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川柳的逍遥 人の世の一家言
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内ポケットにチャンチキおけさ一くさり 酒井かがり


「名将四天鑑 織田春永公」若虎
小田春永公 辰川左近将 真柴久吉 武智光秀 柴田辰家
(織田信長 滝川一益 羽柴秀吉 明智光秀 柴田勝家)

 

『絶対は、絶対にない!』
元亀元年(1570年)の越前出兵(金ヶ崎の戦い)で、義弟の浅井長政が
背いたとの情報が入ったとき、信長は最初は信じなかった。
しかし、次々に同様の報告が入ったため、即座に退却を決意して金ヶ崎
城に秀吉、光秀ら殿軍を置き、退却したという。(『信長公記』)

右の手はずっと男の貌である  居谷真理子

「麒麟がくる」 光秀ー信長の家臣に


足利義昭「永禄の変」の直後
三好三人衆から逃げる、義昭を救出する家臣・和田惟政


永禄8年(1565)「永禄の変」で13代将軍・足利義輝が暗殺され、
一条院門跡となっていた弟・覚慶(義昭)の身にも危険が迫る。そこで
義昭は細川藤孝らの幕臣の助けを得て近江・若狭を転々とした後、朝倉
義景を頼って越前に入る。当時、朝倉家に出入りしていた光秀は、藤孝
に接近し信長と義昭の橋渡し役を務めたという。(『細川家記』)それ
によると光秀は、藤孝に対し、「朝倉を頼っていたのでは、義昭を京に
帰す大功は立てられない。信長は当代の勇将で頼むべき人物である」、
と説き、岐阜に使者を送るように勧めた。後日、義昭の依頼を受けた光
秀が、自ら使者となって岐阜へ赴き、義昭の帰洛を助けるよう信長に説
いた。光秀は優柔不断な義景を見限り、信長の非凡な能力と将軍候補と
しての義昭の将来性にかけたのである。

福音を聞くまで耳の土用干し  中野六助

一方、義輝を討った三好三人衆ではあったが、松永久秀との主導権争い
に没頭するあまり、義昭を奉じる織田信長の上洛軍を阻めず、野望虚し
く京から退却。そして同11年7月、義昭は岐阜城に入り、10月には、
信長とともに上洛を果し、室町幕府15代・将軍に任じられた。
(その月の18日に三人衆が推戴する14代将軍・足利義栄[義昭の従
弟]を信長によって廃され、将軍の座を義昭に奪われる)。
この頃の光秀は、信長の家臣でありながら義昭にも近侍する立場にいた
とされる。信長の家臣として京の行政に携わる一方、義昭からも知行を
与えられ、その下知を武将に伝えるなど、将軍の近習的役割を果たして
いる。信長と義昭の2人の主君をもつところに、他の織田家臣と異なる
光秀の特殊な立場があった。

ポーカーフェイス吊り橋渡り切るまでは  郷田みや


   村井貞勝



翌年、光秀は京都支配の担当者任命され、信長の家臣とともに、文書の
発給を開始する。信長側の担当者は村井貞勝・木下秀吉・丹羽長秀・中
川重政らで、光秀は彼らと協力しながら、信長から支えられた義昭の政
権を支えていくことになる。
当時の義昭・信長にとって解決すべき課題は、若狭国の守護・武田氏
内紛であった。武田氏は相次ぐ内部対立で力を失い、隣国の越前から介
入した朝倉氏を頼る者と、義昭・信長を頼る者の間で、重臣が紛争を起
こしていた。光秀は義昭・信長の命令を受けて、味方についた武田氏の
「36人衆」に対し、武田元明への忠節を誓うよう指示を出しているが、
信長と義景の対立は、決定的な状況になっていく。

月を描くつもりの線が歪みだす  吉川幸子

そこで、信長は越前の朝倉氏を討伐するため、元亀元年(1570)4
月に敦賀へ侵攻したが、信長と姻戚関係にあった近江国小谷城の浅井
が朝倉方についたことを知ると、琵琶湖の西岸から京都へ退却した。
「絶対に絶対はない」の言葉が生まれた信頼関係崩壊の出来事だった。
このとき光秀秀吉とともに、最後尾で敵の攻撃を防ぐ殿を務め、味方
を無事に退却させている。その後、信長は光秀と長秀を若狭に派遣する。
光秀は5月に義昭の側近だった曽我助乗に出陣を伝え、業務の引継ぎを
行なった、光秀と長秀は若狭で朝倉方の武藤友益から人質を取り、城館
を破壊して引き上げたとされる。

すってんころりほんとの顔で立ち上がる  星井五郎



長島一向一揆『太平記長嶋合戦』(歌川芳員 )
 伊勢長島一帯の本願寺門徒と織田信長軍との間に起こった戦。


さらに、義昭信長を取り巻く状況は厳しさを増していく。元亀元年の
8月から9月にかけて、三好三人衆や大坂の本願寺が相次いで蜂起し、
浅井・朝倉両氏は比叡山と手を結んで・近江国宇佐山城に攻め寄せた。
この城は信長の本拠地であった美濃と京都を結ぶ重要な拠点で、織田家
臣の森可成が配置されていたが、可成は9月に坂本で戦死してしまう。
これに対し、信長は坂本に陣を構え、光秀は比叡山を牽制するため勝軍
山城に入った。その後は両軍の睨み合いが続いたが、12月に義昭と朝
廷の仲裁が入り、信長と浅井・朝倉の両氏は、和睦している。光秀は戦
死した森可成の後任として宇佐山城に移り、引き続き浅井・朝倉両氏と
比叡山の監視役を担うことになった。

打ち水で地球を少し湿らせる  橋倉久美子

だが翌年の元亀2年8月には信長浅井・朝倉両氏の対立が再び起こり、
信長が近江に出陣する事態となる。そして9月12日には、織田軍によ
「比叡山焼き討ち」が実行された。信長は比叡山に対し「浅井・朝倉
軍を追い出して、こちらの味方につくか、中立の立場をとれば、攻撃し
ない」と通告していたが、比叡山は浅井・朝倉軍を山中に匿ったため、
これを敵対行為と判断した信長は、ついに比叡山への攻撃命令を下した。
この下りは『明智光秀』(桑田忠親著)が次のように記‎されている。

おろし金右手で持った十三夜  河村啓子


大田上総介春永公

 8月に入って信長はまた、江北の小谷山を攻めたが、9月12日、
突如として比叡山に侵攻し、延暦寺の根本中堂をはじめ、山王21社、
東塔の坊舎をことごとく焼き払い、老若の僧徒千数百人を殺戮した。
前年度の僧兵の反抗に報い、その跋扈を膺懲(ようちょう[征伐してこ
らしめること])したのである。伝教大師このかた、殺生禁断・国家鎮
護の霊場にたいして、このような暴挙に出たことは、前代未聞の不祥事
といえた。しかし、かの白河法皇でさえも―加茂川の水と山法師と双
の賽の目は、意のままにならぬ―と、嘆かれたが、信長は、その山門

荒法師どもの度肝をぬいたのであった。この風聞に接して五畿内諸寺

の坊主どもは、我ことばかりに、震え上がった。と同時に、信長のこと

を仏敵として憎悪するのであった。
(後年、信長が本能寺で横死をとげたとき、比叡満山の僧侶は―仏罰覿
面―と叫んで、哄笑したといわれる)

すぐ破るルールでセロテープだらけ  山本早苗

「比叡山焼き討ち」は、信長の残虐性を示す事件として知られているが、
光秀はそれに反対する立場を取っていたというのが一般的な見方だった。
だが最近の研究で、事実はまったく異なっていたことが明らかになった。
光秀のイメージは「保守的」「常識人」といった面が強く、「革新的」
「非常識」信長に振り回された、という印象がある。


しかし新史料によって光秀は、目の前の状況に対して冷酷な態度をとり、
自分の役割をはたそうとしていたことが、分かる。それがこれ、宇佐山
城で比叡山と対峙していた光秀は、近江国雄琴の和田氏など近隣の有力
者を味方につける画策を行っていた。和田氏に対し光秀は「敵方の村を
撫で切り(皆殺し)にしてしまえば、我々の思い通りになるでしょう」
という内容の書状を送り、また、信長に敵対する志村城などを織田軍が
攻撃した際の状況として「信長様が干し殺しをなされた」と書き送って
いる。

草間彌生で隠す心の破れ  合田瑠美子


  比叡山焼き討ち




9月12日に攻撃を開始し、聖俗あわせ「数千の死体」をあたりかまわ
ず散乱させたまま、(おそらく)「あとの始末は、光秀、おまえにまか
せる」といって信長は9月20日に岐阜に戻ってしまう。
そのときから光秀の苦悩が始まる。与えられた滋賀郡はもともと延暦寺
の寺領だったのであるから、厄介事のすべてを引き受けねばならない。
(多分)そういう思いを抱きながら、比叡山の登り口の坂本に城を築き
始めるのであった。比叡山の焼討を実行した信長は近江国滋賀郡を光秀
に与え、比叡山領の管理を任せてた。この頃の光秀は義昭に仕える立場
だったが、近江での戦いにおける光秀の功績を、信長は高く評価したの
である。

寒空に探すハートの置き所  和田洋子

元亀2年(1571)9月、光秀は、信長から近江国滋賀郡を与えられ、
比叡山領の管理を任されることになった。さらに足利義昭信長の家臣
とともに、京都の支配を担当する任務も引き続いて担っている。光秀の
主な仕事は、京都の治安維持や地子銭(税金)の徴収、朝廷や公家の領
地に関する訴訟などであり、義昭と信長の下で「天下静謐」を担う重要
な役割を任された。だが光秀は、比叡山、朝廷・公家の権益を自分のも
のとし、しばしばトラブルに見舞われていた。本来、公家や寺社の紛争
を解決するのは将軍の役割であったため、朝廷は義昭に苦情を申し入れ、
義昭も光秀の行動を問題視した。

なりゆきにまかせ流れる雲を追う  靏田寿子

このような状況に嫌気がさした光秀は、義昭の側近だった曽我助乗
お暇をいただいて出家したいので、義昭様の許可をいただけるよう取り
なしてください」と伝え、義元の元を去りたいと願い出ている。京都や
その周辺で起こる問題を解決する役割を担っているはずの光秀が、この
ときは逆にトラブルメーカーとなってしまっていたのである。
その一方で、光秀は信長の命令を受けて近江を転戦し、朝倉・浅井両氏
の軍勢と戦い、坂本に新たな城を築くと光秀は、周辺の諸勢力を味方に
つけ、信長から篤い信頼を得るようになっていった。

褒め言葉鵜呑みしてから胃痙攣  上田 仁

 
 三好長慶
「天下人」というと織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を思浮かべるが彼ら
の前に、天下統一を成し遂げた武将がいた。三好長慶である。
 
 
「三好長慶」
 長慶は11歳で元服し三好家当主となる。細川晴元三好元長を殺害
するために借りた一向一揆の勢力は、やがて晴元では抑えられなくなり
「享禄・天文の乱」と発展。 それを長慶こと12歳に過ぎない千熊丸
15歳まで幼名・千熊丸で呼ばれていた―が、一向一揆と晴元の和睦を
斡旋した話が残る。17歳で本格的に活動を開始し、たびたびの存続の
危機も驚きの手段で乗り越え、のち天下を制する下地も築いていく。

私の位置外れぬように線を引く  津田照子

まず天文18(1549)年、27歳で、父の敵である晴元軍を敗り畿
内を拠点とすることを決め、細川管領家に取って代わった。(江口の戦)
そこから長慶は、長弟の三好実休に本国阿波を任せ、次弟の安宅冬康
淡路水軍を、三弟の十河一存(そごうかずまさ)に讃岐の国衆を継承さ
せると、自らは摂津に居城を移し、松永久秀ら畿内の土豪を新たに登用
し、臥薪嘗胆の日々を過ごした。そして紀伊の根来寺や大和の筒井順昭
を従える河内の遊佐長矩(ゆさながのり)の養女を室に迎えて、同盟を
結ぶ。「江口の戦い」で晴元を敗り管領家の名乗りは、晴元を支援する
将軍・足利義晴・義輝親子や晴元の義父である六角定頼との戦いの始ま
りであった。

誤字脱字生きる形は問われない  佐藤正昭

長慶は当初、義輝と和睦し幕府再興を意図していたが、度重なる義輝の
破約に怒り、天文22年に京都から追放した。当時は形だけでも、足利
将軍家や古河公方家の者を擁するのが常識で、大内義興北条氏康、上
杉謙信もそうしていた。しかし、長慶は戦国時代で初めて、将軍家の者
を誰も擁立せず「京都ご静謐」を実現したのである。ただ大きく揺らい
だ幕府を支えたのは、上杉謙信や一色義龍、織田信長など下克上で国主
になった大名であった。彼らは幕府が滅亡し、社会が不安定化すること
よりも、将軍の公認による安定を求めていた。このため、長慶は義輝と
和睦するが、細川・畠山両管領家の領国を併呑する。また、北条氏康や
毛利元就と同格の御相伴衆の格式だけでなく、天皇家に由緒をもつ桐御
紋を免許されるなど、足利将軍並の家格を得ると、義輝の娘を人質とし、
天皇に改元を執奏するという将軍の権限を行使した。

ご破算ということですよリセットは  中村秀夫


  松永久秀




このように将軍を克服しようとする長慶を支えたのが松永久秀であった。
久秀は寺社や大名との交渉に力を発揮し、のちには大和の支配を任された。
長慶は、久秀が譜代家臣ではないにもかかわらず、自らと同じ従四位下の
官位に就き桐御紋の免許も認めた。外様や低い身分の者を登用する際には、
武田信玄真田昌幸に武藤姓を、上杉景勝樋口兼続に直江姓をと、主家
の一族や重臣の名跡を継がせて、家格に配慮するのが常識であったが、長
慶はそうした従来の秩序にとらわれなかった。

ややこしい理論に向かぬ河内弁  岸田万彩

永禄7年(1564)5月9日、長慶は弟の安宅冬康を居城の飯盛山城に
呼び出して誅殺した。松永久秀の讒言を信じての行為であったとされてい
るが、この頃の長慶は、相次ぐ親族や周囲の人物らの死で、心身が異常を
来たして病になり、思慮を失っていた。冬康を殺害した後に久秀の讒言を
知って後悔し、病がさらに重くなってしまったという(『足利季世記』)。
このため6月22日には、嗣子となった義継が家督相続のために上洛して
いるが、23日に義輝らへの挨拶が終わるとすぐに飯盛山城に帰っている
事から、長慶の病は、この頃には既に末期的だった。そして、11日後の
7月4日、長慶は飯盛山城で病死した。享年43歳だった。

現実と夢の狭間で聞くピーポー  宇都宮かずこ

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逆らって生き強靭な顎一つ  佐藤正昭
 
 


「諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし」




地上の森羅万象を捉えようとした葛飾北斎の眼は、大自然の絶景、奇景
を大胆な構図を描き出し、かつてない風景画を生み出した。その超人的
な想像力と描写力の高さが、あり得ない世界をリアルに感じる傑作へ
と昇華させている一枚・『飛越の堺つりはし』である。

「三人の奇人絵師」葛飾北斎・歌川国芳・河鍋暁斎





「富士越龍図」
「九十老人卍筆」 印章「百」
 墨絵の筆致で北斎独特の幾何学的山容の富士。雲を呼び、昇天する龍に
自らをなぞらえる。落款に出生の宝暦10年と共に嘉永二己酉年正月辰
ノ日とあり、北斎90歳のときに描いたものと分かる。北斎はこの作品
を仕上げ3ヵ月後に死去している。
 
 
 
 
葛飾北斎のコトバに「絵に掛けぬものはない」というのがある。
ほとばしる才能を画面に投影し、異次元の世界を探求し続け、森羅万象
この世のすべてを北斎は描き尽した。北斎の代表作『富嶽三十六景』
出版がはじまったのは、天保元年(1830)頃、この時71歳に達し
ていた。このあと『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』といった浮世絵の歴
史に残る傑作を発表。さらに80歳を超えてから細密な肉筆画に挑んだ。
飯島虚心『葛飾北斎伝』に次のような北斎のコトバがある。
「70歳までに描いたものは、とるに足らぬものである。73歳でやっ
と生き物の骨格や草木の生まれを知った。80歳になればますます腕は
上達し、90歳で奥義を極め、100歳で神技といわれるであろう」




縁側で鼻を乾かしているじいじ  森田律子






「百物語 こはだ小平二」
こはだ小平二は「木幡小平次」という怪談物の主人公。小平次は大根役
者だったために、もっぱら幽霊の役ばかりやらされていた。その小平次
には妻がいて、これが他の男と密通したうえ、共謀して小平次を殺して
しまった。殺された小平次は、恨みの余り往生できず、今度は、本物の
幽霊となって、自分を殺した者の前に現れる、という話である。




その北斎の言葉通りに、作品の深みを増していったのだから恐れ入る。
といって、遅咲きの絵師であったわけではない。幼いころから絵を描く
ことが好きで、19歳で役者絵や美人画を得意とする浮世絵師・勝川春
に弟子入り、翌年には自作を発表している。ところが、北斎は勝川派
の一絵師にとどまる器ではなかった。35歳頃に同派を離れ、孤高の道
を歩む。以後は、江戸時代の絵画の本流ともいえる、狩野派や装飾的な
琳派の絵師・俵屋宗理に学び、しばらく自身も宗理二代目を名乗った。
時には、喜多川歌麿や三代目堤等琳(つつみとうりん)をライバルとし、
さらには『芥子園画伝』などから「中国絵画」をも習得した。40代以
降は、滝沢馬琴『椿説弓張月』などの物語に挿絵をつけた「読本」の
世界で活躍し、人気絵師となる。
 

目立たないようにさすがが佇っている  山本早苗


「魚濫観世音図」

この絵には落款がない。「傳 北斎筆」と添え書き(鑑定書)にはあり、
北斎晩年の肉筆画だったとみられている。北斎は敬虔な仏教徒だったか
ら、無落款の仏画が多く、誰がの/真筆の立証は、出来ないが北斎という
ことに落ち着いている。



さて北斎にこんなエピソードがある。還暦を3年ほど過ぎた頃のこと。
「当時、北斎という画号は一般の婦女子ですら知っていたが、川柳での
号「卍」というのは誰も知る者はいなかった。ある時、中橋の小川とい
う茶屋で、川柳点の開巻があり、帰りが夜中になってしまった。そこで
道すがら日本橋の傘店で、小田原提灯をひとつ買うこととなった。とこ
ろが生憎、桐油もひいていない白張提灯しかなかったので、仲間の一人
で本所堅川に住んでいる夢介という者が、この提灯をさして『卍さん、
チョット描いて給われ』といった。北斎は『よしよし』といって傍らに
あった硯箱から筆を取り、提灯の下げる方を店の男にもたせ、底の方を
左手で持って、蕨の文様を2,3描いた。これを見ていた男は『お前さ
んはなかなか絵心があります』と言ったので、仲間連中はドッと笑い出
したのだった」。この話は、後年この話を思い出した北斎は『とてもお
かしな事だった』と語ったという。飯島虚心・『葛飾北斎伝』

カニカマは蟹の棚には並ばない  村山浩吉



クロード・ドビュッシー 交響詩「海」

ドビュッシーは北斎の「神奈川沖浪裏」の絵を初版楽譜の表紙に使った。

北斎も50代には、全国に弟子も増え、一つ一つ手をとり教えるのも無
理だし、性格的に面倒くさいということで、彼らの手ほどきとなるよう
に出版したのが、絵手本・「北斎漫画」である。ともかく孫弟子も含め
て230人もの弟子がいたとされる。私淑の弟子を数えると数はさらに
増える。絵画のクロード・モネ、ファン・ゴッホ、ポール・セザンヌ
ガラススタンドのコンフォート・ティファニー、ブロンズ像のカミュ―
クローデル、陶器のクリストファー・ドレッサーらが、海外の私淑弟子
であり、日本では、有名なところで「歌川国芳」「河鍋 暁斎」がいる。
そろって、北斎に負けず劣らず「奇人の絵師」である。
参考に三奇人の生年月日を記しておく。
葛飾北斎 (1760-1849)
歌川国芳 (1797-1861) 北斎37歳の時に生誕。
河鍋 暁斎   (1831ー1889) 北斎71歳の時に生誕。

体験入棺釘付けされて「ん」  上山堅坊


 『みかけハこハゐが とんだいゝ人だ』 寄せ絵
 
(見かけは恐いが飛んだいい人だ)
「大ぜいの人がよつてたかつて とふと いゝ人をこしらへた とかく人の
ことハ 人にしてもらハねバ いゝ人にはならぬ」
(大勢の人が寄ってたかって、とうとう、いい人をこしらえた。兎角、
人の事は人にしてもらわねば、いい人には成らぬ)

「歌川国芳」
12歳の頃に描いた『鍾馗図』が、初代歌川豊国の目に止まり、程なく
豊国門に入る。20代は不遇の時を過ごすが、31歳の頃、『通俗水滸
伝豪傑百八人之一個』を版行。これが人気を呼び、「武者絵の国芳」
称された。役者絵、美人画、風景画と何でもこなしたが、中でも3枚続
のパノラマな構図の武者絵や歴史画、ウィットに富んだ戯画は大衆の心
をつかんだ。親分肌な人柄から、落合芳幾、月岡芳年、河鍋暁斎ら多く
の優秀な門人を集めた。(飯島虚心「浮世絵師歌川列伝」)

武者震いいいえ貧乏揺すりです  合田瑠美子


『源頼光公館土蜘作妖怪図』
源頼光と配下の四天王による土蜘蛛退治に題をとった作品とみせ,
時の老中・水野忠邦の天保の改革を痛烈に風刺した作品といわれている。

天保8年(1837)、国芳41歳の時、22歳の斎藤せゐと結婚する。
公私ともに充実した状態で「一勇斎」から「朝桜楼」に号が変わり、住
まいは向島へと移った。国芳の元には、多くの弟子が集まり、河鍋暁斎
が弟子入りしたのもこの頃であった。順風満帆は生活であったが、45
歳の時、運命は一変する。老中・水野忠邦による天保の改革。質素倹約、
風紀粛清の号令の元、天保13年には、国芳や国貞らも人情本、艶本が
取締りによって絶版処分となっている。また浮世絵も役者絵や美人画が
禁止になるなど大打撃を受ける。江戸幕府の理不尽な弾圧を黙って見て
いられない江戸っ子国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけた。それが
『源頼光公館土蜘作妖怪図』である。この頃に 国芳は葛飾北斎門人の
大塚道菴の紹介により、私淑の師・葛飾北斎と出会っている。国芳が独
楽廻し竹沢藤治の絵看板を描く際、道菴に補筆を頼んだときである。

荒海を描けば故郷の風の音  相田みちる


   風俗大雑書




北斎国芳がダブル時間は48年。即ち、北斎が90歳で死去するとき、
国芳は、48歳であった。想像力を駆使した絵や奇想天外を描いた絵が
北斎の絵に似たものがあれば、国芳の人生も少し北斎に似ている。若い
頃の国芳も常に金に困っており、歌川派を代表していた兄弟子・歌川国
の家に居候し、彼の仕事を手伝いながら腕を磨いた。この居候時期に
役者絵や合巻の挿絵などを描いていたが、あまり人気が出ず作品も僅か
であった。また勝川春亭にも学んでおり、さらに葛飾北斎の影響も受け、
後に3代堤等琳に学んで、「雪谷」と号した。国芳は晩年『北斎漫画』
のように『風俗大雑書』を描いている。

よろしくと交わし二人は照れている  徳山泰子


寝そべる猫と片足立ちの猫で「はんにゃめん」

明かりを背にして障子の前に座り、手や腕を組み合わせてできた鳥や動
物の形の影を障子に浮かび上がらせる「影絵遊び」、このアイディアを
浮世絵に持ち込んだのが歌川国芳である。

『歌川の門流中、筆力秀勁にして意匠巧妙なるは、蓋し国芳におよぶも
のなかるべし』
奇抜で豪胆、自由闊達。歌川国芳の浮世絵を評す言葉は、そのまま彼の
性格そのものだったといわれる。「ヒ」が「シ」(日が暮れる-しがく
れる
)になる。「ユ」が「イ」(指切りがい-いびっきり)になる。
aiの連母音を「エー」(お侍-おさむれへ・大事ーでへじ)という。
化政文化に成熟した「べらんめえ口調」で、火事と喧嘩が大好きな江戸
っ子気質。幕末屈指の人気絵師でありながら「先生然」とするのが嫌い
だった。気性の荒い町火消たちと親しく交わり、火事と聞けば遠近問わ
ず駆けつけて、消火を手伝う男気のよさ。親分肌の国芳のもとには、7
0人以上の弟子がいた。歌川芳虎、歌川芳艶、落合芳幾、歌川芳藤など
直弟子に「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年や、幕末から明治前期
に活躍した異色の絵師・河鍋暁斎も弟子だった。

やんちゃな男が四角を丸にする  福尾圭司


     国芳ー百色面相
 
 

「こんなとこにも北斎と国芳と暁斎の共通点」
葛飾北斎には葛飾応為(お栄)という浮世絵師がおり。歌川国芳にも2
人の娘(芳鳥、芳女)が浮世絵を描いる。そして河鍋暁斎にも、一人娘
(暁翠)がいる。
そして大きなお世話に、奇想の父の娘として、意味なく比較するのだ。
とりあえず、生年だけは、ひかくしておきましょう。
葛飾応為      寛政12年(1800)
歌川 芳鳥女 天保10年(1839)
歌川 芳女  天保13年(1842)
河鍋 暁翠  慶応3年(1868)
それから、夫々の描いた美人画は、ネットでお知らせしています。





「狂斎百狂 どふけ百万編」
大蛸は力を失った幕府(五本丸→御本丸→江戸幕府→大きいだけで骨なし)
と風刺している。シャチホコは尾張藩、鍾馗は水戸藩を描いている…とも。




「河鍋暁斎」
河鍋暁斎天保2年(1831)4月、下総国古河石町に生まれる。幼名
周三郎、周麿・狂斎・是空道人・惺々斎等と号し、のち暁斎と改める。
暁斎は「ぎょうさい」とは読まず「きょうさい」と読む。それ以前の号
「狂斎」の読みを残したのものとみられる。
親の欲目でもないが、母につれられ館林の親類・田口家へ赴いたとき、
2歳の周三郎が「蛙」の写生をした。これは天才と喜んだ親は、周三郎
が7歳になると歌川国芳の画塾に入れ絵を学ばせた。でも、親は国芳が
信用できず、2年後に狩野派の塾に移した。こうした経緯に流派・画法
にこだわらず独自の世界の中で、自らを「画鬼」と称し、狩野絵と浮世
絵を混淆した画に特色をもたせ、多くの戯画や風刺画を残す画家となる。




支離滅裂な理論解いてる青ガエル  森 廣子 


象を描いたユーモラスな暁斎の漫画




歌川国芳
の教育。国芳は門弟に人を打ち、組み伏せ、投げ飛ばし、また
投げ飛ばされる様々な形態を、注意深く観察すべきだと教えていた。若
年の暁斎は、この師の教えを忠実に実行するため、一日中画帖を片手に
貧乏長屋を徘徊し、喧嘩口論を探して歩いたという。暁斎がみずから挿
絵を描いた談話集『暁斎画談』には「暁斎幼時国芳へ入塾」の項がある。
この項は国芳の画塾の様子を伝える挿絵でよく知られている。ここには
幼時の暁斎と国芳の関係が示されるとともに、国芳が暁斎に語ったとい
うことばが引かれている。次へ。

生き方にあわせて作る力こぶ  吉川幸子


暁斎の鯰

三味線を抱いた天狗が、ナマズの首につけた手綱を操り地震(風刺)を
巻き起こす。富士迄しつらえて北斎を意識した絵になっている。

「暁斎幼時国芳へ入塾」の一説。
『暁斎年甫(はじ)めて七歳周三郎と云いしとき、故一勇斎国芳の門に
遊ぶ 国芳、元来(もとより)活発を好むの性質なる故師を奇童として
愛し、常に教えて云う 我武者を描くことを好めども其の拠り所とする
基礎を得ず、一時、宋人李龍眠の描きし「水滸伝百八人の像」を見て大
いに感ずる処有るにより、是を模して錦絵を描きたるに初めて国芳の名
を人に知らるゝに至りたり…後略』

鎧つけた武者は腹式呼吸する  山本昌乃

    
             
暁斎のカエル
国宝・『鳥獣人物戯画』を模写し、暁斎が自分なりにアレンジして生み

出した作品。鳥獣人物戯画で表現されていたユーモア精神や擬人化され
た動物たちはそのままに。

幼い頃、描いた「蛙」に未来予想でもあったのだろうか、暁斎は、遠く、
平安後期の、鳥羽僧正にも想いを寄せていたようだ。何故なら、鳥獣人
物戯画とそっくりな、ひょうきんな蛙が出てくる作品がいくつもある。
加えて、鳥羽僧正の名作『放屁合戦』を模した作品もある。そして北斎
暁斎、二人の個性の違いがよく表われているのは、動物の表現だろう。
哺乳類、鳥類、魚類、爬虫類、さらには空想上の動物まで、あらゆる種
類のものを描き尽くそうとする北斎。一方、暁斎は、カエルや象、モグ
ラなどに、人間さながらの豊かなポーズや表情をとらせており、平安時
代の絵巻物『鳥獣戯画』を蘇らせてくる。

鳥獣戯画のセリフなだめている深夜  ますみ

  
    暁斎漫画         北斎漫画




「動物 描き尽くす北斎、擬人化する暁斎」
北斎は、暁斎が18歳のときに亡くなっているので、多分出合うことも
なかっただろうが、暁斎は『暁斎漫画』『暁斎酔画』などの絵本で、
踊る骸骨や擬人化された蛙などのユーモラスな画題のみならず、北斎に
匹敵するほどのありとあらゆるテーマを手掛けている。「暁斎漫画」は、
描き方、画題等、いろんな点で「北斎漫画」とよく似ている。
暁斎は北斎を憧憬し、お手本にしていたに違いない。
そういえば、北斎、国芳、暁斎の三人共、「画題は何でもござれ」の、
奇想の絵師、発想のユーモア画家という共通項があり、今も我々を楽し
ませてくれている。

海原を一気呵成にのみ込んで  河村啓子

拍手[3回]

温泉宿の軒先の唐辛子  森田律子





一乗谷ー蘇る戦国時代の城下町


「長良川の戦」で敗死の斎藤道三に味方した明智光秀は、敵対した義龍
の軍勢に追われ、生国である美濃を離れ越前に逃げた。弘治2年(15
56)である。何故、越前なのか。土岐氏の居城・大桑城の城下町には
「越前堀」があり、また越前の優れた技術を美濃が導入していた友好国
でもあり、最も安心できる安定した隣国であったからである。
同時に越前・一乗谷の朝倉文化は、周防・山口の大内文化、駿府の今川
文化と「戦国三大文化」と並び称され、光秀には、親しみやすかったの
ではないかといわれている。


天秤に昨日と今日の正直さ  みつ木もも花



それに加えて、永禄9年の時点で、光秀と朝倉家との間に医学を通じて
接点があったこと、前年に、将軍の足利義輝が三好三人衆に殺されて、
近江にいる弟の義昭が自分を助けるよう諸将に要請し、光秀はこれに呼
応して田中城に入ったと思われることなどがある。



大匙ですくった酢の行き処  河村啓子



『遊行三十一祖京畿御修行記』





「麒麟がくる」 光秀ー越前にて


「明智光秀は越前国にいた。根拠は『遊行三十一祖京畿御修行記』」
「明智軍記」をはじめとする光秀の没後に成立した伝記類では、光秀
斉藤義龍に美濃を追われ、朝倉義景を頼って越前へ逃れたというものが
多くある。従来、この話の信憑性は不確かなものであるとされてきた。
ところが、これを裏付ける史料がある。『遊行三十一祖京畿御修行記』
といって、遊行上人(時宗の総本山遊行寺住職)の31代目である同念
上人が、天正6年(1578)7月から翌々年3月までの間に、東海・
関西各地を遊行した際の状況を近侍者が記録したものだ。原本は伝来し
ておらず、寛永7年(1630)に書き写された細切れの写本があるの
みである。


またひとつ終の住処の候補地か  下谷憲子




 





この『遊行三十一祖京畿御修行記』の天正8年正月24日条には「同念
上人が、従僧の一人を光秀の居城である坂本城へ遣わせた際、光秀が、
かつて称念寺門前に住んでいたので、旧情を温めるべく、その僧を坂本
城に留め置いた」という内容が記されてる。称念寺は、越前を代表する
時宗寺院なので、光秀は遊行上人方の訪問に懐かしさを覚えたのだろう。
条の一部に『惟任方、もと明智十兵衛尉といひて、美濃土岐一家牢人た
りしか、越前朝倉義景頼み申され、長崎称念寺門前に十ヶ年居住』
(光秀は義景を頼り称念寺門前に10年住んだ)とあり、光秀が越前に
いたことが確かめられる。ただし、そこに10年滞在したが、朝倉義景
に仕えたという記録はない。


偶然が三つ私が光りだす  津田照子
 
 




       針葉方・口伝


 

「医学にも精通していた光秀。そして光秀は」
近年熊本県で新たに発見された『針薬方』は、明智光秀の初期の活動を
示す史料として注目を集めました。これは足利義昭に仕えた米田貞能(
さだよし)が、永禄9年(1566)に書き写した医学書ですが、その元
の本はそれ以前のある時期に、光秀が近江の高嶋田中城に籠城していた
ときに「口伝」したものとされます。
さらに本文中に「セイソ散 越州朝倉家の薬」と見えます。中世後期の
『金痩秘伝下』には、「セイソ薬」とほぼ同じ材料で作る「生蘇散」
いう付け薬が紹介されており「深傷にヨシ」とあります。



論客よ君スキップはできるかね  徳山泰子




平面復原地区の中の医師の屋敷跡




屋敷跡では、薬の調合道具や「湯液本草(とうえきほんぞう)」という医
学書の一部が発見されています。当時は、戦乱で荒廃した京都から多く
の公家や僧侶、学者、芸能者などが一乗谷に下向してきており、手厚い
もてなしを受けていた。一乗谷には、発掘調査による出土遺物から医師
の屋敷と特定された場所があります。また、戦国期に一乗谷で医学書の
伝授が行われていたことも判明しています。したがって一乗谷では医学
がかなり普及しており、朝倉氏が薬剤を同時開発する素地は整っていた
といえるでしょう。本文に「朝倉家の薬」とうたわれていることから、
朝倉家中では、セイソ散が戦場必携の「定番薬」だったのだろう。
本書の発見によって、これまでの朝倉氏研究で知られていなかった「セ
イソ散」
の存在が明らかになりました。光秀と越前の繋がりを考える上
で、本書が重要な史料であることは間違いありません。


キミが蒲鉾ならボクは板になる  酒井かがり





光秀は朝倉家のセイソ散を知っていた





『湯液本草』の炭化紙片や薬の調合などに使われたとみられる乳鉢や匙
が出土した屋敷を、医師の家と推定しています。『湯液本草』は中国の
医家、王好古が1241年に著した医薬書で常用薬が厳選され、効能などが
簡潔にまとめられています。また、同屋敷からは、中国製などからの輸
入陶磁器が多数出土したことも、特筆すべきことといえます。当時とし
ても骨董品として扱われた憂品が存在します。


[セイソ散の作り方]
① (右上)芭蕉の巻葉
② (右下)スイカズラ
③ (左上)黄檗(キハダ)
④ (左下)山桃の実と皮
※ それぞれ「霜」すなわち黒焼きにして粉砕する。この4つの材料を
油をつなぎとして、それぞれ同じ分量を調合すれば、完成。春冬は等分
でよいが、夏は多めに入れるのがポイント。


マツキヨで買った薬くさい理論  雨森茂樹










特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡の第51次発掘調査地に「医師の屋敷跡」
特定された区画がある。そこからは薬研・乳鉢・薬匙などの道具が出土
した。中でも決定打となったのは『湯液本草』(中国の医学書の写本)
の断簡である。火を受けて切れ切れな状態で、奇跡的に残った。
一乗谷には、医療を「生業」とする人が存在したのである。また一乗谷
で医学書の伝授が行われていたことも判明している。ともかく、一乗谷
では医学・医療が一定程度以上の水準で普及しており、朝倉氏がセイソ
散のような家伝薬を、独自開発する素地を十分整っていたのである。


放り投げた下駄から波が始まった  くんじろう


『金痩秘伝集』という針井流の金痩医術書がある。その書には、以下の
人々の手を経て伝えられたとある 細川高在(たかのり)→② 
地(智)十兵衛→ 越前桜井新左衛門尉→ 同 円蔵坊→ 越後
成就坊→ 同 蓮秀坊→ 関上弥五右衛門→ 善方半七

 注目は②→③である。③の桜井新左衛門尉は朝倉氏の重臣である。
永禄11年(1568)5月、足利義昭朝倉義景邸御成の際の記録・
『朝倉亭御成記』には、義景の「年寄衆」の一人に「桜井」がみられる。
金痩医術書の奥書に、光秀と朝倉家臣が併記されたこと自体、興味深い。
光秀の医学知識も相当なものであったことを示している。大したレベル
でなかったなら、ここに書かれていないだろう。それよりも何より「針
葉方」「セイソ散」
も含め、朝倉氏の地において、二つの医学書に光
秀の名が確認できたことは、不明部分のの多い光秀を見つけるための大
きな史料となった。


奇跡ってがらがらポンにつくおまけ  前中知栄






   朝倉義景


【朝倉氏の歴史】
・元亀元年(1570)4月、織田信長は、三好氏と朝倉氏を敵として
天下の儀の成敗権を義昭に認めさせ、4年にわたって朝倉氏を攻撃した。
「元亀の争乱」である。戦場ではよくあることで、浅井・六角の裏切り、
本願寺顕如との対決が加わり、この年の戦は信長にとって厳しいものと
なった。
元亀2年、信長方は、前年朝倉氏に協力した比叡山延暦寺と坂本日吉
社を焼き討ちして見せしめにした。一方の朝倉義景は、信長の越前攻撃
に備えて敦賀に滞在、湖北と湖西の両方面に備えた。
元亀3年、信長は浅井氏の居城・小谷城に本格的な攻撃を決行。義景
自ら出陣して、小谷城の大嶽(おおづく)に6か月にわたって籠城した
が、兵糧の不安から、同年12月に越前へ帰陣した。
 ・元亀4年、信長は湖西を攻め、義景は3月から5月まで敦賀に在陣。
湖西と小谷城の両方に対処した。信長が岐阜に帰陣した隙に小谷入城を
図るが失敗、逆に退却の途中刀根坂で信長方に大敗を喫する。 義景は
一乗谷に帰陣するが、信長は府中龍門寺に着陣して、軍勢を一乗谷に遣
わせ、8月18日から20日まで3日3晩にわたって一乗谷を谷中一宇
残さず放火し、破壊した。義景も20日に自尽。享年41。


返された鍵を裁断機にかける  清水すみれ




 
・(その後)天正元年(1573)、義景の母・光徳院と遺子の愛王丸
は生捕りにされ、身柄は府中の信長のもとに護送され、信長の部将丹羽
長秀に預けられて、26日、今庄の帰(かえる)の里で刺し殺され、堂
もろとも火をかけて焼かれた。ここに朝倉氏の嫡流は絶え、ここに朝倉
氏は滅亡。戦後処理で信長は、最初に信長方に寝返った大功を認めて、
前波長俊を越前の守護代に任じて一乗谷の館にすえ、部将の滝川一益・
羽柴秀吉・明智光秀の3人に越前の戦後処理を命じ、それぞれの代官が
北庄に駐留した。多くの朝倉氏同名衆は生き残って本領を安堵されたが、
苗字を変えられて、朝倉氏は解体した。


鰓が震えている忍び泣いている  雨森茂樹


・信長や一向一揆によって越前を制圧された朝倉氏の一族が、手をこま
ねいて滅亡したわけではない。
朝倉氏の同名衆の朝倉景嘉は、上杉謙信を頼って越後へ下向し、上方へ
馬を進めるつもりだと天正2、3年ころの書状に記している。
朝倉宮増丸は天正6年、朝倉氏同名衆の鳥羽景富の子・与三景忠を家督
に立てて朝倉氏を再興することを、毛利氏の勢力に期待して備後の鞆に
滞在していた足利義昭に要請している。
このように朝倉氏再興を計る朝倉氏一族もいたが、頼りにした謙信
利氏、足利義昭らは、急死や信長の強さには歯がたたず、それらの試み
は、すべて失敗に終わった。

蓮だってたまに反抗して開く  山本昌乃


(そして一乗谷の今)商人や寺社は信長政権下でも、その役割を認め
られて、柴田勝家の北庄城下に引っ越し、一乗町、一乗魚屋町などの町
が形成される。一乗谷の大規模寺院・西山光照寺、心月寺、安養寺など
も北庄城下の周縁部に移転され、今に至っている。
朝倉氏の時代に築かれた商業や宗教活動の伝統は、絶えることなく近世
の城下町に引き継がれている。

引き潮がくすぐっている足の裏  嶋沢喜八郎

拍手[4回]

額縁の栓を今すぐ抜いてくれ  河村啓子




 
(各画像は拡大してご覧ください))
       北斎漫画百面相


「漫画とは、事物をとりとめもなく、気の向くまま、漫ろに描いた画」
『北斎漫画』初編序にて、北斎自身が述べている。( 漫ろ=そぞろ)
「『北斎漫画』は、文化11年(1814)より順次刊行され、北斎没
後の明治11年(1878)に15編が出されるまで、常に人気も高く、
後刷本も大変人気のロングセラーとなった」

時刻表にはなかったバスがやってくる 竹内ゆみこ


「葛飾北斎」 北斎漫画







『北斎漫画』の総図数は4千ほどで、よくもこのように多数の図柄を思
いついたものだと驚嘆させられる。そこには、人物鳥獣画魚介、草木に
山水日常目にする光景から伝説の物語、幽霊や妖怪まで、通常思い至る
範囲をはるかに越えた、ありとあらゆるものが描かれている。当初は、
絵を学ぶ人の手引書や図案集を意図した。いわゆる絵手本として制作さ
れたらしいが、その再版の多さからしても、絵を志す者だけが、鑑賞者
ではなかったことが分かる。北斎もまた、弟子や絵を学ぶ者に教示する
というよりは、「見る人を喜ばせたくて仕方がないとでもいうように」、
頁をめくるごとに、次々と奇想天外でユーモアあふれる図で、鑑賞者を
迎えるのである。

ボンレスハムに毎夜聞かせている理論 森田律子


 「風に悩む人々」

特に秀逸なのは、人物の仕草を題材にした図で、人間の営みとは、この
ように滑稽なものであったかと気づかされ、つい笑ってしまう。
風に悩む人々の図「風に悩む人々」では、本来であればすまして歩いて
いてもよいはずの人々が、風に翻弄され、抵抗むなしく滑稽な姿に変貌
する様子が可笑しい。もちろんいくら風が強いといっても、ここまでの
姿になることは、現実的にはあまり考えられないのであるが、北斎独特
のユーモアセンスと想像力を持って、誇張して描き、見るものを笑いに
誘うのである。

画布すべて私色に染めてゆく  中田 尚


  「縦横」


北斎は身の回りで起こること、知り得ることのすべてを、ユーモアとい
うセンサーでキャッチして、必ず滑稽な造形に変えられるような、才の
ある絵師であったのだろう。おそらく自らの発想を、自ら面白がり、時
に笑いながら、筆を進めていたに違いない。もっともあり得ない人気の
図に、達磨が縦と横に顔をつぶしている「縦横」がある。このバカバカ
しく可笑しい城に、北斎は、やすやすと入ることができる。絵で人を笑
わせるということは、どの浮世絵師でも出来ることではない。どこから
思いつくことなのか、その想像力たるやもはや無限、北斎の自在な発想
の動きには、様々なツールや情報を持っているはずの現代のクリエータ
ーたちも太刀打ちできないのではないだろうか。


坊さんを連れて主治医が顔を出す  井上一筒
 



 「ジャポニズム」
北斎が影響を与えた)
  ↓


伏羲・神農 日本の知識に対する寄与

 
「北斎漫画」三編 (文化12年)
中国の神話に登場する伝説の帝王。
人類の始祖伏羲(ふつぎ)(右)医療と農耕の祖神農(左)





 ゴッホ「ばら」
ヨーロッパの伝統では、花瓶の花を描くのが基本。野生の花をクローズ
アップして描くのは、北斎の花鳥画に学んだ視点といわれている。
 
 
北斎「牡丹に蝶」
北斎は花鳥画の名手でもあった。ゴッホが感嘆したように、北斎は葉の
一枚、花びらの一片まで細やかに描き分けている。






サントヴィクトワール山(セザンヌ)


 駿州片倉茶園ノ不二



しかし人間の滑稽な姿を描いていても、北斎の絵が決して下品さや嫌味
を感じさせることがないのは不思議なほどである。18世紀半ばには、
ヨーロッパに伝えられた『北斎漫画』「ジャポニズム」の熱狂を導き、
欧米の画家や工芸などに大きな影響を与えたことはよく知られているが、
しばしば北斎の絵は優雅であるとさえ評される。それは画品というべき
ものであろうが、人間の滑稽さでいえば、それをただ、揶揄するのでは
なく、常に温かい眼差しを備えた観察眼が、愛すべき存在としての人間
を肯定的に捉えているからだろう。
※ 『北斎漫画』は北斎在命中から、シーボルトの著『NIPPON』
をはじめヨーロッパの出版物に転載され、19世紀のヨーロッパで大流
行しジャポニズムの端緒になった。


浮世絵に潜んでいるのはゴッホです 木口雅裕



旅を行く北斎
(葛飾応為画)




「北斎、名古屋への旅」
北斎がはじめて尾州名古屋の地を踏むのは、文化9年(1812)53
歳の秋のことである。売れっ子作家・曲亭馬琴の『椿説弓張月』で、斬
新かつ残酷な挿絵で一躍注目され人気者となった北斎だったが、馬琴と
制作上の意見の食い違いで、喧嘩別れをして、挿絵の注文が激減、かわ
って絵手本や一枚版画の依頼が多くなり、北斎としては一大転機を迎え
たときであった。この年、いわば江戸の絵画教師として,絵手本『略画
早指南』初篇を敢行した北斎は、生涯初の関西旅行に出発、帰路名古屋
に滞留した。名古屋で北斎を歓待したのは,牧助右衛門信充という15
0石取りの尾張藩士で、号を墨僊(ぼくせん)といった。名古屋城下鍛
冶屋町に住む墨僊は、自身の居宅を北斎に提供、同時に北斎の門人とな
った。墨僊は、熱烈な北斎の支持者で、江戸詰めのとき、喜多川歌麿
入門、歌政の号を持つ浮世絵師でもあった。
 
 

脇道に逸れて出会った福の神  高浜広川
 





高力猿猴庵の描いた絵


この折の名古屋滞在が,何日ほどであったかははっきりしないが、尾州
本屋・永楽屋東四郎の提案で、絵手本第二弾『北斎漫画』初篇の下絵を
描いた。北斎と永楽屋を結び付けたのは、江戸の蔦屋重三郎だった。
無論、墨僊も永楽屋東四郎と懇意にしていたに違いない。いずれにしろ、
東都の人気絵師・葛飾北斎の名古屋入りは、尾州の本屋、貸本屋、文化
人たちの話題を浚ったことは確かだ。そして、少年時代、貸本屋の小奴
として働いた経験を持つ北斎が、日本一の蔵書を誇る胡月堂大惣を訪れ、
文化サロン大惣に集う文人や画家たちと交流を持った。とりわけ『尾張
名陽図会』の著者、 猿猴庵(えんこうあん)こと高力種信とは、この折
に知り合ったものと思われる。高力は、墨僊の画友であり同じ尾張藩士
で、馬廻り役から大番にまで進んだ人物だが、尾張の地誌、風俗を記録
した著作で知られている。後に『尾張名所図会』の挿画を担当する小田
切春江は、高力の弟子である。


懸命に生きる一回きりの旅  山谷町子


 





北斎が墨僊の家で下絵を描いた『北斎漫画』初篇が永楽屋から刊行され
たのは、2年後の文化12年のことであった。
「目に見、心に思う ところ筆を下してかたちをなさざる事なき」
とは、『北斎漫画』第三輯の序に書かれた太田蜀山人の言葉である。
読本の挿画とは違い、本文の制約を受けることなく、眼に触れる森羅万
象の形姿をスケッチし、人物表現、自然風物、鳥獣中魚、お化け、など
寸景などを当代の天才絵師北斎は、自由闊達に描き出して見せた。
(好評を博した『北斎漫画』は、第二輯を北斎改め葛飾泰斗の署名で、
翌文化13年、やはり永楽堂から刊行された。

カシミヤの手ざわりですね美辞麗句  笠嶋恵美子



   北斎の描いた動物たち




北斎が、文化9年秋から名古屋鍛冶屋町の墨僊邸に何か月滞在したかは
不明だが、『北斎漫画』初篇300余図の版下絵を描いたとすれば、同
年師走近くまでいたのではないだろうか。とにかく翌10年2月6日に
は、北斎は江戸の自宅から墨僊宛に新年の挨拶状を送っている。絵手本
『北斎漫画』は二編以降、毎年一冊か二冊、ほぼ定期的に刊行され、文
政2年(1819)第10編を出して、一応、当初の計画を終了する。
しかし、続編を希望する読者が多く、結局15編まで続く。
(完結したのは、北斎没後30年目の明治11年(1878)で版元の
永楽屋東四郎も4代目善功になっていた)



僥倖を連れて来たのは泣きぼくろ  岸井ふさゑ








絵手本とは、門人たちに与えるための肉筆の教本である。それが版元に
よって出版されるに至ったのは、文化年間に入って北斎の門人が急増し
たこと、読本挿画画家としての北斎に熱烈な私淑者が多かったからであ
る。門人は、孫弟子も入れ、ピーク時で230人余りといわれ、私淑者
はその何倍かを数えただろう。名古屋の主な門人は、居宅を宿舎として
提供した墨僊を筆頭に、墨僊の門人で、やはり150石取りの尾張藩士
沼田月斎、本業は大工の東南西北雲、履歴は不詳の北鷹ら数人であった。
また、漫画のルーツである。百面相や人物表現では、後輩の広重、国芳
らにも大いなる影響を与えている。


広重も北斎もいる夏の雲  矢沢和女



北斎のお化け




「北斎、名古屋再び」
文化14年(1817)春、北斎は2回目の関西旅行を敢行、再び名古
屋へ立ち寄った。永楽屋の要望による『北斎漫画』版下制作のためで、
滞在は半年に及んだ。この時も墨僊邸を宿舎としたが、当時、永楽屋で
小僧をしていて、後に別家した永楽屋佐助の証言によると、途中からは
花屋町の借家にいたらしい。小僧として、版下絵をもらい受けにいくだ
けの佐助の目には、敷きっぱなしの床の横で、制作に没頭する58歳の
北斎は、ただの薄汚れた老人としか映らなかったに違いない。このとき
北斎が描いていたのは、第8編の版下絵であった。その8編の序に緯山
漁翁はこう書いた。
「戴斗翁、劫(むかし)より画癖あり、唯食唯画而巳(のみ)遂にもて
葛飾一風を興して画名声に高し於茲(ここにおいて)其門に入りて技を
学ぶ者多し翁これに教えて曰く「画に師なし唯真を写事をせば自ら得べ
北斎漫画によって北斎は葛飾一風を世に示した。


右腕は残業 左には団扇  中村幸彦


「佐助の回想録」
花屋町の家へ版下絵を受け取りに通っていたとき、
「先生はいつごろ江戸へお帰りですか」
と佐助が尋ねると
「オレはもう江戸へは帰らぬよ。この名古屋は真によい所で、オレの身
体には、時候も食い物もあっているから、ここがオレの死に場所だな」
と北斎は答えたそうである。これを聞いて佐助は、何となく嬉しくなっ
たが、それから間もなくして、北斎は伊勢に旅立っていった。


福耳の持ち主もいるホームレス  藤原紘一








「120畳の紙に大達磨を描く」
紙の大きさは縦18㍍、横10㍍、日時は10月5日早朝、場所は西本
願寺別院(西掛所)の東庭。版元は事前にチラシを配っておいたから、
貴賤老幼の見物客は夥しい数にのぼった。







「北斎、だるせん」
名古屋にて二度目の滞在の折、北斎は城下の人々を驚かせる一大パフォ
ーマンスを行った。百二十畳の紙の上に達磨の大画を群集の前で描いて
見せた。北斎にとって群衆での大達磨制作は、これが初めてではない、
文化元年4月、45歳のとき北斎は、江戸音羽の護国寺境内で、やはり
120畳の紙の上に、達磨半身像の大画を描いている。
因みに「だるせん」とはダルマ先生のこと。このパフォーマンスの反響
に気をよくした北斎は、江戸の本屋と組んで本所合羽干場では馬を、ま
た両国回向院では、布袋の大画を描いている。つまり名古屋の大達磨は
4度目のパフォーマンはだったことになる。
 

絵に描いたダルマ時々会釈する  青木公輔
 
 
 
 


集合所の軒に添って杉丸太の木組みが作られていて、両端の丸太の先端
には滑車が仕掛けてあり、料紙の上方につけられた軸に、細引きの綱を
つけ、滑車で引き上げられるようになっていた。両側を夥しい観客が囲
む中へ、北斎は襷をかけ、袴の裾をまくって現れた。昼過ぎより描き始
めた画は、まず鼻を、次に左右の眼、続けて口、耳、頭と描き進められ、
毛書で月代、髷を描いた後、棕櫚箒(シュロほうき)に薄墨をつけて隈
取とした。次に代赭(たいしゃ)色を淡く、棕櫚箒でのばすのである。
大画が小車で引き上げられたのは、夕方であった。滑車の音を響かせな
がら引き上げられたとき、群衆の中から沸き上がったどよめきと喚声は
凄いものだったらしい。このパフォーマンの後、あまり日をおかないで
北斎は名古屋を出立した。旅程は名古屋から伊勢に入り、伊勢から紀州
を廻って大坂、京都へ歴遊した。

スゴーイで片付けられる凄い技  永井 尚

拍手[2回]

ポジションは茸の笠の裏の闇  相田みちる



   応仁の乱(『真如堂縁起絵巻』真正極楽寺蔵)

「麒麟がくる」-光秀と秀吉の違い

「応仁の乱」(1467~77)、この10年のたわいない争いの後、
社会の上下が崩れ、やがて下が上にあがり、百数十年の戦乱のあげく、
ある者は天下人の夢を追い、また出自のはっきりしないものが、いつし
か政治の中枢にまで上り反逆者になったり、ついには、浮浪児にような
境遇から身を起こした者が、天下を掌中に収めるという、目に見えて運
命が動いた時代、それが「下克上の戦国時代」である。もし応仁の乱が
なければ、明智光秀の悲劇も豊臣秀吉の奇跡もなかった。ここで表と裏
のようなの性格で、ともに信長の配下にあった光秀と秀吉を検証する。

王様になるか石つぶてになるか  月波与生






信長の思想は、同時代の人間とは違っていた。まず他人の門地を問わな
かったことである。その生涯の後期、野戦軍を五個軍団に分けていたが、
五人の中、サムライらしい節目を持っていたのは、柴田勝家丹羽長秀
だけだった。この2人については、智謀より野戦指揮官としての勇猛さ
を信長は買っていた。勢力がやや大きくなると、滝川一益を抜擢し一方
を束ねさせた。一益は忍びの出身だったから、諸国の事情に明るく、偵
察の能力に期待した。しかし器量はあくまでも野戦型の武将だった。
むろん勝家や長秀と同様、才覚というような照り映えするものは持って
いなかった。
【門地】 いえがら


この釘を抜いても何も変わらない  吉川幸子

四番目が豊臣秀吉である。
彼は信長にとっての第二段階である美濃進出の準備期から出頭人になっ
た。門地などはなく、いわば浮浪児あがりで、信長によって泥の中から
拾われ、実地のなかで信長の教育を受けた。信長好みの気魄はあったが、
個人的な武芸があったわけではない。信長は、結局、人間を道具として
みていた。道具である以上、鋭利な方がよく、また使い道が多様である
ほどいい。その点秀吉という道具には翼がついていた。
【出頭人】主君の側にあって政務に参与した者

凡人は鈍感力でできている  井上恵津子





坂東彦三郎の秀吉

秀吉は早くから信長の本質を見抜いていた、この徹底した唯物家に奉公
するために我を捨て、道具としてのみ自分を仕立てた。ただし彼は自分
韜晦(とうかい)しながら、いつの時期からか密かに自分の天下構想
を持つようになった。信長は死まで秀吉のそういう面に気づかなかった
に違いない。道具が構想を持つはずないと思い込んでいた。
【韜晦】 自分の才能・地位などを隠し、くらますこと。


聞く耳を持てばなんでもないはなし  荒井加寿

やがて信長秀吉という道具に、多面性を見出していく、早くから経理
や補給という計数の才を見出し、ついで土木の才も見出した。計数と土
木の才は、当時も国主級の大将に不可欠なものとされていた。信長は当
然、秀吉を恐れたはずだが、当の秀吉は主人の嫉妬を買わぬよう、でき
るだけその才を秘め、剛毅で質朴な前線指揮官であるべくふるまった。
また大功をたてるつど、その果実を信長に惜しげもなく還元した。信長
は秀吉の無私ともいうべき気前良さに幻惑され「大気者」(たいきもの)
とあだ名して無邪気に喜んだ。
【大気者】小さなことにこだわらない、度量の広い者。


虫も飼い騙し船押す腹の中  星出冬馬

その上、秀吉には取引の能力があった。たとえば美濃攻めのとき、尾張
の山野をうろついている無所属の武将団と取引して自分の配下に入れた。
ただし、それらをいちいち信長にお目見えさせ、織田家の直参というこ
とにし、自分が一時あずかるという体裁にした。代表的な例は蜂須賀小
らで、彼らのことを当時の用語で「与力」といった。だから法的には
秀吉は小六らと同格だった。それが、織田家の軍制の原則ではあったが、
秀吉は信長に自分の勢力がふくらんでいるようには見せたくなかったの
である
【与力】侍大将・足軽大将などに付属した騎馬の武士


息できるほどには空けておく隙間  松浦英夫





中村芝翫の光秀

第五番目の司令官である明智光秀もまた、信長が土のなかから見出した
人物である。流浪お牢人だった。姓からみると、その出は美濃の明智家
だが、今はその痕跡を辿ることもできない。光秀は、信長にとって、
具としては出色だった。数万の大軍を指揮できるばかりか、京都の公家
や将軍家、幕臣たちと交際する能力という他の将にないものを持ってい
た。その時期、信長にはそれが必要だったのである。が、こまったこと
に、当の光秀には「道具である自覚」が少なかった。まず彼はそのまわ
りに美濃人をあつめて、一種独立色の濃い軍団を持つようになった。
ついで、自分の古典的な教養を隠そうとはしなかった。
子飼いの秀吉さえ薄氷を踏む思いで信長に仕えているのに、光秀は鈍感
だったとしか思えない。

比叡山の肩のあたりの温湿布  山本早苗

信長は、ある時期から兵士を公称した。当時の慣例として、征夷大将軍
になった幕府をひらくことができるのは、源氏にかぎられる。ただし、
鎌倉幕府の先例では、執権家は平氏ということもある。初期の信長が、
衰弱した室町将軍家を擁して執権たろうとしたために、平氏を公称した
のだろう。ところで室町将軍家を廃してしまえば、どうなるのか。平氏
だから織田幕府は開けないのである。当然、先例を平清盛にもとめて、
公卿になり、関白・太政大臣として、律令体制も上に乗らねばならない。
しかし律令体制は、亡霊のように実体がない。信長としては、
論理の帰結として、新たな中央集権体制を考えざるを得ない。

ビッグバン夢見てるのか楕円形  岩田多佳子

信長の野望の最終の行き先は、一貫しているが、この強烈な自我の拡大
は、後半の一時期、一見弛んで、他の政治的表現をとった。日本の中央
を制覇した時、五人の軍団長に、それぞれ領地を与えて見せたのである。
いわば、部分的に封建制を布いた。諸将が切り取った分の何割かを封国
として与えた。たとえば、秀吉は近江の一部をもらい、光秀は丹波をも
らった。長は、その後も諸将を前線へかりたてた。秀吉については、巨
大な中国の毛利氏と対決させた。毛利攻めのある段階で、秀吉は安土城
で信長に拝謁し「私は、中国を斬りとっても領地はいりません。それを
上様にさしあげます。ただ一年分の年貢を頂き、ぜひ、九州を斬りとら
せてください。九州をとれば、又それを献上し、年貢を一年分頂戴して、
今度は朝鮮を攻めさせてください」
秀吉は、自分が無欲であることを証明したかったのである。

見え透いたお世辞空気が多角形  上田 仁

これに対し、光秀は可愛いばかりに鈍感だった。
光秀は信長が意図していることがまるで見えていなかった。彼はせっせ
と丹波の領国を磨き上げた。百姓本位の政治をし、万が一の基金対策を
するなど、当時としては理想に近い封建政治を布いた。古い体制の破壊
を目論んでいた信長は、そういう光秀が片腹いたく気にもいらなかった。
のちに信長は光秀から丹波を召し上げて、他に大きな領土を与えること
をほのめかして、毛利攻めの応援を命じている。信長としては光秀を官
僚として扱っているのだが、封建主義の光秀にとっては拠って立つべき
領国が消滅する。その結果として「本能寺の変」が起こるのである。
                       (この国のかたちゟ)

身のほどを知れと叫んでいるムンク  井本健治

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