右腕であり木枯らしのようであり 岩田多佳子
細川幽斎(藤孝)
「明智光秀」無二の親友・細川藤孝
細川藤孝は明智光秀が惚れこむに値する男だった。光秀にしてみれば、
諸国遍歴の旅に出た頃から(弘治3年~永禄5年)探し求めてきた同志、
盟友にようやくにして出会えた人物なのである。
藤孝は幕府奉公衆の三淵晴員(みつぶちはるかず)の二男として生まれ、
6歳のとき、晴員の兄・細川元常の養子となった。元常の家系は、管領
細川頼之の弟・頼有の末裔で、代々和泉守護を務める家柄である。元服
のとき、義晴の嫡子・義藤の一字を与えられ、藤孝と名乗った。
(義藤はのちの足利13代将軍・義輝)
カニカマは蟹の棚には並ばない 村山浩吉
幽斎の肖像画(田代等甫筆)
慶長17年、夫人の光寿院の指示で制作。
藤孝は学識が深く、まれに見る教養人だが、何よりも、足利幕臣の中で
忠節無比の武人といってよかった。足利義輝暗殺後、幽閉されていた足
利義昭を計略をもって、興福寺から救い出したのも藤孝だし、近江から
若狭へ、若狭から朝倉義景を頼って、越前へと義昭を案内し、労苦をと
もにしてきたのも藤孝だった。ここで光秀と出合った藤孝は、彼の前で
将軍家の衰微を嘆き、義昭が大和から近江・北陸へと漂白した一部始終
を語り聞かせたという。二人の生涯にわたる交流はこのときに始った。
静電気頬の産毛を波たたせ くんじろう
光秀は、有職故実に詳しく、砲術や築城術の知識にも通じ、和歌を詠み
連歌に興じ、茶の湯にも通じた教養人であり、当代屈指の文化人であっ
た藤孝と、学問や芸能の面においても共鳴するところがあったという。
そこにもって、藤孝の最大の関心事である足利幕府再興のための協力者
を誰にするか、並いる戦国武将のうちで、識見、実力ともに信頼できる
のは誰か。この重大事を問うにふさわしい人物として、藤孝は光秀とい
う男を選んだ。諸国遍歴の旅を5.6年経験してきたという、この男の
人物評価ー甲斐の武田信玄はどうか、越後の上杉謙信はどうか、西国の
毛利元就はどうかーなどをぜひ聞いてみたいと思ったのである。
書籍より現場に落ちている宝 村岡義博
足利義昭(遠藤賢一)
「義昭、朝倉義景の酒宴で」
『朝倉始末記』によれば、南陽寺は、朝倉館の東北方二丁余のところ
にある。蓬莱手法の石組みで構成されたその庭園は、京都北山の金閣寺
のそれを真似たというが、風光佳絶の庭内には、糸桜がいまを盛りと咲
きほこっていた。その下に緋毛氈をのべ、酒席をこしらえさせた朝倉義
景は、義昭を主賓とし、細川藤孝らとともに、歌会にうち興じた。義景
のかたわらには、愛妾の小少将が、糸桜模様を白く染め抜いた紫の小袖
を着て、艶然たる微笑を義昭に投げかけた。
どの顔が好き三面鏡を困らせる 市井美春
朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)
しかし、征夷大将軍に任ぜられたいという欲望の執念に燃えている30
歳の足利義昭に警戒すべきは、女色であることを告げたのは、いまや、
かれの股肱の臣ともなっていた細川藤孝である。
義昭は、さりげなく、取り澄ましていた。
ー中略ー義景は誇らしげにうち笑み、義昭と藤孝らも嘆息を洩らしたが、
酒席の末席にあった明智光秀は口辺に、やや皮肉な微笑を漂わせていた。
-中略ーかりに三好、松永らの二条の新館夜襲といった椿事が勃発しな
かったとしたならば、越前の朝倉家の新参者にすぎない光秀は、将軍へ
は、もちろんのこと将軍の舎弟にも目通りなど、許されるはずもないか
らだ。そう考えるにつけても、光秀は足利義昭の亡命に懸命に尽力をし、
朝倉館まで亡命の供をしてきた細川藤孝のことを、尊敬しないわけには
いかないのである。
神さまのアドレス書いてある御籤 美馬りゅうこ
将来を頼むに足りる武将は誰か、という問答で、二人は若い織田信長に
白羽の矢を立てた。やがて芝蘭結契(しらんけっかい)を望むべく光秀
は信長を訪ね、義昭のことと足利幕府の再興の必要性を説き、その協力
を要請した。かくして永禄11年7月25日、義昭一行が美濃の立政寺
に入り、同27日に同寺で信長と義昭が初めて面談することになった。
そして、同年9月26日、信長一行が義昭を奉じて京都に入り、10月
18日、義昭が晴れて将軍に補せられ、22日には、御所に御礼のため
に参内している。ときの帝は正親町天皇(おおぎまち)である。
この帰路の過程で光秀と藤孝の信頼関係はかたまった。
(※ 芝蘭結契ー良い影響を受ける賢者との交友)
らくだのコブもきりんの首も晴れが好き 森中恵美子
細川藤孝(眞島秀和)
信長が動き、再興なったかにみえた室町幕府だったが、将軍義昭の数々
の愚行によって、わずか五年で幕をおろす。
光秀が義昭と信長の二君に仕えたのに対し、藤孝の立場はあくまで将軍
の側近であった。しかし義昭と信長の対立が深刻化した後も、中立的な
態度を守り、義昭が挙兵した際は、信長の功績を説いて諫め、容れられ
ないとみるや居城の勝龍寺に蟄居した。この態度が評価され藤孝は義昭
の追放後、正式に信長の家臣となり、織田家の武将として河内や紀伊を
転戦。天正5年(1577)からは光秀の与力として嫡子・忠興ととも
に丹波・丹後の攻略にあたった。
望まれて進んだ一歩が美しい 山本昌乃
信長は指令を下す際、平定の暁には光秀に丹波を、藤孝に丹後を与える
ことを約束し「両人は常に睦まじく、ともに打ち出でて攻め伏すべし」
と命じたという。
信長の期待通り、2人は手を携えて赫々たる武勲をあげた。
天正5年10月には、三日三晩の激闘の末に丹波亀山城を攻略。
光秀が城主に就任し、翌年4月に催された連歌会では、藤孝が「亀の尾
のみどりも山のしげりかな」と発句を詠み亀山の繁栄を言祝いだ。
その数か月後には、信長の口添えで忠興と玉の婚姻が成立し、両家の絆
はいっそう深まった。
同8年には光秀の協力の下で丹後南部の平定を完了。藤孝は宮津城に拠
点を移し、丹後12万石の大名になる。
君となら黙って歩きたいまぶた 中村幸彦
だが2人の蜜月関係は光秀の謀反によって終わりを告げる。本能寺の変後、
光秀は各地の大名、武将に協力を呼びかけた。しかし、もっとも頼みとし
ていた細川親子は応じることなく髻(もとどり)を切って信長への弔意を
示し、忠興は、妻の玉を大逆人の娘であるとして丹波三戸野に幽閉した。
光秀に対する事実上の絶縁宣言であった。
驚いた光秀は父子に覚書を送り、家老や武将を出して自分に協力してほし
いと呼びかけ、摂津または但馬・若狭を恩賞として与える旨を約束したが、
細川家の存続を優先する藤孝が翻意することはなかった。藤孝は中国から
軍を返してきた秀吉に使者を送って、光秀に与しないことを誓い、秀吉は
山崎の戦いの1ヵ月後、藤孝父子に「自今(いまより)以後、疎意有り間
敷く」という聖書を送り、その身上を保証した。
武士だった遠い昔を知る墓標 宮井元伸
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