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川柳的逍遥 人の世の一家言
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相棒は下心シーラカンスは二心  山口ろっぱ
 
 

     『源頼光公館土蜘蛛作妖怪図』(歌川国芳画)


武者達の衣装の家紋を読解く、天保の改革を主導した老中・水野忠邦
をはじめ幕閣の見立てになっている。源頼光四天王がくつろいでいる。
闇のなかには、無数の魑魅魍魎が跋扈する。
 右奥で土蜘蛛に憑りつかれているのが源頼光=12代・徳川家慶
頼光の前で、わしゃ知らん顔をしているのが卜部季武=老中・水野忠邦
他人事のように、碁に興じている右方の人物が渡辺綱=老中・真田幸貫
その相手は坂田金時=老中・堀田正睦
左下で茶碗酒を持つ人物が碓井貞光=老中・土井利位と見立てている。
その実は時の「天保の改革」で酷政を断行する為政者たちと、それに怨
嗟の声をあげる庶民たちの姿を描いた風刺画である。
(卜部季武(すえたけ)と水野忠邦の紋は同じ「澤瀉紋(さわがた)」)



意味深なふくみ笑いの片えくぼ  小池正博



     むしゃの国芳を決定付けた一枚・相馬の古内裏



「むしゃの国芳」 (歌川国芳)
 
 
日本橋白銀町の染物屋に生まれた歌川国芳は、子どものころから染物職
人としての修行を積みながらも、人気絵師の絵手本などを頼りに独学で
人物画を練習し、12歳のときに、鍾馗(しょうき)が剣を提げる様子
を描いた。そのあまりの完成度の高さに、周囲の大人は度肝を抜かれた
という。その噂を聞いた初代・歌川豊国は、その才能に惚れこみ入門を
許した。15歳のときである。因みに、同じころ自ら弟子入り志願した
広重は門前払いをくらっている。18歳で合巻の挿絵を手がけ、19歳
で最初の錦絵を出しており、早くからその頭角を現し、十代後半から作
品を発表してゆくのだが、同門の国貞ほどには師の引き立てを得られず、
長く不遇の時を送っていた。
 
 
進みなさい次の景色が見えるから  新川弘子
 


豊国門下には、江戸随一の人気流派とあって、のちに三代目・豊国を継
ぐことになる国貞を筆頭に、実力ある若手絵師がひしめいていた。20
歳を過ぎた頃には「一勇斎」の号を用いはじめ、その名に違わぬ迫力あ
る佳作を残しているが、浮世絵の売れ筋ジャンルであり、歌川派のお家
芸である役者絵と美人画においては兄弟子・国貞の圧倒的な活躍の前に
霞んでしまい、なかなか結果を残せなかった。このころの貧乏暮らしは
はなはだしく、版下絵を持って版元に直接売り込みにいったりもしたが、
画料を得ることはできなかったという。
 
 
笑うこと忘れてただの葱坊主  嶋沢喜八郎
 

途方にくれて両国の盛り場を徘徊し、柳橋を渡ろうとしたところで橋下
から「先生」と呼びかけられたので下をみると、顔見知りの芸妓だった。
何気なく「今日の客は誰なんだ」と訊けば、兄弟子の「国貞さん」だと
いう。国芳国貞の羽振りのよさが羨ましく、仕事もなくふらふらして
いる自分が無性に悔しくなった。「このままでは埋もれる」危機感を抱
いた国芳は、他流派の技法も積極的に取り入れ、葛飾北斎に私淑するな
どして独自路線を模索した。そして「いつか国貞を越えてやる」という
強烈な執念を原動力に、人知れず研鑽を積み続けた。
 
 
剃刀にときどき顎が引っかかる  桑原伸吉




       『羅得島湊紅毛船入津之図』 (歌川国虎画)



「豊国一門」ーどんな人がいる
歌川豊国一門は、江戸一番の人気流派である。のちに三代目・豊国を襲
名する国貞は別格として、その下に豊国門下の三羽烏といわれた、国直、
国丸、国安、が控え浮世絵のオールジャンルで活躍。国芳は下積み時代、
国直のもとで作画のイロハを学んでいる。また奇才と呼ぶにふさわしい
のが国虎。『羅得島湊紅毛船入津之図』(ろこすとうのみなとをらんだ
ふねにゅうしんのず)ではロートス島の港に仁王立ちする巨人像を描き、
そのあまりに大胆かつ唐突な着想が話題を呼んだ。師匠の豊国にはその
才能を称賛されたが、国虎自身はあまり絵を描くことを好まなかったと
いう。
 
 
地獄の中で一番好きな場所  蟹口和枝




「通俗水滸伝豪傑百八人之一人・短冥次郎玩小吾」
 
 
国芳の下積み時代におけるこのような不遇は、本人の性質によるところ
も極めて大きかった。一人称は「ワッチ」で相手のことは「オメェ」と
いう絵に描いたようなベランメェ口調の江戸っ子で、頭の回転は速いが
学がなく、礼儀を知らない。おまけに火事と喧嘩、そしてお祭りが大好
きで、騒ぎとみると、じっとしていられずに渦中に飛び込んでいったと
いう。いわば問題児だった。



アリバイにならぬ滲んでいた時間  山本早苗
 
 
 

「狂歌師・梅屋鶴子(うめのやかくし)」


 しかし、類は友を呼ぶで、生涯の知己となる悪友もあった。
狂歌師・梅屋鶴子である。鶴子は家業の秣屋(まぐさ)はそっちのけで
狂歌に打ち込み、22歳の若さで、判者の一人としての地位を確立した
人である。武張ったことが大好きな棒術の使い手で、全身に龍の刺青を
入れていたという文武両道の不良である。鶴子の全身刺青は中国の伝記
小説『水滸伝』ブームに影響されてのものであった。
 
 
同時通訳ロシア語のべらんめい  井上一筒




「通俗水滸伝豪傑百八人之壱人 浪裡白跳張順」
筋骨隆々の豪傑の全身に描き入れた華麗な刺青
 
 

「世間からつまはじきされた108人の豪傑たちが梁山泊に立て籠もり、
義のために戦う…」というのが「水滸伝」の筋である。
水滸伝の流行とともに、江戸の勇み肌な男たちの間でも、刺青を入れる
ことが流行っていた。はじめは肩や腕などに施す部分的なものが多かっ
たが、だんだん過剰になり、鶴子のように全身に墨を入れる者が増えて
いった。国芳は自分より4歳も年下ながら、一目おいている鶴子の姿に
インスピレーションを得て、31歳のときに、発表した武者絵の連作・
『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』では筋骨隆々の豪傑たちの全身に華麗
な刺青を施し、画面いっぱいに躍動させた。



真っ新な明日になりそう大落暉  荻野浩子



この男臭い世界観は、それまでの美男美女を愛でるものが王道、という
浮世絵界の常識を覆すもので大評判となった。髪結床の暖簾にまで国芳
風の水滸伝が染め抜かれ、国芳の描いた水滸伝のように刺青を施すのが
流行った。これを受け、国芳が一方的にライバル視していた国貞『流
行役者水滸伝百八人之一個』という、国芳の水滸伝人気に便乗した作品
をだしている。国芳が、兄弟子の背中を捕えた瞬間なのかもしれない。



人の名を忘れ魚に戻る夜  月波余生



 
    大石内蔵助           吉良上野介

水野忠邦が失脚して国芳は赤穂浪士を一人一図で描いた武者絵・
『誠忠義士伝』 水滸伝以来の大ヒットとなった。



『通俗水滸伝豪傑百八人之壱人』という錦絵が大ヒットしたことによっ
国芳の名は、その名が市中に広まった。曲亭馬琴『傾城水滸伝』
引き金となって急速に高まりつつあった水滸伝ブームに乗じたものであ
ったが、大好評を博したのは、『水滸伝』に登場する英雄たちを描く作
品の力強い形態と、大胆で躍動感に満ちた構図が、従来の武者絵を大き
く凌駕する魅力を放っていたからにほかならない。
こうして国芳は「武者の国芳」(江戸寿那古細撰記)の異名を得、和漢
の故事や歴史説話に取材した作品を数多く制作するようになる。



座ってるただそれだけでいぶし銀  和田洋子



人気絵師になったとはいえ、国芳の生活は質素なままだった。江戸っ子
らしく宵越しの金は持たない主義。画料が入ればその日のうちに使って
しまい、貯めるということをしなかったし、身なりも縮緬のドテラに三
尺帯を締めて、羽織袴をつけることはまずなかった。
しかし、思いもよらないところから強力なライバルが現れる。



いつまでもいい子ぶってはおれません  井本健治



  「宮本武蔵と巨鯨」
 
 
ライバルとは『東海道五十三次』を大ヒットさせた歌川広重である。
広重の名所絵は地方への江戸土産としてうってつけで、瞬く間に浮世絵
の売れ筋ジャンルとして認知されるようになり「けしき絵の広重」の名
は、江戸中にとどろいた。実はこの時期、国芳も西洋風の画風を取り入
れた独自の風景画を描いていたのだが、広重ほどの人気は得られなかっ
た。歌川派入門の時点であれだけ歴然とした差のあった広重が、気がつ
けば自分のすぐ後ろに、否、下手をすると肩を並べるまでに迫っていた。




       「東都名所・かすみが関」(国芳のけしき絵)
 
 
 
東海道中膝栗毛から紙魚  森田律子
 
 

 
   「人をばかにした人だ」   「みかけはこいがとんだいいひとだ」
 
 
「こいつにだけは絶対負けない」とさらなる躍進を誓った国芳は、自身
の代名詞である武者絵の躍動感を、よりダイナミックに表現するために、
大判三枚ぶち抜きで、横長の画面を作り上げるなど、奇想天外な手法で
大衆の心を掴んでいった。武者絵以外にも、新たな分野を貪欲に開拓し、
特に人を寄せ集めて顔を作ったり、擬人化した動物を描いたり、という
「戯画」で評判を得る。さらに注目すべきは、「判じ絵」を使った風刺
画である。当時、世間では、天災や飢饉によって庶民の生活が脅かされ、
深刻な社会不安が広がっていた。



腐っても腐らなくてもこの世やし  北原照子

 


    「猫の涼み」           「猫のお稽古」
 
 
「国芳の戯画」
最後に忘れてならないのが「戯画」である。彼の戯画は『武功年表』
天保年間の記事に「此の年間浮世絵師国芳が筆の狂画、一立斎広重の山
水錦画行わる」とあるように、広重の風景画と並び称されるほど当時か
ら人気があったものである。ユーモアのセンス、機智を凝らした趣向の
妙、いずれも高水準にある。特に動物を擬人化したものは、動物の可愛
らしさと人間くさい仕草の取り合わせが絶妙である。



法螺を吹きながら溜め息つきながら  平尾正人
 
 

 
        「荷宝蔵壁のむだ書(黄腰壁)」



部類の猫好きだった国芳は、猫を題材にした戯画を数多く描いている他、
金魚や狸、亀なども彼によって擬人化されている。また、当時の出版界
への厳しい規制の網をかいくぐるべく作られた「落書き風・役者似顔絵」
「人をばかにした人だ」のように純粋な形の遊びに類するものもあり、
国芳の発想はこのうえなく、豊かであった。



迷わなくなったら箱に入ります  船木しげ子

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