偏平足の話でしばし盛り上がる 竹内ゆみこ
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三 囲 の 景(広重)
三囲(みめぐり)の名は社殿の下から掘り出された翁がまたがる白狐の
神像から白狐が現れて、三遍回って姿を消したことに由来するとされる。
元禄6(1693)年6月28日に俳人・宝井其角が雨請いのために、
「夕立や田を見めぐりの神ならば」の句を捧げたところ、雨が降ったと
いうことでも有名。神社は低地にあり、鳥居も土手の下に立っていた為
隅田川の方から眺めると、鳥居は土手にめりこんだように見えたという。
「詠史川柳」 江戸の景色ー⑤ 俳句(芭蕉・其角・千代女)
芭蕉と曽良
≪松尾芭蕉≫ (1644~1694)
藤は捨て芭蕉で広く名を残し
俳諧を芸術にまで高め「俳聖」と謳われた松尾芭蕉。若年の頃は、伊賀
上野の藤堂家に仕え、身分は料理人でしたが、主君の藤堂良忠が俳句を
することから共に俳諧を嗜むことになる。寛文6(1666)年良忠の死ぬと
仕官を退き俳諧に精進。当時40歳。「奥の細道」の旅にでます。
これが訳ありで、生まれたのが忍者の里・伊賀であること、旅費のこと、
健脚で移動速度の速いこと、行き先が東北方面であること、などから
仙台藩の謀反の調査を兼ねた密偵が目的ではないかといわれました。
深読みすれば、名句「いざさらば雪見にころぶところまで」が、忍者説を
暗示するかのように聞こえてきます。それが川柳子にかかると、
いざさらば雪見に呑めるところまで
いざさらば翁も酒がなると見え
転んでも汚れねぇのが名句なり
しがらみのすべてを虹にしてしまう 山本昌乃
転びそうになって「おっとどっこい 転んでなるか」
などと言いながら、芭蕉は、また二三丁頑張って歩きだすのです。
どっこいと言い言い芭蕉二三丁
膝や手をはたいて翁一句詠み
転んだのは、「下駄の鼻緒が切れたから」と言い訳をし
「転ぶところまで」と言っているからには、転ばなければ
果てしなく行くことになります。
転ばずば翁の雪見果てがなし
「芭蕉は転ぶところまで」と言っているが、俺たちだったら
いざさらば居酒屋のあるところまで
捕まえた陽射しと午後のお茶にする 吉川幸子
芭蕉の川柳はパロディーが多い。
ご存知「古池や蛙とび込む水の音」の名句には、
芭蕉翁「ぽちゃん」というと立ち留まり
古池にその後とび込む沙汰もなし
「夏草や野良者どもが夢の跡」には
夏草や野良者どもが出合い跡
「無残やな甲の下のきりぎりす」には
むざんやな梯子の下の草履取り
「煮売屋の柱は馬に喰われけり」には
道のべの木槿は馬にくわれけり
なぜかあっしも危険分子の一部 山口ろっぱ
其角と大高源吾
≪宝井其角≫ (1661~1707)
師は寒く弟子は涼しい名句也
これは、宝井其角の句「夕立や田をみめぐりの神ならば」と、松尾芭蕉
の雪見句とのセットで、子弟対照を詠んだもの。
其角は芭蕉門下の雄に収まらず元禄俳壇の大立者として活躍しました。
後年、芭蕉は「草庵に梅桜あり、門人に其角嵐雪有り」と記し、其角は
桃に、服部嵐雪は桜になぞらえて「両の手に桃とさくらや草の餅」と詠ん
でいます。ただ芭蕉の弟子とはいえ、其角の作風は師の目指ところの
「わび・さび」とは遠いところにあり、人々の生活を華やかに唱い洒落を
きかした句がメインです。これを疑問とする森川許六は芭蕉に「いいので
すか」と問いました。それに対して芭蕉は、「自分の俳諧は閑寂を好んで
細く、其角の俳諧は、伊達を好んで細い、この細いところが共通する」
と答えたといいました。
やんちゃな男が四角を丸にする 福尾圭司
江戸時代の随筆集・『墨水消夏録』(三囲稲荷)燕石十種(えんせきじっ
しゅ)から、川柳子は句を考えます。
宗匠へ蓑よ笠よと土手の雨
人の田に水を引かせたは其角
墨水消夏録には、農民が其角をとりまき、「ぜひ雨乞いしてくだされ」
と頼んだと書き出しにあり。其角は止むを得ず…向島土手下の三囲神社
で「ユタカ」の字を折句にして「ゆうだちやたを三囲の神ならば」と詠
んだといいます。すると夕方近くになって、筑波の方から雷は鳴りだし、
盆を覆すほどの雨が降り出した、というのです。其角の自選句集に、
牛島三囲の神前にて、雨乞いするものに代わりて」と前書きをしてこの
句が載り「翌日雨が降る」と書き添えてあるところからみると。まんざ
ら事実のようで、川柳子にかかると普通の雨が豪雨になっていますが。
脳内へ隠し包丁式包丁 山本早苗
一句吟ずればゆたかの雲起こり
よく詠んだなあと褌まで絞り
頭文字「ゆ・た・か」が豊作を呼んだと農民は大喜び。
旱天の雨は金のように価値があり、
金の降る雨は宝の井から湧き
たなつもの持って発句の礼に来る
たなつもは穀物のこと。農民はお礼をもって其角を訪ねました。
世間体しばらく雲に載せておく 岡田陽一
井戸端の千代
≪加賀の千代≫ (1703~1775)
朝顔で千代万代に名を残し
芭蕉が俳句作りの旅に出発し、東北・北陸を巡り、紀行文「奥の細道」
を元禄15年(1702)に出したこともあり、千代女が生まれた時代、
土地(加賀松任)では、蕉風俳諧が隆盛を見せていました。
千代女は、このような時代背景の元に生まれ、その影響で幼い頃から
俳諧に興味を持ち、親しんでいました。
代表作はいうまでもなく「朝顔に釣瓶とられてもらい水」です。
このため松任では毎年、「千代女朝顔祭り」が開催され、朝顔はこの町
のシンボルの花にもなっています。
起きて三つ寝て三つ蚤を六つ取り
千代女は田沼時代の俳人。加賀松任の表具師の娘に生まれ、結婚をして
一子を産みましたが、最愛の夫、子供と死別し、以後は俳諧一筋に暮ら
しました。親子三人仲良く寝ていたのにと、しみじみ思い詠んだのが
「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな」でした。
眠られて寝られぬ蚊帳の広さかな
起きて見つ寝て見つ蚊帳の穴だらけ
お千代さん蚊帳が広くば入ろうか
教科書をはみ出たとこで咲いている 笠嶋恵美子
千代が17歳の頃、諸国行脚中で芭蕉門下の俳人・各務(かがみ)支考に
出合い「弟子にしてください」と頼むと、支考は「さらば一句せよ」と、
ホトトギスを題にした俳句を詠むよう求められました。
千代女は俳句を夜通し言い続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて
明にけり」という句で、遂に支考に才能を認められ俳句の道に進むこと
になりました。
「お千代さんさぞ眠かろう」時鳥
千代は、心優しく風流のわかる女性です。井戸水を汲み上げる釣瓶に朝顔
の蔓が巻き付いているのを見ても、無理に切ったりせず、そのままにして
おいて、他所に水を貰いにいったのですが、世の中には無粋な奴もいて、
朝顔に振り向く千代の空手桶
無雅なやつからんだ蔓を切って汲み
朝顔は千代女を有名にした花でもあり、無雅なやつの仕業に懲りて、翌年は
井戸端から離れたところに朝顔を植えただろうと川柳子の推理が働きます。
翌年は千代井戸端をよけて植え
わがままも言ってくれたら風は初夏 森田律子
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