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川柳的逍遥 人の世の一家言
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隠すものはないこれがわたくしです  市井美春




「謎かけ戯画‐鰻」


        『朝日奈三郎平ノ義秀』(勝川春朗)
  鰻とかけて 儘ならぬ恋路ととく………… 
                     さかれてのちに身をこがす


 

れんこんの穴を覗いた楽屋落ち  山本早苗


「北斎の真骨頂」極力年譜に沿って


 
 (各画像を拡大してご覧ください)
「江都両国橋夕凉花火の図」(春朗) 1779~1794 (19歳)



北斎は19歳の頃、役者絵の名手・勝川春章に入門し、20歳で春朗
号し「役者絵」を描き始める。この頃の北斎の画業で特筆すべきは「浮
絵」
を描いていることだ。浮絵とは、浮世絵の様式の一つ。西洋の「透
視画法」
を応用したもので、建物などが手前に浮き出るように見えるこ
とから名づけられた。北斎は春朗の時期に11点の浮絵を手掛けている。

モナリザに描き足してみる笑い皴  前川 真

(画像をクリックすると拡大されます)
  「駿州江尻」 1830-32 (70~72歳)



零点透視図法は、遠くのものほど小さく描くだけで遠近感を与えられる
「遠近法」である。これの特徴は、一点透視図法のような奥行を表現す
る直線がないということである。上の図を見ると、手前の山が富士山よ
りも大きかったり、奥に行くほど人が小さく描かれたりしている。が、
直線はほぼ描かれていない。

そない言うても下が透けてるかずら橋  宮井いずみ


「四代目半四郎(かくし)」 1779  (20歳) 



20歳のとき、春朗(北斎)の名で、役者絵デビューした作品。
北斎といえばユーモアと奇想天外が個性。この頃はまだ、北斎らしいところ
は影もみせていない。

鬼灯を鳴らして肩で風きって   森田律子

 
「夏の朝」 1801~1807   (41-47歳)



北斎は青年期から壮年期にかけて、数多くの「美人画」を描いている。
宗理と名乗った30代後半、瓜実顔に富士額、ほっそりスタイルの「宗
理型美人」を確立した。
水盤には金魚が泳ぎ、手前の鏡の蓋には、茶碗が置かれ金魚が浮かぶ、
その横に歯磨き粉と爪楊枝、釣り衣桁に掛けられた着物は、男物である。
そこに誰がいるのか、謎を含んだ絵の仕立てになっている。

待つことに慣れた女の膝がしら  杉浦多津子


  「酔余美人図」



40代後半に描いた作品。対角線を描くようにして三味線箱にもたれ、
酔いを覚ましている芸者の姿態はこのうえなく艶めかしい。
多くの絵師は、総じて自分の得意なジャンルに特化して画業を極めて
いる。若冲なら花鳥画、歌麿なら美人画というように。北斎は「何で
もござれ」の天才絵師なのである。

サプリより酒に機嫌の良い身体  清水久美子


  くだんうしがふち 1804~09 1(43-49歳)



木版画西洋画に挑戦する。9段坂の牛が淵を描いた風景版画。
キャンバス左上に「くだんうしがふち」という、欧文の筆記体のような
文字、周囲には額縁のような縁取りと、洋風表現が強調されている。
北斎の油絵画風の木版画の中で、特に傑作として評判が高い作品である。

浮世絵の中に流れるフランス国歌  蟹口和枝


「転ぶ駕籠かき」 (1804~18) (43-57歳)



ここではコントの世界へ、駕籠が大きく傾き、中の客が空に足を突き出
しながら、落っこちそうになっている。一方、2人の駕籠かきは動じず
呑気な表情。「点のような目鼻、細長い手足の人物たちを面白おかしく
描いたこの戯画スタイル」「鳥羽絵」と呼ぶ。

アドリブを拾って歩く散歩道  みつ木もも花

    
鳥羽絵集会 「お稽古」  「身づくろい」



「鳥羽絵は」江戸時代初期から中期の京都で生まれたとされ、享保20
年(1720)に大坂で出版された大岡春朴の『鳥羽絵三国志』竹原春
潮斎『鳥羽絵欠留』(とばえあくびどめ)が大流行し、全国各地に広
まった。そこに描かれる人物は、「目が小さく、鼻が低く、口が大きく、
極端に手足が細長いという
特徴を持ち、その名は国宝「鳥獣人物戯画」
の筆者と伝えられてきた鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)に由
来するものとされる。 江戸でも名だたる浮世絵師が描いており、読本
挿絵に没頭していた40~50代頃の北斎もそのうちの一人。どれも北
斎らしい軽妙さとユーモアのセンスがキラリと光っている。

思いきり顔を拭いたらずんべらぼん  木本朱夏

    
 「文字絵」(小野小町)1810頃 (50歳)




「おのの小丁」の五文字え輪郭や衣紋が表されているが、これが巧妙で
意外と解読が難しい。「遊び絵」であるが、歌人たちの優美さもちゃん
と描かれている。北斎の六歌仙シリーズは、平安初期の優れた歌人たち
を文字絵で表したもの。「文字絵」は江戸時代に流行し、隠された文字
を解読して楽しむ遊び絵。仮名や漢字を組み合わせた歌仙たちの名前で
肖像を描いている。北斎も楽しみ、ほくそ笑んで描いていただろう。

藤色の基礎体温が高くなる  吉松澄子

   
 在原業平 




北斎による文字絵で、平安時代の和歌の名人である六歌仙の在原業平
歌仙シリーズの一枚。歌仙の名前の文字を、衣文線に用いた文字絵を、
北斎ならではの構成力で巧みに文字を組み込み、典雅な歌仙絵の世界
を見事に描き出している。「在原業平」は、「在ハラのなり平」の文
字で構成され、「在」の草書体が前身頃に、「ハら」は向かって左側
の袖、「の」は右側の脚「な」は右側の肩「り平」は、後ろに引いた
裾(きょ)で表現している。

クレヨンを掴めば壁は子の宇宙  山田こいし





「寄せる波と引く波」



北斎漫画二編「寄せる波と引く波」において北斎は、波の動きに合わせ
てその形を描き分けようとしている。(おそらく)実際に浜辺に立って、
長いこと海を見つめ、丹念に写生したのだろう。
風や滝、富士山など、とことんまで拘りぬいたモチーフは、数多くある。

空は画布ファンタジックな絵を描く  八木侑子


  「琉球八景」 1818  (58歳)



前回は壮観の「東海道名所一覧」を出したが、今回は「琉球八景」。
享和3年(1803)、北斎のライバル絵師とされる鍬形蕙斎(くわが
たけいさい)の鳥瞰図が大ヒットし、数年後に北斎もそれを参考にして
鳥瞰図に取り組んだ。鍬形蕙斎から「よく人の真似をする」されたほど、
実は北斎には、他の絵師の作品に影響を受けて?描いたものが多々ある。
彫師は北斎お気に入りの凄腕職人、江川仙太郎(留吉)が務めた。「こ
のやろう」といいながら性格的にも留吉と北斎とは気があったのだろう。

俯瞰でみたらなんか淋しい馬と鹿  酒井かがり


    「驟雨」 1824-1826    (64歳)



署名はないが「北斎画」といわれている。オランダ製の紙に描かれて、
光が木々の合間に立つ人物を照らし出しているところなど、まるでスト
ロボがあたっているかのよう。意識的に自分でいままでのスタイルを変
えて、常にあたらしいものに挑戦する北斎を見る。応為も手伝っている。

雨の日に雨をなじっちゃいけません  清水すみれ


「富嶽三十六景江戸日本橋」 1831   (71歳)



歌川広重「自分の絵は見たままの景色を写しているのに対し、北斎の
絵は構成の面白さに主眼をおいている」というように北斎「定番を嫌
った
」。「富嶽三十六景江戸日本橋」図を見ても、透視図法に目を奪わ
れてしまうが、日本橋というのに橋は描いていないし、日本橋を象徴す
る往来の賑わいも、あえて手前に描き、人々の頭しか見せず「これが日
本橋でござい」というのである。これが北斎なのだー。

反則のような笑顔で攻めてくる  平井美智子


「富嶽三十六景 甲州三坂水面」 1831  (71歳)



これ絵も掲載は二度目である。北斎のユーモアと言うべきか、面白いと
ころは「平気で嘘をつく」ことである。上の絵は夏の富士山さんなのに、
水面に映る富士は雪を被った冬の富士である。
「諸国滝巡り 和州吉野義経馬洗滝」にしても、歴史の記録を探しても、
見てきたように描いているが、吉野にこのような名称の滝はない。面白
がっているとしか思えない。平気で嘘をついているのである。

キャンパスの海で一日中遊ぶ  柴田比呂志


  「百物語」 1831  (71歳ー)



北斎が描く「百物語」は歌舞伎の演目が多い。その代表的なのが「お岩
さん」
一般的には、お岩さんの顔は、目がつぶれて額まで大きく腫れあ
がっている。ところが、北斎の描くお岩さんは小顔で大きく目を見開い
ている。お岩が提灯に乗り移り、提灯の破れた部分を口にして、情けな
い顔で「助けてー」とか何かを叫んでいるようだ。恐ろしいというより
滑稽で慰めてやりたくなる。「うらめしやー」がセリフなのに。

おんばさらうんうんうんと・・・  山口ろっぱ

          
 「北斎が描いた描いた[日新除魔」」 1843~44    (83-84歳) 



83歳を迎えた天保13年(1842)から1年程の間、北斎「日新
除魔」と称して唐獅子や獅子舞の絵を毎日描いた。朝起きて、ササッと
一枚描いては丸めて家の外に捨て、応為や弟子たちが拾い集めたという。
獅子頭をかぶった人物が片足で立ちながら、御幣(ごへい)を振り回し
て生き生きと舞っている。見るからにサラッと素早く描かれたことが分
るが、その熟達した筆致と躍動感はさすがの一語につきる。
日によって表情や動き、手に持つものが異なり、毎日の北斎の心境も表
れているようで、見ていて飽きない。当時、放蕩の孫にほとほと困り果
てていたことから、その魔除けとして描かれたのではという説もある。

呪いは効いたでせうか柘榴の木  内田真理子


「八十三歳自画像」1843     (83歳)



北斎が83歳、ちょうど「日新除魔」を描いていた頃の自画像である。
これも二度目の登場で注文作などではなく、41,2歳頃の作品への質
問に対する返信状に描かれたもの。右には直筆で「みしゆく(未熟)の
業 御容捨之上 御一笑」とあり、当時の自分を「未熟」と評している。
北斎は『富嶽百景』初篇の跋文でも70歳以前に描いた作品は取るに足
りないと書いており、80歳でますます上達し、さらに百何十歳にもな
れば、ようやく一点一格が生きているように描けるだろうと信じていた。
北斎の自画像はいくつか残されているが、この図は北斎晩年の風貌をよ
く伝えている。常に貧乏で、身なりに全く気を遣わなかったと有名だが、
質素な着物の描写からその生活ぶりがうかがえる。

ええかっこしいが出てくる副作用  きゅういち


「雪中虎図」
 1849 (90歳)



雪の中を満足気な表情を浮かべながら駆け上がっていく一匹の虎。
北斎は、この肉筆画を描いた僅か3か月後、90歳で亡くなる。

葬儀までデザインをして逝きはった  前中一晃

拍手[3回]

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ゼロという数字がとても嬉しい日  真鍋心平太





    英名二十八衆句  「犯罪」

「必殺仕事人」 2020





あの世の地獄と この世の地獄 どちらも地獄にかわりなし
 おやおや どっかで誰かが泣いてるかい
そうかいそうかい そういうあんたにゃ他人事か
 云わぬが花とは申されど ひとこと云わせていただきます
あんたが見るか おいらが見るか 誰かが地獄を見なけりゃ 
 終われねえ 善男善女にゃ 無縁の話で御座います
      晴らせぬ恨み 晴らしますー
          (渡辺小五郎編)

一かけ 二かけ 三かけて 仕掛けて殺して日が暮れて
 橋の欄干腰下ろし 遥か向こうを眺むれば
この世は辛いことばかり 片手に線香 花を持ち
 おっさん おっさん どこ行くの
あたしは必殺仕事人 中村主水と申します
それで今日は、どこのどいつを殺ってくれとおっしゃるんで?
           (中村主水編)







金は天下の回り物 ところがどっこい近頃は
  天下が金の回し者 金さえありゃとは申しませんが
    情がありゃとも申せません
  綺麗事ばかりじゃとどのつまりの堂々巡り
     どうやらどの世に生まれても
「こいつだけは許せねえ」 てな輩がおりますもので。

ナレーションはいつもの市原悦子さん。いいですね 悦子さん。

現代版では、仕置人・キラが語る
「不完全な法律で裁きを受けない人間を自らの手で葬り去らなければ、
世界は変わらない。」というのがあります。


湿り気を帯びたことばで刺を抜く  笠嶋恵美子

日本橋の船入場は「八丁堀」と呼ばれる。その八丁堀に「与力・同心」
の組屋敷が並ぶ官舎があったことから、与力と同心は『八丁堀の旦那』
と呼ばれた。いずれも、町奉行が警察署長としての職務を執行する際に
働く事件捜査、犯人逮捕の実働部隊である。同心はたいてい与力に附属
し、その取締は歳番与力(増村倫太郎[ 生瀬勝久]で、その分掌の中で
業務を勤める。同心部屋の机で帳面を前に事件の記録、経緯などを記述
しているのが「例繰方同心」で最前線に出るのが「三廻り同心」である。
その「三廻り同心」の一つが、中村主水(藤田まこと)渡辺小五郎
(東山紀之)が演じる「定町廻同心」である。

遠景に赤い地球が見える窓  蟹口和枝




               
           光琳亀甲鶴                                      丸に唐花

江戸の町を巡回している南北あわせて20人の「定廻り廻り」と「臨時廻
り」
は、独特の格好をしている。「御成先着流し御免」といって、将軍の
御成先でも着流しを許されている。武士なら必ず身に付けなければならな
い袴をはかない。着物の柄は派手な格子か縞。身幅は裾が割れやすいよう
に女幅。その上に竜紋裏三ツ紋付の黒羽織(例えば、渡辺小五郎[光琳亀
甲鶴]
中村主水[丸に唐花])を羽織る。その端を巻羽織といって裾を
内側にまくりあげて博多帯に挟み、茶羽織のように短く着る。髷は八丁堀
風に決め、足元は雪駄履きだ。江戸八百八町の人たちに一目でそうと分か
ってもらうためのユニフォームだった。

豆腐屋のとても豆腐屋らしい顔  くんじろう




 
着流し姿の小五郎


その定町廻同心は、どんな役目を負っているいるのか。法令の施行を視
察し、非違を監査し、犯罪の捜査、逮捕をする役で、現在のパトロール
警官である。当時はどんな事件があったか、通り魔、詐欺・横領・偽造
・放火・強盗・窃盗・喧嘩・傷害・殺人・質入れ、故買時の盗品の不正
取扱い博奕、高利貸し、かたり、強請、追放者のお構い地立ち入り・交
通事故・あおりなど雑多である。

男一匹かけ声だけで終わりそう  久保田千代

しかしながら定員は一町奉行所にわずかに6名である。南、北町奉行所
で12名。臨時廻同心も同数であるから合わせて24名、これで江戸府
内を巡回して、100万都市江戸の治安に勤めたのであるから驚異的で
ある。この12名がそれぞれの受持区域をもって常時廻っているが、つ
い手が足りないから「岡ッ引・下ッ引」が動員されるようになる。

黄昏ないようにと鎌を研ぐ  藤井寿代

同心が自分の身銭で雇う町人の情報屋を「岡っ引き」という。岡っ引き
「御用聞き」といわれる。江戸以外では「目明し」関西では「手下」。
小者が同心屋敷で生活している下男とすれば、 岡っ引きは、同心に個人
的に仕えるだけで、保証らしいものはない。同心の下には、岡っ引きが、
2、3人付いているが、その岡っ引きの下にはまた4,5人の手先が付
いている。岡っ引きも一人前になると、一人で5,6人くらいの手先を
使っていた。張り込みや連絡が必要な時に、 緊急で招集をかけるときの
手数である。それらを「下っ引き」といった。

叫んだら有給休暇もらえるよ  中山奈々

自腹で使う岡っ引きの金は、どのように工面したのか、定町廻同心には
特典がある。町の店の主人は、自分の処へ来てくれる八丁堀の旦那に対
して接待をするから、食事はおろか、酒も飲み放題になる。担当地区の
大家から付け届けなどもあり、年収を数倍も上回る収入があった。これ
は収賄になるがお上からは、お目こぼしの範疇にある。岡っ引きたちの
金はほとんどその中からまかなった。そして渡辺小五郎が同心部屋で昼
行燈を演じていられるのも、実際には、現場で、総勢18人ほどの岡っ
引き、下引きが動いて事件を持ってくる。あとは同心が現場か番屋へ出
向くだけでよかった。

結び目をほどくとそうか そうなんだ  山本昌乃

「必殺仕事人」 2020-すじがき







江戸のこの時代にも、令和の現代と何も変わらぬ事件が頻繁に起こる。
振り込め詐欺、半グレ集団、引きこもり、強請、殺しなど…。
江戸の町で、子を装って親を欺いて金を奪う「親だまし」の詐欺が頻発
する。同心の渡辺小五郎(東山紀之)が勤める本町奉行所には、名裁き
で名高い湯川伊周(市村正親)が町奉行としてやってきた。 新しい与力
として田上誠蔵(杉本哲太)も就任、詐欺の取り締まりに本腰を入れる。
そんななか、小五郎はひょんなことから助けてやった幼い娘・つゆ(古
川凉)
になつかれてしまう。親戚に預けられて厄介者扱いされていると
いう境遇を知ったふく(中越典子)てん(キムラ緑子)は、つゆを家
に置こうと言い出す。

カーテンの隙間に善人のぽかん  森田律子





一方、経師屋の涼次(松岡昌宏)は、博打で儲けた金で祝い酒を飲もう
と訪れた水茶屋でたけ(森川葵)という気立ての良い女と出会う。水茶
屋の仕事でお金を貯め、今は別れて暮らす娘と居酒屋を開くのが夢だと
いう。 リュウ(知念侑李)はといえば、庭師として、働く毎日を送り、
たまたま新与力・田上の家にも出入りしていた。家に引きこもっていた
息子・田上新之丞(杉野遥亮)と親しくなったリュウは、一緒に外の空
気を吸いに出かけることに。街中で出会ったのが「新生塾」を主宰する
熱き教育者・溝端九右衛門(駿河太郎)だった。悩める若者たちに生き
る道を説く彼の熱弁にすっかり心酔した新之丞は、入塾を決意するが、
父の誠蔵には反対されてしまう。

岩間のすみれ 生きるということ  徳山泰子






詐欺撲滅のためやくざ者の取り締まりを強化する奉行所は、奉行の湯川
の指揮の下、賭場の手入れをおこなう。首謀者とにらんだやくざ者は自
害した姿で見つかるが、小五郎は、やくざ者が自ら命を絶つという結末
に疑念を抱く。 取り締まり後も「親だまし」の詐欺は、一向に減る気配
がない。涼次が賭場で得た情報によれば、最近は、やくざ者とはちがう
「グレ者」と呼ばれる悪党が幅を利かせているらしい。仁義も関係なく、
金のためなら手段を選ばないのが連中の恐ろしさだという。

現住所はダンボール的屋根の下  山口ろっぱ






お金を貯めて先は自分の店を持つこと、そして店が持てたら一緒に暮ら
そうと決めたたけつゆ母娘に、義理人情と無縁なグレ者と呼ばれる
一味を率いる詐欺のリーダー・五十嵐鉄太郎が虎視眈々とたけの財布に
目をつけた。か弱い女手に悪の手が勝てるわけがない。たけは軽々とだ
まし取られた金を返して欲しさに、鉄太郎にしがみつき拝むがあえなく
殺されてしまう。その鉄太郎も仕置人の手によって成敗されるが、本当
の悪はその上の上に悠然と居た。主催する新生塾は、隠れ蓑で、熱き教
育者の溝畑九右衛門は、枝の一本に過ぎない。その溝畑の上で、事件を
創作し操っていたのは、実は、やくざ取り締まりを掲げ登場してきた、
奉行の湯川伊周であった。堅物で真っ直ぐな筆頭与力・田上誠蔵と引き
こもりからやっと生き方を悟った息子の田上新之丞も湯川の術中にはま
り詰め腹を斬らされてしまう。
そして小五郎は、この湯川伊周を仕置す
る役目を担った。小五郎を演じる東山紀之は、なかなか殺陣がうまい。
湯川を二太刀で斬り捨てた殺陣は、なかなか重量感があった。
(余談だが、視聴率14、5%御立派)

思い切って白いカラスになりました  靏田寿子

【仕置き法によって処刑することを江戸時代こう呼んだ。
しかし ここに言う仕置人とは、法の網をくぐってはびこる悪を裁く闇
の処刑人のことである。ただし この存在を証明する記録古文書の類は
一切残っていない。

さて、つぎのような言葉がある。

『世には悪のために悪をなす者はいない。みんな悪によって利益・快楽・
名誉をえようと思って悪をなす』   フランシス・べーコン

一コマ目笑った四コマ目泣いた  雨森茂樹

拍手[3回]

生体解剖された日は砂嵐  井上一筒
 
 

岩松院葛饰北斋八方睨凤凰图
(葛飾北斎・応為共作)

「葛飾北斎の家族」


北斎は、2度結婚している。「さわ」とも「悌」ともいうが、正式には
名は不明。その妻との間に3人の子に恵まれた。長男は富之助、長女は
阿美与、次女は阿鉄。しかし二つの不幸が襲う。一つは、寛政6年(1
794)、春朗の時代、勝川派にいながら、密かに狩野派の画法を学び、
それを聞いた師匠の春章が憤り、破門させられ貧乏暮らしの中、唐辛子
売る破目になったこと。もう一つは妻が亡くなったこと。北斎34歳で
ある。3人の子をかかえた北斎は後妻をもらう。後妻の名は「こと女」
(朝井まかて著『眩(くらら)』では、「小兎」という字をあてている。
小兎との間には、2人の子をもうけた。次男・多吉郎、三女・阿栄
小兎は前妻の子を加えて一時は、二男三女の子の面倒をみることになる。

雑草に生まれたことを怖れない  中前棋人

長男・富之助は、中島家の後継者となった後、早世したと伝わる。何歳
だったかは不明。長女・阿美与は、北斎の弟子・柳川重信と文化10年
(1813)頃、結婚し男子を生むが、夫婦仲が悪く、文政5年(18
22)頃に離婚する。阿美与は子を連れて実家に戻るが、まもなく死亡。
北斎には孫にあたる阿美与の連れて帰った子(時太郎)は、大の問題児
であった。ぐれて人様に迷惑をかける暴れるで、手を焼いた北斎は、別
れた婿の重信に引き取れせる。が、重信は天保3年(1832)に死亡。
問題児はまたまた北斎の許へ戻ってきた。成人すると、悪たれの仲間に
交じり、博打・借金など放蕩の限りを尽くす。金がなくなればせびりに
くる、北斎にとって苦渋の疫病神になる孫である。

鶏頭と瓜しか見えぬ四畳半  くんじろう


渓斎英泉の美人画
蝙蝠が飛ぶ夜空ー応為の夜桜美人と美人比べをしてください。
応為の絵のうまさがわかります。



次女お鉄。「画をよくし、他へ嫁せしが、夭死す。一説に幕府の用達
 某嫁せし」とある。また、渓斎英泉『無名翁随筆』(続浮世絵類考)
には「次女は、他へ嫁す 画工にあらず 早世 御鏡御用の家に嫁す」
とあり、画工でないとする部分に食い違うが、早世は確かなようである。
また北馬が北斎に入門したころ、「師北斎は(前)妻を亡くし、一人の
娘と住んでいた」と回想している。お栄がまだ生まれていないので、こ
の娘がお鉄ではないかという推定もあり、錯綜している。何しろ北斎は、
前妻との間の子は、孫の時太郎を含め、良い印象ある家族ではなかった。

薄切りの幸せらしきものひらり  高野末次

小兎の子の阿栄については、ある程度歴史は明確なので、後回しにして、
阿栄の弟の多吉郎をとりあげる。多吉郎は崎十郎と改名し、本郷竹町の
御家人加瀬氏の養子となる。その加瀬家に入った崎十郎は、御小人目付
より御小人頭に進み、支配勘定となり、御天守番から御徒目付へと昇る。
俳諧を好み、椿岳庵木峨の号をもち、北斎が没すると墓を建立し、一人
きりになった阿栄を邸に迎えたりして生活の支えになる。
崎十郎には娘・多知(多知女)が居り、白井家に嫁ぐ。この北斎の孫で
阿栄の姪になる白井多知の遺書を『葛飾北斎伝』が随所に引用している。
『白井多知女は、加瀬崎十郎の女(むすめ)にして、白井氏に嫁す。即
ち白井孝義氏の母なり。[白石氏、今本郷弓町に住す。加瀬氏の後、此
に同居せり]』この白井氏が、北斎の血を繋いでいく。

働いた雲がゆっくり流れてる  市井美春

寛政12年ころ(1800)に出生したとされる三女・阿栄に関しては、
彼女が20歳のころから『葛飾北斎伝』にしばしば登場する。
「阿栄は、天才的な画才あり、画名を応為という。絵師・堤等琳の弟子
南沢等明に嫁ぐが、等明は余りパッとしない絵描きであったので、画才
のある阿栄は、そんな夫に嫌気がさし『未練なく離婚、実家に戻る』
ある。阿栄については、別頁を割いて書くことにするが、この阿栄の下
に四女・阿猶(なお)が目が悪くして生まれ早死にしたという説がある。
『北斎伝』「文政4年11月13日、北斎の娘と推定される人物が没
するとある」が、次女・阿鉄のことなのか、阿猶のことなのか、詳しい
ことは不明である。

ペナルティみたいだなあと年をとる  美馬りゅうこ

 
朝顔美人図

落款における「辰女」「栄女」の「女」が上の字より小さいなど筆跡が

類似し、手や指、頭髪などの細部描写が一致することから、応為の若い
ころ、南沢等明に嫁していた頃の作品とみられている。
 




  『無名翁随筆』


「南沢等明との結婚生活」

南沢等明応為(阿栄)の夫として名は知られつつあるが、実のところ、
作品も知られていなければ、生没年も分かっていない。渓斎英泉『無
名翁随筆』には、等明は「堤派系図」に名前のみあり、関根只誠「浮世
絵百家伝」では「履歴不詳」井上和雄「浮世絵師伝」に至り、ようやく
「三代等琳門人、文政期、堤を称す。南沢氏、俗称吉之助、橋本町二丁
目水油屋庄兵衛の男なり、北斎の娘阿栄を妻とせしが、後之を離縁す」
と出てくる。関場忠武『浮世絵編年史』にも「三女名は栄、亦画を能く
し三代等琳の門人南沢船二に嫁せしが後、離別せり、一文人形の元祖は
即、此栄女なり」と、名がみられる程度である。

応為南沢等明に嫁いだからには、その間、堤派の絵師に数えられてし
かるべきである。が、堤派系図にも応為と言う名も、辰女という名も出
てこない。家事もせず、芥子人形を作っていて、等明の仕事も手伝わな
ければ、絵の拙所を笑ったというのだから、等明の絵に対する仕事ぶり
にそれ相応の不満があったのだろう。夫と同じに見られたくない、しか
し嫁ぎ先で「葛飾」姓を名乗る訳にもいかず、また「堤」とも名乗りた
くない。そこで「朝顔美人図」のような軸物の落款には、敢えて「北斎
娘」と書いた。応為にしてみれば、等明の画業よりも、北斎のもとでの
画業の方が興味を引いたのだろうことは、北斎一門との画巻や北斎一門
が関わったと推定される洋風風俗画の存在からも、確かなことである。
何につけても、等明と阿栄は心擦り合わず、離縁に漕ぎつけてしまった。
とどのつまり
「阿栄、家に帰りて再嫁せず、「応為」と号し、父の業を助く」となる。

それだけの事だったのか離婚印  目黒友遊


北斎の妻であり、阿栄の母である小兎は、文政11年(1828)6月
6日に死ぬ。小兎が没した時、北斎は69歳になっていた。小兎の生前
に阿栄が離縁されたとすると、以後、再嫁せず、北斎のもとにいた理由
も、一人になった父・北斎と暮らす必要を感じたからではなかったか。
嫁ぎ先では「心かなわずして離縁された」とされる阿栄だが、離縁後は
父・北斎の傍にいようと、決めた、厚い親思いの気持があったのだろう。

踏みだした所にシッポがあったから  宮井いずみ

左の文字は栄女筆
大海原に帆掛船図
「天才絵師・阿栄」
《大海原に帆掛け船図》「狂歌国尽」文化七年(1809)頃



 画才は娘たちばかりに受け継がれたようで、阿栄の天才ぶりは、10歳
のころ『狂歌国尽』に、北斎ほか門人ともに挿絵に「栄女筆」の署名で
『大海原に帆掛船図』を描いたとある。
文政7年、24歳の頃、シーボルトが持ち帰った水彩画のうち「商家図」
に文政7年の年記あり、この頃、南沢等明に嫁しており「辰女」の画名
を用いている。天保4年(1833)のころ、渓斎英泉『无名翁随筆』
には「女子栄女 画を善す、父に随て今 画師をなす、名手なり」とある。


選ばれたのね天使が膝に乗っている  大内せつ子


  夜桜美人図


「余の美人画は、お栄に及ばざるなり、お栄は巧妙に描きて、よく画法
にかなえり」  これは北斎が、娘お栄を評して言った言葉である。
天才浮世絵師である父・北斎にここまで言わせ、時には北斎の肉筆画の
代筆や彩色をしたといわれる。また、応為自身にも弟子がおり、裕福な
商家や武家の娘の家を訪問して、家庭教師のような形で絵を教えていた、
こともある。
『阿栄門人あり、大抵商家の娘、および旗下の士の娘などなりし、晩
年には、自往きて教授せり』

くしゃみしたらあかんねこが目を覚ます  宮井いずみ

画号に適当な由来がある。父の北斎が娘の事を「エイ」とは呼ばず、い
つも「おーい」と呼んだ。そこからそのまま「応為」とした。オーイ即
ち呼び声である。27歳のとき、南沢等明と離婚してからは、画から離
れられず、北斎の世話をしながら一緒に暮らし、自らも描き、父の絵の
制作助手を務めた。北斎の『富嶽36景』も、所々、阿栄が描いたもの
といわれる。北斎が没して、阿栄51歳の頃、飯島虚心『浮世絵師 歌川
列伝』には「北斎36景の模造品あり、北斎の死後、応為の手になり出
版されたものか」とある。応為は北斎が遣り残した未完成36景を、ず
っとそれを手伝っていたことでもあり、完成させたのだろう。

粒選りの愛を一粒持っている  みぎわはな

「北斎の死」
嘉永2年(1849)北斎応為は、浅草聖天町の遍照院境内の仮宅に
居た。『馬琴日記』2月25日の条には、
「中村勝五郎来る(勝五郎とは板元)…画工北斎、此のせつ大病のよし、
勝五郎の話也」とある。さすがの北斎も、90歳を迎えた2月には大病
を患っていた。『葛飾北斎伝』では「嘉永二年、翁病に罹り、医薬効あ
らず。是よりさき、医師窃(ひそか)に娘阿栄に謂いて曰く、”老病なり 
医すべからく”と。門人および旧友等来たりて、看護日々怠りなし」この
文に続いて、北斎最後の言葉として有名な「翁死に臨み、大息し、天我
をして十年の命を長うせしめば、といい、暫くして、更に謂いて曰く、
天我をして五年の命をば保たしめば、真正の画工となるを得べし、と言
い終わりて死す。実に四月十八日なり」と吐いたともある。
「天我をして…」の言葉は、臨終に立ち会った者が聞いたことになるが、
応為だったのか、加瀬崎十郎が立ち会ったのか。

天国は死ぬ心配がありません  寺川弘一

 
あたしはあたしのままがいい


北斎
が没し、北斎の家族で残ったのは、阿栄と弟・崎十郎だけになった。
阿栄も北斎が死んだときは、「悲嘆やるかたなく安座することも出来な
かった」という。そんな阿栄に崎十郎は、本郷弓町の自分の居宅に来て、
共に住むようにと何度も説得に通い勧めた。が、阿栄は、堅苦しいとこ
ろは性に合わないと拒絶し続けた。しかし安政の大地震(1855)で、
住むところを失った阿栄は、本郷弓町の加瀬家へ移り住むことにした。
しかし加瀬家にあっても、応為の性格はあたかも男子のようで、崎十郎
の奥とは合わなかった。弟夫婦の家に変人姉が転がり込めば、仲睦まじ
くとは、いかなかった。また、阿栄も溶け込めなかった。
白井孝義氏曰く、「阿栄は、余が母方の祖父・加瀬崎十郎の家に居りし
が、その気性、恰も男子のごとくなれば、祖母と善からず。常に曰く、
妾(わらわ)は筆一枝あらば、衣食を得ること難からず。何ぞ区々たる
家計を事とせんやと」父・北斎と暮らした30年のシミはなかなか落ち
なかった。また落したくもなかったのだろう。

(白井孝義氏は、崎十郎の娘・多知の息子で、北斎からすれば曽孫)
 

真っ直ぐな息吐く海に還るまで  太田のりこ

「応為の行方」
『葛飾北斎伝』には「安政4年の夏、応為は加瀬家を出て、戸塚へ向かっ
たのを最後に、行方知れずになってしまった」とある。
関根只誠『浮世絵百家伝』には「栄女が没年詳ならずといえども、安政
2,3年のころ、加州候寡婦の老衰を憐れみ、扶持せられしが、遂に金沢
に於いて、病に罹り没せしよしにききぬ」とある。
この記録を最後に、以後、応為の行方は分からない。二説を合わせて考え
た時、安政4年の夏に応為は江戸を出て、戸塚に絵を描きに行き、その後、
それ以前に聞いていた寡婦を扶持した加賀藩主の情報を頼り、そのまま加
州金沢に赴き当地で病没した、ということになる。

別に淋しくないの生き死にはひとり  靏田寿子

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ポリバケツ履いて帰ってきてしまう  森田律子


   東海道名所一覧



鳥の目を持つ北斎が、東海道53次を一望するという鳥観図を描いた。
北斎の北斎らしい一枚である。雪舟の『天橋立図』に対抗して描いた
北斎の負けず嫌いも凄いが、版木に再現した彫り師の技も超人的だ。


七並べから始まったいけずの芽  オカダキキ


「北斎の逸話」 奇人といわれた北斎





   葛飾
北斎伝


明治26年(1893)に飯島虚心が著した『葛飾北斎伝』という本を
編むにあたって、凡例のなかで次のように述べている。
嘉永2年(1849)北斎が没して、43年の月日が流れている。
「まず遺族を尋ねようとしたが、所在が明らかでなく、菩提寺の誓教寺
を訪れ寺僧に問うが、すでに子孫は絶えたことを聞く。次に、直接北斎
と面談のあった古老を捜すが、存命するのは、戯作者の四方梅彦(柳亭
種彦門人)と門人の露木為一の二人で、他はニ三度面談したことがあっ
たという考証家の関根只誠(しせい)と戸崎某(本所石原で菓子商を営
む狂歌子・文志)の四名から、多くの情報を得た」としている。そして
「かつて北斎の版本を出版したことのある版元を尋ねるものの、すでに
閉店した店も多く、調査できたのは三店だけであったが、書簡数通と遺
事のいくつかを知り得た」とある。


アドリブを拾って歩く散歩道  みつ木もも花



 これら東京での調査の他に、「天保年間(1830-1844)に一時潜居したと
される相州浦賀を訪れ、また名古屋の永楽屋東四郎の店と、文化14年
の同地で描いた120畳大の「大達磨の図」の所在をも調べた」引用し
た文献としては13種類の書名と美術誌の一誌を提げ、これらによって
纏めたことを明記した。ただ虚心自身が凡例で述べているように、内容
の多くは北斎と面談したことのある人たちからの聞き取りを行ったまま、
弁証することなく、紹介するに止まっていることに信憑性を欠く憾みが
ある。だが北斎像の大半は、この一書に収録されている動静や人間性に
よるところが極めて大きく、今日でも広く一般にイメージされている北
斎像は、この『葛飾北斎伝』が出発点なのである。


哲学の道の途中で足す小用  藤井孝作



自らを画狂とした自画像



この北斎伝には、史学者で貴族院勅選議員でもあった、重野安繹(やす
つぐ)が序文を寄せて、冒頭から「画工北斎奇人也」と北斎は「奇人」
であると断じている。何をもって奇人としているのかは、やはり虚心の
聞き取りによる話の内容が大きく原因しているのだろう。例えば、度重
なる転居、乱雑な環境での生活、日常の振舞と風貌などがあげられる。
それを虚心がどのように描いているのか。
「性転居お癖あり、広益諸家人名録に、住所不定とす、生涯の転居93
回、甚だしきは一日三所に転せしときありとそ」
「又懶惰(らいだ)にして居室を掃除せず、常に弊衣を着し、竹の皮や
炭俵など左右に取り散らかして、汚穢(おあい)が極まれば、即居を転
して他に移る、という……」


身のほどを知っているから迷わない  橋倉久美子


「まずは四方梅彦氏からの聞き取り」



四方梅彦氏が言うには、北斎は転居の癖があった。私はかつて北斎の
引っ越し癖の疑問に対して、言った。引っ越し三百といって諺があって、
先生のように度重なる引っ越しでは、たとえ富裕であっても、終には費
用に追われて、生活に困ることとなってしまうでしょう。部屋の汚穢を
嫌って引っ越そうと思うのであれば、人を雇って掃除させれば良いので
はないか」と言った。北斎は、微笑んで、「幕府の寺町百庵という人が
あって、この人は生涯に百回引っ越すと目標をたてて百庵と号し、いま
九十数回の引っ越しをして、そのうえで死に場所(最後の居宅)を占っ
て定める」と言った。


ぴったりの甲羅磨いているところ  津田照子


 
転居先で息つくカッパ




嘉永元年、北斎は本所から浅草聖天町の遍照院境内に転居。
「梅彦氏が言うには、北斎が遍照院境内の長屋へ移転して来た時に、一
首の狂歌を詠んで贈ったところ、北斎は大いに喜んだ。その狂歌は「百
越もおろか千里の馬道へ まんねんちかくきたの翁は」というものであ
った。北斎は生涯葛飾の里に居住して死ぬのだと言っていたが、浅草に
来た翌年、終にこの地で死去した。
案ずるに、この狂歌の大意は「北斎の転居の癖は諫めても、無駄なので、
百回でも二百回でも壮健なうちは行うべきだ。命あってこそあってこそ
転居も可能なのだから、という意味を含めて、北斎の年齢もまた百歳を
超えて欲しいと、祝ったものである」


紙オムツついに汚さず逝った父  渋谷さくら


北斎が転居を繰り返していたことは、一時親交のあった曲亭馬琴「居
を転すると、名をかゆることは、このをとこほどほどしば々なるはなし」
(『曲亭来簡集』)としていることからも、虚心の聞き書きも、北斎と
直接交わりのあった四方梅彦らからの話が大半を占めているので、信憑
性は十分ある。だが、文中の「生涯の転居93回、甚だしきは一日三所
に転せしことありとそ、の部分は、?である」93回というのは、何処
から出た数なのか、北斎が四方種彦に語ったというように、90余の転
居を行なったというのであればまだしも、93回という具体的な数には
疑問を投げかけざるを得ない。


転居通知届く日記の真ん中に  新川弘子


「転居癖に続き、乱雑な生活について」





 北斎下仮宅の図
北斎の弟子・露木為一が描いた84歳の北斎と娘・お栄の住んだ仮宅。
2人は、本所亀沢町榿馬場(はんのきばば)という場所に住んでいたと
され、今もある「稲荷神社」の横に長屋らしきものがあったとされる。




関根只誠が、嘗て浅草なる翁の居を訪いし時、「翁は破れたる衣を着て、
机に向い、その横に、食物を包みし竹の皮など、散りちらしありて、そ
の不潔なりしが、娘・阿栄(おえい)も、その塵埃の中に座して描き居
たりし。そのころ翁歳八十九、頭髪白くして、面貌痩せたりと雖(いえ
ど)、気力青年の如く、百歳の余も生きぬべしとおもひしが、俄然九十
にして死せり、惜しむべし」と同氏の話なり。また「翁の面貌は、痩せ
て鼻目常人と異ならざれども、ただ耳は巨大なり」いう。


ちはやぶる神はとっくに転勤す  田口和代


 
 北斎の上の貼り紙には



画帖扇面之儀は堅く御断申候
三浦八右衛門
      娘 ゑい
             為一 国保




過日、露木為一氏は、北斎が本所亀沢町榿婆に住んでいた時の有様を描
いて、私に贈ってくれた。この図中で、炬燵を背にして布団を肩にかけ
筆を執っているのが北斎で、その傍らに座り作画の様子を見ているのが、
お栄である。室内の様子はいづれも荒れ果てて、北斎の傍らの杉戸には
「画帖、扇面之儀ハ、堅く御断申候、三浦屋八右衛門」と書いた紙が貼
ってある。又、お栄の傍らの柱には、蜜柑箱を釘づけにして中に日蓮の
像を安置している。火鉢の傍らには、佐倉炭の俵や土産物の桜餅が入っ
ていた籠、鮓を包んでいた竹の皮などが取り散らかされ、物置や掃溜め
などと同様な状況である。
按ずるに、北斎翁仏法を信じ、日蓮宗に入り、深く日蓮を尊敬せしもの
と思われる。


玄関に倒したままの竹箒  森田律子


四方梅彦氏が言うのには、「北斎は礼儀や減り下ることを好まず、性
格はとても淡泊で、知人に会っても頭を下げることはなく、ただ「今
日は」というか「イヤ」と言うだけで、四季の暑さや寒さや、体調の
具合など長々と喋ることはなかった。また、買ってきた食べ物や、人
から贈られた食べ物も器に移さず、包みの竹の皮や重箱であっても、
構うことなく自分の前に置き、箸も使わないで、直に手で掴んで喰い
食べ尽くすと、重箱や竹の皮はそのままに捨て置いていた」 という。


「ふ~ん」「へぇ~」午後のカップの聞き上手 百々寿子


清水氏曰く、戸崎氏誉翁を訪いし時「翁机によりも筆をもて、室の一隅
を指し、娘阿栄を呼びて曰く、「昨夕まで此に蛛(くも)網のかかりて
ありしが、如何にして失せたりけん、爾(そう)ならずや阿栄首を傾
げ、すかしみて、大に怪しみ居たり。戸崎氏出でて人に語りて曰く「北
斎および阿栄の懶惰(らんだ・なまけおこたること)にして、不潔なる
ことは、此の一事にても知るべし」。

戸崎氏曰く北斎翁、本所石原片町に住せし時は、煮売酒店の隣家にて、
三食の供膳は、皆この酒店より運びたり。故に家には、一の飯器なし。
唯土瓶、茶碗二三個あるのみ。客来れば、隣の小奴を呼び、土瓶を出し、
茶をといい、茶を入れさせて、客に勧めたり」と。


ひと巡りして真実になる噂  橋倉久美子


露木氏曰く、「翁誉自ら謂て言うには『余は枇杷葉湯に反し、九月下旬
より四月上旬までは、炬燵を離るることなしと。されば如何なる人に面
会すとも、誉炬燵を離るることなし。画くにもまた此のごとし。倦む時
は、傍らの枕を取りて睡る。睡りさむれば、又筆を採りて画く。夜着の
袖は、無益なりとて、つけざしし。昼夜かくの如く、炬燵を離れざれば、
炭火にては、逆上(のぼ)すとて、常に炭団を用いたり。故に布団には、
虱の生ずること夥し』と。


電気椅子大塚家具に誂える  雨森茂樹


 
 北斎獅子の絵


北斎翁、本所榿馬場(はんのきばば)に住せし頃、毎朝小さき紙に獅子
を画き、まろめて家の外に捨てたり。或人、偶(たまたま)拾い取りて
披(ひら)きみれば、獅子の画にして、行筆軽快、尋常にあらず。より
て翁に就き賛を請う。翁即ち筆を採りて、
「年の暮さてもいそがし、さはがしし」
或人更に翁に問う。
「何の故に毎朝獅子を画きて捨て給うや」
翁の曰く、
「これ我が孫なる悪魔を払う禁呪なり」
杉田玄端氏の話なるよし。乙骨氏いへり。奇といふべし。画工・翆軒
竹葉、誉この獅子の画、数十葉を蔵せしが、日課に画きたるものなれば、
一葉ごとに月日をしるしてあり。紙は、皆半紙なりとぞ。又按ずるに、
書中一行禅師、一生キンメイ録とあれど、キンメイ録といふ書なし。蓋
(けだし)看命一掌金なるべし、禅師は唐の人なり


自由律であるはずなのに見る 埃  小林満寿夫



絵の分解—北斎の様子を書いた北斎の上の文を読み解くー



 <卍翁が人に語るには、我は枇杷葉湯に反し、九月下旬より四月上旬ま
では、炬燵を離るることなしと。されば、如何なる人に面会すとも、誉
炬燵を離るることなし。画くにもまた此のごとし。倦む時は、傍らの枕
を取りて睡る。睡りさむれば、又筆を採りて画く。夜着の袖は、無益な
りとて、不付(つけない)よし。>









その左、一段下がって
 本所亀岡町はんの木馬場假宅(仮宅)の躰老人長く住居…
ゑかく
    御物語 御目通し…
 昼夜如斯なる故炭にてハ、逆上なす故炭団を用ゆ
然るゆへ虱の湧ことたとゆるに物なし









左下、お栄の上の文
娘 ゑ以
角一畳分 板敷分、佐倉炭俵土産物の桜餅の籠 
鮓の竹の皮 物置ト掃溜と兼帯之
お栄ー左横の箱の上
蜜柑箱に高(く)祀像ヲ安置す
 

山惑へ笑いとばして阿弥陀像  小嶋くまひこ 

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国宝級の男は梅干が好き  福尾圭司




   
「北斎と娘・お栄(応為)の似顔絵と手紙」



目は小さく、鼻が大きく、もじゃもじゃの白髪――。
お栄の額の点は、ほくろではなくゴミがついている――。
その容姿が様々に描かれている江戸の浮世絵師、葛飾北斎が晩年、
自分と娘お栄の肖像を描き、風貌の特徴までつづっていた手紙を、
東京都内の収集家が所蔵していることがわかった。


心太天声人語ゴビ砂漠  いなだ豆乃助




 北斎が描いていた自分の横顔(記事)


 手紙は当時、亀沢町(東京都墨田区)に住んで三浦屋八右衛門と名乗っ
ていた北斎、「何屋何兵衛」にあてた画料の受取状。
 「一 金何両ト何拾何匁石は画料として慥(たしか)ニ拝納仕候為念 
かくのごとく御座侯以上」と認(したた)めている。
(お金の額や相手の名を特定しないまま出している受取状で、これから
お金を取りに行くという内容などから、北斎は絵を描かずにお金を無心
した可能性もあるとみられている)
 その手紙の最後に、自分の横顛と、娘お栄の正面からの肖像を描き、
「眼の小キ 鼻之大キ成 白髪のモジャ/\と致侯 親父か 腮(あご)の
四角ナ女」と二人の特徴を述べて、どちらかがお金を取りにいく、など
と結んでいる。


曇り空いつまで昨日引っ張るの  みつ木もも花


手紙は、長野小布施で見つかったことが研究者の間で知られていたが、
現物は行方知れずになっていた。業者を通じて数年前に、東京都内の
収集家の手に収まったという。似顔絵は、画料を受け取りに行く人物
が相手にわかるように、と送った手紙で、ちゃめっ気もうかがえる。
北斎研究家の伊藤めぐみさんは「『面長で厳しい顔つき』という従来
のイメージを覆すもので、好々爺然としたイメージで描かれている」
と話している。

まんまるい顔はリスクになりたがる  岩田多佳子



北斎はどんな顔の新聞記事



「北斎の顔」

 北斎の肖像は、これまで、ほお骨が張った長い顔に、切れ長の厳しい目
というイメージが一般的に定着している。これは北斎の死の44年後に、
浮世絵研究家・飯島虚心が出版した日本初の北斎研究書『葛飾北斎伝』
に載ったものがもとになっている。その三年後にフランスで出版された
「北斎」にも転載されたため海外にも広まった。
さらに、この肖像画とそっくりの「北斎像」が浮世絵商の小林文七の手
で、版画にされたことで、広く知られるようになった。


あざ笑うなかれ只の凹凸なんやから 山口ろっぱ


 しかし、この肖像画については、飯島が出版元の意向で使わざるを得な
かったとして「このごとき怪しき肖像を出せるは、これ世人を欺くに似
たり、また北斎翁をあなどるに似たり」と悔やんでいたことも明らかに
なった、という。
 墨田区北斎館開館準備担当でもある伊藤さんは「いわれがはっきりしな
いこれまでの肖像とは違って、最も本人に近い肖像画の一つといえる。
北斎は自ら特徴とした大きな鼻が目立つように横顔を描いたのだろうが、
現存している中では唯一のものだ」と話している 。


鰯雲の解体現場に立ち会った  江口ちかる


「北斎はどんな顔」


 
「葛飾北斎伝」の扉絵になって広まった肖像




江戸後期の浮世絵師葛飾北斎「どんな顔」をしていたのだろう。明治
時代の研究書に載った肖像をもとにした「面長で厳しい顔つき」との通
説に対し、この肖像は北斎ではなかった、という疑いが出てきた。
研究書の著者は、「この肖像を載せれば、本の信用までなくなる」と拒
んだが「版元の意向で載せざるを得なかった」と告白していた……。
こんな資料を東京の墨田区北斎館開設準備担当の伊藤めぐみ学芸員が掘
り起こし、研究誌『北斎研究16号』(東洋書院)に紹介している。


後ろめたい昨日の雑巾が乾く  山本早苗



明治三十三年八月 東京 小林文七蔵版とある北斎




新聞記事転載で内容は多少ダブっています。
一般的に知られている北斎の肖像は、ほほ骨が張った長い顔で、切れ長
の厳しい目が特徴。北斎が死んで44年後の明治26年(1893)浮
世絵研究家の飯島虚心がまとめた日本ではじめての北斎研究所『葛飾北
斎伝』(
蓮枢閣)に載った3年後、フランス人のコンクールが出版した
「北斎」にも転載され、世界に広まった。虚心の『北斎伝』出版から7
年後、この肖像は東京・上野で開かれた北斎展に出品された。
ところが虚心は別人を装って「局外閑人」のペンネームで、読売新聞の
批評欄に次のような批判記事を載せた。


痛いから影を踏んではいけません  宮井元伸





小林文七載版の肖像
(北斎のそっくりさん)

この如き怪しき肖像を出せるは、これ世人を欺くに似たり、また北斎翁
を侮るに似たり」…「斃死してわずかに40余年の今日、その顔を知れる
人々もなお現存すれば、これを掲ぐるははなはだ快からず」さらに虚心は
「事実の精確を主として著せるこの書も、それがためにあるいは信を失う
に至らんとて、強く拒みたれども、聴かず、ついに巻頭に掲ぐることとな
りたるなり、遺憾の至りというべし」と告白している。
出版元の浅草の浮世絵商・小林文七の意向で、肖像を載せざるを得なかっ
たのを悔やんでいた、とみられる。
(この肖像の原画は現存しておらず、由来もはっきりしない。だが文七は
北斎展の年、この肖像と瓜二つ「北斎翁」を刷り物にした。)


双子ですかいいえ従兄妹のつもりです  酒井かがり


虚心の没後「局外閑人」虚心本人だったことが公になった。だが北斎
に関するこれまでの研究で、先の新聞記事についてはほとんど触れられ
ていない。伊藤学芸員はこの記事に基づいて「虚心が『北斎伝』の肖像
の件で悔やんでいる気持ちが痛いほど伝わってくる。文七が虚心を利用
した可能性も高い」
と分析している。


無垢の木に指紋が二つ残っている  河村啓子



『煙管を吸う漁師図』

天保6年(1835)自画讃。自画像との説がある。


この夏、長野県松本市の日本浮世絵博物館・酒井信夫理事長は、北斎
娘・お栄が詠んだと思われる狂句の入った版画を「北斎の自画像の可能
性がある」
と公表した。
丸顔に、ちょっと下がり気味のまゆ毛。釣り竿を抱え、キセルを咥えて
一服する姿。自分で絵を描き画中の詩文を意味する賛(さん)も入れた。
とする「自画讃」の文字がある。酒井理事長は「狂句の内容から、北斎
がお栄の嫁入りを記念して知人らに配った版画で、賛をした北斎かお栄
のどちらかが描いた絵と見るのが自然だ。図柄は、自分を漁師にみたて
たのだろう」
という。



 
水彩画の海でひとでになるつもり  月波余生







だが東京都渋谷区にある太田記念美術館の副館長で、北斎研究家の永田
生慈
氏は「自画讃で自分の姿を描いたとはいえない。北斎は酒も飲まず、
たばこも喫わなかったと『北斎伝』に記されている。この絵を自画像に
結び付ける根拠はなにもない」と否定する。


途中からSの話になっている  森田律子




 八十三歳自画像





ちゃんちゃんこを着て座っている。少し笑い加減で一見優しそうな目だ。
「八十三歳」と書かれている。これは天保13年(1842)北斎41,
2歳ころの作品への質問に対する返信状に描かれたもの。右には直筆で
「みしゆく(未熟)の業、御容捨之上御一笑」とあり、当時の自分の作
品を未熟と評している。が、最も写実的といわれ、晩年の風貌をよく伝
えている。北斎『富嶽百景』初篇の跋文でも「70歳以前に描いた作
品はとるに足らない」
と書いており「80歳でますます上達し、さらに
百歳にもなれば、ようやく一点一格が生きているように描けるだろう」
と信じていた。(北斎の自画像はいくつか残されているが、本図が北斎
の顔に最も近いものではないかと言われている。)


すっかりじいちゃん籐椅子は飴色  下谷憲子



渓斎英泉が描いた北斎の肖像
為一翁」




幕末期の浮世絵師で北斎と親交が深かったとされる渓斎英泉も、北斎の
肖像を描いた
『 戯作者考補遺』(
木村黙老著)の渓斎英泉の描く「為一翁」だ。
羽織姿で上品な雰囲気。目は切れ長だ。北斎を知る絵師の手になるもの
だけに、研究者の間では、最も写実的だとの見方もある。
「北斎伝」には、北斎の容貌についてこんな説明がある。「やせており
日常人と異ならざれといえども、ただ耳は、巨大なり」


ほどほどの悩みもあってみぞれ和え  山本昌乃




北斎が80歳になった自分の姿を描いた自画像


「これが北齋(この時点では爲一)の自画像である」
1991秋田市立先週美術館、岐阜市歴史博物館、松本市日本浮世絵博物館
で展示を行い、図録に解説を書いている。飯島虚心は、葛飾北齋傳巻頭
の妙な杖の老人を北齋ではないと後年に苦情を呈している。版元の小林
文七は、何とか北齋の肖像を巻頭に出したかったので、妙な杖突き老人
の画像を掲載した。しかし無款であり、北齋ではない。


玄関にまずは遠慮を脱ぎ捨てて  吉川幸子



時太郎可候名の自画像




まだ北斎を名乗っていない北斎が、蔦重の奉公人であり、やはり馬琴
名乗っていない馬琴を先生と呼んで、拙作を読んで、教授してほしいと
書いた戯作『竈将軍勘略巻』「舌代」と自画像。竈将軍勘略巻を刊行
したのは、北斎41歳のころで、とてもその年齢には見えず、すっかり
お爺さん顔である。


真ん前に鏡が置いてあるいけず  北原照子


「画中の文章」
「舌代 不調法なる戯作 仕差上申候(げさく つかまつりさしあげもうし
そうろう)。是ニ而(にて)御聞(おあい=お相手)ニ合候はゞ、何卒
御覧の上、御出板可被下(くださるべく)候。初而之儀(はじめてのぎ)
に御座候得は、あしき所ハ、曲亭馬琴先生へ御直し被下候様、此段よ路
(ろ)しく奉願(ねがいたてまつり)候。又々、當年評判すこしもよ路
しく御座候へは、来春より出精仕(しゅっせいつかまつり)、御覧に入
れ可申(もうすべく)候。右申上度(もうしあげたく)、早々不具(急
ぎ書き、気持ちを充分に言い表わせていませんが)
                十月十日 蔦屋重三郎様(二代目) 


木に登ると花を咲かせてみたくなる  神野節子


小林文七のこと
浮世絵の蒐集家で浅草・駒形で画商を営むかたわら、上野で浮世絵の展
覧会を開いたり(日本初の浮世絵展・明治25年11月)蓬枢閣という
出版社を作って美術書を出版したり(飯島虚心著「葛飾北斎伝」「フェ
ロサの大著」
など)、芸術家や作家のパトロンになったり、明治の美術
界をリードした民間の大プロデューサー。浮世絵を含め収集した美術品
を海外に売ったりもした。特にフェノロサには、ギブ・アンド・テイク
で多くの美術品を献呈したという。


身のほどを知れと叫んでいるムンク  井本健治

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