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川柳的逍遥 人の世の一家言
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頷いているだけでいい苦労人  近藤北舟

 

右・姫路藩十五万石酒井雅楽頭の中屋敷

江戸城大手門を正面に広大な酒井雅楽頭の屋敷がある。
この酒井家屋敷は明治になり、新政府に接収され、
明治4年、新政府の役人に招かれた西郷隆盛に屋敷と
して与えられた。この雅楽頭屋敷跡は、相当に広く、
全てではないらしいがそれでも、西郷一人の屋敷と
しては、広大であった。

拡大してご覧ください。
 江戸城図

「西郷どん」 維新後の西郷

江戸が東京に変わったという有り様は、大名や旗本の何千、何万坪という広大な屋敷に「官員」という新時代の権力者が入り込んで住み始めたということである。東京の多くの庶民にとっては、この種の「御前様どもの田舎訛り」が耳障りなだけで、代わり映えしなかった。日本橋川の北岸の一角が小網町で、そこにかっての酒井雅楽頭の中屋敷があり、長いなまこ塀が思案橋あたりから汐留までずっとつづいている。「いまは薩州の軍人やら書生やらが群れて住んでいるらしい」という噂があったが、当主の名前は知られていない。

人情の行き交う路地でひとり住む  小川賀世子

ときどき途方もない大男が、門のくぐりから出てくる。紋服に羽織袴という姿だったり、薩摩絣の着流しに小さな脇差を一本帯びているという格好だったりした。関取でもない証拠に頭は丸坊主であった。太い眉の下に闇の中でもぎょろりと光りそうな大目玉を持っていて、見様によっては伝奇小説に出てくる海賊の大頭目のようでもある。これが西郷参議であった。通称は吉之助、名乗りは隆盛。もっともこの隆盛というのは、彼の幕末当時からの同藩の同士である吉井友実が、新政府に名前を届け出るにあたって、「吉之助の名乗りは何じゃったかナ、たしか隆盛じゃったナ」とひとり合点して登録してしまった名前である。「あァ、おいは隆盛でごわすか」と、西郷は訂正しにも行かず、結局はこの名前が歴史の中の彼の名前になった。

スロープの優しい顔に導かれ  北原照子

西郷はその屋敷ぜんぶは使わず、長屋の一角だけを居所にしており郷里から妻子さえ呼び寄せていなかった。西郷にとって東京は、というよりも新政府の大官という浮世の栄誉は、この一事をみても、身につけてしまう存念がなかったように思われる。西郷のこの寓居での家族は、男ばかり8,9人である。熊吉は幕末当時から西郷に仕えている古い下僕だが、明治後、薩摩伊集院生まれの与助が加わり、さらに同谷山生まれの市助、同じく矢太郎、鹿児島城下で生まれた書生の小牧新次郎などがその面々であった。彼らの仕事はおもに掃除と雨戸の開け閉めであった。この大屋敷は毎日雨戸をあけて風を通さないと朽ちてしまう。それを1人でやる場合、朝から開け始めて昼前に終わるという大変な作業で、しかもその広大な屋敷を使おうとせず、かつて足軽が住んでいた門長屋の一角を、居所としているだけであった。

居心地がよくて胸びれうしろ肢  山本早苗

「川路利良」の画像検索結果
   川路利良

この寓居を将来大警視(初代警視総監)になる川路利良が訪れた。「正どん、お前さァも一緒に行かんか」とフランス行きの肩を押してくれた西郷への帰国挨拶のためである。挨拶の順としては、官僚社会の親玉・大久保利通や直属の上司である江藤新平司法卿より、大恩ある西郷は後回しだった。そのような順番など気にしない西郷であることを知っていたからである。川路が西郷とじかに接するようになったのは元治元年の「蛤御門の変」以来だったから、当時西郷のそばにいた西郷の弟・慎吾(従道)や従妹の大山弥助(巌)流罪を共にした村田新八、用心棒のように身辺から離れない中村半次郎(桐野利秋)などから比べれば、ずっと新参者だった。新参とはいえ、西郷というおの巨大な光芒を浴びてしまったという点では、その連中と変わりはなかった。
                      司馬遼太郎「翔ぶが如く」より

漬物屋の隣に渋いモノクロ屋  くんじろう

西郷は不在であった。「先生は何処おじゃしたか」と聞くと、熊吉が出てきて「先生は下総え鉄砲打ちにおじゃして」夕刻には帰られるはずだ、と答えた。狩猟は内科医のホフマン先生の勧めで、日常に取り入れている肥満解消のための運動である。日が暮れてから西郷が帰ってきた。西郷が供に連れていたのは、江戸生まれの児玉勇次郎という若者だが、ひと足先にくぐり戸から入って、朋輩の熊吉に―「お帰りだよ」と耳打ちしただけである。この一事だけでも西郷という人物が、世間一般の人間とは余程変わった男であることがわかる。

利き腕へ左右の地位がずれていく  森井克子

この当時、新政府の大官といえば、ほんの一部の人を除いては大名気取りで、旧大名のしきたりをそのまま踏襲している者が多かった「御前」と、使用人に呼ばせ花柳街などでも、大官に対してそう呼んだ。新呼称であった。かつては大名や旗本は殿様と呼ばれていたが、まさか殿様という敬称は時勢にそぐわないため、明治になってからそういう呼称ができた。が革命の最高の元老である西郷は人にそのように呼ばれたこともなく、呼ばせもしなかった。彼はこの時期、陸軍大将参議、近衛都督という、文武の最高権力を一身で兼ねていたが、その日常はまったく書生風で、例えば、帰宅のとき正門さえ開けさせないのである。

ピカピカのブランド着た日は疲れます 梅谷邦子 

ついでに言えば、旧幕の大名・旗本から明治の大官に至るまで、当主が帰宅するとき、従者が先に走って玄関から「お帰りーっ」と叫ぶ。すると門内にいる家来衆がまず大門をぎぃ~と八の字にひらくのである。当主が入ると玄関の式台から廊下にかけて、家来や女中が居並んで平伏する。こういうバカバカしい容儀が、明治の東京でも行われていた。大官の多くは、そういう面では実に醜悪なもので、決して革命政府の官僚といえるものではなく、急に偉くなったものだから威厳を勘違いするものが多かった。が西郷はそうではなかった。裏で足を洗ってから座敷へあがり、「今じゃった」と挨拶してから、そこに川路がいるのを見ると、全身で喜びをあらわし、「今日は落ち着いて、ゆっくいと、飯でん食え」言って歓待する。川路はそういう西郷に接する時、震えるような喜びを感ずるのである。

寸分の相違もなくてあほらしい  雨森茂樹

【付録】 西郷の本音

この時期、日本の朝野をとわず「征韓論」で沸騰しており、西郷はその渦中にいた。というより、西郷がこの渦を巻き起こした張本人のように見られており、事実西郷という存在がこの政論の主座にいなければ、これほどの騒ぎにはならなかったに違いない。と言って、西郷の心境は複雑で、彼は扇動者というより、逆に桐野利秋ら近衛将校たちが「朝鮮征すべし」と沸騰しているのに対し、「噴火山上に昼寝をしているような心境」と西郷自身が書いている。自分の昼寝によって辛うじて壮士的軍人の暴走を抑えているつもりであった。

秋の蚊が右脳ばかりを攻めて来る  合田瑠美子

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くらやみへまたくらやみへ曲がりゆく  清水すみれ


「白虎隊 自刃図」の画像検索結果
      白虎隊自刃図

本来は戦場に出ない予備兵力とされていた白虎隊。しかし戦局
の悪化に伴って出陣した。そして慶応4年8月23日、火に包
まれた城下を飯盛山から見た隊士19名は、鶴ヶ城が落城した
と誤解し集団自決した。

「西郷どん」 白虎隊の悲劇

ドラマ「西郷どん」では省略されてしまった戊辰戦争の中盤の「会津白虎隊の悲劇」について少しテープを巻き戻しておきたい。会津藩の軍制は鳥羽伏見の戦いまでは、長沼流の兵法によ
る旧式の兵備だった。これでは西洋式の薩長とは戦えない。
そこで会津藩は慶応4年3月(1868)少年兵・白虎隊、老兵・玄武隊等、藩の総力を挙げた軍制改革をし、いうところの「散華壊滅を覚悟の布陣」を敷いた。
その主力の隊の編成は次のようなものである。

(東)青竜隊 36歳より49歳、(西)白虎隊 16歳より17歳、(南)朱雀隊 18歳より35歳、(北)玄武隊 5
0歳以上、隊名は東西南北の神の名に由来しているが、青竜隊
は国境守備、朱雀隊は実践、玄武隊は城内守護の役目を負い、
白虎隊は予備だった。
しかしこの白虎隊を悲劇が襲う。

どっちみち独りで降りねばならぬ駅  桑原伸吉

正規軍はこの4隊で、総数では約2800人だった。このほか
に砲兵隊、築城兵、力士隊、猟師隊、修験隊、さらに農兵隊約
3千人があったが、それらを加えても会津軍の総兵力は7千人
に過ぎなかった。数万とも数十万ともいう薩長新政府軍に対抗
することは、不可能であり、旧幕府軍や東北、越後の諸藩との
連携以外に戦う道はなかった。会津藩の最初の本格的な戦いは
「白河」だった。白河は東北の関門だった。二本松や棚倉兵も
加えて会津藩は白河口に約1千五百人の大部隊を送った。
問題は誰が指揮をとるかだった。

くもの巣の中に入ってしまったわ  みつ木もも花

松平容保が総督に指名したのは意外にも、非戦派の西郷頼母だ
った。各隊長には京都以来の歴戦の勇士がついたが、西郷は性
格狭量で、人望がなく、加えて先頭経験皆無とあって、はなは
だ疑問の人選だった。新政府軍の記録には、5月1日の戦いを「この日、首級6百8なり、官軍の死傷約70、敵は死屍6百
余を残し、散乱退去」
などと大勝利をたたえている。
戊辰戦争を通じてたった一日の戦闘でこれほど決定的に勝利を
収めた戦いはなく「花は白河」とうたわれた。それでも西郷は「決死進んで敵軍を衝かん」と指揮するも配下に止められ、
会津国境の勢至堂まで退去した。

とり急ぎモグラ叩きの刑に処す 木口雅裕

やがて二本松は落城、母成峠を破ると怒涛の勢いで、松平容保
が本陣をおく滝沢峠近くまで迫ってきていた。容保は兵を叱咤し、一夜をここで過ごした。容保の護衛として、城を出た白虎
二番士中隊の隊員たちも隊長・日向内記に率いられて午後4時頃、大野ヶ原に至り丘陵に陣を構えた。ここも少年兵は官軍に
追われ、間道を通って飯盛山に向かう。戦いに敗れて、城北の
飯盛山に辿りついた白虎二番隊の少年19人は武家屋敷の炎上
を鶴ヶ城の落城と思いこみ、次々に切腹して果てた。実際は、
食料・弾薬が切れ会津藩が降伏したのは、彼らが自刃した日か
ら一ヵ月も過ぎた9月21日、容保が「この上は速やかに開城
官軍の陣門に降伏謝罪する」嘆願書を差し出した。

目を逸らすちりめんじゃこの視線から 井上一筒

この白虎隊の悲劇は美化され、明治16年からは小学校の教科
書に載った。翌17年の8月25日には、旧藩主・容保も出席
して行われた墓前祭では旧会津藩士の佐原盛純が「少年団結す
白虎隊」と始まる漢詩・「白虎隊」を十九士の霊に捧げた。

 

白虎隊をはじめとした犠牲をよそに、藩主・容保は生きていた。
いや犠牲と引き換えに生き延びたのである。墓前祭に出た藩主
の胸奥に去来したものはどんなものだったのだろうか、
今さらながらに開胸してでも心中を覗いてみたいものである。
会津藩士の秋月悌次郎を描いた中村彰彦の『落花は枝に還らず
とも』から、人口の膾炙した次の詩吟を聴いてみよう。         

南、鶴ヶ城を望めば砲煙(ほうえん)(あが)る。
痛哭、涙を
呑んで 且(しばら)く 彷徨(ほうこう)す。
社稷 (しゃしょく)亡びぬ 以って止むべしと十有九人、 
腹を屠(ほう)りて死す。

港町ブルースが洩れる板わさの断面  山本早苗

「飯盛山記念碑」の画像検索結果
ドイツ記念碑は、東山奥から搬出された自然石を台石とし、
黒花崗岩を載せ高さ約2メートル、鏡面には、ドイツの最高
名誉章である鉄十字章を彫り、その下に「ドイツの武士より
会津の少年武士に贈る」と碑文が刻まれている。

【付録】 飯盛山こぼれ話

少年兵を死なせた残酷な話は、実は軍国主義にとっては極めて
都合がよかったのか、飯盛山にはナチスドイツより贈られた記
念碑や、ムッソリーニが、次のように書いて寄贈した記念塔が建っている「文明の母たるローマは、白虎隊勇士に遺烈に不朽
の敬意を捧げんがため、古代ローマの石柱とローマの権威を顕
すファシスタ党の章のマサカリを飾り、永遠偉大の証たる千年
の古石柱を贈る。」
※(これは戦後、米軍によって破壊されたが後に復元された)

無垢の木に指紋が二つ残っている  川村啓子

 

 

 

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騒乱に泳ぐワラにすがりながら  山口ろっぱ


 「示現流」の画像検索結果
         示現流構え

 

「西郷どん」 暗殺剣・示現流

薩摩藩に伝わる門外不出の剣。それが示現流である。
開祖は戦国時代末期の武士、東郷重位。もともと重位は薩摩で
盛んだったタイ捨流の剣士。タイ捨流は、飛び回り飛びかかり
相手を攪乱して討つなど激しい剣技で知られる。
その重位、藩主・義久に従って京に上った際、京都鞍馬口
天寧寺の和尚・善吉より天真正自顕流を習い、印可をもらった。
そして双方の流派を取り入れて新流派を創設したことに始まる。
慶長9(1604)年、藩主家久の命で重位はタイ捨流の師範
東新之亟と御前勝負をした。

地上5センチを横這いする殺気 井上一筒

木刀を額近くで水平に構えた重位の気迫に、新之亟は動くこと
すらできない。
家久に叱責され打ち込んでみたが、木刀は真っ二つ折れた上に、
新之丞はへたりこんでしまった。
業を煮やした家久が自ら打って出るが、重位は扇で家久の手を
痛打、圧倒的実力を見せつけた。
この時から薩摩藩では、示現流が重用されるようになった。

心臓がいきなり止まることもある   北山惠一
「示現流」の画像検索結果

さて、この示現流、どのような剣法なのであろうか。
まず示現流には「防」の技がない。攻撃は最大の防御が特徴で、
初太刀にすべてを賭けて切り込んでいく。
そのため初太刀の勢いは凄まじく、受けた相手の刀をへし折っ
てしまったり、受けた刀もろとも相手へ押し込み脳天を割って
しまうこともあるという。
「受け太刀も二太刀も必要ない」剣法なのである。
実際、江戸時代末期まで防具を見たことがないという薩摩武士
も多かったそうだ。だから新選組局長の近藤勇は、常に隊士た
ちに「薩摩ものと勝負する時は、まず初太刀をかわせ」
口酸っぱく注意していた。

それも誠だ火葬場がそこにある  筒井祥文

修行方法も独特な面がある。まず他の流派で見られるような、
竹刀を持って2人で戦うことはない。修行はすべて木刀を使い、
1人で行うものである。ユスという木で作った木刀を用いて、
6尺ほどの丸太を立てて、左右への袈裟懸けでひたすら打ち込む
のが基本。この時「猿叫」といわれる独特の気合い、
「チェーイ」「チェスト」のように聞こえる声を発する。
達人になると打ち下ろした丸太に煙りがくすぶるという。
この他にも、丸太を数本立てて、その間を駆け巡りながら打つ
修行もある。一人対多数を想定した野戦剣法といえるだろう。
骨太で実践的な示現流は、薩摩武士の性によくあった。
江戸時代、薩摩藩の流儀となり、門外不出の剣として守られた。
長い歴史の中では、示現流から独立した小太刀流や薬丸示現流
などの流派もある。

丹田に闘志燃やしている寡黙  上嶋幸雀 

では、示現流にはどのような剣豪がいたのだろうか。
まず名前が挙がるのが中村半次郎。
薬丸示現流の使い手で、西郷隆盛腹心の武士だった。
西郷と敵対する政敵や過激な攘夷志士を斬りまくった。
敵も味方も恐れた、かの「人斬り半次郎」である。
もう1人の人斬り、田中新兵衛も示現流の使い手であった。
関白側近・島田左近の暗殺、本間精一郎暗殺などで恐れられた。
つねに実践を想定して修行し、尚且つ「一撃必殺」の技を誇る
示現流は暗殺に適していたのだろう。
鹿児島では、現代でも東郷家の手で示現流が受け継がれている。

汗拭い明日が広がる位置に立つ 上田 仁

Toshiaki Kirino 2.jpg

【付録】 西郷の腹心といわれた「人斬り」桐野利秋

薩摩藩下士の三男に生まれる。元の名は中村半次郎。
家は貧しかったが、15歳で道場に通わせてもらった。
しかし父が流刑になり兄が病没したため、半次郎が家族の面倒
を見ることになる。貧しく忙しい中、それでも半次郎は鍛錬を
欠かさなかったという。半次郎の剣は一応、示現流の体だが、
目録や皆伝は得ていない。そんな金はなかったからだ。
野山に生えている木に向かってひたすら斬りつける日々。
そうやって「神速の剣」を身につけた。

小指からけらけら鬼の笑い声  くんじろう

まだ少年の頃に出会った西郷を訪ね、面会を果たし、西郷の下で
働くこととなり、国主島津久光の京都行きにも加えてもらった。
久光帰国後も京に残り青蓮院宮の警護にあたる。
公武合体派の青蓮院宮は攘夷志士に狙われたが、すべて半次郎が
返り討ちにしていたという。この頃から「人斬り」と呼ばれた。
やがて西郷は、半次郎を長州藩に送り込み、情勢を探らせた。
これが大いに薩長同盟に役立ったという。西郷は半次郎の恩人だ。
嬉嬉として西郷のために働いた。新政府樹立後は陸軍に配属。
この頃、桐野利秋と改名する。
桐野の絶対だった西郷と西南戦争の最前線で戦い、戦死を遂げる。

裸一貫惜しいものはなにもない  前中知栄 

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嘘ひとつ浅蜊が砂を吐くように  雨森茂喜

関連画像
             調 所 広 郷

「西郷どん」 幕末期、薩摩・長州にどうして金があったのか?
幕末期、歴史の表裏で絶大な影響力を保持し、討幕運動の核となった
薩摩藩と長州藩ーこの両藩が幕末から明治期にかけ、
荒れ狂う政局の主役に躍り出た最大の要因は「カネ」の力である。
未曽有の財政難と外圧に揺らぐ幕府に対し、薩長両藩は独自の経済基盤を
背景に体制を転覆しうるだけの国力を密かに育んでいた。
両藩に共通するのが恒常的借金地獄からの奇跡的な巻き返しであり、
計画的に行われていた「裏金作り」の巧妙さである。

アドリブをどっさり連れて寒気団  美馬りゅうこ
薩摩藩は公称77万石の大国でありながら、稲作には適さない土地柄で、
実質収入は36万5千石に過ぎず、貧窮士族も多かった。
第八代藩主・島津重豪(しげひで)の治世にはすでに藩の負債総額は実に
5万両という巨額に達していたという。
当時の金利は一割二分。年間の利息が60万両になる計算だ。
これに対し、薩摩藩の経常収入は年間12~13万両程度だったという。
これでは利息さえ、到底払えるものではない。
薩摩藩はしかし、ウルトラCとも言える大胆な手段によって、
この大借金を一気にチャラにしてしまったのである。
謎謎の袋の口を詰めておく  三村一子
この大逆転劇を担ったのが、重豪が茶坊主から藩の大番頭格に抜擢した
調所広郷(ずしょひろさと)だ。
調所は借り入れの新旧を問わず、すべての借金を「250年ローン」で
「無利子」という、荒唐無稽な返済方法に改めることを一方的に宣言。
これらの借金は、維新後に廃藩置県で薩摩藩が消滅すると返済が停止され、
実質的に踏み倒された。
さらに自ら主導して裏金作りさえ行ったというから、
手段を選ばぬ姿勢には並々ならぬものがあった。
時節柄トリックもまたリサイクル  高野末次
調所は同時に、元来、薩摩藩が手掛けてきた琉球を介した中国貿易を
強力に推進し、藩とは別に「島津家」という新会社を設立し、
砂糖を専売として物流合理化と高品質化を図り、高額取引を実現した。
薩摩藩は密貿易にも手を染め、ついには1千万両以上の備蓄品を確保。
豊かな資金を背景に富国強兵策を推進し、
西南雄藩の一角へとのし上がっていく。
地下街の散り初めしバラ手に受ける  山口ろっぱ   


    村 田 清 風

一方の長州藩の財政改革のリーダーとなった村田清風は、天保14年
(1843)37ヶ年 賦皆済仕法(ぶかいさいしほう)を定める。
すなわち藩士が藩に借りた負債を借銀一貫目につき、30目を37年間
支払えば元利とも完済することとし、藩士が商人から借りた私債は藩が、
肩代わりすることとする。
藩は商人に対して37年間、元金据え置きにして年利と未収金の利子を
払い、最後の年に元金を全て支払うというのだが、これは実質的に商人
に対する大幅な利下げであり、元金を返済する意思は、事実上なかった
ものとみられる。
実際、こちらの大借金も廃藩置県によって、霧散霧消の形となっている。
くしゃみした途端三幕目が終わる  清水すみれ
さらに清風は、商業・交通の要衡である下関海峡の地の利に着目して、
越荷方を設置する。越荷方とは藩が運営する金融兼倉庫業であり、
多国船の荷を担保に資金を貸し付けたり、荷を買って委託販売するという
もので、大阪での相場が安い時には、下関に留め置き、高値のときに
売り抜け、いわば恣意的な流通操作によって利益を得た。
また長州には第7藩主・毛利重就(しげなり)の治世以来、
「撫育方」と呼ばれる総合開発基金が設置されていた。
これは一言で言って、「裏金作り」というのための機関。
撫育方により蓄積された隠し資産が、やがて倒幕のための武器購入資金、
軍事費に用いられたのは言うまでもない。
維新後に福沢諭吉とともに「天下の双福」と呼ばれた幕臣・福地源一郎は
「幕府は、薩長に負けたのではない。金に負けたのである」と述べている。
あの風はあの雨雲と出来ている  中野六助
【付録】‐①  撫育方
長州第7藩主・毛利重就が主導した宝暦の改革に際して設立された機関。
重就は宝暦検地によって、新たに得た4万石余りの増収を借金返済には
回さず、特別会計として温存し総合的開発基金にあてた。
撫育方は米、紙、塩、蝋の増産に励み、港湾整備事業も行って、密かに
収益の拡大と蓄財を計った。
その蓄積は莫大なものとなり、幕末期の長州藩は表高36万石に対し、
実高120万石という撫育資金(隠し資産)を保有していたとされる。
最後までシラ切り通す下ろし金  上野勝彦
【付録】‐② 調所広郷
存命当時は笑左衛門の名で知られた。
島津重豪の才能を見出され、家老として薩摩藩の財政再建に辣腕をふるう。
藩の借金を踏み倒した際、「古い証文を書き換えるため」と申し入れ、
貸主の商人から預かった証文を焼払ったとも、彼らの目の前で破り捨てた
とも言われる。さらに幕府に10万両の謝恩金を献納して根回しし、
商人たちが幕府へ訴え表沙汰にするのを封じたという。
国許の貸主に対しては、貸金の額に応じて身分を与え、
「金で名誉を買わせる」手段を用いた。
こうしたことで、同時期に財政改革を行なった長州の村田清風と較べても、
領民を苦しめた極悪人というレッテルを貼られた。
藩内では、斉興と斉彬の権力抗争の矢面に立ち、その憎悪を一身に受けた。
その後、西郷や大久保が明治維新の立て役者となると、広郷が没した後も、
調所家は徹底的な迫害を受け、一家は離散する。
後年、考えると薩摩藩が他藩と異なり、新型の蒸気船や鉄砲を大量に保有
するなどできたのは、薩摩藩の財政を再建した広郷の功績と評価され、
その恩義に報い招魂墓が建てられた。
放蕩の末満点の星を食む  くんじろう

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動物園起きていたのはキリンだけ  片岡加代

関連画像
    山 岡 鉄 舟

『命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、
 始末に困るものなり。
 この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は、
 成し得られぬなり』


「西郷どん」 山岡鉄舟

3月15日に決まった江戸城総攻撃を中止させようと、山岡鉄舟は、
危険をかえりみず、官軍が陣営をひく駿府城へ駆け付けた。
勝海舟の手紙を西郷に届けるためである。
この時官軍の陣所を通るために、薩摩藩士・益満休之助を引き連れた。
益満は三田薩摩屋敷焼き討ちのときに幕府に捕えられ、
勝海舟の屋敷に預けられていたのである。
3月9日に山岡は西郷に会い、勝海舟の手紙を渡した。
この時の山岡の勇気を讃えたのが、西郷の名言にもなる文頭の
「命もいらず・・」である。

言わんでもその顔見たら分かります  北原照子

海舟の手紙には、徳川家の助命など一言も書かれていなかった。
それどころか「徳川の臣は一致して恭順しているが状況は険悪で、
いつ不測の事態となり静寛院宮(和宮)に危険が及ぶかもしれない。
官軍は条理をただして、処理を誤らないでほしい」
というのみであった。
西郷のことをよく知る海舟は、歎願は通用せず、平等な立場から
大義名分を説くほうが効果があると見抜いていたのである。
西郷も海舟の真意を深く察し、慶喜の処分と江戸総攻撃について
緊急の参謀会議を開いた。

会った瞬間ビビビッと来ました  川畑まゆみ

海舟の手紙に対して、西郷は7カ条の条件を提示した。
鉄舟は一点、「慶喜の備前藩預け」について幕臣として断じて
承諾できないと拒絶した。
そして「私とあなたの立場を入れ替えてお考えいただければ、
ご理解頂けるはず」と迫ったが、
西郷も「朝命である」と一歩も引かず、激論となった。
やがて西郷は鉄舟の誠意に心を打たれ、
「慶喜公の事は私が一身に引き受けるので、ご安心ください」と言い、
決死の覚悟でやってきた山岡の労をねぎらった。
さらに江戸に入って勝と会談することを約束し、
鉄舟に通行証を与えて帰した。

とりあえずうなずいておく偉い人  山口ろっぱ

3月11日、西郷は江戸郊外にある池上本門寺」に入った。
そして13日に江戸高輪の薩摩藩邸で海舟と会見する。
2人は初対面ではなく、以前から面識があった。
元治元年(1864)9月に、禁門の変後の幕府の方針を聞くために、
西郷が勝海舟を訪問していたのである。
この時、2人は互いにただならぬ人物であると感じ、認めあっていた。
江戸城中では徹底抗戦を主張する声が高まっており、
西郷の出した条件が受け入れられる可能性はなかった。
海舟は、あ抗戦派に恭順するように説いたが聞き入れられず、
そればかりか命を狙われている状態であった。
海舟も必死だったのである。

線の通り歩くと三途の川がある  田中博造

総攻撃の日まであと2日、江戸城にはいきり立った旧幕臣が集結し、
緊張は最大に達した。
海舟は最後の望みを託し田町の橋本屋で西郷との二度目の談判に臨んだ。
そして海舟は、西郷が出した条件に対して、徳川側の代案を出した。
1、慶喜は隠居して水戸で謹慎する。
2、江戸城は明け渡しの手続きを済ませた上で、田安家に預ける。
3、城内に住む家臣は、すでに城外に移り住み、謹慎している。
4、慶喜の妄動を助けた者は、寛大に処分し命に関わるような
  厳罰を与えない。
5、士民の暴挙鎮撫が徳川の手に負えないと判断した場合は、
  官軍に鎮圧をお願いする。
海舟の出した案は、官軍の要求をほとんど無視したものであり、
江戸城を田安家に預けるということは、官軍には渡さないという
意味である。

それも誠だ火葬場がそこにある  筒井祥文 

西郷は勝の修正案を持ち帰り、駿府の大総督府で協議、
京都で三条実美や岩倉具視、大久保一蔵、木戸孝允とも話し合った。
その結果、「江戸城は尾張藩に引き渡すこと」「軍艦武器は官軍が
すべて没収し、徳川家の処分が完了後、必要数返す」ことを決めた。
尾張藩は徳川御三家の一つであるが、すでに官軍側であったので、
田安家に預けるのとは訳が違った。
4月4日、東海道先鋒総督が江戸城に入り、田安慶頼はこれを受けた。
そして11日、平和的に江戸城の「無血開城」が実現したのである。
無血開城は、西郷と海舟でなければ実現できなかっただろう。
海舟は慶喜を恭順させ、明け渡しまでの道筋を作った。
それに対して西郷は、会談だけで総攻撃の中止を決めた。
西郷の英断によって百万市民の命は救われ、
江戸の町は戦火を逃れることが出来たのである。

失敗をすると決めてから笑う  森中惠美子  

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     パ ー ク ス

【付録】 無血開城の裏

無血開城の決断の裏には、イギリス公使パークスの存在もあった。
西郷は新政府に協力的なパークスに「総攻撃による負傷者を横浜の
イギリス軍病院で治療してほしい」と使者を派遣して頼んだ。
当然、承知してもらえると思っていたが、パークスは、激怒しながら
「徳川慶喜は恭順していると我々は聞いている。
 恭順している者に、戦争を仕掛けるとはいかがなものか」
と拒絶したという。
この返答に西郷は驚いたが、無血開城に反対する官軍兵士を納得させる
ことが出来ると、むしろ喜んだという。

西郷が示した徳川存続の7つの条件
1、慶喜を備前岡山藩に預ける。
2、江戸城を官軍に明け渡す。
3、軍艦一切を官軍に引き渡す。
4、武器一切を官軍に引き渡す。
5、城内に居住する家臣は向島に移り、謹慎する。
6、慶喜の妄挙を助けた者を謝罪させる。
7、旗本の中で、徳川氏の力で鎮撫しきれず暴挙に出るものがあれば、
官軍がそれを鎮圧する。
この7カ条が実行されれば、徳川家を寛大に処置する。

国境をまたぐと飢餓の臭いする  菱木 誠

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