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川柳的逍遥 人の世の一家言
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落ちつくのですがらくたに囲まれて  小林すみえ


 
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  絵本満都鑑(寄席風景)


 
『醒酔笑』(せいすいしょう)
抜けた男に、海老ををふるまったところ、赤いのを見て「これは海老の
生まれつきか、それとも朱を塗ったものか」と、尋ねるから「生まれつ
きは青い色だが、釜で茹でると赤くなる」と、説明してやると合点した。
ある時、馬上の侍の前を中間たちが、二間半の朱槍を持って歩いている
のを、この男が見て、「世間は広い、珍しいことがある」と感心する。
「何をお前は感心しておるのだ」と、聞いてみると「あの槍の赤い色は、
火をたいて皮をむいて色をつけたものだが、あれ程の長い釜があったも
のだ」といった。「安楽庵策伝」


 
「上方生れ 江戸育ち」 落語




曽呂利新左衛門


 
安土桃山時代に京都の僧侶・安楽庵策伝が、上級階級の前で演じた口演・
「醒酔笑」また、戦国時代には、大名あるいは将軍といった身分の高い
人に聞かせた「お伽衆」「咄職」が落語の原形といわれます。
それは、いまでいうとラジオ・テレビなどの代わりの役目を果たしたわ
けで、毎夜のように新しい話を聞かせる。
種がなければ、自分でどんどん作って聞かせるという具合でした。
これらの人の中で著名なものとして伝えられているのは、冒頭の僧侶・
安楽庵策伝、お伽衆・曽呂利新左衛門豊臣秀吉その他に、小咄または
落語のようなものを聞かせたと伝わります。
やがて、江戸が江戸らしくなって、五代将軍・綱吉の頃、京都・大坂・
江戸において不特定の聴衆を前にして軽口、滑稽を演じ、街頭で喋り、
何がしかの代銭をとって、営業化する者が現われはじめます。
「辻噺」と呼ばれるもので、その代表的な人物が、京の露の五郎兵衛
大坂の米沢彦八。醒酔笑の作品をヒントに五郎兵衛は長目の小咄を創作
独演したと伝わります。また、大阪落語の始祖・彦八は、生國魂神社に
おける「彦八まつり」というイベントにその名が残ります。


 
まだ少し濡れている新しい風  雨森茂樹




    鹿野武左衛門の一席


 
一見、順調に発展すると思われた「辻噺」でしたが、悲劇が起こります。
京・大坂、江戸でも人気の大家(たいか)に鹿野武左衛門という人が作
った「堺町馬の顔見世」という噺をヒントに事件が起きたのです。
当時、市中に疫病が発生し死者が出るという騒ぎが起きたとき。
この騒ぎに便乗して一儲けを企んだ八百屋と浪人が、南天の実と梅干の
特効を説き、処方箋までつけて売りまくりました。
このため、南天と梅干は高騰、偽の予防薬は大いに売れましたが、まっ
たくのイカサマと露見し、犯人は斬罪と牢死、著者と版元は島流しとい
う、大騒動になったのです。
 
折る指が足りぬ空転が続く  杉浦多津子




  烏亭焉馬


 
この「南天梅干事件」のお陰で、庶民の「噺」に対する興味は急速に衰
退し、安永2(1773)年から、庶民参加型へと変わっていきます。
それは、「雑排、にわか、小噺」などを一般から募集し、出来映えに応
じて景品をだすという趣向のものでした。それを出版社がバックアップ
して東西で流行り出したのが、「噺の会」というものです。
「噺の会」は、従来の「軽口噺」にオチをつけて滑稽味を加えた落し噺
で、それが「落語」へと発展していく礎となります。
こうして疫病事件以降衰退していた噺の世界が、復活を遂げます。
復活の機運を特に盛り上げたのは、職業は、大工棟梁ですが、狂歌を好
んだ初代・烏亭焉馬(うていえんば)が天明6(1786)年の噺の会でした。
" いそかすは濡れましものと夕立のあとよりはるゝ堪忍の虹 " 焉馬
 
窓際のうつろな春の福寿草  北原照子


 
寛政3(1791)年には、大阪下りの落語家・岡本万作が、日本橋の駕籠屋
の二階を借りて行った夜興行が好評を博します。同人が同10年、神田
豊島町の露店び「頓作軽口噺」の看板をかかげ、辻々にビラを貼って客
を集めて興行をしました。これが「寄席興行」の初めであるとともに、
ビラによる集客宣伝の新機軸は、今日の寄席文字の初めとの位置づけが
され、また寛政10年には、職業落語家第一号、江戸噺元祖といわれる
初代・山笑亭可楽が下谷稲荷社の境内で「プロの落語家」としてはじめ
て興行を開いています。


 
檜扇が咲いて祭りが始まった  河村啓子


 
これがきっかけとなって、江戸市中の寄席は、文化元(1804)年、33軒、
同12年75軒、文政8(1825)年には、130余軒と増加していきます。
こうしたブームの中、天保13(1842)年、老中水野忠邦「天保の改革」
で落語の演目は神道講釈、心学、軍書講談、昔話に限られ、寄席は15
軒に制限されました。しかし、翌天保14年に水野が、失政により罷免
されると、再び活況を帯び66軒に回復、10年後の安政年間にいたっ
ては、従来の軍談講釈220軒を含め392軒までにふくれがりました。
寄席の数の増加に伴い、落語家も増え、興行体制も整備されていきます。
(寄席の収容人数は、ほぼ千人程度で木戸銭は48文。歌舞伎の大衆席
が木戸銭だけで130文であったことからも、寄席がいかに庶民的なも
のであり、安価な娯楽であったかが分かります。(一文、凡そ20円)
 
忘れよう象に踏まれたことなんか  笠嶋恵美子

 


『ごぜん上等すててこおどり』
 
明治維新後の東京は、地方出身者が多くなり、それに伴い、江戸っ子好
みの「人情噺」よりも笑いの多い「滑稽噺」が好まれるようになります。
明治10年代には初代・三遊亭圓遊が、滑稽な文句と踊りの「ステテコ踊
り」で人気を得ました。同様に初代・三遊亭萬橘(まんきつ)は「ヘラ
ヘラ踊り」で、4代目・立川談志「郭巨(かっきょ)の釜掘り」とい
う滑稽な仕草で、4代目・橘家圓太郎、「馬車の御者の吹くラッパを
高座で吹き」人気者となりました。これが「珍芸四天王」と呼ばれた芸
人さんです。圓遊は、ことに時事的な話題を盛り込んだ笑いの多い改作
「新作落語」も演じ、さらに人気を高めました。


 
生き方が合うのでたまにカッパ巻き  靍田寿子




露の五郎兵衛の口演


 
「露の五郎兵衛のこんなものです軽口噺」

まるで字を読めない田舎侍が、お供を数人召し連れて、京都の室町と
いう
通りをぶらぶら歩いておりました。この室町という通りは、呉服
屋だとか
商売をしている店が多く並んでいるところでして、それぞれ
の店は軒に暖
簾を垂らし、店の屋号や売り文句なんかを、そこに書き
付けてあったんで
すが、この田舎侍、読める字がひとつもありません
でした。ですが、お供の手前もあって「字が読めない」とも言えず、
いかにも読め
るという風を装って、右の暖簾を見ては頷き、左の暖簾
を見ては、
「ははん、なるほど」などと言いながら歩いておりました。



前頭葉写っていないレントゲン  合田瑠美子
 
 
すると、その通りの中に戸を閉ざしている家がありまして、その板の戸
短冊状の紙が貼ってありました。
見ると、なにやら文字がすらすらと書かれてあります。
「これはなにやら、見事な句に違いない」
そう思った田舎侍、お供の一人を近くに呼び寄せ、
「お主は字が読めるか?」
「はい、多少は」
「うむ。それでは、お主の教養にもなるだろうから、ちょっとこの句を
んでみなさい」
「はい。ええっと、“ 貸し家、貸し蔵あり ”と書いてございます」
田舎侍、動じもせずに、腕なんか組んで、
「うむ、字はよろしくないが、“ この家貸します、この蔵貸します ”と、
長々と書かない奥ゆかしさが、なんとも良いではないか」
ええ、負け惜しみも、ここまでくると立派なものですな。


 
昼は賢者で夜は過敏な幻燈屋  山口ろっぱ

「おまけ」

ある家の主人が銭を庭に埋めて隠す時、
「必ず、他の人の目には蛇に見えて、自分が見る時だけ銭になれよ」
と言うのを、こっそり家人が聞いていた。
家人は銭を掘り出し、代わりに蛇を入れて置く。
後になって例の主人が掘ってみると、蛇が出てくる。
「おいおい、俺だ。見忘れたか」
と何度も名乗っていた。

「おい棚の修理をするから、大家んとこへ行って、金槌を借りて来い」
 言い付けられた者が、手ぶらで戻ってくる。
「どうしたい?」
「へえ、釘でも打たれたら、頭が減るってんで、貸さねえんです」
「ちぇ、ケチな野郎だ。しようがねえ、家のを使おう」


 
梅雨前線通過中です揉めてます  美馬りゅうこ

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四角張った話止めましょ花曇り  柴本ばっは



 (拡大してごらんください)
   金原亭馬生画「長屋の花見」
趣味は絵というだけにうまいものです。


「噺家と川柳」

 

昭和5年ごろ、噺家と親交のある川柳家・坊野寿山4代目柳家小さん
と5代目・三遊亭圓生「俳句をするのに、どうして川柳をやらないん
ですか」と声をかけた。寿山とは、明治33年(1900)、木綿問屋の五男
として裕福な家庭に生まれ、落語が好きだったことから、「旦那」とし
て噺家たちと親しく付き合う川柳人である。寿山の川柳は大学在学中の
21歳ころ、川柳六大家の活躍に合せるように始まったという。寿山の
指摘の通り小さんは俳句については造詣が深く、句作にも自信があった。
「俳句が詠めるんだから、川柳だって…」とその気になり、圓生も乗り
気で「寿山先生が教えてくれるというなら、噺家仲間にも声をかけてみ
ましょう」ということで、噺家による川柳の会が発足した。
名称は「鹿連会」になった。そしてその年、根岸の寿山宅を会場に第一
回句会が催され、そうそうたるメンバーが揃った。
メンバーの名はその時、提出された川柳にて紹介。

 

確信犯だと思う貴方との奇遇  前中知栄

 

拳を打つ男同士へ花が散り  黒門町の師匠ー桂文楽
鼻歌で寝酒も寂し酔い心地  柳家甚五郎ー古今亭志ん生
姐芸者こんな香水けなしてる  三遊亭圓生
縁起物お召しのドテラ使われる  ゲロ万ー金原亭馬之助
三階で見ればダンスは足ばかり  毒舌家ー桂文都
誘惑の眼すんなりと美麗な手  8代目小三治
押入れの枕が落ちる探しもの  柳家小さん
言い訳の顔は煙草の煙の中  紙切りの初代ー林屋正楽
また聞きは本当らしい嘘になり  玉井の可楽ー7代目三笑亭可楽
新所帯雑誌を読んで眠くなる  春風亭柳楽ー8代目三笑亭可楽

 

鼻の下由緒正しく持ち歩く  森田律子

 


 (画面をクリックすると画像が大きくなります)
「鹿連会」11人の噺家たち
左から圓蔵、柳枝、正楽、志ん生、文楽、圓歌、西島〇丸、坊野寿山、
右女助、馬生、小さん、三木助、圓生

 

それにしても弱冠30歳の寿山が自分よりも年上の、一癖も二癖もある
噺家蓮中を向こうに回して川柳指導をする。よくもまあ、「こんな会が
成り立ったものだ」と感心するばかりだが、実際のところ寿山の「力」
はなかなかのものだったようだ。しかし寿山の熱意とは別に、好きもの
とはいえ、気まぐれな人たちの集まり、この会(第一次)は、わずか2
年で自然消滅してしまう。
それから23年。寿山は53歳のとき、6代目・圓生が、同じ齢の寿山
に「先生戦前にやっていた川柳会をやってみたいのですが」「それなら
あんたが幹事だよ」と阿吽の息の会話から、圓生が奔走し、寿山ほか四
谷西念寺住職であり川柳会会長の西島0丸(れいがん)が加わり、落語
家11名、計13名のメンバーで「第二次鹿連会」スタートした。
こちらの会は、10年以上続き、毎月句会が開かれた。

 

納豆を食べて粘着質になる  新家完司

 

11名の落語家の作品。
指の爪生まれもつかぬ色になり  園生
借りのある人が湯船の中にいる  志ん生
鳥鍋を突っつきながら金の事  文楽
鼻歌も欠伸もうつるいい天気  右女助
ゼンマイを巻くにノッポは使われる  小さん
総絞り広巾に〆め金鎖  正楽
あれ以来宮本鍋蓋イヤになり  圓蔵
女房の帯から這入る年の暮  三木助
鉛筆の押し売りがくる昼下がり  馬生
ふぐさしは皿ばかりかと近眼みる  柳枝
神近が落ちて喜ぶ牛太郎  圓歌

 

うやむやで済ませた過去が通せんぼ  上田 仁

 


テレビ出演後の記念写真
古今亭金馬や徳川無声の顔も見える。    

6代目圓生、5代目小さん、寿山の三人の当会の感想がある。
(圓生)
「この会は噺家としての看板が揃っていたし、しかも句がおかしんだ」
(小さん)
「うまいんじゃなくて、おかしいのね」
(寿山)
「でも噺家さんは選者の言うことを聞いてくれない。私が出す席題が
気に入らないと、皆、平気で『悪い題だ』って文句いうんだもの」
圓生の言葉通り、鹿連会の同人には、昭和の名人上手がずらりと並ぶ。
そんな大看板が次々と「おかしい句」を拵えるのだから、世間の注目
を集めるのも当然だった。
31年6月、新築した寿山宅での例会が「落語家と川柳」の題でラジオ
東京から放送され。
32年には、雑誌「淡交」「鹿連会」の特集を組むため、句会の取材
にやってきた。それならばと「ミニ茶会」が始まった。
最年少の馬生が緊張で手を震わせながら茶を点て、皆、よそ行きの顔で
川柳を作った。
そして同じ年の暮、人形町末広の高座で鹿連会を開催した。
即席川柳がウケること、ウケること。
その上がりを待って四谷に繰り出し、ついでの忘年会として大騒ぎ、
「猫(芸者)三匹呼んだ」というエピソードまである。

 

大仏が歩きだしたら人気者  ふじのひろし




 
正月 馬生以外家族勢ぞろい

 

「いだてん」の縁で古今亭志ん生の川柳にページをさきます。
志ん生は、川柳の師匠・坊野寿山に川柳を愛するわけを話した。
「川柳くらい、いい道楽はない。安くて人に迷惑をかけず、腹も減らず、
落語にも役に立つ。倅が酔って遅く帰ったりすると、川柳をやれという
んです」
志ん生の句風は自然流。面倒な作句法などは一切なし。暮らしの中で
見聞きしたことを思ったまま、575にする。
ただそれだけなのに、何ともいえない可笑しみのある句を作る。
干物では秋刀魚は鯵にかなわない
サンマの干物を見て感じただけなのに…、昭和の落語名人たちが呆れ、
感嘆したというのだから、落語家はやっぱり面白くておかしい。

 

笑い過ぎて繁盛亭に住みつく蚊  森吉留理恵

 

戦前の貧乏時代、志ん生(甚五郎)は、お金にまつわる川柳が多い。
抱きついてキッスを見るに金を出し
「志ん生はどんな題が出ても、まず酒と結びつけて句を作る」
とは、鹿連会同人ほぼ全員の見解である。
パナマをば買ったつもりで飲んでいる
この志ん生のすすめで、俳句や絵画が好きだった長男の馬生は戦後、
同会の最年少同人となり、(最後まで最年少の身分は変わらず)
小間使いを兼ねて、いやいや川柳を作ったという。
その作風は「貧乏」が代名詞だった志ん生の家で育ったのに、「貧乏」
を扱った句が見当たらない。志ん生は貧乏そのものを楽しんだが、
馬生は「父ちゃんのおかげで苦労した」という思いが強かったようだ。

 

円周率1000桁言えるのに迷子  清水すみれ

 



志ん生の膝に池波志乃、おりんさんの膝に美濃部由紀子

 


「馬生の次女・美濃部由紀子さんの回想」
祖父・志ん生、父・馬生、叔父・志ん朝は、芸風も性格も全く違う三人
三様なら、趣味も三人三様でした。志ん生の「飲む打つ買う」は有名で
すが、さすがに年を取ってからは「飲む」だけは変わりませんでしたが、
趣味は「川柳と骨董道楽」に落ち着きました。
志ん生の骨董道楽は一風変わっていて、好きで買っても数日で飽きて売
ってしまい、売った先でまた何か買うの繰り返し、何が楽しかったのか、
私が思うに店の店主とのやり取りが楽しかったのではないでしょうか。

 ひっそりと電話を見てる女あり  馬生
 

父・馬生「川柳」もやりましたが「俳句」の方が好きでした。
「日本画・日舞・長唄小唄・カメラ」など多趣味でしたが、晩年はもっ
ぱら俳句でした。父と母は10代の頃、同じ日舞の稽古場で知り合い、
お互い惹かれ合いましたが、弟子同士の恋愛はご法度。そっと俳句で気
持ちを伝えあうという粋なお付き合いをし、結婚しましたので、恋女房
とゆっくりお酒を酌み交わしながら、俳句の話をすることを何よりの楽
しみにしていました。また父は、あの通りの破天荒な人だから、祖父の
替わりに父は10代の頃から家族を養い、祖父が亡くなるまで父親代わ
りに面倒を見てきました。それでも祖父からは、何の引き立てもなく、
自身の力で名人といわれる人になりました。まさに努力の人です。
叔父・志ん朝は志ん生が48歳のときの子。貧乏からやっと抜け出した
後の誕生でしたから何不自由なく育った大店の若旦那の様な人でした。
趣味もやはりそれらしく「車、ゴルフ、ジャズ」
15才の頃にジャズに凝り、ビニールを張った洗面器をいくつも並べ、
ドラムの練習だと暇さえあればボンボン叩き、やかましかった。
三人の共通点は三人とも芸の虫。それでも家で三人が芸談をする事は、
ほとんどなかったと思います。

 

秘書は有能水増しを匙加減   山口ろっぱ        

 

今回の文章は、この回想を語る美濃部由紀子さんと長井好弘さんの共著
『落語名人たちによる名句・迷句「昭和川柳」』を参照しています。
由紀子さんは、志ん生の長男・馬生の次女として、父のマネージャー兼
付き人をしており、写真を見るところ、姉の池波志乃そっくりの色っぽ
い美女である。義兄に中尾彬、叔父に古今亭志ん朝、長男は金原亭小駒
という落語・芸能一家の中で育った。
志ん生の次男・志ん朝(6代目志ん生)は第二次鹿連会には間に合わず、
「仔鹿会」を発会させている。
最後に「仔鹿会」の作品を少し紹介して終ります。

タクシーは客の片手を見逃さず  三升家勝二
岸総理涙をのんで国産車  柳亭小団次
泳いでる人まで逃げる俄雨  柳家小さん(4代目小せん)
トースケがよくて前座の長い夜  古今亭志ん朝
んでない隠居のふところ手  三遊亭余生(5代目圓楽)
くだらない司会でやっと売れてくる  林家三平
めざましにせめられている二日酔い  柳家小ゑん(五代目立川談志)
スタイルを気にする前座背がほしい  橘家升蔵(8代目橘家円鏡)

(志ん朝の「トースケ」とは楽屋の符丁で「ご面相」のこと。
 イケメンは前座でも、二日働けば吉原で遊ぶ金ができると)

 

タクシーで帰るタクシー運転手  くんじろう

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膝の皿とり替えてから出直そう  笠嶋恵美子


 



 「落語によく登場する人物」
大家さん
地主から委託された雇い人。長屋の相談役。(長屋の花見)
若旦那
大体が放蕩息子で仕事が出きず、金食い虫。(長屋の花見)
大旦那
まじめで、商売一筋。ケチで小うるさい。(片棒)
権助
商家の使用人。地方出身で真面目で勤勉。(権助提灯)
与太郎
少々おつむが足りず、定職を持たないフリーター。(孝行糖)
熊五郎
真面目だが酒好きで、大雑把な性格。失敗が多い。(初天神)
甚兵衛
相談に乗ったり、仕事を紹介したりする性格のいい人。(火焔太鼓)
おかみさん
職人のおかみさんは働き者でしっかり者で焼きもち焼き。(文七元結)
(噺によって、人物像は多少の違いがあります)

 

ゲートインするなら原液のままで  酒井かがり

 


 (画像は拡大してご覧ください)
魚を打って歩く棒 手 振 り

 

「落語を一席」 芝浜 (いだてんつながり)

 

ここに出てくる主役は、熊さんとおかみさん。
長屋住まいの熊さんは「魚熊」と呼ばれる棒手振りの魚屋さんです。
腕もいいし、評判も上々ですが、酒好きなのが珠に瑕で、しかも
のべつまくない呑んでいたいため、仕事が疎かになってしまいます。
結局お得意さんは離れていき、本人も休むようになり、今も半月ほど、
仕事しないで休んでおります。
暮れも押し詰まったある日、「明日から一生懸命働く」という熊さん
の言葉を信じたおかみさんは、熊さんがすぐに働きに出られるように
支度を整えます。翌朝、熊さんを何とか起こして、市場へ買い出しに
送り出します。
日本橋の魚河岸が有名ですが、芝の浜にも魚市場があり、小魚を専門
に扱っておりました。

 

断崖に来ると押したくなる背中  森田律子

 

魚市場に着いても夜が明けませんし、まだ魚市場も開いておりません。
おかしいなァと思っていると、明六つを告げる切通しの時の鐘が
ゴーンと鳴りはじめます。
「かかあのやつ、時刻を間違えやがった…」
ようやく一時ほど時間を間違えて早く起こされたことに気がつきます。
仕方がないので浜へ出て一服していると、お天道様が出てきましたので
手を合せ。顔でも洗おうと思って海に入ると、足元に紐が見えます。
革の財布の紐であることがわかり、手に取ってみるとずっしりと重く、
驚いた熊さんは、一目散に財長屋に帰り、おかみさんに話します。
中身を確かめてみると、小粒(二分金)で50両も入っております。
これはもう仕事どころではありません。

 

司教様ワタリガニどすお導きを  山口ろっぱ

 

「これだけありゃあ、もう好きな酒飲んで、遊んで暮らしていけらぁ」
と大はしゃぎ。
「今日ばかりは思う存分呑んでもいいよ」と、
おかみさんにもすすめられ、酒を呑んで、ひと眠りして、湯屋の帰りに、
飲み友達を連れてくるし、酒と仕出し料裡を届けさせて、
どんちゃん騒ぎです。
あげくの果て熊さんは、すっかり酔い潰れて寝てしまいます。
日の暮れの頃、おかみさんに起こされ
「酒と仕出しの支払いをどうするの」
と尋ねられます。
「50両渡したじゃねえか」と答えると
「知らないよ」と言われてしまいます。
おかみさんは、熊さんが拾ったお金のことを本当に知らないようです。


 

あらいやだ押すと凹んだままになる  小林すみえ

 


「朝、芝の浜で拾ってきた財布を預けたじゃねえか」と、
言ってみても
「なに寝ぼけて馬鹿なこと言ってるんだい。夢でも見たんだろう。
この家のどこにそんな五十両なんて金があるんだい。
しっかりしてくれなきゃ困るよ」と、
言い返されてしまうなど、埒のあかない同じようなやりとりが続きます。
何度も「おかしいなァ」と思いますが、おかみさんが、あまりにも
はっきりと言いますので、自分の方が間違っていると思い直し、
「金拾った夢なんて、われながら情けねえや。これというのも酒のせいだ。
よし、もう酒はやめて商売に精と出すぜ」
と反省、改心し、明日からは酒を止めて、一生懸命働くことを約束します。

 

嘘少しまぜて話を丸くする  上田 仁



(画像は拡大してご覧ください)
商人や侍などで賑わう豊島屋商店前

 

もともと腕がよくて、いい魚を仕入れてきますから、
お得意はどんどん帰ってくるし、商いも順調です。
三年もしないうちに長屋住いの棒手振から、表通りに見世を構えるよう
になります。
そして、ちょうど三年目の大晦日の夜、熊さんが湯屋からさっぱりして
帰ってくると、何故か畳が新しくなっています。
そして、おかみさんが年越し祝いの福茶を入れながら、あらたまって
「見てもらいたいものがある」と言い出します。
「この財布、見覚えがあるかい」と言って、
おかみさんが出してきたのは、50両入った革の財布です。
「へそくりとしては随分と貯めこんだもんだなァ」と、
感心いたしますが、やはり見覚えはありません。

 

時刻表にはなかったバスがやってくる  竹内ゆみこ

 

「三年前にお前さんが芝の浜で拾った財布だよ。
夢なんかじゃなかったんだよ…」
おかみさんの言葉から、ようやく3年ばかり前に、芝の浜で革の財布を
拾ったことを思い出します。
「なんだと、こん畜生め!」
熊さんがむくれるのは当たり前、そこでおかみさんが
「ちょっと聞いておくれ。あの時、お前さんがこの50両で遊んで暮ら
すって言うから心配になって、お前さんが酔いつぶれて寝ている間に、
大家さんに相談に行ったんだよ。そうしたら、
≪拾った金なんぞを猫糞したら手が後ろ回ってしまう。
おれがお上に届けてやるから、全部、夢のことにしてしまえ≫と、
言われて、
お前さんに嘘ついて夢だ、夢だ、と押し付けてしまったんだよ。
自分の女房にずっと嘘をつかれて、さぞ腹が立つだろう。
どうかぶつなり、蹴るなり思う存分にやっとくれ」

 

不安的中右脳左脳がショートする  宮井いずみ

 

ちょっと間をおいて熊さんは、
「おうおう、待ってくれ。
おれがこうして気楽に正月を迎えることができるのは、みんなお前の
お蔭じゃねえか。おらぁ、改めて礼を言うぜ。この通りだ。ありがとう」
と言います。それを聞いたおかみさんは
「そうかい、嬉しいじゃないか……久しぶりに一杯飲んでもらおうと
思って用意してあるんだよ。さあ、もうお燗もついてるから…」
「えっ、ほんとか、さっきからいい匂いがすると思ってたんだ。
…じゃあ、この湯呑みについでくれ。おう、お酒どの、しばらくだなあ、
たまらねえや どうも、だが、待てよ」
「どうしたんだい?」
「よそう、また夢になるといけねえ」

 

言わぬが花過去はきれいに折りたたむ  山本昌乃

 

酒に溺れて仕事を怠けてしまった人でも、心を入替えて真面目に働けば、
いい暮らしが手に入るという教訓と。
酒が過ぎるとどうなるかという反面教師も含んだ噺。
内助の功、嘘も方便というキーワードも含まれている。
ちょっとほろっとさせる人情噺。いい噺に仕上がっています。

 

あざやかな指摘人生やり直す  三村一子

拍手[3回]

枯草にまじり茗荷の芽が数多  徳山みつこ





        (題字・ 横尾忠則)


NHK・大河ドラマ「いだてん」 古今亭志ん生の巻

 


大河ドラマ・「いだてん」には、主人公が三人いる。
金栗四三中村勘九郎)、田畑政治(阿部サダヲ)、古今亭志ん生
(ビート・たけし)の三人である。ドラマ「いだてん」は、スポーツ
がテーマだけれど、メインの主役は、座っているのがお仕事の噺家・
五代目・古今亭志ん生である。
副題に「オリンピック噺」となっているから、志ん生の人生を追いつつ、
「こちらは口が走る」と言葉遊びをする、脚本家の魂胆が見える。
道理でドラマ中に、ところどころ落語が隠し味のように盛り込んである。
そもそも、脚本が大の落語ファンの宮藤官九郎だから、マニアックな
落語ネタが次々と飛び出てくるのも、仕方のないところか。
そのへんを少し拾い出したみると。


 

ペヤング焼きそばから一声の汽笛  平井美智子


 

金栗四三がマラソンの練習で、東京高等師範学校のある大塚から日本橋、
芝まで走る。東京の人なら分かるが、普通、大塚から日本橋へ行くなら、
南へ下がる方が近いのに、どういうわけか四三は東に向かい、上野から
さらに浅草へ行ってしまう。
つまり、まず目的地と全然違う方向に行ってから、浅草十二階で大きく
方向転換して日本橋に行く。四三がなぜ浅草から日本橋、さらに芝まで
行くのかというと、志ん生『富久』の主人公が辿った道に重ねている
のである。
ともかく『いだてん』は、ビートの古今亭志ん生が「オリンピック噺」
を寄席で語るという形で、ドラマは進んでいくようである。





ドラマのタイトルバックに出てくる浅草界隈の絵図

 

意思表示皴に刻んであるのです  小林すみえ

 

「富久」とは。
三遊亭円朝が実話を落語化したものとされ、多くの噺家が口演している。
落語の主人公は幇間の久蔵と旦那。
噺家によって、主人公や旦那の住い、富籤売り場を変えている。
志ん生の場合、久蔵の住まいは浅草三間町。旦那の住まいは芝の久保町。
富興行は、椙森神社(すぎのもり)で富札の番号は「鶴の千五百番」。
文楽場合、久蔵の住まいは浅草阿倍川町。旦那の住まいは日本橋横山町。
富興行は深川八幡で富札の番号は「松の百十番」
談志の場合、住いは深川で、後は志ん生と同じ。となっている。
ドラマの金栗四三は、志ん生コースを走った。

 

くねくねの道で私を試される  百々寿子



 

ストックホルム五輪のマラソン選手を決める予選会で野口源三郎(永山
絢斗)が急に腹を押さえて「腹が……」と言い出し、痛いのかと思った
ところで、「減りました~」と来る。落語『浮世床』である。
浮世床には、芝居小屋で男が「若い女から、掛け声をかけて下さい」
言われて、掛け声がどんどん小さくなるので、女が「どうしたんです?」
と聞く、すると男は「腹が、腹が…」というと女が「痛いんですの?」
と聞くと「減りました」
というやり取りである。
ここは、このブログ「浮世床」で、以前に書いたので一読下さい。
 同じく予選会の本部で手持ち無沙汰になった永井道明(杉本哲太)
がいきなり「将棋でも指しますか」と言い、続くのは、『持参金』か。
手をつけて腹ませた女中のお鍋を、佐助と番頭がどっかの阿呆(清さん)
に押し付けてしまうというくだりである。
清さん「…昨晩、佐助はんの世話で嫁を貰いましてな」
番頭 「へぇ、それはまた別の話で…」
清さん「別やおまへん、腹ぼてで、二十円付きで・・・」
と、これが持参金である。


 

ピンボケのキャッチボールがよく弾む  森吉留理惠


 

またドラマでは、落語『芝浜』が大活躍。予選会で四三がゴールして、
嘉納治五郎(役所広司)が水を飲ませようとした時に、金栗四三は
「いらねえ、優勝が夢になるといけねえ」と芝浜の落ちが出てくる。
また五輪出陣の日、新橋に見送りに来た師匠の橘家円喬(松尾スズキ)
が、餞別の煙草を「持ってけってんだよ」と投げつけているのは
『文七元結』
で、「なにすんだ、こんちきしょう」と落語のセリフで
孝蔵(森山未來)が返していたし、『付け馬』も出てくる。
孝蔵が遊郭で遊んで勘定を払わないので、店の者が彼の家まで行って
払わせようとする。無銭客に付いていく人を「付け馬」といい、孝蔵は
小梅という女郎に支払わせる嘘をついて逃げてしまう。孝蔵が付け馬を
まいて、寄席に飛び込むと、そこで円喬がちょうど付け馬を演じている、
という落の中で落ちを見せたりして、脚本の官九郎の遊び心満載である。
田畑政治に主役が変わる25話でも、「火焔太鼓」の演目をやっていて、
「半鐘はいけないよ、おじゃんになる」なんていうのは、記憶に新しい。
落語に興味のある人も、ない人も、謎々探しのつもりで見るとドラマは
楽しく面白いものになる。


 

軽く鳴ったのは草笛式の義歯  井上一筒


 

孝蔵時代、志ん生の最初の師匠は伝説の名人といわれる三遊亭小円朝で、
ドラマでは橘家円喬から小円朝に預けられて、巡業の旅に出されている。
小円朝は、志ん生と満州に行ったこれまた名人とされた三遊亭円生が、
「私が生涯に聞いた噺家の中で、名人と言えるのは円喬ただ一人」と言
い切っている。
志賀直哉も橘家円喬の『鰍沢』が絶品と語り、八代目・桂文楽は、
「円喬師匠が、耳にこびりついているから、演れったてとても出来はし
ませんよ…急流のところでは、本当に激しい水の流れが見え、筏が一本
になってしまうのも見えた」と言い、
志ん生「さっきまで晴れていたのが雨音がする。『困ったな』と思っ
てたら、師匠が鰍沢の急流を演ってた」なんてベタ褒めをしている。
ともあれ、志ん生にとって円喬は「神」であったとドラマも炙る。


 

見え透いたお世辞空気が多角形  上田 仁

 

長男・馬生の証言
『うちのオヤジさんが、円喬の弟子だって言ってましたけど、それは
一つの見栄でいいじゃないですか。最初は円盛(三遊亭)、“イカタチ”の
円盛さんの弟子で…弟子っていうか、あの頃は、とにかく咄家になれれば
よかったわけです。師匠は誰でもかまわなかったんです。
で、咄家になってその後、小円朝(二代目)さんの所へ自然と吸収されて
いくわけです。で、一時、円喬師の弟子が足りなくなっちゃんで、
小円朝さんの所へ、「誰か若い者を貸してくれよ」って言ってきたんで、
オヤジさんが行ったらしいんですね』
(このころ名乗りは、柳家甚語楼)


ハナうたは忘れたとこがしまいなり  柳家甚語楼
耳かきは月に二三度使われる  柳家甚語楼

 



古今亭志ん生 65歳



「古今亭志ん生(美濃部孝蔵)の履歴」
明治23年、孝蔵が誕生した美濃部家は、菅原道真の子孫を称する徳川
直参旗本であったとされ、由緒正しき家柄だったが貧しかったようだ。
幼少期の孝蔵は、かなりの悪ガキで小学校を退学させられ、奉公にださ
れるが、どこも長くは続かず、朝鮮の京城(ソウル)の印刷会社に奉公
に出されることになる。しかしそこも逃げ出し日本へ帰国、改心したか、
浅草区浅草新畑町にて、家族と住む。


 

たらればは言わないことに決めました  足達悠紀子




古今亭志ん生 65歳


 

孝蔵が芸事、ことに落語に興味を持ち始めたのは、明治40年、17歳
のころで、馬生の話にも出た落語家・三遊亭円盛の門下となる。
そこで三遊亭盛朝と名乗り落語家としての出発点となる。
明治43年には、2代目・三遊亭小圓朝に入門し、三遊亭朝太と名乗る。
大正の5年には三遊亭圓菊を。大正7年には、4代目・古今亭志ん生門に
移籍し、金原亭馬太郎に改名。
大正10年には、真打になり金原亭馬きん名乗る。
大正14年、講釈師に転向する。これは当時の実力者だった三升家小勝
と対立し落語界で居場所を失ったためである。
二年後に孝蔵が小勝に謝罪して、落語界へ復帰する。
昭和14年に古今亭志ん生5代目を襲名するまで、なんと16回も改名
している。
適当な人間をいう「ぞろっぺい」な性格は、相変わらずである。


 

マシュマロの真ん中を押す進化論   くんじろう




古今亭志ん朝(6代目・志ん生)、志ん生、りん、金原亭馬生、池波志乃

 

落語家としての形が付き始めた大正11年、孝蔵は、清水りん(夏帆)
結婚をする。2年後には、長女・美津子(小泉今日子)が誕生。
その翌年には、次女・喜美子(三味線豊太郎)、昭和3年には長男・
(金原亭馬生)が誕生。3人の子供に恵まれた。
結婚後も酒が大好きで「無駄遣い」の性分は相変わらずだったため、
孝蔵一家はずっと貧乏だった。
余分な金が入ると、骨董品や古書などひょいと買ってしまう。
だが、それほど執着していた道具類でも、しばらくするとポイと売って
しまう。苦しい家計の足しにしたこともあろうが、大概はすぐに飽きて
しまったようだ。
耐乏生活の極みは、小勝に謝罪して落語界へ戻ってきたが、前座同然の
扱いで、田んぼを埋めたてた通称・「なめくじ長屋」での暮らしをした
ときである。その時の妻・りんの苦労はドラマで味わってもらうとして、
当時の貧乏生活が滲みでている志ん生の句がある。


 

甘鯛の味思い出す侘住居  柳家甚語楼
表札のない質屋に時間すぎ  柳家甚語楼



 


志ん生の「何でも買って何でも売る」という癖は、戦後も変わらない。
長男馬生が持っていた圓朝全集を全て売ってしまったことがあった。
「エピソード」
一門の弟子や孫弟子が口を揃えるように、志ん生は最晩年まで、尊敬する
圓朝の『圓朝全集』を離さず、毎日読み続けていた。
そんな父親の姿を見ていたせいか、馬生も戦後復刻版で出た圓朝全集を
揃えていたが、ある日寄席から帰ってきたら、秘蔵の全集が見当らない。
「とうちゃん、あれしらねえか」
「ああ、あれかい。売っちゃったよ」
「あれは俺のもんだよ!」
「何言ってやんでぇ、おめえは俺がこしらいたんだから」
そうまで言われては、馬生としては言い返せない。
自分の古い「圓朝全集」は、売らないでしっかり持っているのである。
以後、馬生の弟子たちは、志ん生の長男の悲しい思い出を何度も何度も
聞かされることになる。

 

おばさんは買ったときだけいうお世辞  柳家甚語楼
気前よく金を遣った夢をみる  柳家甚語楼


 

昭和13年、次男・強次(3代目古今亭志ん朝)誕生。
昭和14年、5代目・古今亭志ん生を襲名。
昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発。
昭和20年4月13日、空襲が激しくなり、住いを本郷区駒込動坂町へ移
してまもない5月6日、6代目三遊亭円生、講釈師の2代目猫遊軒伯知
夫婦漫才・坂野比呂志らと共に、慰問芸人として満州へ渡る。
しかし、満州へ着いた2日後に日本は敗戦し、終戦を迎える。
だが日本に帰国することができない。
引き揚げ船に乗れなかったからである。昭和21年頃の日本国内では、
「志ん生と圓生は満州で死んだらしい」と噂が流れていた。
酒好きの志ん生はウオッカに酔いながら、望郷の日々だったという。
そして昭和22年1月中旬にやっと、日本への帰国が叶う。


 

花巡り孤独の深さ分かち合う  靍田寿子

 

帰国すると、復興を目指す日本では、ラジオ放送が持て囃されていた。
しばらくして志ん生もラジオ放送に挑戦する。
志ん生が名前を知られ、売れ出すのはこの頃で、聴視者に愛された。
昭和28年7月1日、ラジオ東京と専属契約を交わす。
売れっ子だから呼ばれれば、他局の番組にも出る。
専属といわれても、その意味を知らず、それを指摘されると、
「専属とは、他に出てはいけないのが不自由だ」と周囲に零したという。
ラジオ東京側も「志ん生だから仕方がない」といってあきらめたという。
かつて寄席の本番中に酒に酔い、寝てしまって、客に「寝かせておいて
やれ」と言わせた志ん生ならではである。
一年契約であったため、昭和29年6月30日に契約解除し、翌日から
ニッポン放送と放送専属契約を結ぶ。
しかし、この時期にも、ニッポン放送専属だったにもかかわらずNHKに
出演。ニッポン放送との放送専属契約は昭和37年9月3日まで続いた。
凡そこの10年は、志ん生が貧乏と縁を切った時代である。


 

一切なりゆきが一番売れているらしい  櫻田秀夫




  火焔太鼓

 

「落語家と川柳」
落語家が集まって開く句会に「鹿連会」というのがある。
鹿連会の「鹿」は、はなしか(噺家)の「しか」から名づけられた。
戦前の第一次鹿連会は2年でぽしゃって、第二次が昭和28年に復活。
昭和31年鹿連会はピークを迎え、同年6月19日には川柳家・寿山
で行われた句会は、東京放送が録音。
2日後に「落語家と川柳界」と題して放送された。
翌月には、志ん生宅で「茶の湯川柳会」を開催。
その年の暮れには、人形町末廣で「川柳鹿連会」を開き、自慢の即席
川柳を披露して、やんやの喝采を浴びた。
聞くところによると、この会の後、四谷で忘年会を開き、芸者を呼んで
騒いだらしい。そのぐらいは懐具合もよかったのである。
そんな中での、志ん生の句は酒にまつわるものが多い。
(第二次鹿連会も3年で「おじゃん」と鳴った)

 

空っ風おでんの店へ吹き寄せる  古今亭志ん生
ビフテキで酒を飲むのは忙しい  古今亭志ん生
パナマをば買ったつもりで飲んでいる 古今亭志ん生


 

金と酒が絡めば、まさに志ん生ワールド。
「パナマ」のお題で詠んだ句に、「女房と喧嘩のもとはパナマなり」
というのがある。いつかきっとビート・たけしは、パナマ帽を被って
「いだてん」に登場してくるだろうこと、お約束をして終わります。


 

今少しつっかい棒でいてあげる  森田律子

拍手[3回]

つぎ足してつぎ足して描く夢の画布  加藤ゆみ子

 


           (題字・ 横尾忠則)



NHK大河ドラマ「いだてん」 田畑政治の巻

 

NHK大河ドラマ「いだてん」は25話より、金栗四三(中村勘九郎)
からバトンを継いで、政治記者田畑政治(阿部サダヲ)に変わります。
視聴者からは、「この人誰?」と囁き声が聞かれるほど、田畑政治は、
過去に「おんな城主」の井伊直虎(柴咲コウ)以上に知名度が低い。
さてどうなりますことやら。そこで田畑政治がどんな人物で、何をした
人なのか、短くご紹介してまいります。

 

 

明治31(1898)年12月1日、浜松旧家で「八百庄」という造り酒屋に
生まれた田畑政治は、子供のときから水泳が大好きで、かなりの実力が
あったようです。しかし中学校在学時、盲腸に大腸カタルを併発し、
「泳げば死ぬ」と医者から言われ、水泳を諦め、指導者の道を歩むこと
になります。
 大正13年、東京帝国大学を出て、朝日新聞社に入社、政治部に配属
されて、戦後の首相となる鳩山一郎や有力政治家とも知己となり、その
立場を利用して日本の水泳を国際的にどんどん強くしていきます。
浜名湾を目の前にして育ち、一時は、神童スイマーと期待された田畑で
したが、よく当たる占い師から「30歳まで生きられない」と脅され、
波乱万丈ながら、一つ一つ山を乗り越え戦後の復興に期待し、スポーツ
振興及び、オリンピックの道に一生を尽くす人物のものがたりです。


 

床の間の七福神がけしかける  井上登美




 
前列右端・人見絹江、後列左二人目及び三人目・南部忠平、織田幹雄

 

大正13年10月31日、日本水泳界は「大日本水上競技連盟」を創設、
田畑は理事に就任します。理事になり、昭和3(1928)年開催の第9回・
アムステルダム・オリンピックを目指します。そこで 田畑は、水泳競技
の強化のために鳩山一郎を通じて、大蔵大臣・高橋是清(萩原健一)に
面会し直談判して水泳競技への補助金支出の約束を取り付けます。
そしてアムステルダムに10人の選手を派遣することになります。
結果として、陸上競技三段跳・織田幹雄、競泳男子200m平泳・鶴田義行
(大東駿介)の2名が金メダルを取り。
陸上競技女子800メートル競走で人見絹枝菅原小春)と競泳800mリレー
米山弘、佐田徳平、新井信男、高石勝男が銀メダルに輝きます。
さらに競泳男子100m自由形で高石勝男(斎藤 工)が銅メダルと輝やか
しい実績を残します。これで自信のついた田畑は、昭和7年(1932)に
開催のロサンゼルスオリンピックに向け、常勝日本を目指して打倒水泳
最強国アメリカを目標に掲げます。

 

どっこいしょを枕言葉に動き出す  松浦英夫


そしてそのロサンゼルスオリンピックロサンゼルスでは、5個の水泳を
含む、金メダル7個、競泳4個を含む、銀メダル7個、競泳2個を含む
銅メダル4個を獲得。合計18個のメダルを獲得しっます。
世界中に水泳大国日本をアピールし、さらに田畑と競泳日本代表チーム
は昭和11(1936)年のベルリンオリンピックも同様のローテーション
で本番に向かうことに決定します。
 この時、田畑は35斎。幼少期に命にかかわる病にかかり、ある時は
「30歳までには死ぬ」と言われながらここまで生きてきたことに田畑は、
自らも驚きながら水泳一筋に生きてきた人生を見直し、昭和8(1933)に
妻・菊枝(麻生久美子)と結婚して、公私ともに充実期を迎えます。



 

くされ縁燃えさかるもの抱いている  三村一子


 


 

 

迎えた昭和11(1936)年のベルリンオリンピックでは、金メダル6個
(競泳の4個)銀メダル4個(競泳2個)銅メダル5個(競泳5個)と
ロサンゼルスオリンピックに匹敵する成績を残し、水泳大国日本の地位
を磐石にしました。
蛇足です、このベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎで、前畑秀子
(上白石萌歌)がゴール寸前までドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッド
ヒートとなり、これを実況放送したNHKアナウンサー河西三省(トータ
ス松本)の「前畑がんばれ!前畑リード!勝った、前畑勝ちました」
我を忘れた実況は、ほとんどの日本人が固唾を飲み、解説のない実況と
して、今も語り草になっていることは、多くの方の知るところでしょう。


 

外反母趾が骨盤に乗り移る  井上一筒





 日本最初の金メダル


戦後最初となるロンドンオリンピックは、イギリスがドイツと日本の参
加を拒否し、出場を断念することになりました。

 「エピソードー①」
「我々は《プリンス・オブ・ウェールズ》を忘れない」
プリンス・オブ・ウェールズとは、太平洋戦争開戦直後の昭和16年
12月10日、日本軍の上陸を阻止するため出動したイギリスの戦艦で
マレー沖にさしかかり、日本海軍航空機から爆撃を受け、僚艦のレパル
スと共に沈没してしまいました。
プリンス・オブ・ウェールズが撃沈されてから7年後、戦争が終わって
から3年後の昭和23(1948)年。日本水泳の古橋廣之進、橋爪四郎が
揃って未公認ですが世界新記録を出していました。
それを知り恐れてのことか、イギリスは日本のロンドン・オリンピック
への参加を認めませんでした。その時の通達の最後には、
『われわれはプリンス・オブ・ウェールズを忘れない』とあり。
怨みなのか、古橋、橋爪にびびったのか。
大英帝国の根性の無さを見た一幕でありました。


 

満月も刺股状になる妬心  山本早苗




日本で一番最初の銀メダル
アントワープオリンピックで熊谷一弥がテニスで獲得
 


「エピソードー②」
その通達を知った水泳連盟会長の田畑は、「記録の上で世界と戦おう」
という計画を立案しました。いわば、日本水泳界が世界に叩きつけた
挑戦状です。大会プログラムには、「田畑政治のロンドン大会に挑む」
と題した「檄文」が掲げられました。
そして、オリンピックの水泳競技と同じスケジュールで、日本選手権を
神宮プールで開催することを決め、そこで挨拶に立った田畑は、
「もし諸君の記録がロンドン大会の記録を上回るものであるならば……
ワールド・チャンピオンは、オリンピック優勝者にあらずして、
日本選手権大会の優勝者である」と言い切りました。


 

受けて立ちますと剣山のやる気  川畑まゆみ



 


その結果、自由形400mでは、オリンピック金メダリスト・ウィリア
ム・スミス(米)の記録4分41秒0に対し日本の古橋は4分33秒4。
1500m自由形では、金メダリスト・ジェームズ・マックレーン(米)
の記録、19分18秒5に対し古橋は、18分37秒0を出し。
橋爪は、18分37秒8を出しました。金、金、銀の結果です。
これらは公認記録として認められるものではありませんでしたが、
応援席には、天皇陛下、皇太子殿下も観戦にお見えになり、大きな拍手
をされ、感激した片山哲首相からは、特別に総理大臣杯を贈られました。
尚、その後も9月の学生選手権の400m自由形で、古橋は自己記録を更新
する4分33秒0、800m自由形で、世界記録である9分41秒0を
出しています。


 

思いきり鈴を鳴らした願い事  両澤行兵衛


「エピソードー③」
その記録を耳にしたアメリカの水泳連盟は、古橋や橋爪など6名の選手
がロサンゼルスで行われる全米選手権に招待されることになり。
そこで古橋は、400m自由形で4分33秒3、800m自由形で9分
33秒5、1500m自由形で18分19秒0(世界新記録)を出して
優勝します。
こうした日本の水泳チームの活躍に、アメリカの新聞は、競技の前に
掲載された日本の水泳選手に対する揶揄への謝罪文が掲載され、
古橋は「フジヤマのトビウオ」と呼ばれました。
こうした記録と事務方の努力があって、昭和24(1949)年6月15日に
日本水泳連盟は、国際水泳連盟(FINA)に復帰を果たしています。


ほぐしたら一本線になりました 合田瑠美子

 


しかし、田畑の人生すべてが、順風満帆というわけではありません。
昭和27年、常務取締役の役職にあって田畑は、朝日新聞社を退社。
日本選手団団長として乗り込んだヘルシンキオリンピックでは、
銀メダル3個だけの成績に終わります。
昭和31年のメルボルンオリンピックでも、田畑は日本選手団団長とし
て参加するも、金メダル1、銀メダル4個と惨憺たる成績に終わり。
昭和32年に行われた日本水泳連盟の会長選においては、対立候補に
かつて田畑の指導下にあった高石勝男が立ち、僅差を競う激烈な戦いに
密約をもって、1年のみの続行を条件に会長を続けたといいます。


 

全身をアンテナにして風を聴く  小林すみえ



江戸東京博物館・特別展『江戸のスポーツと東京オリンピック』より


 

その後日本が高度成長へとひた走る中、田畑は、昭和39年、東京五輪
の招致と開催に尽力します。

「エピソードー④」
東京五輪招致のためには、IOC委員の東竜太郎を東京都知事にするのが
最善だという意見が大勢を占めていたなかで、田畑はスポーツと政治が
癒着することを警戒し、自民党の推薦で東が出馬することに難色を示し
ました。結局、それを受け入れることになりますが、田畑は、昭和55
年にアメリカがソ連のアフガン侵攻に抗議して、モスクワ五輪をボイコ
ットし、これに日本が従うことになったときにも、強く反対し、最後ま
で参加の道を模索したといいます。スポーツ愛を貫く田畑の真骨頂を伺
い見る二コマでした。

 

埃なら書棚にたんと積ってる  杉浦多津子

 


「エピソードー⑤」
東京五輪に向け、田畑は日本選手が活躍できる舞台を増やす必要性から、
柔道と女子バレーボールのオリンピック競技への採用を強く主張します。
男子バレーボールがすでに正式採用されていたために、男女平等の観点
から、田畑は、委員会で熱心に説き、女子バレーボールもオリンピック
競技に正式採用されることになりました。これが大松博文監督率いる
「東洋の魔女」が誕生するきっかけとなったのです。
同時にIOC委員であった嘉納治五郎が作り上げた柔道も、東京から正式
種目となり、今も個別に世界大会が催されるほど成長し、堂々、両種目
ともオリンピックに欠かせないものになりました。

 

ト書きではここで空気になれとある 美馬りゅうこ

 


東京オリンピック組織委員会の事務総長として着実に準備を進めていた
田畑でしたが、当時のオリンピック大臣であった川島正次郎との折り合い
が悪く事あるごとに対立していました。 その影響か東京五輪を二年後に
控えて、田畑は大会組織委員会事務総長を辞任せざるをえなくなります。

 「エピソードー⑥」
黒澤明は日本オリンピック組織委員会から、4年後の「東京オリンピック
公式記録映画」の総監督をお願いしたいとオファーを受け、黒澤も快諾を
していましたが、田畑辞任の煽りを受け、田畑肝煎りの「五輪映画計画」
も白紙になってしまいます。
実際、黒澤はローマオリンピックまで下見に行き、綿密な計画を立てて
試算までしていました。そこで黒澤が提示した金額は、5億5000万円。
これもネックだったかも知れません。
黒澤明の後任には、市川崑に白羽の矢が当たりました。
市川崑提示した予算は2億7000万円。記録映画『東京オリンピック』
は大ヒット。25億円の興行収入を得ました。その時、黒澤明は何を
思った?のだろうか。「わしは撮りたかった」かな。

 

5ミリほど残る未練とここにいる  桑原すヾ代

拍手[4回]



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