わせて競うものだったが、いつからか、お金が賭けられるように
なり、ついには句はどうでもよくなってしまい、完全に博打となってし
まったものである。
やり方は親が上中下段に数字を並べ、各段のどれかを選んで〇をつけて
封じて置いて、その数字をあてる数字合わせの博打である。
「采博奕(さいばくち)」は、サイコロの1~6の出る目に賭ける樗浦
(ちょぼいち)と丁半博奕がある。これについては説明不要だろう。
よく知られる「富くじ」もれっきとした博奕のひとつだ。


その先は曲がっています水平線  河村啓子


上でも少し触れたが、大川立砂の直系の子孫は、明治時代に絶え、その
分家筋の女性大川八重子さんから聞いた大川家代々の言い伝えによると、
「大川立砂が上野広小路の油問屋に出入りしていた頃、一茶はそこの小
僧をしており世話を頼まれて馬橋へ連れて来たということになっている。
それは天明3年の浅間山大噴火の頃である。この噴火で、多数の死者を
出し、降灰は関東一帯をおおい、大飢饉となり江戸は深刻な不況に見舞
われた。一茶は21歳、立砂50歳の時だった。親子ほど歳が離れてい
たから、立砂はなにくれとなく一茶の面倒を見、かわいがり、小遣いも
与えた。肉親の温かみに飢えていた一茶にとっては、まさに慈悲のよう
な存在であった」後年、一人前の俳諧師となった一茶は、師の立砂と連
れ立って、真間の手児奈(てこな)の社へ行ってこんな句を詠んでいる。

夕暮の頭巾へ拾ふ紅葉哉       立砂
紅葉ゝや爺はへし折子はひろふ      一茶

ダンベルを持ち上げている福寿草  徳山泰子



 小林一茶・肖像(村松春甫画)


真間の手児奈堂は安産や子育ての神として知られ、万葉集にも出てくる
名勝である。従来の定説では、一茶は葛飾派の元夢について俳諧を学び、
同門に油屋平右衛門(栢日庵立砂)がいたということになっているが…。
 それからしばらくして一茶は東葛地方(松戸・流山・柏)にしきりに
脚を運ぶようになる。江戸川を上り下りする六斎船をよく利用した。
それは一茶の俳諧仲間であり、同時に頼りになる後援者がいたからであ
った。馬橋の俳人・大川立砂の邸宅で暮らしたり、流山の俳人・秋元双
の豪邸に厄介になったりしている。

暑き夜の荷と荷の間に寝たりけり  一茶


そっとそっと目薬さして小休止  山本昌乃


「一茶の名称」
ともかく天明7年(1787)25歳の時、立砂の後援で一茶は、江戸
の東部や房総方面に基盤があった葛飾派の俳諧師として、記録に現れる
ようになる。雅号は己橋・菊明・亜堂・蘇生坊・俳諧寺入道などを使い
分けた 。己橋を使ったのは、葛飾派の俳人・二六庵竹阿の門人になって
からで、翌年出た竹阿の句文集『白砂人集』には己橋の名で書き写した。
その翌寛政元年、秋田県の象潟を旅したが、その頃、宿泊先の揮毫で
「東都菊明」と署名している。
同時に「一茶」の雅号を使い始めたのは、このあたりからだといわれる。

春立や弥太郎改一茶坊


神さまがやっと私を見てくれた  原用洋志


(拡大してご覧ください)
句・小林一茶 書・夏目漱石 画・小川芋銭
「やせがえる」 

『寛政三年帰郷日記』がある、そこには、
「西にうろたへ東にさすらひ、一所不在の狂人有。且(あした)には、
上総に喰ひ、夕には武蔵に宿りて、白波のよるべをしらず、立つ淡
(あわ)の消えやすき物から一茶といふ」とある。

痩蛙まけるな一茶是にあり


じっと待つ明日がピークのメロンです  山本早苗


「28歳・29歳」
寛政2年3月13日、一茶28歳の時。二六庵竹阿が死ぬ。
4月7日、葛飾派の溝口素丸に入門し執筆役を務める。
執筆とは、俳諧の席で句を懐紙に記して進行を図る役。竹阿の師である
葛飾派・其日庵二世長谷川馬光の句碑が鋸山に建立されたとき、竹阿の
かわりに参列、その時、冨津大乗寺の徳阿から織本花嬌を紹介される。
夫は酒造業で儒家・俳人。この頃、江戸の夏目成美と知り合う。夏目は
元夢立砂と知り合いであった。
寛政3年3月26日、一茶29歳、江戸を立ち、馬橋の立砂・月船など
をまわって、4月18日郷里柏原に着く。14年ぶりの帰郷であった。

古郷やよるも障るも茨の花

おもいでの山で背伸びしてごらん  立蔵信子

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