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川柳的逍遥 人の世の一家言
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もういいとかたちを神様に返す  たむらあきこ

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寛永3(1626)年9月15日、

は、江戸城西の丸で、54歳でその波瀾の人生に幕を閉じる。

法名は、「崇源院殿昌譽和興仁淸大禪定尼」

遠雷や文庫を括る手くらがり  吉澤久良

お江がこの世を去ったのは、

秀忠・家光・忠長が上洛していた時である。

家康・秀忠・家光という徳川三代の時代は、

将軍職に任命される時、

上洛して「将軍宣下」を受けることになっていた。

その晴れの舞台は、京都南郊の「伏見城」である。

落葉焚きイエスタデイを聴きながら  加納美津子

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元和9年(1623)に、家光は秀忠とともに上洛し、

将軍職に任命されたが、寛永3年にも上洛している。

この年、家光の妹・和子が女御となった後水尾天皇が、

京都の「二条城」に、行幸することになったからだ。

こうして、秀忠・家光・忠長をはじめとする徳川一門や、

有力大名も続々と上洛し、天皇の行幸を迎えた。

千枚漬にはさんで今日を消化する  高橋謡子

天皇の行幸は、9月6日から10日まで5日間に及んだ。

ところが終了後の11日、

江戸からお江の危篤を知らせる急便が、

秀忠たちのもとに届く。

忠長は、その日のうちに江戸に向かった。

家光も側近の稲葉正勝(春日局の子)を向かわせたが、

15日にお江は、この世を去ってしまったため、

臨終に間に合わなかった。

いじわるをちょっとしかけてくる雫  小西カツヱ

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徳川家増上寺墓所全景

家光は19日に京都を出立する予定だったが、

前日の18日夜、お江死去の急便が京都に着いたため、

出立を延期している。

お江の霊廟は、「増上寺境内」に建立された。

お江は増上寺に葬られた徳川家の一族のなかで、

唯一「火葬」となっている。 

≪紅蓮の炎のなか、大坂城内で自害した淀と同じく、

    その身は、火の中に消えていったわけだが、

     当時としてはきわめて異例だった≫

 

風はこぶとぎれとぎれの子守唄  新川弘子

火葬の理由は定かではない。

お江の意志だったのかも分からない。

その不自然さにより、

毒殺説まで伝えられているほどだが、
真相は分からない。 

≪お江の晩年の体調を具体的に知る史料もなく、

    現在に至るまで、その死は謎に包まれたままである≫

 

秋深し花屋の菊に風がない  籠島恵子

≪昭和34年に実施された増上寺内の徳川家霊廟改葬の際、

   学術調査が行われた。

   お江の棺も開けられたが、

   その中には,火葬された後の大小の骨片、炭、鉄釘、

  そして、櫛の歯の残片が入っていたという。

  木炭を用いて火葬にし、そのまま炭ごと骨などを棺に納めたのだ。

  その骨は、意外と細かったことが明らかにされており、

  お江は,華奢な体型だったのではと推定されている≫

散りぎわの紅葉 私を黙らせる  和田洋子

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       二重橋

なにはともあれ江は、

母・お市の方の織田・浅井の血を残すという遺命を、

果たしたのみならず、

幕府と皇室にまで、血を伝えたのである。

しかし、お江は寛永3(1626)に死去しており、

娘が即位する日を、見ることはなかった。

切りのいいところでポンと蓮の花  山本美枝

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