さよならは瞼にかいておきました 高橋レニ
住職・太原雪斎「臨済寺」の手習いの間
この部屋で松平竹千代は、太原雪斎から兵法から儒学・易学・医学まで
学んだ。そこで竹千代は、戦国武将たちの読み物『吾妻鏡』に出会い、
13歳で伊豆へ島流しにあった源頼朝の生涯に惹かれた。人質生活を強
いられている自分の宿命と似ている。その上、頼朝はその苦難を乗り越
えて、天下を取っている。竹千代は「頼朝を目標に生きていこうと」、
この学びの間の中で、心に誓ったという。
※ 太原雪斎とは「小豆坂の戦」で今川勢を指揮して、三河安祥城主・
織田信広を攻め捕虜とすると、信秀と交渉し織田家に奪われていた人質
の竹千代との人質交換を実現させて、今川家のもとに取り戻した。竹千
代は善得寺にはいり、今川義元が幼い頃に教えを受けたように、雪斎に
よる英才教育を受けた。
あるんですねドラマのようなめぐり逢い 杉野羅天
「麒麟がくる」 松平竹千代~家康
松平竹千代 (岩田琉聖)
「年譜とともに」
天文4年(1535)頃から内紛の尽きない三河国を、松平広忠が支配
していたが、東の今川、西の織田に挟まれ、三河はどちらに占領されて
もおかしくない現状にあった。広忠は年も若く、西三河の家臣たちには
織田方になびく者もあり、領国運営に苦慮していた。
天文10年(1541)広忠は尾張の豪族・水野忠政の娘・於大と結婚。
翌年2人の間に松平竹千代が三河国の岡崎で生まれるが、その2年後の
竹千代3歳の時に、母の於大は、離婚されて刈谷に帰らされる。
※ 天文9年(1540)織田信秀が刈屋城の盟友・水野忠政とともに
松平家の拠点安祥城を攻めた。水野忠政とは『麒麟がくる』で岡村隆史
演じる菊丸を忍びとして雇っている水野信元の父にあたる人物。
天文10年には、織田方から松平方に転じて、忠政の息女・於大は、松平
広忠に嫁ぐことになる。その翌年の12月に広忠と於大との間に嫡男・竹
千代が誕生するが、1年後、水野忠政が亡くなると、跡を継いだ信元は、
再度織田方に寝返り、於大は松平広忠から離縁されて、刈屋城に戻される
ことになる。男の戦に翻弄される於大の血は。竹千代の宿命を暗示する。
三つ目の目を前髪で隠している くんじろう
岡崎城 (江戸時代)
天文16年(1547)尾張の織田信秀が弱体化した松平広忠の岡崎城
に狙いをさだめ攻撃をしかけてくる。その動きに対し、広忠は竹千代を
人質として今川義元に救援を求めた。このため竹千代は、6歳で駿河に
送られることになる。駿府への護送役は 田原城城主・戸田康光である。
康光は今川義元に忠誠を誓った男だったが、竹千代を銭百貫で信秀に売
ってしまう。それを知った義元は、すぐさま、田原城を攻め戸田氏を滅
ぼしてしまうが、竹千代は尾張へ海路逆送される。
竹千代という絶好の人質を得た信秀は、広忠に今川との縁を切るように
迫るが広忠は「息子を殺さんと欲せば、即ち殺せ。吾一子の故をもって
信を隣国に失わんや」と拒んだという。その裏で戦の道具にされる竹千
代は、その後、熱田の加藤図書助順盛宅、さらに万松寺で3年間、信秀
の保護のもとで暮らすこととなる。
燃え尽きる命をだれも止められず 鈴木ひさ子
太原雪斎 (伊吹吾郎)
同年、どうしても三河が欲しい信秀が、再び、三河を攻めてきたので、
広忠は再度、義元に援軍を要請。義元は交換条件として、人質を差し出
すことを要求し、翌17年に織田勢を三河から放擲すべく決戦を決意。
この戦の今川方の大将は、あの太原雪斎である。戦さは、今川方の快勝
で終わる。(「小豆坂の戦い」)その矢先、松平家に新たな不幸が襲う。
広忠の死去である。死因は、『松平記』によると、家臣の岩松八弥に刺
されたことと言う。天文18年3月の春先、24歳の若さだった。その
時、竹千代8歳。信秀の保護にあった為、父の死に目には会っていない。
広忠亡き後、義元は雪斎を派遣してすぐに岡崎城を接収。松平家の重臣
と家族を駿河へ移し、当時、織田方になっていた安祥城を一気呵成に攻
め、城将の信長の異母兄・信広を獲捕、信広と竹千代の人質交換を実現
させる。この後、三河国は今川氏の属領として、扱われることになる。
たった一顧の弾丸として父果てる 斉藤和子
織田信長とも出会うことになる竹千代の、2年間の織田方の人質生活は、
結構待遇もよかったという。よかれあしかれ、竹千代の今川人質生活は、
19歳まで11年間続く。ただ「人質」とはいえ、今川方でも恵まれた。
食事も生活も学問も、当主の義元の計らいで、結構自由な行動を許され
ていたようだ。
弘治2年(1556)浅間神社で元服、松平二郎三郎元信となる。
『竹千代君、御とし十五にて、今川治部大輔義元がもとにおはしまし、
御首服を加へたまふ。義元、加冠をつかうまつる。関口刑部少輔親永、
理髪し奉る。義元、一字をまいらせ、「二郎三郎元信」とあらため給ふ』
(『東照宮御實紀』)
弘治2年(1556)父の法要のため岡崎に一時帰国。
弘治3年(1557)関口親永の娘・瀬名姫を娶る。元康と改名。
永禄元年(1558)義元の命により、三州寺部城に初陣。
永禄2年(1559)長子・信康誕生。
みずいろのワルツが葉脈を巡る 吉松澄子
永禄3年(1560)義元上洛途上、桶狭間で信長の奇襲をうけて死去。
42歳だった。松平元信は戦地から岡崎に戻り、人質生活から脱する。
※ 桶狭間の戦で義元が信長に敗れ、「義元死す」の報を今川方の一員
として大高城で聞いた元康は、信長の討手を逃れ、手勢18人で岡崎の
菩提寺(大樹寺)に人質解放報告をしたのち、義元の後を追おうとした。
この「追腹」を大樹寺の登誉天室住職(とうよ・てんしつ)に諭されて、
思いとどまった逸話がある。
「いまここで、死ぬのはあまり意味があることではない。生きて、この
汚い世の中を少しでも良くすることが、あなたの使命ではないか」と、
そして「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)と揮毫し
て元康に渡した。これが家康の戦の「流れ旗」になった。
義元死去のあと今川家は、東は武田、西は織田に併合され、戦国の大名
としては消滅をする。
いちょうの黄は小さじ一杯の挽歌 宮井いずみ
永禄4年(1561)信長と和睦。三河平定に着手。
永禄5年(1562)信長と同盟。今川家と断交。
永禄6年(1563)家康と改名。信康、信長の娘・徳姫と婚約。
永禄7年(1564)一向一揆を収め、三河全域を平定する。
三河の一向一揆を、鎮静化させた家康のコトバがある。
<一揆を続けて、田畑を焼き払うと、皆飢えてしまう。それを仏は許す
はずはない>そして一揆を企てた者に対し「ここで静かに退去する者は
許す」と言うと、騒ぎを誘導した渡り者の法師たちは、たちどころに消
え去った。「大事を成し遂げようとするには、本筋以外のことはすべて
荒立てず、なるべく穏便にすますようにせよ」(家康の名言、生れる)
永禄9年(1566)従5位下三河守となり松平姓を徳川姓に改める。
雑音はまとめましたと粟起こし 美馬りゅうこ
太原雪斎
【付録】 「小豆坂の戦い」
美濃国の斉藤氏と姻戚関係を結んだ織田氏は、天文17年(1548)
岡崎城を陥落させるべく侵攻を始める。今川義元も太原雪斎を総大将
として西三河に援軍を送る。松平広忠も今川方としてこれに参戦した。
結果は今川氏の大勝で終わる。
この敗北により織田の勢力が弱まり、安城城も奪われ、三河より撤退
することとなる。小豆坂の戦い以前は、矢作川が両勢力の境界で、信
秀の死までわずか数年の間に、織田の勢力はどんどん縮小していった。
信秀が今まで敵対関係にあった斉藤道三と同盟を結ばざるを得なかっ
たのは、この勢力縮小に危機感を抱いたからである。信長と帰蝶の結
婚は、小豆坂の敗戦があったからこそなのである。
まず今日の息を正しく吐いてみる 中野六助
[3回]
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