生命線も運命線も汗をかく 森中惠美子
賎 ヶ 岳 合 戦 図 屏 風
左隻には、大岩砦、岩崎山砦への柴田勢の猛攻、
秀吉方の”中川清秀の奮戦の様子”が描かれている。
右隻には、翌日退却する柴田軍と追撃する秀吉軍が描かれ、
”中央に扇を掲げて喜ぶ秀吉の姿”が見られる。
柴田勝家は、清洲会議以後、羽柴秀吉との対立を深め、
ついに両者は、近江余呉湖畔で対陣する。
戦争は平和を守るためでした 矢須岡信
「賤ヶ岳の戦い」
織田家の幼主となった三法師は、
いったん清洲から信孝の岐阜城に戻ったあと、安土城に移るはずであった。
安土城は、”本能寺の変”で、天守閣などは焼かれたが、
すべての殿舎が、失われたわけではない。
応急で新しい御殿も設備され、本能寺の変から三年後に、
近江領主となった豊臣秀次が、安土の城下をそっくりに、
近江八幡に移すまでは、城も町も存続していた。
ところが信孝は、お傅役に予定されている堀秀政らが、
羽柴寄りであることもあって、三法師の引渡しを渋った。
盗癖がある一乗寺下り松 井上一筒
岐 阜 城
秀吉や信雄は、「引っ越しを早くするように」催促していたが、
越前に雪が降って、柴田勢が動けなくなるのを待って、
天正10年(1582年)12月、
勝家の甥で、長浜城主だった勝豊を攻めた。
勝豊は養子であったが、勝家ともうひとつ、しっくりいっていなかった。
そこを見越しての攻撃で、勝豊は二日間で、城を明け渡すことになる。
いけ好かぬ顔向うからやってくる 山本翠公
この報せは、北ノ庄にも届いたが、すでに雪が降り積もり始めており、
勝家は、なすすべもなかった。
秀吉と信雄の連合軍は、こんどは岐阜城を囲んだ。
雪で閉じ込められた越前からの援軍も、期待できず、
信孝は、三法師を引き渡して、安土に移すとともに、
大切な生母と、自身の娘を人質に出さざるえなくなった。
人の世は言葉ひとつで裏返る 皆本 雅
柴田軍佐久間隊
悔しくてたまらない勝家は、春になったら秀吉と戦うべく、
各地に手紙を出し味方をつのった。
とくに毛利家では、小早川隆景が秀吉シンパだということで、
兄の吉川元春や、備後にいる足利義昭に味方するように工作をした。
2月になると、秀吉は伊勢の滝川一益を攻めた。
一益は、信長軍団でも軍司令官としては、もっとも有能な武将であったが、
本能寺の変のときに、上野の厩橋にあって北条勢に囲まれて、
逃げ帰ってきたことから、宿老の地位を失い、
領地も旧領の伊勢長島周辺だけになっていた。
あちらこちらにト書きうっかりしておれず 山本昌乃
左・秀吉軍 右・勝家軍
いたたまれなくなた勝家は、
3月9日、雪がまだ積もる中で強行出撃をする。
秀吉は急いで軍を近江に戻し、湖北の木之本付近で、柴田軍と睨みあった。
この情勢を見て、動き出したのが信孝である。
美濃国内の稲葉一鉄や大垣の氏家直道といった、秀吉派大名の領地へ攻撃を加えた。
秀吉は、一旦、美濃に転進するとともに、
人質にとっていた信孝の母を、殺してしまうことになる。
このことは当然、信雄も同意していた。
乗せられた船には穴が空いていた 辻 葉
母を人質にとられていたのに、
どうして信孝が、大胆な動きをしたのか判然としない。
信孝の犠牲は、大きいものであった。
この母は、蒲生氏郷夫人である冬姫の母でもあった。
氏郷は、この戦いで秀吉軍の有力武将として、
伊勢で滝川勢と戦っていたのだから、
戦国の掟とはいえ、残酷なことである。
几帳面でおしゃれな母であったのに 柏原才子
攻める秀吉軍
このとき、秀吉が岐阜に向かったのは、柴田軍をおびき出す意図があった。
果たして柴田軍の佐久間盛政は、中川清秀が守る大岩山砦を急襲した。
その近くにある岩崎山砦にあった、高山右近は撤退し、
清秀にも、それを勧めたが、清秀は踏みとどまって戦死してしまった。
武将としての美学を通したのである。
≪ただ、この清秀の頑張りによって、
中川家は豊後竹田藩七万石の大名として、生き残ることができた≫
向うから仕掛けられたら受けて立つ 堀江くに子
さて、盛政は、緒戦の勝利に酔ってしまい、
勝家の忠告を無視して、羽柴軍を深追いしてしまう。
陣形が伸びてしまったところに、
急を聞いた羽柴軍が、農民に松明を焚かせ、食事を炊き出しさせて、
常識破りのスピードで戻ってきた。
≪午後4時に大垣を出発して、賎ヶ岳までの50キロを、
5時間で走ったと言うから、誇張があるにしても、驚異的なスピードである≫
勝てそうな気がする一丁噛んでみる 有田晴子
迅速な行動は、羽柴軍の得意とするところ、
盛政軍は、あわてて退去しようとしたが間に合わず、
羽柴軍にさんざんに打ち破られた。
≪福島正則、加藤清正のほか、浅井旧臣の片桐且元、脇坂安治など、
”賎ヶ岳の七本槍”といわれる羽柴軍の若手武者たちが、
活躍したのはこのときのことである≫
ライバルはおへその裏に棲んでいる 小谷小雪
扇をふりあげ奮戦する秀吉
しかも、この戦いでは、
後方を支援するはずの前田利家軍が傍観し、
戦況不利と見ると、早々に戦場を離脱している。
柴田の与力とはいえ、秀吉とは若いときから懇意で、
娘の豪姫を秀吉夫妻の養女として、出しているほどだったから、
もともと、しぶしぶ参加していただけなのだ。
それは、勝家も分かっていたことであった。
そこで勝家は、北ノ庄への帰路、府中の城に立ち寄り、
利家の従軍に感謝し、後事を託して落ちていった。
そのあとに、秀吉が訪ねてきて、利家とまつ夫妻に会い和解したという。
こんにちは さよなら言うただけの今日 泉水冴子
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