川柳的逍遥 人の世の一家言
歌川広重・「目黒爺々が茶屋」 ”目黒のさんま”という落語はよく知られているが、 これは将軍の鷹狩に大きく関係している。 3代将軍・家光は鷹狩を好み、 碑文谷原や駒場野などの目黒近郊によく遊猟に出かけたという。 ≪村々にて鷹狩が滞りなく行えるよう管理を行う役を通称、 「鷹番」というが、目黒区内にはそれにちなんだ地名も残る≫ 「家光と忠長」 元和9年(1623)7月27日、 家光は三代将軍に任命された。 時に家光は20歳。 秀忠45歳。 お江は51歳になっていた。 江が将軍の御台所から、将軍の母となった日でもあった。 親馬鹿やさて行く末の丁と半 戸田健太郎 家光が将軍に就任する前年に、本丸御殿の改築が完了し、 翌年には、天守閣も再建される。 すべて、家光が将軍に就くための準備であった。 本丸御殿には、現職の将軍が住んだが、 西丸御殿は前将軍、あるいは、時期将軍の御殿として、 位置づけられていた。 寛永元年(1624)11月3日。 本丸御殿には秀忠、西丸御殿に家光が住んでいたが、 将軍職就任に伴い、家光は本丸御殿に移る。 家光が使用したと伝わる葵紋が入った碗セット(喜多院) 秀忠はお江と共に、その一か月以上前の9月23日、 改築成った御殿に移っていた。 その後、江戸城の大改築が始まる。 ≪現在の外堀が造成されて、江戸城総構えが完成したのは、 寛永13年のことである。だがお江も秀忠も既にこの世にいなかった≫ 柿の木に登って見てた天守閣 合田瑠美子 家光が本丸の主となった翌年に、 御台所が五摂家のひとつ、鷹司家の孝子と決まる。 お江は、この結婚に奔走したようだ。 お江が、羽柴秀勝との間に儲けた完子は、
同じ五摂家のひとつ九条家当主の忠栄に、 鷹司家の娘を、江戸城大奥に迎えることができた。 ≪以後、五摂家の娘が将軍の御台所に選ばれるのが慣例となる≫ しかし、家光と孝子の仲はよくなかった。 当時、家光が女性には興味がなかったこともあり、 二人は、いわば家庭内別居状態にあった。 紅葉山を下りてくる一行(輿には家光が乗っている) 孝子が御台所に迎えられた翌年(寛永3年)に、 お江はこの世を去るが、 その死は二男・忠長の運命を変えてしまう。
忠長にとり、
この年、家光は右大臣に叙任し、 家光が将軍に就いた翌年に、 忠長は、駿府城と遠江国 55万石を与えられており、 ここに、駿河大納言が誕生する。 しかし、お江が死去し、 さらに秀忠の最期のときが近付いてくると、 忠長の所行が、常軌を逸するようになる。 ためらいを見せて足音遠ざかる 山田葉子 例えば、寛永8年(1631)のはじめに、 自分に仕えていた大阪船手頭の小浜光隆の子を、 何かの咎で、殺害したことがあった。
ところが、
この頃には、こうした正気とは思えない忠長の、 ついに、幕府も無視できなくなる。 性格は似ても似つかぬ左右の手 嶋澤喜八郎 徳川家一門であっても、 幕府の安定のためには、改易は免れなかった。 その一例を言えば、 お江の娘・勝姫の婿である福井藩主・松平忠直は、 重臣・永見貞澄の一族を討滅し、 家臣団を恐慌状態に陥らせていた。 参勤交代の規定も守らなかった。 よって、家光が将軍に就いた年に改易に処せられている。 面取りをしすぎて居場所見失う 河村啓子
そうした先例があるため、 諸大名の間でも流れていた。
同年5月、秀忠は忠長を駿府城から、 ただし、改易ではない。 駿河・遠江 55万石の所領はそのままだった。 秀忠としては、世間の評判に配慮しつつも、 忠長の気持ちが落ち着くことに期待して、 所領をそのままにしたのだろう。
投げられた茶碗を拾う私を拾う 時実新子
それを伝え聞いた忠長は、 併せて自分の赦免も願ったが、幕府は認めなかった。 翌9年1月、秀忠が死去すると、忠長は所領を没収され、 身柄を高崎藩主・安藤重長のもとに移された。 同10年12月6日、幕府から自害を命じられる。 享年28歳だった。 忠長自刃の間 忠長をはじめとする徳川家一門の粛清とは、
「幕府権力を確立しよう」 お江最愛の息子は、その犠牲になる。 そうした尊い代償を払うことで、 もうひとりの息子・家光の権力基盤は、 磐石なものとなったのである。 過去帳はもう谺さえ返さない たむらあきこ PR |
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