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川柳的逍遥 人の世の一家言
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絶滅を危惧するあまりビニールの傘  酒井かがり


三成、秀吉との出会いの像

「秀吉が死んで」

小田原征伐後、秀吉は奥州の各大名に恭順を求めた。

ここに秀吉による天下統一が完成し、漸く長い戦乱が終わりを迎えた。

このまま平和な時代を迎えるのかと期待した人も多かっただろう。

しかし秀吉は、明国やインドまでも従えさせるという、

壮大な夢を抱いていた。


その結果、朝鮮半島を舞台に、日本軍と朝鮮・明の連合軍が2度に渡り

死闘を演じることになってしまった。

この戦いは、日本にとって有益なことは何もなかった。

それどころか発足したばかり豊臣政権の体力を奪ってしまい、

さらには、大名同士の反目を生む結果となった。

筋書きは斜めで階段の途中  山本早苗


四大老・五奉行 (大老筆頭家康は不在)

右から、毛利輝元・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家
石田三成・前田玄以・浅野長政・長束正家・増田長盛

朝鮮半島では多くの将兵が戦いに苦しんでいた慶長3年8月18日、

稀代の英雄であった秀吉は、伏見城内でこの世を去った。

その死により徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家

五大老と石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以

五奉行により、早急に朝鮮から撤兵することが決定された。

朝鮮に出兵していた大名たちは、三成を筆頭とする奉行たちが、

自分たちの軍功を秀吉の耳に入れなかったどころか、

讒言を繰り返したと思っていた。

そのため三成に対して強い恨みを抱いていた者も少なくなかった。

しかし三成にすれば、それこそ言いがかりとしか言いようがない。

毒は微妙に輪の中で熟れていく  山口ろっぱ


生駒親正、中村一氏、堀尾吉晴 (左から)

それよりも三成は、秀吉が生前禁止していた大名同士の勝手な婚姻を

大老筆頭である家康が平然と破り、

伊達家や黒田家、福島家と縁を結んでいることを問題視していた。

そこで三成は、中老の堀尾吉晴らを問罪使として家康の元に送り込んだ。

だが家康と吉晴では、格が違いは明らかだった。

吉晴は逆に家康から一喝され、すごすごと引き揚げてきた。

結局、同じく大老の利家が互いの屋敷を訪問し、

誓紙を交わすこととなった。


膝の水を抜いてレマン湖へ返す  井上一筒

だが三成ら奉行衆が頼りとしていた前田利家が秀吉の後を追うように、

慶長4年3月3日この世を去ってしまう。

その直後事件が起きた。

朝鮮の役の際、三成の讒言によって煮え湯を呑まされた福島正則

加藤清正、黒田長政、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明の7将が、

大阪の石田屋敷を襲撃したのである。
                よしのぶ
だが三成はその直前、佐竹義宣の助けを得て屋敷を脱出していた。

そして事もあろうか家康の元に駆け込み保護を要請した。

他ならぬ事情パラリと粉山椒  山本昌乃

当然、7将は三成の引渡しを要求してきたが、家康は断固はねつけた。

その代わりに家康は三成を隠居させること、

及び朝鮮の役での査定の見直しを約束・・・これで7将を納得させた。

家康には三成を生かしておき、

豊臣恩顧の大名たちの反目を継続させる狙いがあった。

そして次男である結城秀康に三成を居城の佐和山城まで送らせた。

こうして家康は、政治の表舞台から三成を失脚させることに成功。

さらに豊臣恩顧の7将の気持ちを掌握し、

自らの陣営に引き込むこともできた。


そして諸大名からは、「家康の処断は公平で信頼できる」という、

評価も勝ち取ることができたのである。

コンパスで正方形を書いている  和田洋子

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