川柳的逍遥 人の世の一家言
「子 規 庵」 (空襲で焼失ー昭和25年再建) 子規が亡くなるまで、10年間住んだ旧前田候下屋敷の長屋。 ≪愛用の机は、伸ばせなくなった左足を入れるため、一部がくりぬかれている。 庭の土蔵には硯や筆、衣服などの遺品が保存され、 また、有名な糸瓜も、毎年植えられている≫ 東京予備門に通っていた子規は、常磐会宿舎で、 根岸に引っ越して来た子規は、『日本』の記者として”日清戦争従軍を希望”していた。 だが、陸羯南に反対されたため、与謝蕪村の再評価に熱中。 従軍記者に欠員が出たこともあり、根負けした羯南は、 子規に清国行きを許可する。 期待などしてませんのでご自由に 井上一筒 しかし、「子規の従軍は、結局こどものあそびのようなもの」に終った。 従軍からの帰路、甲板で大喀血し神戸で入院。 須磨で、転地療養したのち帰郷し、 松山中学校の英語教師として、 その家を、日清戦争から凱旋した真之が見舞う。 子規の病状は悪化するばかりで、ついにカリエスを発症。 ≪このころ、『柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺』を詠む≫ 世の中は、ロシアを中心とする三国干渉に遭い、 近い将来、戦争になるだろうという風潮の中。 秋山好古は、佐久間家の娘・多美と結婚後、陸軍乗馬学校校長に就任。 秋山真之は、日清戦争後、大尉に昇進、海軍軍司令部・諜報課に配属となり、 同課にいる広瀬武夫と邂逅し、同居する。 その後、海外派遣士官となった真之は、アメリカに留学する。 アメリカに発つ前、真之は根岸に子規を見舞う。 今生の別れと思った子規は、 ”君を送りて思うことあり蚊帳に泣く” と詠んだ。 松山市立子規記念博物館には、 正岡子規と秋山真之とが直接交わした書簡が、7通だけ残されている。 残っている7通の真之の書簡うち、最初の書簡は、 真之が海軍兵学校への転校する時に、 真之は、海軍に入ってからも、子規に書簡を書き送っている。 「英国公使館付の駐在武官となり、アメリカからイギリスに渡る」 子規も、相当な数の書簡を、真之に送っているはずだが、 明治30年、真之は、海軍留学生として世界に飛躍することになった。 一方、結核にかかった子規は、病状が進んで寝たきりになってしまう。 子規は、真之が旅立つ日に、 ”君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く” という句を詠んだが、その”思うところ”は何なのか、不明である。 吸って吐く吐くのがちょっと面倒で 森田律子 あとで、この句を知った真之は、 「世界をあれほど見たかった好奇心のかたまりたる」 「政治こそ、男子一代の仕事」 「若いころの壮志をおもうと、まだ三十というのに、人生がすぼまる一方であった。 やがて死ぬ、と覚悟しているにちがいない。 なにごとを、この世に遺しうるかということをおもうと、 あの自負心の強い男は、真之のはなやかを思うにつけ、 あの日、真之が去ったあと、おそらく『蚊帳に泣』いたのかもしれない。 真之は、そうおもった」 (「渡米」) 海外の真之は、 「遠くとて 五十歩百歩 小世界」 それは、真之の思いやりだったのだろう。 そうした年賀状などを励みとしながら、子規は病床で名句を生み出していく。 ”正岡子規 絶筆三句” 糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな 痰一斗 糸瓜の水も 間にあわず をととひの へちまの水も 取らざりき 真之が帰国した明治33年8月、その頃から、 子規の病状は急速に悪化して行き、 明治35年9月19日、子規は遂にこの世を去る。 (享年34) 子規は、臨終の時まで、真之との思い出を抱くように、 真之から贈られた、毛の蒲団を肌身離さなかったという。 葬儀の日、真之がやって来たのは、 子規の棺が家を出て、間もなくであった。 原点の大地へ帰りゆく命 中川正子 PR |
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