川柳的逍遥 人の世の一家言
御台所お江の葬儀 寛永3年(1626)、54歳で逝ったお江。 葬儀は徳川幕府の威信をかけ芝増上寺で、荘厳華麗に行われた。 「お江との別れ」 徳川家の宗旨は、浄土宗である。 家康は、芝の三縁山・増上寺を徳川家の菩提寺に定めており、 元和2年(1616)4月17日に死去すると、 その葬儀が増上寺で執り行われている。 お江の葬儀は、家康に続く形だった。 その6年後に、 同じく54年の生涯を終えた秀忠の葬儀が、 増上寺で執り行われることになる。 寛永3年(1626)9月15日、 江戸城・西丸御殿で死去したお江の遺骸は、 18日に増上寺に送られた。 お江は、荼毘に付されることになったが、
荼毘所は麻布・我善坊(がぜんぼう)の地に、 葬儀は、10月18日に執り行われた。 既に京都から秀忠・家光・忠長たちは、江戸に戻っていた。 四つ葉など揃えて野辺で待ってます 信次幸代 前・将軍の御台所にして現・将軍の母・お江の葬儀の様子を見てみよう。
麻布の荼毘所から増上寺までの、 その上には、白布が置かれた。 一間ごとに警備の武士が配置され、蝋燭が提げられた。 増上寺に安置されていたお江の遺骸は、 この白布の上を麻布の荼毘所まで進んだのである。 中程で仏間がしてる生欠伸 岩根彰子 荼毘所は、100間四方の規模で、 四方に門が付けられていた。 荼毘に付される前に、香が焚かれていた。 その香りが周囲を満たす中、
増上寺をはじめとする浄土宗寺院の僧侶が、 その中には、家康の母・於大の方の法名を院号とし、 その墓所もあった伝通院の僧侶もいた。 ≪やがて伝通院には、 お江の娘・千姫や家光の御台所・鷹司孝子が葬られることになる≫ きらきらと水陽炎や経流し 大西泰世 僧侶たちの読経の中、
お江の遺骸を包むように積み重ねられた沈香に、 その香りと煙は、周囲10町(約1090m)余りに広がったという。 まさに戦国から徳川の世にかけて、 54年にも及ぶ波乱の生涯を駆け抜けた。 お江にふさわしい華やかな火葬だったといえるだろう。 そしてお江の骨は、棺に入れられ、 増上寺境内に造られた霊廟に、納骨されることになる。 お江が葬られた宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、 高さ5・15mもある。 そして、霊牌所が造られるが、 完成したのは、寛永5年(1628)のことだった。 お江改め崇源院には、 11月28日に朝廷から従一位が贈位された。 以後、昭和34年の改装で棺が開けられるまで、 お江は秀忠とともに、
増上寺内の崇源院廟所で、眠り続けたのである。
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