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タンポポが照らすこの世の底あたり 新家完司
「江戸川柳で綴る石田三成」
秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康と五奉行頭の石田三成が対立します。
三成は秀吉によって発掘された人。
近江・長浜の在の寺の小僧をしていた時、秀吉が鷹狩りの帰途に立ち寄り、
お茶を所望したところ、佐吉と称していた三成が応対して、
最初は大きな茶碗に温かい茶を多めに、
次は中ぐらいの茶碗に少し熱い茶を半分くらい、
三杯目は小さな茶碗に熱い茶を少し点じて差し出しました。
これで効果的に喉の乾きは癒され、機転に感心した秀吉は、
佐吉を連れ帰り小姓として側に置きました。
「佐吉めは仕合わせ者」と和尚云い
三成は理財に秀で、太閤検地を取り仕切り、土面符という紙幣を発行し、
小田原攻めや九州征伐、朝鮮出兵では将兵の動員、食料輸送等の計画を
策定しました。
それは到底余人ではなし得るものではなく、
秀吉の全面的な信頼を受けて出世し、
温い茶でだんだんあつき御取り立
―あつき熱いと厚いの両意。
三成は豊臣政権の維持のため、天下取りの野心をちらつかす家康を
除こうとしました。
家康にしてみれば、秀吉存命中に尾張の小牧・長久手の合戦ですでに
小牧山長く久しい御手柄
―長く久しいは長久手に利かせて。
豊臣氏に勝っているので、いつまでも天下を認めるわけにもいかず、
両者の緊張は日を追って度を増しました。
家康は三成の挙兵を促すために、上杉討伐を名目に京畿を離れました。
三成はチャンス到来とばかり毛利輝元、小早川秀家ら西国大名を糾合して、
慶長5年(1600)7月に挙兵。
家康は同年9月、三成が待ち受ける美濃の関が原に到着。
本来、豊臣につくはずの加藤清正、福島正則、浅野幸長、池田長政、
藤堂高虎、など太閤の恩顧の大名たちは、三成に対する個人的な憎悪から
徳川に加担しました。
三成が朝鮮出兵などで、これら武将をアゴでつかったことが、
若衆から悪方に石田也
になってしまい、三成の盟友の小西行長も商人の出なので、
武闘派の加藤や福島からすると
小癪さは小西石田がくしゃみする
―小が両韻。癪とくしゃみが近似韻。
9月15日午前8時、東軍7万4千、西軍8万6千が関が原に集結して、
いよいよ天下分け目の火蓋が切られました。
ところが西軍の総大将の毛利輝元は大坂城から出てこず、
息子の毛利秀元、島津義弘、長曽我部盛親、小早川秀秋などの大大名は、
戦いに加わらず高見の見物。
攻め合いになると石田は皆掛け目
―掛け目は、碁盤の上の石は欠けてに
温い茶のようにはいかぬ関が原
それでも西軍の大谷刑部、島左近、真田幸村、宇喜多秀家、小西行長
などが奮戦し激闘は4時間に及びましたが決着がつきません。
松尾山に陣を張る西軍の小早川秀秋が、どちらにつくかが分け目となり、
三成は西軍に加勢するよう盛んに使者を出して出撃を促すも動きません。
家康も自分に味方すると思っていた秀秋が、撃って出ないので豪を煮やし、
そこで松尾山に向けて鉄砲を撃ち込みました。
驚いた秀秋は1万7千の兵を西軍目掛けて突進させ、
これにより激戦は午後2時に終わりました。
尻から金と打たれて石田負け
裏返る金で石田の敗れ也
一句目の金は金吾中納言こと、小早川秀秋。
一句目二句目とも将棋の石田組という陣形にかこつけて。
松風に石も飛び散る関が原
―松風は徳川宗家の松平に利かせて。
御扇子は武運の開く旗印
―徳川の旗印は馬、跳躍するので「武運が開く」
秀吉の正室の寧々(ねね)は、秀吉の寵愛をほしいままにした淀君を、
よく思っていませんでした。
淀君とその子の秀頼を庇護する三成に対しても敵愾心を持ち、その分、
家康に好意的でした。
太閤恩顧の武将たちが家康についたのは、寧々の内々の工作で、
秀秋も彼女の意向を受けて、早くから家康に内応していました。
してみると、秀吉を巡る女の闘いが、関が原の勝敗を左右したといえ、
歴史とは意外、案外そんなものです。
天下を手中にした家康は寧々に感謝し、京都に桃山建築の贅をこらした
高台院という隠居所を建て住まわせ、彼女が76歳で天寿を全うするまで、
大名格の禄を与え遇しました。
関が原から行方をくらました三成は、近江の古橋で捕まり、
行長、安国寺 恵瓊とともに洛内外引き回しの上、六条河原で処刑されました。
夢でしたちょっと酸っぱい味でした 嶋沢喜八郎[4回] PR
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