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川柳的逍遥 人の世の一家言
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腹の中へ太鼓は海鳴りを誘う  立蔵信子


  真田丸の決戦

慶長19年11月、秀頼率いる豊臣方と家康を総大将とする徳川方が
ついに
全面対決の時を迎えた。大坂冬の陣である。九度山を脱出し大
阪城入りを
した幸村は、対徳川の最前線ともいえる大阪城南東の惣構
外側に、出城を
築いて敵と対峙した。



「真田丸の戦い」 

「真田丸」は大阪城の本丸から距離にしてい1km程離れた崖の上にある。

大阪城からずいぶん離れた場所にポツンとある巨大な砦。

まっしぐらに大阪城へ攻め寄せれば、

そこから出てきて背後を突いてくるやもしれない。

無視して攻め寄せるには「真田丸」は、存在感がある不思議な出城だった。

家康には最初から、難攻不落である大阪城を力攻めする気はなく、

包囲して心理的圧力を加えるつもりだった。

そのため、攻撃命令を下さずにいたのだが、丑刻(午前2時頃)

功を焦った加賀藩主・前田利常の軍勢が崖上の真田丸に近づいた。

奥の手は勝負所を読んでいる  北川ヤギエ

利常はかの前田利家の4男であるが、まだ20歳でこれが初陣。

しかも2万人を連れてきている。

焦るな という方が無理な話ともいえよう。

幸村は引き付けるだけ引き付け、一斉射撃を命じた。

かっての「上田合戦」と、まったく同じ戦法である。

前田隊は銃撃を浴び、立ち往生する中で退くことも進むこともできぬ

状態に
陥り多くの死傷者を出した。

利常とて無闇な攻撃をしてはならないことは、百も承知だったが、

兵を自在に動かすには実戦経験が不足していた。

先鋒の将らが命令もなしに攻撃したことに驚き、

怒るとともに退却を命じたがうまくいかず、損害は数千人に達した。

空気にも四角三角丸もあり  沢越建

(拡大してご覧ください)

真田丸は東西数百m、北の大阪城とは大きな谷で隔てられ、14・5mの
堀を隔てて2つのく曲輪に分かれていた。高低差を生かし防御性を保って
おり、幸村は築城家としても優れた才能を持っていた。

前田隊につられ井伊直孝、松平忠直の軍勢も八丁目口、

谷町口に攻撃を仕掛ける。

この時、城内で火薬庫が爆発を起こす。

徳川軍諸将はこれを内応によるものと思い込み、好機とばかりに接近した。

すると柵と柵の間に火花が走り、次々轟音が鳴り響いて砂埃が巻き上がる。

近くに来ていた敵兵が爆風で吹き飛ばされた。
                ほうろくだま
埋設してあった火薬詰めの焙烙玉が連続して爆発していたのである。
れんせいしんてんらい
「連星震天雷」、幸村がそう名付け地中に仕込んだ秘策のひとつだった。

この好機に幸村は自ら愛駒を駆り、馬出から敵の追撃を開始する。

これこそが父の真田昌幸が2度にわたって上田城で徳川勢を打ち破った

時と同じく、籠城に見せかけた出戦の真骨頂であった。

体で覚えたことだけは身についた  小林すみえ

真田の騎馬隊は進路で立ち往生する敵を倒し、

それに続く足軽隊が止めをさして首級を奪う。

一方的に敵を追撃し、真田丸の周囲はすでに草刈場の様相を呈した。

幸村の秘計が全て当り、勝鬨が瞬く間に南の惣構え一帯へ伝播していく。

不利に陥った徳川勢は退却にかかるが、後続に道を阻まれ難航し、

その日の午後になってようやく退却を終えた。

しかし緒戦が圧勝で終わったにも関わらず、戦の流れはすぐに変わった。

脳天を打ちのめされた実力差  長坂眞行


冬の陣で指揮をとる秀忠

前線部隊が敗退したと知るや、秀忠は焦り苛立ち、総攻撃を検討し始める。

しかし、百戦錬磨の家康はそれを止め、

「敵を侮るな、戦わずに勝つことを考えよ」と叱りつけた。

時節は真冬であり、一旦は戦いを終わらせる必要がある。

それならば少しでも有利な条件で和睦に持ち込むほうがいい。

家康はそう考えた。

そして取った戦法は、四方八方からの砲撃である。

英国製のカルバリン砲4門、セーカー砲1門、オランダ製の大砲12門

含む徳川軍自慢の新兵器が火を噴き、大阪城を襲ったのである。


ぼうふらのくの字浮いたり沈んだり  大内朝子

毎晩3度にわたって鬨の声を挙げながら大阪城へ向け鉄砲を撃ちかけた。

20万人近い兵の鬨の声はすさまじかった。

大阪城内の将兵は、いつ敵が攻めて来るか分からないプレッシャーに加え、

雑音のため夜の睡眠を妨げられた。

水塀の際まで来ての砲撃は、城内まで届き豊臣軍将兵を焦らせていった。

そして本丸へ放たれた一発の砲弾が御殿に命中して壁が崩れ、

淀君の侍女8名が死亡するという被害を出した。

怯えきった淀君は、たまらず和議に応じる態度を見せる。

家康は砲撃を加えながらも幾度となく和議を持ちかけており、

豊臣方も16日になって和議の申し入れを行なった。

丘ですか谷ですかがんぐりおん  酒井かがり



「地雷をふんだんに使った幸村」

講談『難波戦記』には、「平野の地雷火」という逸話が載る。

幸村が前日に、家康を平野におびき出して「地雷火」で爆殺しようと計画。

そして平野郷の出入り口にあった地蔵堂に地雷を仕掛けておいた。

まもなく、家康一行が通りかかったが、その時に家康が尿意を催して、

その場を離れた刹那に爆発が起こる。

家康は難を逃れ、幸村の策は惜しくも不発に終わるという筋書き。

一言も喋らないのが効いている  岡内知香

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約束を破ったままの蛇の目傘  奥山晴生 



「苦労の人・お初」

は浅井三姉妹の次女。姉は秀吉の側室・茶々と、妹は徳川秀忠正室の

浅井長政と信長の妹・お市という美男・美女の間に生まれた三人は、

親の血を素直に引き継ぐ絶世の美女姉妹といわれる。

初が歴史の表舞台の登場するのは夫・京極高次の死後、

出家して
常高院となってからである。

三姉妹が十数年ぶりに再会を果たすのは、三人の最後の対面となる

江の娘・千姫豊臣秀頼に嫁ぐ時で、これを取り持ったのが常高院だった。

わたくしを女優にさせる枯れ葉です  立蔵信子

冬の陣直前、豊臣と徳川との溝が深まる中で、常高院は懊悩していた。

淀と江の絆をつなぐのは、「自分しかいない・・・」 

常高院は、その一心で女の身でありながら、

徳川・豊臣両家の和睦の使者となるべく、両家の間を懸命に奔走した。

その努力も報われず、慶長19年(1614)大坂冬の陣が勃発すると、

常高院は豊臣方の使者となり、織田有楽斎と共に和睦交渉に臨んだ。
                     あちゃのつぼね
徳川方からの使者は、家康の側室、阿茶局本田正純である。

これにより、日本史上まれな女性同士の使者による和議となり、

講和条件も合意し、ひとときの和平が成立した。

八起き目の朝こそえくぼたしかめる  桑原すゞ代

こうして和睦がなり、大阪城の堀は埋められることとなった。

ところが、和平から4ヶ月後、いまだ大阪城内にいた浪人たちの一部が、

堀や塀の復旧にかかり、乱暴や狼藉を働きはじめたのである。

それどころか城内では再び戦争するか否か、議論が湧き起こっていた。

こうした問題に腹をたてた家康に追いつめられて進退窮まったは、

ふたたび常高院を使者として、家康に詫びを入れるが、家康は聞かず、

次は常高院を家康の使者として、許すための条件を申し渡したのである。

徳川、豊臣と使い走りを一手に受けていた常高院をわき目に見ながら、

生き残りと逃げ足の早さに定評のある有楽斎は出奔してしまい、

一人で常高院は、両家の再戦を最後まで回避させようと努めた。

しかしそれも徒労に終わり、夏の陣が始まってしまうのである。

まだ修羅を踏ませるつもりですか 神  安土里恵

戦が始ると大坂城にいた常高院は、大坂方の侍女たちを引き連れて脱出。

そんな常高院を心配して、家康は迎えの者をつかわし、

常高院に付き従っていた者たちはみな、咎められることもなかった。

家康がいかに常高院のことを気遣い、認めていたかが分かる。

この後、常高院は京極家の江戸屋敷に住み、三姉妹の中で最も長生きしたが、

晩年は継子の京極忠高とその正室で江の四女・初姫の不仲に

悩まされるなど、苦悩が絶えない人生を送りつづけ、

寛永10年(1633)没、63年の生涯を閉じた。

描きおえて画家は昇天するつもり  筒井祥文



「逃げの織田有楽斎(如庵)」 

本名は織田長益。通称・源五郎。

43歳の時、剃髪して有楽斎と号しクリスチャンであった彼はポルトガル人に

多い名からジョアン(如庵)と称した。

武人であり、利休に学んだ茶人としても有名。

信長とは13歳年の離れた弟で、浅井三姉妹の茶々・初・江の叔父にあたる。

信長が本能寺で倒れるまでは、信長の長男・織田信忠の旗下にあり、

各地の戦線に帯同してきたが本能寺の変では、二条御所で自害して

果てた甥の信忠を見捨て、逃亡したことで、次のように歌で叩かれ、

一躍、
世間に知られる人になる。

"織田の源吾 (有楽斎)は 人ではないよ お腹召せ召せ召させておいて

 我は安土へ飛び帰る ♪

向き合っているのにこころ分らない  早泉早人

関ヶ原の戦いでは、東軍について石田三成軍の猛将を討ち取る活躍をし

大和3万石を与えられる徳川方大名であったが、織田兄弟の4番目の

織田信包が大阪城で病死すると、兄弟の中で一番冴えなかった有楽斎が

唯一の織田の生き残りとして、大阪城に入り、淀、秀頼の後見人を務め、

又、一家言を持つ存在として、城内を
取り仕切りはじめるのである。

冬の陣の最中は、姪の淀を補佐しながら穏健派の立場をとり、

徳川方との講和交渉に尽力した。

が、徳川との絆は解けておらず、
内実は徳川家に通じ

豊臣家の情報を関東に流していたという噂がある。


嘘の味少し甘味がついてます  星井五郎


 有楽斎の木像(このおどけた表情をとくとくとごらんください)

まもなく再戦(大坂夏の陣)の機運が高まり出すと、有楽斎は家康秀忠

「誰も自分の下知を聞かず、もはや大坂城内にいても無意味」 と訴え、

夏の陣が勃発する直前、逃げるように大坂を離れ徳川家の許可を得て

京都正伝永源院を隠居所にして過ごした。

以後、茶道に専念し独自の茶風を確立すると有楽流を創始。

有楽斎は76歳で死去するが、織田・豊臣・徳川の時代を生き抜いた

世渡り
上手の血は子子孫孫に受け継がれ、小藩ながら明治維新まで続いた。

【余談】東京の有楽町の名は、この地に有楽斎の屋敷があったことに由来する。


ころあいは耳たぶほどのやわらかさ  山田紀代美

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控えめに生きておりますしつけ糸  新川弘子



「淀の方」 永禄12年(1569)~慶長20年(1615)

本名は茶々。妹に(常高院)(崇源院)がいる

織田信長の妹・お市浅井長政の三姉妹の長女である。
             ひろい
文禄2年(1593)(秀頼)を産んだ。

秀吉に正室・ねねや他の側室は豊臣秀吉の子を生んでいないため、

秀吉政権で「お世継ぎの母」となり、力を持つ。

秀吉から淀城を与えられたため茶々は「淀の方」と呼ばれるようになる。

慶長3年(1598)に秀吉が没すると、秀頼が天下人の地位を受け継ぐが、

秀頼はまだ6歳。

当初は秀吉の正室ねねとともに秀頼の後見に当たったが、

翌年ねねが身を退いて大阪城を退去して京へ移住したことで、

淀が豊臣政権のトップとなった。

答出たのね靴ひもを結ぶふり  森田律子

しかし、この女性主導ともいうべき豊臣政権は政治・軍事面で遅れをとり、

次第に豊臣家臣団の筆頭に過ぎなかったはずの徳川家康の台頭を許す。

豊臣家臣団の内部分裂で「関が原の戦い」が起きるが、

淀は秀頼の出馬を許さず、中立の立場をとった。

慶長19年(1614)「大阪の陣」が勃発する。

その頃には、大名で豊臣家に味方する者はなく、

大阪城へ馳せ参じたのは「関が原の戦い」で家を失った浪人衆のみだった。

嗄れた耳は明日を培養中  河村啓子

淀は自ら甲冑を着込み城内を歩いて閲兵、督戦を行なう。

「秀頼は乳飲み子なり、お袋専制なり」

と評されたように、秀頼には意見を言わせなかったとされる。

幸村たち浪人衆の意見を退けて籠城を決する、

秀頼を出陣させないなど、
淀の判断は消極策に終始した。

一方で秀頼への愛情を何より優先した。

大阪城のトップとして采配を振るうには、いかにも力不足といえた。

ガラパゴスへ帰りたがっている背中  新家完司

後世の人は「大阪の陣」の結果をよく知っている。

大阪方が和議に応じたから負けた、

秀頼が出なかったから負けた、

とその敗因をいくらでも分析することができる。

だがそれは過ぎたことだから言える事で一分先のことも読めないのが現実。

幸村が「さだめなき浮世、明日のことはどうなるかわからない」

手紙でも述べているように、豊臣軍の武将たちは、

「まだまだ勝機はある」
と信じて戦っていた者が多かったはずだ。

豊臣軍の諸将は諦めず、家康を倒すための一手を考えていた。

徳川軍は総大将の家康と息子の秀忠が最前線近くまで出てきている。

「もう」言うな水はしばらく止められん きゅういち


 秀頼出馬を願う幸村

しかし豊臣軍の大将・秀頼はといえば開戦から一度も城内から出ていない。

幸村は秀頼の出馬を何度も願ったが、

その度に淀や首脳陣に渋られ、
実現せずにいた。


秀頼本人も血気盛んな23歳、

前線へ出て采配を振るいたいとの思いは
あったようだ。

だが側近が、淀の気持ちを慮って、それを留めた。

もし秀頼がそれを振り切るほどの気概を持っていたら、

まだ勝敗の行方は分からなかっただろう。

カラフルな画鋲握り潰してる  岩根彰子

敢えて擁護するならば、淀は大阪の陣が始まって以降、

城内では、家康の調略による「秀頼暗殺」の報が飛い謀反の噂が絶えず、

常に疑心暗鬼に陥っていた。

そのために淀は「秀頼を一歩も外へ出さない」という選択をせざるを得ず、

側に置いて離さなかったという。

その状況を打開できるような、頼りになる譜代の家臣が少なかったことが、

豊臣家と淀にとっては、不幸であった。

「定め無き浮世にて候へ者、一日先は不知事候。
 我々事など浮世にあるは おぼしめし候まじく候」

木霊響く振り向かないと決めたのに  加納美津子

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足裏は今日の復習しています  合田瑠美子

(各画像は拡大してご覧下さい)
   真田丸奮戦

大坂の陣直前に幸村が築いた真田丸、その存在は以前から知られていたが、

近年、そのその構造や役割について見直しが進んでいる。

従来、真田丸は大阪城の弱点である南東平野口の防御を固めるべく、

あくまで惣構えの補強として設けられた「曲輪」だとされてきた。

しかし実は、およそ南北220m、東西140mにも威容を誇る、

惣構えの外に築かれた「独立した城」であった。

最新の研究によれば、真田丸の周囲には水堀ではなく空堀が巡っていた

ことが明らかになっている。

また南東口は地形的にも弱点というより、むしろ、

天然の要害であったという。


悲しみを瞳の底に書き留める  小池正博


松江歴史館で見つかった真田丸絵図(上が南)

「真田丸最古の絵図見つかる」

今回見つかった真田丸の絵図は、元禄年間(1688〜1704)頃のもので、

真田丸を詳細に描いたこれまで最も古い絵図は、


広島中央図書館所蔵の「摂津・真田丸」宝暦3年(1753)とされてきた。

大坂冬の陣(1614)で豊臣方の武将・真田幸村が大坂城南側に

築いた出城「真田丸」の江戸時代の絵図(縦28センチ、横41センチ)が、

2016/10月12日、松江市の松江歴史館で見つかった。

真田丸の絵図は、戦時の布陣を示す略図が多いが、

今回のものは跡地で写実的に描かれたとみられ、専門家は、

「謎が多い真田丸の姿に迫ることができる重要な発見」としている。
                       (各紙掲載文参照)
三日月の欠けた部分がわたしです  岩田多佳子

今回の絵図は、江戸時代の武士が研究に用いた城の絵図集で、

松江市の男性が市に寄贈した「極秘諸国城図」(74枚)の1枚。

絵画集の包み紙には作製時期を示すとみられる

「元禄」(1688〜1704)
文字が書かれていた。

絵図の北側には「出丸 廿五(二十五)間程」と記載があり、

真田丸に「本丸」「出丸」があったと解釈できる。

絵図の調査を担当した奈良大の千田嘉博学長(城郭考古学)は、

「真田丸自体に出丸と本丸があったとすれば、

 大坂城から独立した軍事拠点といえる」 と話している。

屋台にはガラスの騎士の席がある  ふじのひろし


 大坂冬陣備立図 (大阪城と真田丸の位置関係)

真田丸の北側には大坂城があり、当時は防御の必要性が低かったと
                              こしぐるわ
みられるが、出丸の東側には側面を防御する「腰曲輪」も描かれている。

また真田丸の南側に一番外側の堀を意味する「惣構堀」と記れた堀があり、

堀の底に下りるようなスロープが描かれている。

こうしたことから、「真田丸の独立性がうかがえる」というのだ。

真田丸は、幸村が1614年の「大坂・冬の陣」で築いた砦で、

戦いのあとすぐに取り壊されたため、大坂城の中にあったのか、

独立した出城として建てられたのか解明されていなかった。

サランラップで包む私の急所  雨森茂樹

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非常口いくつかあってまだこの世  清水すみれ


    真 田 丸

「幸村の出城」

慶長19年初冬、豊臣秀頼を中央に大野治長ら豊臣の重臣に有楽斎

加わり、真田
幸村以下、五人衆との間で「軍評定」が開かれた。

徳川軍を迎え撃つ戦の方針を巡って討議は紛糾する。

大野治長をはじめとする秀頼の側近たちは、大阪城の堅固さを利用した

籠城を主張する一方、戦働きによる武功を望む五人衆は積極的に


徳川勢の出鼻を挫く策を主張した。

散々、議論が交わされたが、結果は、淀君の一言で方針が決まってしまう。

「これだけの城と兵を有しながら、上様自らが野に出て、

 戦う必要がどこにありましょうや」 

つまりは籠城だった。


それを見越していた幸村は、すかさず秀頼に出丸の造成を進言する。

風穴をあけて言いたいことを言う  平井玲子

「敵方は城の南側に主力を配すると考えまするが、一点に城攻めの狙いを

 定めるならば南惣構えの黒門と平野口の間が構えの薄き場所かと、

 そこに攻守両用の出丸を造ってはいかがにござりましょう」

「出丸とは、いかなるものか」 

と怪訝な面持ちで秀頼が問う。


 「黒門と平野口の間に丸馬出の形で幅10間(約18メートル)の砦を築き、

 正面に三日月の如き水掘を置きまする。そこから両端までを空堀とし、

 三段の土塁を盛り、三重の柵にて囲みまする。ただし、両側には馬出を

 設け、その外側に柵列と逆茂木を巡らせばよいかと。この出丸を造ります

 れば敵が背を見せた時に南側への出足を失うことはありませぬ」

幸村の意外な策に皆は驚いたが、秀頼と大野治長はそれを採用した。

能書きを端折ると笑う寒牡丹  オカダキキ

翌日から大阪城の東南角に槌音が響き始める。

幸村自らが人工や足軽を指揮し、突貫で出丸の造成が進められた。

その間に徳川勢は進軍を続け、各地で与力の将兵を加え、

総勢20万に膨れ上がった。

出城は何とか敵の布陣までに完成し、その物見櫓に立った幸村は、

やがてこの出城を取り囲むだろう徳川勢の旗幟を想像しながら、呟いた。

―何とか間に合ったようだ。これで少しは戦らしくなろう。

そしてこの出城が、いつの間にか「真田丸」と呼ばれるようになる。

守りから攻めに入った猫のひげ  松宮きらり

幸村は初陣となる息子の幸昌(大助)に言った。

「戦の方針は、籠城となった。

 されどわれらの狙いは、籠城に見せかけた出戦である。

 ここから戦いに持ち込み、この出丸に秘めた策をすべて解き放つ。

 そして、徳川に一度も負けたことのない真田の武名を、

 ふたたび世に知らし目ねばならない」

幸村は敢然と己の決意を伝える。

慶長19年12月4日、今まさに、「冬の陣」が始ろうとしていた。

【余談】
突貫工事で造られたという真田丸だが、近年の調査研究により、
この「真田の出城」は従来の説より精巧な要塞で、

また、かなり険しい地形に築かれたことが分かっている。

昨日今日守り明日への歩は変えぬ  上田 仁


   真田大助

「真田幸昌」

父・幸村が配流された九度山で生まれた。

母は大谷吉継の娘・竹林院。


慶長19年、父とともに大阪城に入り、

同年、冬の陣では、真田丸に攻め寄せた
幕府軍に突撃をかけたと伝わる。


翌年、夏の陣が起こると、5月7日天王寺・岡山の戦いで父の前陣を務め

奮戦、負傷した。

その後、父から秀頼の側を固めよと命じられ城内に戻り、


翌日、秀頼・淀君母子に殉死。弱冠14歳の最後であった。

畳みじわついたまんまで河口まで  笠嶋恵美子

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