川柳的逍遥 人の世の一家言
ゴキブリの足が一本家系図に きゅういち
紫式部観月図 (土佐光起)
” めぐりあひて見しやそれともわかぬまに 雲かくれにし夜半の月かな "
「漢字・ひらがなとの出会い」 5世紀の古墳から「漢字」が彫られた鉄剣が発見された。
当時の人がすでに漢字を使っていたことがわかる史料である。
推古天皇即位の593年から、平城京へ遷都の710年までの飛鳥時代
には、当時代の遺跡から、貴重な紙に代わって「木簡」という薄い木の
札に、墨で書かれた漢字がみつかった。
中国生まれの漢字は、文字そのものに意味がある「表意文字」であって、
その文字だけで、日本語を表すのには不便があった。
そこで漢字の一部を使ったり、くずした文字が工夫され、
平安時代に日本独特の「ひらがな」と「片仮名」ができた。 かな文字は「音」だけを表しているので「表音文字」という。
カタカナの角が肋につきささる 天野紀一
かな文字を使うと心の細やかな動きや、思っていることが表現しやす
くなり、平安時代には日記や物語文学が発達した。 「物語」
源氏物語、竹取物語、伊勢物語、落窪物語
「和歌集」
在原業平・小野小町などの歌人が活躍。天皇の命令で、紀貫之らが
和歌を集めて「古今和歌集」を編集している。
「随筆・日記」
枕草子、紫式部日記、和泉式部日記、蜻蛉日記、更級日記などである。
紫式部や清少納言など多くの女性の作者が活躍した。
土佐日記は紀貫之が女性のふりをして、平仮名を使って書いたという
実話ものこる。
日記書く惚けないように日記書く 靏田寿子
紫式部ー紫式部のために生まれたような…平安時代 花山時代の藤原為時 「紫式部の父・為時」
紫式部の父は藤原為時、母は藤原為信女である。
母・藤原為信女は、大河ドラマでは道兼に刺殺されるが、実際の死因は、
分からない。物心つかないまに生母に死に別れ、惟規(のぶのり)と、 ともに母なき家庭に育ち、家庭のぬくもりには、恵まれなかった。 さて紫式部の幼少期は「まひろ」という名前だそうだ。
紫式部という名前はもちろん実名ではない。「まひろ」という名前には 「心に燃えるものを秘めた女性」という意味が込められているそうで、 内田ゆきさんが令和6年1月に名付けたものらしい。 もともと「紫式部」は、彼女が彰子に出仕した寛弘2年(1006)後
の名前で、当初は「藤式部」と呼ばれていた。 「紫式部日記」には、寛弘5年に「むらさき」と記されていることから、 20歳代に紫式部の名が生れたものと思われる。 ええあの子は乾燥機の中よ 山口ろっぱ
母親が居ないことから父・為時は、紫式部を不憫に感じていただろうし、
女子の養育に不安を持ったであろう。
母親がいない分だけ、子供との結合を強化することを選ぶ。 結びつき(絆)を強化するのには、甘やかすことが最も効果的である。 子供が依存性が強くなり、親から離れないという実感となって、 親にかえりそれが為時の心を安心させた。 それゆえ、紫式部は、漢学者の父に直接育てられたため、平安朝の平均
的受領(国守)階級の子女とは違った、幼少時代を体験することになる。 生真面目な父さん髭も伸びている 林ともこ
「因幡堂縁起絵巻」 任国への旅
絵は、因幡国守となり、任国へ下向する橘行平の一行。
申し文の案を練る橘直幹
申文とは希望する任国や官職名を書いて提出する申請書。
申文は思い入れたっぷりの名文調が多いのが特徴である。
為時は、大学に学び「文書生」となり、学業を終えると、諸国掾に推薦 任官される制度があって、播磨の権少掾から花山天皇のもとで蔵人式部 の丞の職についていた。 だが花山朝は2年で終り、その後10年間散位を余儀なくされる。 (散位=官人として位階はあるが官職を持たないもののこと)
彼が浮上したのは長徳2年、折しも伊周(これちか)たちが「花山法皇
襲撃事件」を起こした直後の正月25日であった。
為時はこの日の県召除目(あがためしじもく)で淡路の守に任ぜられた。
だがこの3日後、道長によって、俄かに大国越前の守に替えられた。
為時が申し分を作って奉り、その中の『苦学の寒夜 紅涙襟をうるほし
除目の後朝蒼天に在り』との句が、道長を感動させたという経緯にある。
北陸道は中国大陸に面し、早くから菅原道真、や源順(したごう)など 文書道出身者の補される所であった。
紫式部はこうした父の文章の才能を色濃く受け継いでいるのである。
背伸びしてやっと掴んだ棚の餅 高浜広川
惟規を教える為時 「弟・惟規とのエピソードから」 『紫式部日記』ゟ 『この式部の丞といふ人の、童にて書読みはべりし時、聞き習ひつつ、
かの人は遅う読みとり、忘るるところをも、あやしきまでぞ聡くはべり
しかば、書に心入れたる親は、「口惜しう。男子にて持たらぬこそ、 幸ひなかりけれ」とぞつねに嘆かれはべりし』 <訳>弟の式部丞がまだ小さかったころ、漢詩や漢文を勉強していた。
私も横で講義を聴いていた。しかし弟の理解はものすごく遅く、さらに
習ったこともすぐ忘れる。一方、私はすらすら覚えられる。 漢籍を熱心に教えていた父は、いつも嘆いていた。
「残念だよ、お前が男じゃないのが俺の運の悪さだ」と。
きくらげを耳にしてみる日曜日 酒井かがり
漢籍の学問は、男子の立身出世の具で女子は教わるべきでもなかった。
その点は、父・為時も充分にわきまえていた。
紫式部が語るとき、弟の今は式部の丞になっている惟規(のぶのり)が 「書読み侍りし」で、紫式部自身はその時、「書きならひつつ」である から、弟の惟規には「直接伝授」しているが、紫式部には「間接伝授」、 または傍らで聴かせていただけで、男子と女子の教育は区別していた。 しかし漢籍の伝授をする際、子女である紫式部を、父の為時の近くに置 いたということ自体、父子家庭のため、普通の子女教育とは違った面が 生じていた。 耳たぶが落ちてる二幕目の終わり 中野六助
当時漢字は、男性にとっては、官人世界での出世の手がかりになったが、
結婚し母として生きる女性にとっては疎遠なものだった。
為時は、紫式部の将来像として、そうした人生しか想像していなかった。
とはいえ、この時期、紫式部は家庭において『史記』や『白氏文集』等
心から楽しみ、それに没頭する日々を送ったはずである。 紫式部の漢字素養は実に豊かであるばかりか、「知識教養」という程度
を超えて、彼女の物の見方や考え方そのものの土台になっている。 好奇心天まで上がる凧の糸 多良間典男
藤原兼輔 藤原定方
「紫式部のルーツ」 為時の曾祖父・藤原兼輔は、醍醐天皇の時代に公卿となり、天皇に娘の
桑子を入内させた。 彼に桑子を心配して帝にた奉った歌がある。 「人の親の心は闇にあらねども 子を思う道に惑いぬるかな」
また、為時の母方の祖父で紫式部にとって、曾祖父にあたる人に藤原定
方がいる。 兼輔と定方はきわめて仲がよく、紀貫之や凡河内躬恒(おおあいこうち のみつね)、清少納言の曾祖父である清原深養父らを代わる代わる自邸 に招き、和歌や管絃を楽しむなど、当時の文化の世界のパトロン的存在
であった。 そうした折の和歌は『後撰集』にも納められている。
同じ後撰集には、兼輔の子で紫式部の祖父である雅正(まさただ)の和
歌も収められている。 紫式部にとっては誇りであったろう。 そして紫式部の父・為時は、雅正と定方女の間に生まれた三男である。
長兄は為頼、次兄は為長で三人とも受領階級に属した。
三人ともに『拾遺集』や『後拾遺集』に歌を採られる歌人であった。 このように、紫式部の家は「和歌の家」ということができる。
死んだなら解体新書になるつもり 木口雅裕
漢字→平仮名→片仮名 「それにはそれのわけがある」 漢字は4~5世紀、百済から渡来した王仁が伝えたと日本書紀などに
ある。平安時代には、漢字から「ひらがな」と「カタカナ」が生まれ、
日本語に大きな影響を与えた。 漢字の一部からカタカナが生まれ、草書体をさらに崩して「平仮名」
ができた。当時『漢文は男性が身に着ける教養』とされていること
から、男性は漢字とカタカナ、女性はそれらを学ぶことが避けられ、
平仮名で文章を書くようになった。
が、漢文や漢字に精通していた女性は数多くいた。
中宮の教育係を任じた清少納言や紫式部らである。
女性にも漢字をの考え方を推したのが、藤原道長である。
自分の娘を教育するために詩や物語の才能がある女性を集めた。
漢文を学ぶ女性は多くはないが、少なくとも和歌の技術を磨くために
和歌集を詠んだり、歌作りのために文字を書く習慣は定着した。
この時代、女流作家たちがいなかったら、「平仮名」が存在してなかっ
たかもしれない。 急いでいるのに漢字で書く檸檬 高橋レニ PR |
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