兵法にきっとあるはず泣き落とし ふじのひろし
尾州桶狭間合戦
義元に正面対峙する服部小平太、背後から義元にくらいつく毛利新介
主人公の厳しい人間性をプロローグに持ってくるフランス映画のように、
信長の生きる指針を映す幼い頃のエピソードが『名将言行録』にある。
『信長が幼名・吉法師のころ、庭先で遊んでいると小蛇が出た。
吉法師がその小蛇を掴んで近臣の者に「このようなことを勇というのか」
と尋ねると、近臣は「小蛇など恐れるに足らぬものです」と答えた。
すると吉法師は「蛇の毒は大小によらぬ。小さいからと恐れぬのなら、
もし主が幼少なら、うぬらはその主をあなどるのか」と吐いたという。
大人である近臣たちは、恐縮し頭をあげれなかった』
この吉法師が語った言葉に繋がる信長の名言があ。
『理想を持ち、信念に生きよ。理想や信念を見失った者は、
戦う前から負けているといえよう。そのような者は廃人と同じだ』
「麒麟がくる」進撃の年信長、躍進の光秀(年譜で綴る)
織田信長(染谷将太)
【織田信秀、病死する】
信長18歳の天文21年(1552)3月、信長の父・信秀病没。
信秀は42歳、まだまだ働き盛りの最後であった。信長公記には、
<備後守殿疫病に御悩みなされ、様々の祈祷、御療治候と雖も、
御平癒なく、終に三月三日、御年四十二と申すに、御遷化>とある。
信秀の後継者問題については、信秀は後継者として信長をと、認めてい
たものの、「信長様の品格は当主としてどうか」と家内の間で紛糾する。
しかし継承順位のしきたりを重視する時代、結局は三男・信長が後継者
となり、四男の弟・信勝が末盛城に入ることになる。
「信長の教育係・平手政秀の死去」
天文22年1月、傅役(おもりやく)の政秀、信長を諌めて自害する
<平手中務丞、上総介信長公実日に御座なき様体をくやみ、守り立て験
なく候へば、存命候ても詮なき事と申し候て、腹を切り、相果て候>
家系図にずらり繋がるろくでなし 新家完司
【斉藤道三、息子・義龍との戦に敗れる】
弘治2年(1556)4月、道三、「長良川の戦い」で敗死する。
その勢いをもって、同年、義龍は明智城を攻め落城させる。
『明智軍記』によると、城を失った光秀は、逃げるように諸国遍歴の旅
に立ち、永禄5年(1562)に帰還する。
越前の朝倉義景のもとを出発し、そこに戻るとなっている。
そこに 10年程、称念寺門前で暮らす。その10年の間に煕子と結婚、
永禄6年(1563) に 娘の玉(ガラシャ)が誕生している。
取りあえず地下まで降りるエレベーター 中野六助
最後の今川義元
【信長の桶狭間】
永禄3年(1560)5月19日、今川家の総帥・今川義元が「桶狭間
の合戦」で尾張の織田信長に討ち取られる。義元を討ち取った信長は、
その後、清洲から熱田へ通じる街道に”義元塚”というのを築かせ、供養
のために大きな卒塔婆を立てたという。そして信長は戦利品として義元
が所持していた秘蔵の名刀「義元左文字」を愛刀にしたという。
(『信長公記』)
人質だった竹千代(家康)は、解放され三河に戻ると、松平家の総領と
して統治を開始する。その後、信長は家康と同盟を結び、天下布武に向
けて進撃が始まる。信長名言はこの桶狭間を語るように。
『戦に勝るかどうかと兵力は、必ずしも比例しない。比例するかそうで
ないかは戦術、つまり自身にかかっているのだ』
接戦を制して湧いてきた自信 吉岡 民
永禄の変
三好三人衆らが将軍足利義輝を襲撃し殺害。
【三好義継、三好三人衆、義輝を襲撃」
永禄8年(1565)5月9日、足利義輝暗殺。「永禄の変」である。
ルイス・フロイスの著書・『日本史』によれば、
『三好三人衆の暴挙を警戒し、二条御所の堀や土塁等を堅固にし、事件
の前日には、御所からの非難も考えていた。しかし近臣が「将軍の権威
を失墜させる」と反対し、義輝とともに討死する覚悟を示して説得を行
ったため、義輝も不本意ながら御所に戻った』という。
三人衆の兵力は約1万。義輝側は数百人程度。義輝は剣豪・塚原卜伝の
弟子で剣豪であり、また近習たちも猛者揃いであったが、余りにも多い
敵の数には、奮戦むなしく命を散らす結果となってしまった。
弟・義昭にも危険が迫り、細川藤孝ら幕臣とともに、若狭の武田義統の
もとに逃れ、永禄9年 に朝倉義景を頼って越前に来る。光秀が細川藤孝
の家臣として義昭の足軽衆になる。事件の翌年永禄10年のことである。
悪事決行白い手袋はめながら 城後朱美
浅井長政
【信長、岐阜を拠点とする】
永禄10年(1567)戦国時代も半ば、信長は美濃国を手中に収め、
岐阜を拠点とする。岐阜と京の間にあり、強固な基盤を築いていた戦国
大名・浅井長政に対し、信長は妹のお市を嫁がせて同盟を結ぶ。
【光秀、いよいよ歴史の表舞台に登場」
永禄11年、義昭の側近となった光秀は、周辺の些細な出来事まで信長
に報じている。こうした光秀の尽力が功を奏したのか、義昭は、7月に
信長の元に迎えられ、9月には、上洛に向け信長は、義昭を奉じて軍事
行動を開始する。いわゆる、この時期の光秀は、義昭の側近筆頭として
周囲から認知された証しである。
しゃっくりが止まらぬままに幕上がる 指方宏子
朝倉義景
【信長、上洛】
永禄11年(1568)、室町幕府の再興を唱え、信長が義昭を迎えて
上洛。15代将軍の座についた義昭は、恩賞として副将軍の地位を与え
ようとするが、信長は拒否。次第に将軍義昭をないがしろにし、権勢を
振るい始める。京に上った信長は、諸国の武士に、天皇や将軍に挨拶を
するために、京に馳せ参じることを命令するが、越前国を支配する朝倉
義景は信長の命令を無視する。
「上洛のエピソード」
『あるとき、丹波の長谷川城主・内藤備前守の与力である赤沢加賀守が
信長に面会し、熊鷹2羽のうちのいずれか1羽を献上すると申し出た。
すると信長は「お心はありがたいが、いずれ天下を取るであろうから、
それまでそのほうに預けておく。大事に飼ってくれ」と言ったという。
赤沢加賀守は帰って皆にこのことを伝えたところ、「国を隔てた遠国か
らの望みで実現しまい」と大笑いしたという。しかし、それから信長が
足利義昭を奉じて上洛するのに10年もかからなかった』『信長公記』
政論が大好物の天邪鬼 松浦英夫
「麒麟がくる」お妻木役は誰に?
【光秀、信長への仕官】
本来、義昭の側近であるはずの光秀が、信長にも仕えるようになった時
期は、厳密に不明である。事実『信長公記』の永禄11年9月の「義昭
信長の上洛」の箇所に光秀の名は記されていないが『細川家記』の記述
などから上洛の直前に仕えたとみるのが、適切と思われる。
信長への仕官に関連して、細川家の『綿考輯録』(めんこうしゅうろく)
には光秀が細川藤孝に語ったとされる「我ら、彼室家に縁ありて、頻(
しき)りに招かれ」という話が収録されている。
彼は信長、室家は正室濃姫(帰蝶)。通常、濃姫の母である小見の方は、
光秀の叔母とされる。それが事実ならば、信長が正室の血族であり、有
能な光秀のスカウトを試みたとしても不思議はない。
(ただし近年は『多聞院日記』の天正9年(1581)8月21日条な
どを典拠として、光秀の妹・お妻木(ツマキ)が信長の側室だったとみ
る研究者が増えている。あるいは光秀に縁のある「彼室家」とは、濃姫
ではなくツマキのことなのかもしれない)
有情無情流し心に句読点 須磨活恵
「信長に非凡の才能を認められた光秀」
永禄12年春、信長は明智光秀、木下秀吉、丹羽長秀、中川重政の4人
に京都や周辺の政務を担当させた。4人による活動で、特筆すべきは、
「違乱停止」を命じている点である。信長は以上の4人とは別の5人(
佐久間信盛、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚)とを、交代で政
務を担当させていたことが判明している。いずれにしても、本来は義昭
の側近であり、信長の家臣としてまだ数年の新参者・光秀が信長の重臣
である長秀らと肩を並べて、重要な職務を任されている点は興味深い。
(違乱停止=法に違反し秩序を乱すこと)ここんも信長の名言がある。
『人を用ふる者は、能否を採択すべし、何ぞ新故を論ぜん』
受けて立つ覚悟が出来た武士の顔 槙坂政子
「麒麟がくる」浅井長政役未定
【信長、越前に侵攻】
永禄13年(1570) 4月20日、信長は3万の軍勢を率い越前に
侵攻。先陣を木下秀吉、信長盟友の徳川家康がつとめる。不意を打たれ
た朝倉勢は壊滅状態となるが、浅井長政が朝倉方について信長に叛旗を
翻したために、信長の大軍は補給路を断たれて孤立。
「その時、信長の行動」
4月28日、信長は軍勢を残し、戦場から姿を消す。2日後、京の都に
姿を現し、かねてより命じていた御所の修理のようすを視察。その後、
本拠地岐阜へ舞い戻り、長政討伐の大号令を発して軍勢を招集。
「その時、織田軍の行動」
取り残された織田軍に朝倉軍は、逆襲を開始、織田軍の殿(しんがり)
となった木下秀吉、徳川家康、明智光秀の3武将が一致団結、朝倉軍の
追撃をかわして、撤退の道を切り開く。
死に神よなんでおまえがそこに立つ 藤村亜成
光秀、信長の戦に活躍
【武将としての光秀】
永禄12年(1569)1月4日の「本圀寺の戦」を皮切りに、光秀は
翌元亀元年(1570)4月の「越前征伐」6月の「姉川の戦」9月か
らの「志賀の陣」に従事する。このうち越前征伐では金ヶ崎城に残留し、
秀吉とともに浅井・朝倉方の追撃を撃退した。
『実は『なお、金ヶ崎の退き口(のきぐち)」と呼ばれるこの戦いでは、
秀吉の活躍が強調されることが多いが、これは秀吉の軍功を過剰に強調
するべく、『太閤記』などの著者が光秀の働きを削ったからである。
実際には、光秀も浅井・朝倉方の撃退に軍功を挙げている。さらに若狭
の諸城を無力化させるといった、手際の良い手腕をみせた』
臨時ニュースキャベツの芯がえらいこと 雨森茂樹
森可成
「その後の光秀」
元亀元年(1570)6月、 姉川の戦いでの勝利も束の間、浅井・朝倉
は9月に森可成が守る宇佐山城へ猛攻を加え、可成を討死に追い込む。
天王寺方面にいた信長はすぐさま反転して、敵方の京都侵入を防ぐが、
敵方はなおも隙あらば京都へ攻め入る構えをみせた。
そこで信長は、光秀らを山城勝軍山城へ入れて警戒させたが、敵方が撤
退した後、討死した可成にかわる宇佐山城主に光秀を抜擢している。
無論、光秀が抜擢されたのは、4月の越前遠征以来の軍功が評価された
ものである。さらに同2年9月に信長は、悪名高い「叡山焼討」を敢行
するが、焼討後、没収した比叡山、日吉神社の領地を光秀や佐久間信盛
に与えている。そして、信長は防護力に弱い宇佐山城を廃城とした上で
本格的な城郭近江坂本城を構築するように光秀に命じる。
(因みに、森可成は森蘭丸の父である)
ト書きにはここで「クシャミ」と書いてある
嶋沢喜八郎
五カ条の条書
「五カ条の条書」
義昭が将軍になって2年後の永禄13年4月(元亀に改元)正月23日
の日付で、信長は義昭に1通の条書を出した。
1、「御下知の儀、皆以て御棄破あり」
(これまで義昭が出した命令はすべて破棄すること)
1、「天下の儀、何様にも信長に被任置」
(天下のことは、すべて信長にまかせること)
要するに、義昭の行動を監督下に置こうとしたものである。
1、「諸国へ御内書を以て、仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞かせ
られ、書状を添え申すべきこと」
(諸国への御内書を送る場合は、信長の添状を副えること)
1、「公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞、御褒美を加えられたく候
と雖も、領中等之なきに於いては、信長分領の内を以ても、上意次第に
申し付くべきのこと」
(忠節の者に恩賞を出すにも所領のない場合は、信長が提供する)
1、「天下御静謐の条、禁中の儀、毎時御油断あるべからざるの事」
(禁中のことは、丁重にしなければならない)
瓢箪を磨いていると葉書あり 高野末次
信長が義昭の政治行動を制限する「五カ条の条書」を突き付けたとき、
光秀は朝山日乗とともに証人として名を連ねている。
「天下の儀」を信長に任せることを、義昭に誓わせた文書に光秀が署名
したということは、とりもなおさず、光秀が信長の天下取りを支持する
立場を明確にしたことを意味する。
さらに、翌2年末頃と推定される自筆消息で、光秀は義昭に「御暇を賜
りたい」旨を申し出ている。この直前、光秀は信長から近江坂本城主に
任じられており、織田家中でも、別格の扱いを受け始めていた。
ここに至って光秀は、将来性の乏しい義昭と訣別し、信長の将来にかけ
ることを決意したと思われる。
語尾に付く笑いはきっと護身術 下谷憲子
足利義昭
「義昭のあがき」
元亀3年(1572)4月の河内出兵の際の軍事編制では、信長方の佐
久間信盛・柴田勝家らと別に、光秀の名が「公方衆」としてあげられて
いる。信長と義昭の2人の主君を持つところに、他の織田家臣とは異な
る光秀の特殊な立場があった。
元亀4年2月、義昭は陰に陽に、信長に敵対するようになり、義昭が挙
兵すると光秀は、公方衆の拠る近江石山城・今堅田城を攻撃して、反義
昭の姿勢を明確にした。そして、同年7月、義昭は槙島城の戦いに敗れ
「室町幕府は滅亡」、光秀はようやく両属関係に終止符を打った。
一方、義昭は復讐心に燃え、全国の大名「信長打倒」を呼びかけた。
義昭の求めに応じ、上杉、武田、毛利といった有力な大名が連携して、
信長包囲網を形成。3年に亘り、各地で激しい合戦が相次いだ。
信長名言『恃(たの)むところにある者は、恃むもののために滅びる』
近日「進撃の信長」-2へ続きます。
理想論だったと思う今思う 津田照子
[3回]