忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[197] [196] [195] [194] [193] [191] [192] [190] [189] [188] [187]

有り様もあらざるモノも現世  山口ろっぱ

go-nosouretu.jpg

   御台所お江の葬儀

寛永3年(1626)、54歳で逝ったお江。

葬儀は徳川幕府の威信をかけ芝増上寺で、荘厳華麗に行われた。

「お江との別れ」

徳川家の宗旨は、浄土宗である。

家康は、芝の三縁山・増上寺を徳川家の菩提寺に定めており、

元和2年(1616)4月17日に死去すると、

その葬儀が増上寺で執り行われている。

お江の葬儀は、家康に続く形だった。

その6年後に、

同じく54年の生涯を終えた秀忠の葬儀が、

増上寺で執り行われることになる。

つぶやいたことばに色を塗っている  赤松ますみ

tokugawake-reibyou.jpg

     徳川家霊廟

寛永3年(1626)9月15日、

江戸城・西丸御殿で死去したお江の遺骸は、

18日に増上寺に送られた。

お江は、荼毘に付されることになったが、

荼毘所は麻布・我善坊(がぜんぼう)の地に、

設けられている。

葬儀は、10月18日に執り行われた。

既に京都から秀忠・家光・忠長たちは、江戸に戻っていた。

四つ葉など揃えて野辺で待ってます  信次幸代

前・将軍の御台所にして現・将軍の母・お江の葬儀の様子を見てみよう。

麻布の荼毘所から増上寺までの、

1000間(約1800m)もの間、
筵が敷かれた。

その上には、白布が置かれた。

一間ごとに警備の武士が配置され、蝋燭が提げられた。

増上寺に安置されていたお江の遺骸は、

この白布の上を麻布の荼毘所まで進んだのである。

中程で仏間がしてる生欠伸  岩根彰子

荼毘所は、100間四方の規模で、

四方に門が付けられていた。

荼毘に付される前に、香が焚かれていた。

その香りが周囲を満たす中、

増上寺をはじめとする浄土宗寺院の僧侶が、

法文を読みはじめる。

その中には、家康の母・於大の方の法名を院号とし、

その墓所もあった伝通院の僧侶もいた。 

≪やがて伝通院には、

    お江の娘・千姫や家光の御台所・鷹司孝子が葬られることになる≫

 

きらきらと水陽炎や経流し  大西泰世

僧侶たちの読経の中、

お江の遺骸を包むように積み重ねられた沈香に、

一度に火が放たれる。

その香りと煙は、周囲10町(約1090m)余りに広がったという。

まさに戦国から徳川の世にかけて、

54年にも及ぶ波乱の生涯を駆け抜けた。

お江にふさわしい華やかな火葬だったといえるだろう。

そしてお江の骨は、棺に入れられ、

増上寺境内に造られた霊廟に、納骨されることになる。

火葬する炉にも部屋番号がある  松田順久

go-nohaka.jpg


   お江の墓

お江が葬られた宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、

高さ5・15mもある。

そして、霊牌所が造られるが、

完成したのは、寛永5年(1628)のことだった。

お江改め崇源院には、

11月28日に朝廷から従一位が贈位された。

以後、昭和34年の改装で棺が開けられるまで、

お江は秀忠とともに、

増上寺内の崇源院廟所で、眠り続けたのである。

鼻水の積が1ギガバイトほど  井上一筒


 

 

 

 

拍手[5回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開