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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ひがな一日祈ろうか呪おうか  筒井祥文


  小山評定跡 (ここで家康は行くべき方向を決めた)

「犬伏の決別」

慶長4年3月、家康に対抗できる大物・前田利家が病死すると、

事態は一気に動きはじめる。 石田三成は隠居に追い込まれた。

秋には、前田利家の後を継いだ利長に謀反の疑いがかけられ、

家康は、「前田討伐」を号令する。

これは利長の必死の陳弁によって回避されたが、

もはや領地を欲する大名たちに、歯止めは利かなくなっていた。

その後、家康は、おねに譲ってもらった大坂城・西の丸に入り、

大名の加増や転封・婚姻などを次々と実行していった。

家康は我がもの顔で歩き、まるで天下人のような振る舞いをしている。

所領の近江・佐和山で隠居生活を強いられていた三成は、

家康のこうした動きに焦りを覚えつつも、何もすることができない。

もしかして家系たどればコウモリ科  井上登美

そこで三成は五大老のひとり上杉景勝の家老・直江兼続と謀議した。

上杉家がまず会津で挙兵し、それを討伐しようと北に向かった家康の軍を、

大坂で秀頼を旗頭にした三成の軍が挙兵し、

挟み撃ちにしてしまうという策を練った。

思惑通り、慶長5年(1600)6月、「上杉景勝に謀反の疑いがあり」

ということで家康は自ら兵を率いて「会津征伐」へ大坂城を後にした。

これを好機と三成は、五大老・毛利輝元を盟主に仰ぎ、

7月に大坂で兵を挙げた。

そして手始めに、家康の老臣・鳥居元忠が守る伏見城に迫った。

7月18日には、輝元の名前で元忠に開城を求めた。

城将のひとり、木下勝俊のみは勧告に応じて城を出たが、

元忠は断固拒否の姿勢を崩さなかったため、

翌19日から、
西軍による伏見城総攻撃が始まった。

宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万もの大軍に囲まれたため、

元忠ら城兵は大いに奮戦したが、8月1日に落城した。

この戦いを皮切りに約2ヶ月にわたる東西対決が続くのである。

縺れあってるのは底のないバケツ  森田律子


  犬伏の密談

最初は昌幸とともに信之も信繁も東軍として会津征伐に向かった。
だがその途次、三成が挙兵し昌幸にも西軍への勧誘が来た。
下野国犬伏で、真田一族は去就を決断するための協議を持った。

慶長5年(1600)7月21日、家康率いる会津征伐に合流すべく進軍して、

下野犬伏に着陣したこの日、三成が派した密使が真田昌幸の元に到着し、

西軍への加勢の要請があった。
                              かなえ
昌幸は去就を決すべく信之、信繁を呼び寄せ、鼎に座を占めて

人払いを厳命して、額を寄せ合い、密談が交わされた。

「わが真田家は今、重大な岐路に立っている。

   お前たちの存念を聞かせてくれ。 まず伊豆(信之)から申せ」

三人の前には、回し読みした文書が置かれている。
けっき
長束正家、増田長盛、前田玄以の3奉行が連署した「蹶起趣意書」

家康に対する「弾劾状」である。

片隅の内緒が重くなってくる  安土里恵

「真田家は内府(家康)殿に格別のご恩を蒙ったわけではござりませぬが、

   しかし会津征伐命令を受けて出陣しました。

   ここで逆心しては不義になりましょう。
               じっこん
   加えて昵懇を得ていますし、内府殿の養女を妻にしておりますれば、

大恩ある内府殿に弓を引くことはできませぬ」

信之は天正17年に駿府城に出仕し、領地の上野沼田も家康に安堵され、

さらに家康の養女として本多忠勝の娘・小松姫を正室に迎えてもいる。

主従関係からいっても家康に近い。

冗談に混ぜる本音の唐辛子  佐藤美はる

「左衛門(信繁)はどうじゃ」

「太閤殿下の御置目に背かれ秀頼様をないがしろにして、

 天下を私しようとしている内府殿に加担するは、

    不義不忠に味方するも同然。


    武士にして武士にあらざる末代までの家の恥であり、

    名の汚れでござりましょう。

    石田冶部(三成)殿や大谷刑部(吉継)殿らの旗揚げは、

    内府殿の不義を凝らして不忠を糺し、

   主家の安泰を図ろうとする義挙と存じます。

   豊家の海岳の恩義に思いいたさば、

   東か西かと詮議するまでもござりますまい」

信繁は天正14年(1586)から秀吉のもとで人質生活を送っている。

玉葱の肩は論理的カーブ  新家完司

だが、人質とはいえ、秀吉は信繁を厚遇をした。

朝鮮の役のおり、肥前名護屋城へ赴いたときには、馬廻りを務めさせたし、

功績著しい加藤清正や三成にすら賜らなかった「豊臣姓」を下賜していた。

それだけではない。

信繁の正室は吉継の娘だった。

信繁はまた、家康が征伐しようとした上杉景勝とも深い縁があった。

一時上杉家の人質となり、同家の直江兼続と親交を結んでもいたのである。

解凍の四捨は辛さののこる数  佐藤正昭

「相わかった」

迷妄の色が微塵もない毅然とした二人の顔貌に

満足気な視線を注いだ昌幸がつづける。
                              しゅみせん
「ともに一理はある。伊豆が内府殿から受けた須弥山より高い大恩を思い、

   左衛門が太閤殿下から受けた蒼海より深き重恩を思えば当然のことじゃ。

   行く道は違うても、帰するところは義の一字にある。

  伊豆は東につき、左衛門は西につけ」

「はっ、承知つかまつりました。それこそ我らが本懐でござります」

深々と頷いた兄弟が問う。

「父上はいかがなされます」
                                                                                               こう
「わしは内府殿に恨みこそあれ、恩義は毫もない。

   じゃが石田冶部殿は親しい縁者だ」

「されば、それがしと父上は敵と味方に・・・」

信之の眉宇が曇った。苦渋の色も浮ぶ。

人間を続けています揺れてます  合田瑠美子

「義には骨肉も親疎もない」

「しかし、父上に刃を向けるは・・・」

「大義親をも滅す、という言葉を知らぬか。何事も運命じゃ。

   それより大望を遂げ、家名をあげるには二度とない好機と心得よ。

   万一、わしと左衛門が討死しようとも、

   そのほうが残れば真田の家名は絶えぬ。真田を二つに割るが、

   それぞれに真田の誇りを貫き、六文銭の旗に恥じぬ戦をするまでよ」

「心得ました。肝に銘じまして」
    こうとう
信之が叩頭し、信繁が相槌を打つ。

父子・兄弟間にしこりもわだかまりも残っていない。

爽やかな決別の決断だった。

やがて、両者は「第二次上田城攻防戦」でぶつかることになる。

兄さんそのまま弟ありのまま  雨森茂樹

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鼻をみただけで飲兵衛だと分かる  新家完司

(画像は拡大してご覧下さい)

「戦国四方山話ー③」

「幸村は焼酎好きだった」

酒には大きく分けて「醸造酒」「蒸留酒」がある。

焼酎はウイスキーやブランデーと同じ蒸留酒である。

焼酎の正確な起源は分かっていないが、

11世紀頃には、中東や東南アジアなどで作られていたといわれている。

日本に伝わったのは14~15世紀頃と考えられ、ルートには諸説ある。

一つはシャム(タイ)から琉球経由で日本全土にもたらされたとする説。

琉球と交易があった朝鮮王朝の歴史書・『李朝実録』に、

15世紀後半に、すでに琉球に蒸留酒があったことが記されている。

発酵は爪の先から始った  立蔵信子

一つは、15世紀の初めに朝鮮の太宗から対馬領主・宗貞茂

送られた焼酎があり、やはり「李朝実録」にその記述が見られるという。

スペインの宣教師・フランシスコ・ザビエルは、天文18年(1549)

布教のために初めて日本の地を踏んだが、その3年前、

ポルトガルの商人・ジョルジュアルパレスが薩摩を訪れている。

アルパレスは、ザビエルの依頼で書いた日本についての報告書の中で、

日本人が米から作る蒸留酒「オラーカ」を飲んでいると記している。

オラーカは、アラビア語の焼酎を意味する「アラック」に由来する。

まばたき三回しっかり水気切りました 笹田かなえ

永禄2年(1559)の八幡神社(鹿児島県大口市)の改修工事の際に、

塗り込められた「焼酎」に関わる木片が見つかっている。

これが、「焼酎」の文字が使われた一番古い記録といわれている。

「永禄二歳八月十一日    作二郎
                     鶴田 助次郎

其時 座主ハ大キナこすでをちやりて 一度も焼酎ヲ不被下候。

何共めいわくな事哉」

(ここの主人は大変ケチで、一度もねぎらいの焼酎を一杯も飲ませて
 くれなかったと工事に関わった大工が愚痴って書いたもの)

※ この頃の焼酎は米焼酎で芋焼酎が出てくるのはこれから150年後。

焼酎の湯割りに塗す今日の瑕  通 一遍

真田幸村はよく知られている通り、関が原の戦いの際、

父親の昌幸と西軍に加わり信州上田城で徳川秀忠と戦った。

本線で味方が敗れたため、父子ともに処刑されるところであったが、

東軍にいた兄・信之の奔走によって助命され、

高野山の麓・九度山配流された。


ここで慶長19年(1614)に大阪に入城するまでの年月を過ごすのだが、

その間、幸村から真田家に宛てた書状が何通か残っていて、

信之の家臣・河原左京という人に出したものがある。

空き部屋があります 頭の中心に  浜 知子

書状の主な内容は、「この壷に焼酎をつめて賜りたい」というものである。

「お手持ちがなければ、ついでのときで結構だが、壷の口をよく締めて、

   紙で貼って欲しい」 

などと細かい注文がある。


以前もらったときに、気が抜けてしまったことがあったのだろう。

追伸にも「焼酎の儀 頼み申し候」と再度の要望があり、

幸村は相当な焼酎好きであったようである

お月様を味わったのはどなたです  和田洋子

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一日でならずローマもこの皺も  岡本なぎさ


「狸親爺」

「秀吉の枕元で家康が秀頼の補佐を約束したのは汚い。腹黒いやり方だ」

と、よく言われることがある。

「家康狸親爺説」がそんなところから出てくるわけだが、

豊臣家および三成サイドに立てば、それが正論だろう。

しかし家康にしてみれば、高い器量のある秀吉だから臣従したのであって、

実力ある者が天下を盗るという戦国の習いに照らしてみれば、

「秀頼より自分が上」という意識があった。

従って、戦国は終わったと考える三成と、

戦国はまだ続いていると考える家康の意識のずれが、

関が原の戦いを呼び込んだと考えられる。

身のうちに白の領分黒の領分  雫石隆子

家康が戦で仕掛ける取り口は、いつも「いいがかりをつける」である。

その矛先が上杉景勝であった。

三成が佐和山へ蟄居させられたのを目の当たりにした景勝は、

直江兼続とともに、8月初旬に京を発ち、22日に会津に帰国した。

そして領国の仕置きを表向きの理由に、翌慶長5年(1600)2月にかけて、
             こうざし
兼続に命じて新たに神指城を築城、領国内の城の普請や道路整備を行い、

武器を調達し浪人を召し抱えた。

これは明らかな戦闘準備であると家康は考えた。

加えて越後の堀秀治・出羽の戸沢政盛が、「景勝に謀反の企てあり」

との
報告が家康のもとに届く、さらに景勝の重臣・藤田信吉が、

兼続と対立して家康のもとへ出奔し、「謀反の気配」とちくった。

あなたとの境にゴーヤ植えている  寺島洋子

この頃、家康は秀吉未亡人・北政所に代わり、大坂城西ノ丸に入り、

政務を執るようになっていた。
                                 さいしょう じょうたい
そこで家康は「ここぞ」とばかりに、
京都豊光寺の僧・西笑承兌を通じて、

慶長5年4月1日付で、
景勝に書状を送りつけ上洛を促した。

この家康の書状に真っ向から挑んだのが、直江兼続である。

彼は返書として激越な文言の書状をしたため、家康に送り返した。

これが「直江状」である。

家康は重ねて景勝に上洛と謝罪を要求したが、景勝は拒否、

ここに正式に「豊臣家への謀反」を理由とした会津討伐が決定する。

朱の紐を引っぱり修羅へ直線に  上田 仁

景勝は出羽・仙道方面の守備を厳重にし、迎撃体勢を構築した。

一方、家康は6月18日に伏見城を発ち、江戸城にて再度軍議を開いた後、

7月21日、江戸を発ち会津へと向かう。

会津では景勝が仙道諸将に檄を飛ばして決戦の意を固めさせ、

8千の兵を率いて長沼に陣して家康を待った。

しかし、家康は会津へは来なかった。

石田三成「打倒家康」に向けて決起したからである。

伏見城将・鳥居元忠から、その報が家康に届いたのは、

7月24日、下野小山に着陣した日である。

世にいう小山評定といわれる軍議を開き、家康は軍を西へ取って返した。

上杉征伐への出陣は、三成に仕掛けたみせかけの罠であり、

それにまんまと引っかかった三成であった。

敵と味方に埃を分けなさい  酒井かがり

「直江状」(新潟県立歴史博物館蔵)

上杉家が軍備増強や領内の整備、城の改築したことに対し、
「謀反の兆しあり」と家康が言いがかりをつけてきたことに対する返書。

「たった三里しか離れていない京と伏見の間にさえ、

色々な風説が飛びかうのに、上方とここ会津は非常に遠く、

どんな間違った風説がたとうとも何ら不思議ではない。

また、誓紙を出せといわれるが、太閤に出した誓紙を

一年もたたずに踏みにじり、諸大名と婚姻を結んだのはどこの誰であろう。

景勝には謀反心など全くない。上方では茶の湯など、

およそ武士の本分とはかけ離れたことにうつつを抜かしておられるようだが、

我が上杉家は田舎武士につき、いつでもお役に立てるよう武具をととのえ、

人材を揃えることは、これこそ武家の本道と心得ている。

道を整え河川を修復するのは、領民のため以外に何があろう。

一国の領主として当然のことではないか。

それとも上杉家が家康公の今後の邪魔になるとでもお考えか?

前田家に仕置きをされたそうだが、大層なご威光をお持ちなことだ。

我々は心ない人々の告げ口に、

いちいち会津から上方へ行って言い訳するほど暇ではない。


このような理不尽なことでわれらを咎められるおつもりならばそうされよ。

いつでもお相手をいたそう」

不本意なカウントダウンさせられる  山口美千代

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臍は出すもの心は奥に仕舞うもの  河村啓子


  天正大判
1588年に豊臣家より発行された大判。純金165gで作られており、
戦国後期には非情に珍しかった。
江戸時代には慶長大判と並行して使われていた。


「戦国よもやま話ー②」

「高台院と三成」

豊臣秀吉の正室・高台院。秀吉が没し、未亡人になってからの彼女は、

石田三成と仲が悪く、「関が原の戦い」でも、東軍の加藤清正らと

通じていた
とされているが、近年、この解釈に疑問が唱えられている。

通説では豊臣家の将来を見かねた高台院が、徳川家に頼って

生きていくことに決め、加藤清正福島正則、小早川秀秋らに

関が原の戦いで東軍に加担するように仕向けたとされている。

これで豊臣政権を守るために挙兵した三成の立場をなくしたわけだ。

だが昨今、高台院X三成親密説が浮上してきているのだ。

2人が親密だった論拠はいくつかある。

かもめーる ほんとのことは積み残す  岡谷 樹

まず、三成の娘が高台院の養女になっていたこと。

険悪な仲であればこの関係は考えにくい。

次に、高台院の甥、兄弟の多くが西軍として関が原の戦いに参加し

領地を没収されていること。

高台院が東軍に通じていたとするなら、秀秋以外の救済にも、

手を回しただろう。


そして、親密だったとされる高台院と東軍の加藤清正の関係だが、

これも信憑瀬のある資料はない。

臍の緒が鼠の餌になっていた  新家完司

では何故、不仲説が流れていたのか。

それは徳川幕府成立後に、「三成を悪人に仕立て上げよう」とする

動きが、あったことに起因している。

豊臣家滅亡後もその存在を認められていた高台院に対し、

三成は徳川家に生涯刃向い続けた人物。

三成を悪とし高台院と不仲だったことにすれば、

都合がよかったのである。

1トンの四角い夢にうなされる  井上一筒

「直江兼続と伊達政宗」

上杉家家臣として上杉景勝の側近を務めていた直江兼続は、

家康を激怒させた
直江状」の筆者としても有名で、

真面目で義と愛に篤い人物だった。


対して政宗は伊達家から奥羽きっての戦国大名にのし上がった人物で、

華美な様相を好む派手な男だったと知られる。

いかにも噛み合わなそうなこの2人、やはりというか実はというか、

仲の悪さを示すエピソードをいくつか残している。

その時代嘘は手頃な値であった  中野六助

兼続が景勝の代理として大坂に上った際、

大名が集まる間で政宗が大名たちに「天正大判」を見せびらかしていた。

やがて兼続のもとにもそれが回ってきたが、

兼続はそれを素手では触らず、
開いた扇子に乗せて眺めていた。

それを見た政宗は兼続が遠慮しているのかと思い、

「苦しゅうない、手に取られよ」
と声をかけるが、

兼続の口から返ってきたのは、とんでもない言葉だった。


「ご冗談を、不肖兼続の右手は先代謙信の代より上杉家の采配を預かる身。

   左様に不浄なものに触れるわけには参りません」

そうして兼続は、その大判を政宗の膝元に投げて返したという。

手始めに青首大根真っ二つ  安土里恵

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はさまった悔いを掻きだす糸楊枝  佐藤美はる



「戦国よもやま話」

「島左近とは」

石田三成が、島左近を含む大名たちを引き連れて大坂城天守に登り、

そこから四方を見渡し、城下の繁栄を見て言ったとされる言葉がある。

「天下擾乱の時、大器で知謀に優れた秀吉公が出て群雄を次々と従え、

五畿七道を掌握なされた。

今もなおこのように繁栄し、民の喜ぶ姿が見られ、またその歓声を聞く。

秀頼公の永世を祈らぬ者などいるはずがない」

これを聞いた大名たちは口々に「その通りだ」と同調した。

金平糖ほどの角なら二つ三つ  山本早苗

しかし、三成の重臣・島左近は、佐和山に帰ってから三成に言った。

「そもそも権力者の所在地には、昔から身分を問わず人は集まって参ります。

つまり、たとえ繁栄していると言えども、必ずしもそれは権力者の人徳に

よるものとは限りません。

人々は利のある方に就くというだけなのです。

城下を二、三里も離れないうちに、雨も満足にしのげない茅屋が建ち並び、

衣食も十分とは言えず道に倒れて餓死する者も多くいます。

今、豊臣家は安穏としているときではなく、御家安泰の道を武備にだけ

頼るのはいけません。

流れ星だからって甘えるんじゃない  前中知栄

まず将士を愛し、庶民を撫してその心を悉く掴むときには、

二心を抱く者とて服従し、恨みを持つ者も疑いが和らぎ、たとえ力を頼んで

謀反する者が出ても、一檄を飛ばせばたちまち秀吉公恩顧の将士が馳せ

集まって逆賊は或いは降伏し、或いは誅されるでしょう。

これを頭に入れず、ただ城下の繁栄に驕り下々の憂苦を思わず、

武備にのみ力を注ぎ城壁塹壕の補修のみ行っても、徳や礼儀をもって、

その根本から培養していかないと、甚だ危険なことになります」

この言葉を重く三成が受け止めておれば、もう少し長く生きれた。


原罪のあさきゆめみし合歓の花  森田律子

「島左近とは」
              しま きよおき
通称・島左近、実名・島清興島(勝猛、友之、清胤、昌仲とも名乗った)

筒井順慶、定次に仕え、豊臣秀長・秀保に仕え、関一政に仕えた。

順慶の子・定次が酒色に溺れ、政治をかえりみなかったので、

左近はその元を去り、流浪の果てに近江に赴き、江南の高宮の近くに

草案を営み、引き篭っていた。

その後、武名によって羽柴秀長に仕える機会を得、

朝鮮の役では秀長の子・秀保に従って戦功をあげ、

秀保の死後、石田三成の家臣になる。

このとき三成が左近に出した驚きの条件は禄高2万石を用意するであった。

三成は自身の禄高の半分を与えるから家臣になってくれと頼んだのである。

左近の実像は史料的に見えず、石田家臣としての存在自体にも懐疑的で

あったが、
近年発表の『石田三成文書』によって、

島左近が三成の重臣だったのは間違いない事が明確となった。

視野狭いわたしにも欲しいトンボの目  内藤光枝



「本多正信」

本多正信は、元亀元年(1570)の「姉川の戦い」に参戦してのち、

家康の側近として抜群の信頼を得る。

その関係はしばしば「水魚」に例えられ、
家康は正信を「友」と呼び、

正信が帯刀して家康の寝室に、
入ってもいいと言われたほど。

また、正信には家康の考えていることが手に取るように分かり、

家康が欲しい反応を即応で見せることから、

海外の文献では、正信を超能力者であると指摘していることもある。

その活躍は、家康が豊臣政権によって与えられた新領地・関東の経営から、

秀吉没後から徳川家康が天下人になるまでに行われた謀略まで。

毛筆のかすれに悪意忍ばせる  嶋沢喜八郎

「方広寺鐘銘事件」のほとんどは正信が献策したものともいわれている。

1603年、徳川家康が初代将軍として江戸に幕府を開くと、

正信は家康の側近として国政に関わり、さらに二代・秀忠が将軍となると

秀忠付の年寄として幕政をリード、大坂の陣でも高齢の身をおして、

数多くの策を立てた。

とにかく家康は過剰なまでに信頼しており、

関ヶ原の戦後処理・家臣の叱責についても正信の助言に従っていたという。

その功績は大きかったが、一方、謀略・内政に携わるものの常として、

武将たちからの評判は悪く、彼らの嫉妬を避けるためか長く加増を望まず、

晩年にようやく2万2千石を受け取っただけだった。

権謀術数に精通し世渡り上手であった正信は、

「出る杭が打たれる」ことを、身を持って熟知していたからである。

語尾ひとつ昨日の距離が加速する  桂 昌月

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