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川柳的逍遥 人の世の一家言
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掘削のプロ集団であるモグラ    新家完司
 
 

日本国第一の大天狗


平安後期、11世紀の終りに『院政』という政治形態が生まれた。
貴族支配が動揺するなかで、「行動しやすい天皇制としての院政」が生
れたのである。院政とは、「治天の君」の政治である。
 また『武士』が、国家機構のなかで、重要な重要な地位を占めるように
なるのも平安後期からである。
清和源氏・桓武平氏など、武家の棟梁が、中央国家の中で官職を得て、
「軍事貴族化」し、主従結合によって個々の武士を組織して、院政の下
で治安の維持にあずかり、「内乱の鎮定」にもあたる。
院政は、国家の支配・統治者であり、頭領に率いられた武士は、
「国家的軍事警察」の担当者である。


もたれあう形で人の字が老いる  掛川徹明


「鎌倉殿の13人」 大河ドラマを面白く見るためにー①



北条氏相関図


「その時、歴史が動いた」ー物語時代背景-予習
 
「鎌倉殿」は、鎌倉幕府の棟梁、または、鎌倉(幕府)を指す。
源為義・義朝父子以降は、清和源氏の棟梁を「鎌倉殿」又は「鎌倉家」
と、呼んだ。「幕府」という呼名は、江戸中期以降用いられたもので、
鎌倉時代の武士は、鎌倉幕府を『鎌倉殿』と呼んだのである。
 建久10年(1199)1月13日、源頼朝の急死により嫡男・頼家
が18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代・「鎌倉殿」となった。
しかし、三ヵ月もたたないうちに、頼家は、裁判権を奪われ、13人の
有力御家人の合議による裁判とされた。頼家は父・頼朝のような独裁者
となる途を阻まれたのである。


枯れ落葉俺もお前も御用済み  但見石花菜


   
源頼朝              八重
鎌倉幕府初代将軍         頼朝最初の妻
平治の乱後、伊豆に流された
 

※注釈①=13人とは北条時政、北条義時、大江広元、中原親能(ちか
よし)、二階堂行政、安達盛長、足立遠元、三善康信、八田知家、和田
義盛、三浦義澄、比企能員(ひきよしかず)、梶原景時らである。

※注釈②=頼家が「暗愚だ」とされてきた根拠として、「蹴鞠ばかりし
ていて、政治に無関心だった」こと、という。(『吾妻鏡』)
 しかし当時は、和歌や蹴鞠などは国家を安泰に導くための1つだった。
天皇や貴族らは、音楽を自らやり、和歌や蹴鞠によって、神仏を喜ばせ、
国家を安泰にみちびくというのが、当時の重要な役割でもあった。
「吾妻鏡」は、北条氏の命令で編纂されたもので、曲がって伝えられる
ものも多い。例えば「13人の合議」をしたという史料はどこにもない
らしい。


机上では見えないこともある政治  大高正和
 
 
   
 北条義時              義時の正室・姫の前ー阿波の局
鎌倉幕府二代執権          見目麗しい頼朝の愛した女官。
姉・政子の夫頼朝の側近となる。
 
 
翌正治2年(1200)には、梶原景時が殺された。
66人の御家人たちが、讒言魔として知られる梶原を、頼家に糾弾し、
梶原は鎌倉を追われ、謀叛を企てて上洛の途中、駿河で討たれたという。
しかし、問題はその「讒言」の内容である。九条兼実の日記『玉葉』に、
『景時は武士たちが、頼家の弟の千幡(せんまん・のちの実朝)を立て、
頼家を討とうと企てているのを頼家に告げた』と、あるのが真相である。
鎌倉では、「頼家派と千幡派が対立」しており、頼家は梶原景時を庇い
きれず、みすみす忠臣を失ってしまったのである。


待ちわびた春口内炎で始まる  雨森茂樹


  
北条時政             りく(牧の方)
義時の父。政子と結婚した     時政の後妻
頼朝を支える。

 
そして、千幡派の中心が、実は、北条時政だった。
北条時政や政子頼家を嫌ったのは、頼家の外家・比企氏の台頭を恐れ
たためである。源頼朝の乳母の養子として重用された比企能員は、娘を
頼家の妻とし、その間に長男・一幡が生まれ、頼朝時代の北条氏と同様
、鎌倉殿の外戚の位置を占めよう、としていたのである。
そして、ついに、建仁3年(1203)、時政は能員をはじめ比企氏を
滅ぼし、一幡を殺し、頼家を退けー殺害ー、千幡を鎌倉殿に立てた。
また時政は、執権(政所別当)に就任、ここに執権政治がスタートした。
※注釈③千幡の母は、比企能員の娘・若狭局)


大根の皮も尻尾も刻みます  合田瑠美子
 

  
比企能員             比企尼
時政に脅威を与えた         源頼朝の乳母
比企尼の甥

 

京都では源通親が権勢を振るっていたが、しだいに後鳥羽上皇の発言が
強まり、建仁2年(1202)に通親が没すると、上皇が実権を握った。
その翌年、鎌倉では、頼家実朝の交代が行われ、その後の「後鳥羽―
実朝」の公武関係は後鳥羽の主導下に展開され、往年の「後白河―頼朝」
のそれとは異なった相貌を示すに至る。
上皇は、通親時代に逼塞していた九条家を優遇するとともに、「公武融
和」を図って、親幕的な政策をとった。
頼朝・九条兼実の間に一時は気まずい時期もあったが、九条家の動きは
概して親幕的であった。幕府が、千幡擁立を報告すると、上皇は直ちに
これを承認、征夷大将軍に任命して「実朝」の名を与えた。


本当は平和主義ですコウモリは  杉本光代
  
  
    
北条宗時             北条政子
義時の兄。            義時の姉。
源頼朝に平家打倒を訴え、        伊豆の流人だった頼朝の妻となる。
伊東祐親の戦に敗れ死亡する。   頼朝死後幕府の実権を握る。


 後鳥羽上皇は、その閨閥の中に、実朝を組み込もうと考えた。
元久元年(1204)、実朝は、上皇の近臣・坊門信清の娘・坊門信子
を妻として迎えた。 信清の姉・七条院殖子は、上皇の母であり、実朝夫
人の姉・坊門局は、上皇の女房である。
この婚姻で上皇と実朝は、義理の兄弟のようになり、実朝自身が院の近
臣化したのである。縁談を推進したのは、上皇の乳母として信任の厚い
藤原兼子である。彼女は坊門局を養女とし、坊門局が産んだ上皇の皇子・
頼仁親王を養育していた。鎌倉側で兼子に応じたのは、北条時政の後妻・
牧の方である。時政・牧の方夫妻の娘は、実朝夫人の兄弟にあたる坊門
忠清に嫁しており、北条氏は、坊門家ともつながりを持っていた。


三角の土地それなりの家が建つ  高田佳代子
 
 
 
 北条氏相関図
 
 
実朝擁立によって、幕府の実権を握ったのは、どうやらこの夫妻だった
ようだ。このとき、京都の警備、公武の連絡にあたる京都守護として、
上洛を命ぜられたのは、夫妻の娘婿・平賀朝雅であった。
朝雅は、上皇によって右衛門佐に任ぜられ、上皇の笠懸の師となり、近
臣のように遇されていた。夫妻は、このように後鳥羽上皇とまでつなが
りを持っていたが、夫妻のこのような跳梁に反発する者もいた。
牧の方の継子にあたる北条政子・義時らである。


シーソーの上にいるのが亭主です  藤村とうそん 


元久2年(1205)、時政夫妻はついに平賀朝雅を将軍に立て、実朝
を殺そうと図った。陰謀は失敗に終わり、政子・義時によって時政らは
伊豆に流され、朝雅は京都で討たれ、義時が執権となった。
幕政の実権は、ここに時政から、政子・義時に移った。
幕府の内紛も、上皇と実朝との関係に影響を及ぼすことなく親密な関係
は続いた。
「山は裂け 海はあせなん 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」
                         『金槐和歌集』
という実朝の歌は、よく上皇に対する忠誠心を示している。
上皇と実朝とを親密ならしめた要素の一つにこの和歌がある。
上皇は和歌に造詣深く、譲位後は盛んに歌合を主催し、建仁元年(12
01)には、和歌所を置いて『新古今和歌集』の撰定に着手している。


あれ以来非常袋は枕元  清水英旺


  
梶原景時             伊藤祐親
鎌倉殿の13人          鎌倉殿の13人


しかし、上皇の「公武融和政治」は、やがて障壁に直面する。
頼家幽閉という非常手段によって、執権政治は成立したが、それだけに
「執権政治」は、
「故将軍御時拝領の地は、大罪を犯さずば召放つべからずー没収しない
」(吾妻鏡)という、御家人領保護の方針を強く打ち出すことによって、
御家人の支持を確保していたのである。
一方、後鳥羽上皇が、実朝を通じて伝える幕府への要求には、御家人の
権益を否定し、この執権政治の基本原則と抵触するものが含まれていた。
「上皇が熊野詣でをするための、課税の障害になるから、沿道の和泉・
紀伊の守護をやめさせろ」とか「備後国大田荘の地頭を停止せよ」とか
の類である。
西国の関東御領に臨時に朝廷から課税が行われた際、大江広元が拒否を
主張したのに対し、実朝、「課税の際には、あらかじめ通知してほし
い」
と、緩やかな形に回答を改めさせている。
こうしたことにも、実朝と幕府官僚との意見の違いが、読みとられる。
そして、太田荘の場合には、ついに実朝も
「頼朝の時に任ぜられた地頭を、咎なく改易することはできません」
として拒否したのである。


お薬にアイロンかけておきました  谷口 義
 

  
伊藤祐親             伊東祐清
平家を後ろ盾にした伊豆の豪族。  祐親の次男。父の画策する
頼朝殺害を画策する。       頼朝の殺害計画から頼朝を救う。


しだいに後鳥羽上皇は、実朝に対しても、不満や焦燥を募らせていく。
実朝は、「上皇と執権政治との板挟み」となって苦しむ。
そして、建保4年(1216)ごろから、実朝の言動には、奇矯さが目
立つようになる。
宋に渡ろうとして、船を造るが失敗する。
子供が生まれないのに絶望して、官職欲が異常に高まる等である。
晩年の実朝が、和歌をほとんど作っていないのも、上皇との心の隔たり
が大きくなったためかもしれない。
そして建保5年には、上皇と実朝との亀裂を深める事件が起こる。
実朝の遠縁にあたる権大納言・西園寺公経は、上皇の覚えもよく、大将
の官職を望んで、上皇もこれを約束していた。
一方、藤原兼子の夫の大炊御門頼実も、養子の師経を、大将にしようと
運動していた。
ところがある手違いから、公経は、上皇が約束を違えたものと誤解し、
「それなら私は出家でもしましょう。幸い実朝にゆかりがあるから、
 関東に下っても、なんとか生きて行けるでしょう」 
と放言した。


野心などはないが見栄は少しある  靏田寿子
 

  
三浦義澄             三浦義盛
鎌倉殿の13人。相模の武将。   13人の1人である和田義盛の
源氏重代の家人で平家打倒へ    北条氏討伐に誘われたが、逆に
頼朝に付き従う。         北条氏方に荷担する。

 
これを聞いた上皇は立腹して、公経に謹慎を命じた。ところが実朝は、
これを知って強硬に兼子に抗議したため、兼子のとりなしで、公経は
出仕を許された。これは小さな事件に過ぎないが、上皇と実朝の関係
を悪化させる契機となった。
翌年、政子が熊野詣でに赴いた帰途、京都で藤原兼子とあった目的の
一つは、こうして険悪化した公武関係の修復であったが、もっと重要
なのは、実朝の後継者の問題である。
実朝が嗣子に恵まれないため、坊門局が産み、兼子が養育をしている
後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王を将来、鎌倉に迎えようという話が進ん
だのである。ところが、翌承久元年(1219)には、このような話
し合いをまったく反故にする大事件が起こる。


この空気ガラガラポンで洗いたい  宮原せつ



頼家・実朝の系図


実朝が、頼家の遺子・公暁(くぎょう)に殺された、のである。
「問題は公暁をそそのかしたのは、誰か」
ということだが、北条氏ではありえない。
かつて、実朝を立てたのは、北条氏であったはず。
やや悪化の兆しがあったとしても、上皇と実朝とは親しい。
しかし上皇は、実朝のいない幕府(執権政治)との話し合いには絶望し
ている。
実朝の没後にはじめて上皇は、「公武融和政策」など捨て「幕府打倒」
を決意したのである。
幕府は上皇の皇子・雅成親王、頼仁親王のいずれかの東下を要請したが、
上皇は回答を保留した。上皇は使者を鎌倉に下し、実朝の死を弔うとと
もに、寵愛する白拍子亀菊の所領、摂津国長江・倉橋両荘の地頭罷免を
幕府に求めた。
 これに対して執権・義時は、
「平家追討は六ヵ年が間、国々の地頭人など、或いは子を打たせ、或い
は親を打たれ、或いは郎従を損ず。加様の勲功に随いて、分かち給いた
らん者を、させる罪だに無くしては、義時が計らいとして、改易すべき
様なし」(『承久記』)
と、御家人保護の大原則を守り、一歩も譲らなかった。
弟の時房は、千騎を率いて回答のため、上洛し、併せて、さらに新しい
鎌倉殿の下向を強く求めた。
粘り強い交渉の末、上皇は親王には反対だが、そうでなければ、「摂関
家からでも、鎌倉殿を東下させてもよい」という態度になった。


戦争を坩堝に入れたときもあり  木村宥子
 

  
工藤祐経             善児
伊東祐経を恨み、頼朝挙兵時には  伊藤氏の下人。歴史上こんな人が
一早くら頼朝方に付く。在京の経  いたかも…しれない。きっといる。
験から楽などの道にも通じている。 三谷幸喜、お得意のキャラクター。


結局、頼朝の遠縁にもあたる九条道家の三男・三寅(頼経)が下ること
になった。これには三寅(みとら)養育していた外祖父・西園寺公経
奔走によるところが大きい。
しかし上皇は、三寅の東下には不承不承であった。
そして、放言事件以来の公経への不信は、さらに増幅した。
三寅が都を出発し、まだ鎌倉に着かないうちに京都では、上皇が武士を
遣わし、源頼茂を討つという事件が起こった。
頼茂は、頼政の孫で大内守護の任にあったが、別に追討を受けるいわれ
はない。上皇が憤懣を爆発させた、ものとしか思えない。


自分いろ出せずに悩むカメレオン  ふじのひろし


  
畠山重忠             和田義盛
頼朝の挙兵に当初は敵対するが、  比企氏の乱では時政に加担し勝ち
のちに臣従して知勇兼備の武将   を収め、時政追討命を受けた時は、
として幕府創業に功績をあげる。  頼家を退け実朝を将軍に擁立する。


それから3年の月日が流れた。
承久3年(1221)になると、都では社寺への祈願があいつぎ、ただ
ならぬ空気が漂っていた。5月には、ついに五畿七道に宛てて北条義時
の追討の宣旨が出され、「承久の乱」が勃発したのである。
この乱にあたって畿内の大社寺は、ほとんど後鳥羽上皇に積極的に協力
せず、延暦寺に御幸した上皇は、2日で下山せざるをえなかった。
貴族の中では、七条院、修明門院にゆかりの人々らが、上皇を助けたに
すぎなかった。上皇の皇子の中でも、順徳上皇は、積極的に協力したが、
土御門上皇はまったく無関係であった。西園寺公経は、はっきりと後鳥
羽上皇に背き、上皇の挙兵を鎌倉に通報した。
その公経にさえ、上皇は拘禁以上の処置はとれなかった。


缶切りの手順ごときに悩んでる  山本昌乃

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