つぎ足してつぎ足して描く夢の画布 加藤ゆみ子
(題字・ 横尾忠則)
NHK大河ドラマ「いだてん」 田畑政治の巻
NHK大河ドラマ「いだてん」は25話より、金栗四三(中村勘九郎)
からバトンを継いで、政治記者田畑政治(阿部サダヲ)に変わります。
視聴者からは、「この人誰?」と囁き声が聞かれるほど、田畑政治は、
過去に「おんな城主」の井伊直虎(柴咲コウ)以上に知名度が低い。
さてどうなりますことやら。そこで田畑政治がどんな人物で、何をした
人なのか、短くご紹介してまいります。
明治31(1898)年12月1日、浜松旧家で「八百庄」という造り酒屋に
生まれた田畑政治は、子供のときから水泳が大好きで、かなりの実力が
あったようです。しかし中学校在学時、盲腸に大腸カタルを併発し、
「泳げば死ぬ」と医者から言われ、水泳を諦め、指導者の道を歩むこと
になります。
大正13年、東京帝国大学を出て、朝日新聞社に入社、政治部に配属
されて、戦後の首相となる鳩山一郎や有力政治家とも知己となり、その
立場を利用して日本の水泳を国際的にどんどん強くしていきます。
浜名湾を目の前にして育ち、一時は、神童スイマーと期待された田畑で
したが、よく当たる占い師から「30歳まで生きられない」と脅され、
波乱万丈ながら、一つ一つ山を乗り越え戦後の復興に期待し、スポーツ
振興及び、オリンピックの道に一生を尽くす人物のものがたりです。
床の間の七福神がけしかける 井上登美
前列右端・人見絹江、後列左二人目及び三人目・南部忠平、織田幹雄
大正13年10月31日、日本水泳界は「大日本水上競技連盟」を創設、
田畑は理事に就任します。理事になり、昭和3(1928)年開催の第9回・
アムステルダム・オリンピックを目指します。そこで 田畑は、水泳競技
の強化のために鳩山一郎を通じて、大蔵大臣・高橋是清(萩原健一)に
面会し直談判して水泳競技への補助金支出の約束を取り付けます。
そしてアムステルダムに10人の選手を派遣することになります。
結果として、陸上競技三段跳・織田幹雄、競泳男子200m平泳・鶴田義行
(大東駿介)の2名が金メダルを取り。
陸上競技女子800メートル競走で人見絹枝(菅原小春)と競泳800mリレー
で米山弘、佐田徳平、新井信男、高石勝男が銀メダルに輝きます。
さらに競泳男子100m自由形で高石勝男(斎藤 工)が銅メダルと輝やか
しい実績を残します。これで自信のついた田畑は、昭和7年(1932)に
開催のロサンゼルスオリンピックに向け、常勝日本を目指して打倒水泳
最強国アメリカを目標に掲げます。
どっこいしょを枕言葉に動き出す 松浦英夫
そしてそのロサンゼルスオリンピックロサンゼルスでは、5個の水泳を
含む、金メダル7個、競泳4個を含む、銀メダル7個、競泳2個を含む
銅メダル4個を獲得。合計18個のメダルを獲得しっます。
世界中に水泳大国日本をアピールし、さらに田畑と競泳日本代表チーム
は昭和11(1936)年のベルリンオリンピックも同様のローテーション
で本番に向かうことに決定します。
この時、田畑は35斎。幼少期に命にかかわる病にかかり、ある時は
「30歳までには死ぬ」と言われながらここまで生きてきたことに田畑は、
自らも驚きながら水泳一筋に生きてきた人生を見直し、昭和8(1933)に
妻・菊枝(麻生久美子)と結婚して、公私ともに充実期を迎えます。
くされ縁燃えさかるもの抱いている 三村一子
迎えた昭和11(1936)年のベルリンオリンピックでは、金メダル6個
(競泳の4個)銀メダル4個(競泳2個)銅メダル5個(競泳5個)と
ロサンゼルスオリンピックに匹敵する成績を残し、水泳大国日本の地位
を磐石にしました。
蛇足です、このベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎで、前畑秀子
(上白石萌歌)がゴール寸前までドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッド
ヒートとなり、これを実況放送したNHKアナウンサー河西三省(トータ
ス松本)の「前畑がんばれ!前畑リード!勝った、前畑勝ちました」の
我を忘れた実況は、ほとんどの日本人が固唾を飲み、解説のない実況と
して、今も語り草になっていることは、多くの方の知るところでしょう。
外反母趾が骨盤に乗り移る 井上一筒
日本最初の金メダル
戦後最初となるロンドンオリンピックは、イギリスがドイツと日本の参
加を拒否し、出場を断念することになりました。
「エピソードー①」
「我々は《プリンス・オブ・ウェールズ》を忘れない」
プリンス・オブ・ウェールズとは、太平洋戦争開戦直後の昭和16年
12月10日、日本軍の上陸を阻止するため出動したイギリスの戦艦で
マレー沖にさしかかり、日本海軍航空機から爆撃を受け、僚艦のレパル
スと共に沈没してしまいました。
プリンス・オブ・ウェールズが撃沈されてから7年後、戦争が終わって
から3年後の昭和23(1948)年。日本水泳の古橋廣之進、橋爪四郎が
揃って未公認ですが世界新記録を出していました。
それを知り恐れてのことか、イギリスは日本のロンドン・オリンピック
への参加を認めませんでした。その時の通達の最後には、
『われわれはプリンス・オブ・ウェールズを忘れない』とあり。
怨みなのか、古橋、橋爪にびびったのか。
大英帝国の根性の無さを見た一幕でありました。
満月も刺股状になる妬心 山本早苗
日本で一番最初の銀メダル
アントワープオリンピックで熊谷一弥がテニスで獲得
「エピソードー②」
その通達を知った水泳連盟会長の田畑は、「記録の上で世界と戦おう」
という計画を立案しました。いわば、日本水泳界が世界に叩きつけた
挑戦状です。大会プログラムには、「田畑政治のロンドン大会に挑む」
と題した「檄文」が掲げられました。
そして、オリンピックの水泳競技と同じスケジュールで、日本選手権を
神宮プールで開催することを決め、そこで挨拶に立った田畑は、
「もし諸君の記録がロンドン大会の記録を上回るものであるならば……
ワールド・チャンピオンは、オリンピック優勝者にあらずして、
日本選手権大会の優勝者である」と言い切りました。
受けて立ちますと剣山のやる気 川畑まゆみ
その結果、自由形400mでは、オリンピック金メダリスト・ウィリア
ム・スミス(米)の記録4分41秒0に対し日本の古橋は4分33秒4。
1500m自由形では、金メダリスト・ジェームズ・マックレーン(米)
の記録、19分18秒5に対し古橋は、18分37秒0を出し。
橋爪は、18分37秒8を出しました。金、金、銀の結果です。
これらは公認記録として認められるものではありませんでしたが、
応援席には、天皇陛下、皇太子殿下も観戦にお見えになり、大きな拍手
をされ、感激した片山哲首相からは、特別に総理大臣杯を贈られました。
尚、その後も9月の学生選手権の400m自由形で、古橋は自己記録を更新
する4分33秒0、800m自由形で、世界記録である9分41秒0を
出しています。
思いきり鈴を鳴らした願い事 両澤行兵衛
「エピソードー③」
その記録を耳にしたアメリカの水泳連盟は、古橋や橋爪など6名の選手
がロサンゼルスで行われる全米選手権に招待されることになり。
そこで古橋は、400m自由形で4分33秒3、800m自由形で9分
33秒5、1500m自由形で18分19秒0(世界新記録)を出して
優勝します。
こうした日本の水泳チームの活躍に、アメリカの新聞は、競技の前に
掲載された日本の水泳選手に対する揶揄への謝罪文が掲載され、
古橋は「フジヤマのトビウオ」と呼ばれました。
こうした記録と事務方の努力があって、昭和24(1949)年6月15日に
日本水泳連盟は、国際水泳連盟(FINA)に復帰を果たしています。
ほぐしたら一本線になりました 合田瑠美子
しかし、田畑の人生すべてが、順風満帆というわけではありません。
昭和27年、常務取締役の役職にあって田畑は、朝日新聞社を退社。
日本選手団団長として乗り込んだヘルシンキオリンピックでは、
銀メダル3個だけの成績に終わります。
昭和31年のメルボルンオリンピックでも、田畑は日本選手団団長とし
て参加するも、金メダル1、銀メダル4個と惨憺たる成績に終わり。
昭和32年に行われた日本水泳連盟の会長選においては、対立候補に
かつて田畑の指導下にあった高石勝男が立ち、僅差を競う激烈な戦いに
密約をもって、1年のみの続行を条件に会長を続けたといいます。
全身をアンテナにして風を聴く 小林すみえ
江戸東京博物館・特別展『江戸のスポーツと東京オリンピック』より
その後日本が高度成長へとひた走る中、田畑は、昭和39年、東京五輪
の招致と開催に尽力します。
「エピソードー④」
東京五輪招致のためには、IOC委員の東竜太郎を東京都知事にするのが
最善だという意見が大勢を占めていたなかで、田畑はスポーツと政治が
癒着することを警戒し、自民党の推薦で東が出馬することに難色を示し
ました。結局、それを受け入れることになりますが、田畑は、昭和55
年にアメリカがソ連のアフガン侵攻に抗議して、モスクワ五輪をボイコ
ットし、これに日本が従うことになったときにも、強く反対し、最後ま
で参加の道を模索したといいます。スポーツ愛を貫く田畑の真骨頂を伺
い見る二コマでした。
埃なら書棚にたんと積ってる 杉浦多津子
「エピソードー⑤」
東京五輪に向け、田畑は日本選手が活躍できる舞台を増やす必要性から、
柔道と女子バレーボールのオリンピック競技への採用を強く主張します。
男子バレーボールがすでに正式採用されていたために、男女平等の観点
から、田畑は、委員会で熱心に説き、女子バレーボールもオリンピック
競技に正式採用されることになりました。これが大松博文監督率いる
「東洋の魔女」が誕生するきっかけとなったのです。
同時にIOC委員であった嘉納治五郎が作り上げた柔道も、東京から正式
種目となり、今も個別に世界大会が催されるほど成長し、堂々、両種目
ともオリンピックに欠かせないものになりました。
ト書きではここで空気になれとある 美馬りゅうこ
東京オリンピック組織委員会の事務総長として着実に準備を進めていた
田畑でしたが、当時のオリンピック大臣であった川島正次郎との折り合い
が悪く事あるごとに対立していました。 その影響か東京五輪を二年後に
控えて、田畑は大会組織委員会事務総長を辞任せざるをえなくなります。
「エピソードー⑥」
黒澤明は日本オリンピック組織委員会から、4年後の「東京オリンピック
公式記録映画」の総監督をお願いしたいとオファーを受け、黒澤も快諾を
していましたが、田畑辞任の煽りを受け、田畑肝煎りの「五輪映画計画」
も白紙になってしまいます。
実際、黒澤はローマオリンピックまで下見に行き、綿密な計画を立てて
試算までしていました。そこで黒澤が提示した金額は、5億5000万円。
これもネックだったかも知れません。
黒澤明の後任には、市川崑に白羽の矢が当たりました。
市川崑提示した予算は2億7000万円。記録映画『東京オリンピック』
は大ヒット。25億円の興行収入を得ました。その時、黒澤明は何を
思った?のだろうか。「わしは撮りたかった」かな。
5ミリほど残る未練とここにいる 桑原すヾ代
[4回]