忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[965] [964] [963] [962] [961] [960] [959] [958] [957] [956] [955]

思い出し笑いをすると追加税  美馬りゅうこ
  
  
  
        
      吉沢亮            渋沢栄一
  NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主役・渋沢栄一を演じる吉沢亮と
パリに滞在する総髪の渋沢栄一

 
栄一の古郷・血洗島村(埼玉県深谷市)は、利根川の南岸に位置する、
寒暖差に富む農村だった。物騒な村名は太古の神々の戦い、もしくは
平安の戦にちなむともいう。血洗いは「地洗い」に通じ利根川の氾濫
に際し、島のように残される村という由来もある。
この村に渋沢栄一は、天保11年(1840)2月13日に生まれた。
そして栄一が産声をあげた翌日・14日から、栄一主役の大河ドラマ
「青天を衝け」が始まる。脚本がどのように展開するか知りませんが、
栄一の為人を学習しておくと、ドラマが分り易く、面白くなるとおも
いますので、ここにざっと渋沢ストーリーを紹介したいと思います。



それは鼻スイッチではありません  河村啓子




          旧渋沢邸「中の家」主屋


「はじめに」
武蔵国血洗島村の農家に生まれた栄一は、人一倍おしゃべりで、幼い頃
から家業の「藍玉づくり」を手伝い、思わぬ商才を発揮する。
青年期には、従兄の喜作(高良健吾)らと「尊王攘夷」に傾倒、外国人
襲撃を計画するも断念する。逃亡先の京で徳川慶喜(草薙剛)の側近・
平岡円四郎(堤真一)に助けられ、思いがけず幕臣となる。
パリ渡航中に幕府が倒れ、その後も慶喜への思いを抱きつつ明治政府の
役人となり、租税や貨幣などの改革に携わる。33歳で明治政府を辞め、
民間人として数多くの事業を手掛けていく。



空が見えないA級の付けまつ毛  井上一筒



「渋沢栄一とはどんな人」 (栄一の少年期)
 
 
 

         「中の家」の正門
現存する東門と同じ、薬医(やくい)門の形式で建てられている・


血洗島村には、十数軒の渋沢家があり「前の家(まえんち)」「遠前の
家(とおまえんち)」「遠西の家(とおにしんち)」といった呼び名に
区別されていた。栄一の家は宗家にあたる「中の家」である。
中の家は、藍の他、麦と養蚕も手掛ける豪農だった。ことに藍葉は他の
農家からも買い付け、発酵・熟成の後、突き固めて愛玉に加工し、信州
や上州に販売する。加えて父の代から荒物(家庭用雑貨類等)も商い、
入った現金は質草をとって村人に貸した。栄一の生家は農工商をかねて
いた。



日に三度銭勘定をして暮らす  中村幸彦




帯刀した侍姿の渋沢栄一 (栄一17歳)
慶応3年(1867)フランス・パリで撮影。


栄一は中の家の三男に生まれた。幼名は市三郎。後に栄次郎、栄一郎、
栄一と改める。兄弟姉妹は十数人あったが、早世を免れたのは姉一人
と妹一人、それに栄一の三人のみ。そのため栄一は、長男として育てら
れた。
父の市郎右衛門は、村一番の富家で同族の東の家(ひがしんち)からの
入り婿だった。方正厳直ながら俳諧も嗜む風流人で、質素倹約を常とし
つつも慈善には熱心。傾いた宗家を村で二番目の富家に立て直した。
村内の信望も篤く、名字帯刀を許され、名主見習役になっている。



合掌の指の先から芽吹くもの  斉藤和子



母のゑいは、湯屋でハンセン病患者の背中を流すような、情の深い人だ
った。満五歳から父の指導で四書を読み『大学』『中庸』をわずか一年
程で読了。翌年、父の姉の息子で17歳の秀才、隣村の尾高惇忠(おだ
かっじゅんちゅう)の私塾に入門する。惇忠は、四書五経の暗記にはこ
だわらず、多読を推奨し、机上に限らず耕作の合間でも歩きながらでも、
気の向いたときに読むよう教えた。



昼は賢者で夜は過敏な幻燈屋  山口ろっぱ



栄一は『史記』『十八史略』『日本外史』を通読。また『南総里見八犬
伝』のような小説も大いに好んだ。年始回りの道すがらも、本から顔を
上げず、晴れ着のまま溝に落ちた年もあったという。
剣術は、満11歳になった嘉永4年(1851)3月、父の兄の息子、
渋沢新三郎に入門。力の剣法として知られた神道無念流を学ぶ。維新三
傑の一人である桂小五郎、新選組の芹沢鴨永倉新八と同流である。
家業の手が空く春、秋、冬には、10日ばかりかけて下野国(栃木)や
上野国(群馬)あたりを剣術修行で廻った。免許皆伝の記録はないが、
25歳の折、備中(岡山)で剣術師範を打ち負かした話は残っている。



時々は心に風を通さねば  靏田寿子
 

 
 
            藍玉通
父の代から藍葉を加工して紺屋に売る商売をしていた。


        藍 玉


満13歳のころからは農商業が生活の中心となる。藍葉の買い付けでは、
名人と呼ばれた父を真似て肥料の甲乙から刈り方の良し悪しまで的確に
寸評。面白い子だと感心され、買い占めに成功するなど商才の片鱗をみ
せた。17歳ころからは、藍玉代の集金やr注文取りで年に4回は信州や
上州、武州(埼玉)秩父の得意先を回った。農閑期に入ると藍葉農家を
招待して宴席を設け、作柄に応じた番付けを発表。番付の順に席次を決
め競争心を煽る。本場、四国は阿波の品質を追い抜くための工夫だった。



鞄からチラリあしたのはかりごと  宮井元伸
 
 
 
  「栄一誕生時の社会情勢」
栄一誕生の天保11年頃の日本は、7年前に始った「天保の大飢饉」
らようやく脱したところ。前年には長州の高杉晋作が、翌年には、伊藤
博文が生れ、同年には、チャイコフスキーや画家のモネ、彫刻家のロダ
が生れている。隣国の清では、2年いおよぶ「アヘン戦争」が始まろ
うとしていた。栄一誕生の4年後にはオランダ軍艦が長崎で開国を迫り、
9年後には英国船が「江戸湾の測量」を断行。ペリーの「黒船来航」
日本が幕末に突入するのは13年後に迫っていた。



信号がずっと黄色のままである  杉山ひさゆき
 
 


      渋沢邸「中の家」の十畳間


栄一が16歳のとき、血洗島村は、武州岡部藩・阿部摂津守信宝(のぶ
たか)の領だった。姫の嫁入りや若殿の元服など物入りの際、領主は有
力村民に融資を命じる。東の家が千両、中の家が五百両といった具合で
ある。その日、栄一が父の名代として、他の有力村民2人と陣屋に出向
いたのも、融資の命令を受けるためだった。父からは「御用の趣を聞い
てこい」とだけ言われていた。



燃やしてみるか才能の残りカス  森田律子



現れた代官は果たして五百両の融資を申し付ける。同行の2人は一家の
当主だったから、すぐに「承知」の返答が出来た。が栄一は名代である。
「御用金の高はかしこまりましたが、一応、父に申し聞かせ改めてお受
けにまかりでます」と答えるしかない。(渋沢自伝『雨夜譚』)



Y字路に来るたびサイコロを投げる  岸田万彩



「貴様は何歳になるか」
「ヘイ私は17歳でござります」(この時代の年齢は数え歳)
「17にもなっておるなら、もう女郎でも買うであろう。してみれば三
百両や五百両は何でもないこと。いったん帰ってまた来るというような
手ぬるいことは承知せぬ。直に承知したとという挨拶をしろ」
それでも栄一は
「父からただ御用を伺って来いと申し付けられたばかりだから」
と即答を避け、代官は
「貴様はつまらぬ男だ」
と栄一を叱り、嘲弄し、そしてついには折れた。



ほんのハナウタ渦を背中であやしつつ  酒井かがり



帰り道、栄一は考えた。
「領主は年貢を取りながら、返しもせぬ融資まで命じ、そのうえ人を軽
蔑嘲弄する。あんな無教養の代官でも、人を軽蔑できるのは、官職を世
襲する徳川政治のせいだ。自分も百姓のままでは、あんな虫けら同様の
人間にまで軽蔑されなければならぬ。さてさて、残念千万のことである」
栄一の怒りがすぐ幕政批判に結びついたのは、黒船に押し切られてしま
うような幕府への不信感が、すでに庶民の間にも広まっていたからだ。
わが身に降りかかった具体例が、それを実感させた。
この後、栄一は、晩年に至るまで官尊民卑の風潮を憎んだ。そして栄一
が抱いた不満は、やがて「尊王攘夷思想」へと育ってゆく。



忘れよう象に踏まれたことなんか  笠嶋恵美子

拍手[4回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開