戦は済んだポッカリ浮いている 谷垣郁郎
鬼の柴田
「柴田勝家伝」
武勇に秀で、無骨な性格のため「鬼柴田」とも称された柴田勝家。
織田信長の筆頭家老であった勝家は、最初から信長の家来ではなかった。
信長の弟・信勝の家臣で、最初に信勝が兄・信長に反旗を翻したときは、
信勝軍として戦っている。
ところが、二度目の謀叛のときには、
その動きを信長に密告し、信勝は殺されている。
その功があって勝家は、信長の家臣として迎えられることになった。
遮断機の前に待つのも命がけ 三宅未知子
こうしたいきさつがあり、赦免されてからは信長に絶対の忠誠を誓い、
重鎮として重用された。
天正3年(1575)、信長が”越前一向一揆”を平定したあと、
越前のほとんど、といってよい八郡を勝家に与え、
その後、越後の上杉謙信・景勝との戦いで最前線に置かれ、
北陸方面軍司令官として、
”加賀一向一揆”との戦いでも活躍している。
ジャンプして月に手形をつけました 嶋澤喜八郎
北ノ庄城の模型
居城の北庄城には、「九重の天主」が聳えていた。
これは、信長の安土城天主を上回る大きさである。
これからでも、いかに勝家が信長に、信頼されていたかわかる。
しかし、信長死後の明智討伐しかり、
勝家の大きさは、信長がいての勝家だった。
軽トラで盗めぬ知恩院の鐘 井上一筒
信長死後、お市の方と結婚。
三姉妹ともども越前の北ノ庄城に暮らすが、
義父として、無骨ながらも深い愛情を注ぐ。
父・長政の記憶がないお江にとっては、
男親の愛情というものを、身をもって教えられた男かも知れない。
握られた火照り今夜は眠れない 杉本克子
天正10年(1583)、「賎ヶ岳の戦い」で敗れたあと、
北庄城での勝家の最期は、「鬼柴田」の異名をとった、
いかにも、「勝家らしい身の処し方」として、
のちのちまで、伝えられている。
落城前夜、最後の酒宴を張り、
そのあと、茶々、初、江の三姉妹を城から出し、
再婚したばかりのお市の方と自害する。
このとき、天守閣にのぼり、
「修理(勝家のこと)が腹の切りざま、見申して後学に仕候へ」
と叫び、
”腹を十文字に割き、五臓六腑までかきだしてから介錯させた”という。
≪これが切腹のときの正式な作法だった≫
石よりも固い頭が邪魔になり 橋本 康
二人の辞世の句は、次の通り。
『夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす』
柴田勝家1583年4月24日没 享年62歳
≪名を惜しむ武士の心が読み取れる≫
『さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎす』
お市の方1583年4月24日没 享年37歳
≪夫婦共に、ほととぎすを読む情の深さを感じる≫
勝家の”夏の夜の”を、市がそれを拾い句に添えた、市の愛情の証拠である。
≪これは、二人が自害する数時間前に、向かい合って詠み残したものと推測される≫
柴田神社(北ノ庄城の跡地)
≪北ノ庄城公園の中に柴田神社がある。
柴田勝家を主祭神とし、妻のお市を配祀している≫
男は土に女は風に死ぬという 森中惠美子
[4回]